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説教日:2001年2月4日 |
このことは、人間が「神のかたち」として造り出されたその時から人間の現実となっています。それは、先週取り上げてお話ししました創世記2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることから知ることができます。 ここでは、擬人化された表現で、神さまが土くれから器を形造る「陶器師」のイメージで描かれています。これによって、神さまがこの上なく身を低くしてくださり、親しく「人」に向き合ってくださって、「人」の「鼻にいのちの息を吹き込まれた。」ことが示されています。 実際に、ここに描かれている神である主の姿は、1章に描かれている神さまの姿のように超越的で洗練されたものではないので、より「原始的」な考え方が反映していると考えられることがあります。このように、誤解を受けやすい表現によって、神さまがご自身のことをお示しになったのは、ご自身が「神のかたち」に造られている人間にどれほど深くかかわってくださっているかを示してくださるためです。 ついでに申しますと、ここに示されている神である主のお姿には、より「原始的」な考え方が反映しているとするような受け止め方は、「学問的」であるとか、御言葉の伝えることを汲み取るためだと言われています。しかし、そのような「こちら側」の勝手な基準を押し付けることは、逆に、御言葉が伝えようとしていることを歪めることになります。 昨年の秋にお話ししましたが、イエス・キリストは、スカルの町のサマリヤ人の女性に出会ってくださった時、旅の途上で、のどが渇いて町の外の井戸にたどり着いたのに、水を汲む物がなくて困って、そこに座り込んでいる旅人が助けを求めるという形で出会ってくださいました。それによって、町の人々の目を避けてそこに出てきたサマリヤ人の女性は、優位な立場に立って、イエス・キリストとの対話を始めることができました。私たちは、そのようなイエス・キリストのお姿に、恵みとまことに満ちた主の栄光の豊かな現われがあると考えています。 ここでも、そのような主の恵みとまことに満ちた栄光を見る目が求められています。ここで、「陶器師」のイメージで表わされている神である主のお姿は、1章に記されている、神さまの超越的なお姿とは少し違った意味で、恵みとまことに満ちた栄光を示しています。 ここでは、神である主が「人」の鼻に「いのちの息」を吹き込んでくださったことによって、「人」が呼吸を始めて生きるようになったことが示されています。神さまが「陶器師」のイメージで表わされていますので、これによって表わすことができることは、いわば、目に見えることに限られています。それでも、その時「人」が吸い込んだのは、神さまの息吹であったことは分かります。 先週詳しくお話ししましたので、結論的なことだけを言いますが、神である主が「人」に「いのちの息」を吹き込んでくださったことは、その時から「人」が呼吸を始めたことを示しています。けれども、聖書を全体的に(聖書神学的に)見てみますと、この「いのちの息」は、「人」の胸を満たした息であるだけでなく、神さまの息吹である御霊をも指していると考えられます。 ですから、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 ということは、「人」が生きたものとなった時のことを示していますが、その時、「人」は身体において呼吸を始めただけでなく、自分のうちに宿ってくださる御霊によって、神である主との交わりを始めたのです。 「人」が生きたものとなって初めて意識したのは、この世界の何かではなく、おそらく、自分自身でもなく、自分の胸に吹き込まれた神である主の息吹であり、神である主の御霊のご臨在であったのです。人間が生きたものとなって、まず意識したのは、自分が神である主の愛と恵みに満たされているということでした。 そして、「人」は、自分に向き合ってくださっている神である主と、自分が神である主の愛と恵みに満たされているということをはっきりと自覚した上で、自分というものを知るようになり、自分を取り巻いている世界を見るようになったわけです。言い換えますと、自分と世界を造り主である神さまとの関係において、また、造り主である神さまを中心として受け止めているのです。これが、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿です。 このことは、「人」が置かれた環境によってもあかしされていました。 創世記2章8節〜14節には、神である主がご臨在されたエデンの園のことが記されています。8節で、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 と言われていますように、「人」は神である主がご臨在されるエデンの園に住まうものとされました。 9節では、 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 と言われています。 特に、「いのちの木」は、見えない方であるけれども、確かに、そこにご臨在される神である主との交わりを、見える形で表示し保証する[サクラメンタル(礼典的)な意味をもった]ものであったと考えられます。ですから、これを中心とする「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」は、エデンの園にある神である主のご臨在の御許の豊かさを表示するものであったと考えられます。 また、10節〜14節には、「一つの川」がエデンの園を潤していたことと、その川が園から流れ出て全地を潤していたことが記されています。この川も、神である主のご臨在の御許の豊かさを表示しています。 この川は、神である主のご臨在の御許からあふれ出る祝福の豊かさを示す表象として、聖書の中に繰り返し用いられています。ここでは、今お話ししていることとの関係で、一つの個所だけ取り上げておきたいと思います。 ヨハネの福音書7章37節〜39節には、 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 と記されています。 イエス・キリストが言われる「生ける水の川」は、エデンの園を潤し、さらに、全地を潤していた「川」を背景として語られたものです。ヨハネは、この「生ける水の川」は「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」だと注釈しています。 このように、エデンの園にあった「いのちの木」を中心とする「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」や、園を初めとして全地を潤していた「一つの川」は、神である主のご臨在の御許の豊かさを表示していました。そして、今お話ししたことから、それは、「神のかたち」に造られている人間のうちにご臨在される御霊によってもたらされる神さまの愛と恵みの豊かさを、見える形で表現するものであったことが分かります。 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることも、エデンの園の豊かさも、見えることを描いています。それは、確かに、目に見える豊かさがそこにあったことを示しているのですが、同時に、それにあずかっている「人」のうちに、神である主の息吹である御霊によってもたらされた愛と恵みの豊かさが満ちあふれていたことをも指し示していたのです。 これは「神のかたち」に造られている人間が造られた時の姿ですから、私たち人間の本来の姿です。「神のかたち」に造られている人間は、神である主の御霊が宿っていてくださって、御霊と呼吸を合わせ、歩調を合わせるようにして生きることによって初めて、本来の豊かないのちに生きることができるのです。 しかし、実際には、「人」は神である主に対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまったことによって、このような本来の姿を失ってしまいました。その結果、御霊によって実現する、神である主との交わりにある本来のいのちを失ってしまいました。さらに、その結果、人間は罪の力に捕らえられ、死と滅びの道を歩むものになってしまいました。 御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、罪の贖いを成し遂げてくださったのは、私たちを「神のかたち」に造られている人間の本来のいのちへと回復してくださるためでした。 このことは注意深く受け止めなければなりません。 しばしば、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって罪の贖いを成し遂げてくださったのは、私たちを死と滅びの中から救い出してくださるためであると言われます。しかし、それは、贖いの恵みの半分でしかありません。 もちろん、私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかることによって、死と滅びの中から救い出されています。でも、それは、最終的な目的ではありません。最終的な目的は、それによって、私たちのうちに神である主の御霊が宿ってくださるようになって、私たちが、御霊と呼吸を合わせ、歩調を合わせるようにして生きるようになることです。そうなって初めて、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われている、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿が回復されます。 福音の御言葉の神髄を示していると言われる、ヨハネの福音書3章16節では、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われています、 今お話ししていることとのかかわりで言いますと、父なる神さまが御子イエス・キリストを、私たちの贖い主としてお送りくださったのは、私たちがイエス・キリストを信じることによって、「滅びること」がなくなるためだけではありません。むしろ、私たちが永遠のいのちをもつようになるためだと言われています。その永遠のいのちは、私たちのうちに御霊が宿ってくださることによって、私たちが、御子イエス・キリストと父なる神さまとの愛にある交わりに生きるようになることにあります。 ヨハネの福音書14章16節〜20節には、 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 ここでは、父なる神さまがイエス・キリストの御名によって、すなわち、御子イエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業に基づいて、遣わしてくださる御霊が、私たちのうちに宿ってくださるようになることが示されています。 これこそ、イエス・キリストが「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われたことです。そして、 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 と言われていますように、それによって、私たちは、父なる神さまと一体であられる御子イエス・キリストのうちにいるようになると言われています。 実際、このことは、まず、ヨハネの福音書20章19節〜22節において、 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 と記されていることにおいて、弟子たちの間で成就しています。そして、ペンテコステの日に、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、御霊を注いでくださって新しい契約の共同体を生み出してくださったことによって、私たちの間でも実現しています。 先週お話ししましたように、ヨハネの福音書20章22節において、 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 と記されていることは、創世記2章7節において、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されていることを受けています。 ですから、ヨハネの福音書20章22節において、 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 と記されていることは、創世記2章7節に記されている、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿を回復するものなのです。 さらに言いますと、それは、ただ単に「神のかたち」に造られている人間の本来の姿を回復するだけでなく、完成するものです。というのは、イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって、私たちのために獲得してくださった栄光は、最初の「人」アダムが最後まで神である主に従っていたなら獲得していたであろう栄光であるからです。 ローマ人への手紙5章18節〜21節では、 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 と言われています。御子イエス・キリストは十字架の死に至るまでの従順によって、私たちのために「永遠のいのち」を獲得してくださいました。この「永遠のいのち」は、決して失われることがないいのちで、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われている時の、最初の「人」のいのちの完成した状態にあるいのちを意味しています。 最初の「人」のいのちは、「人」が、神さまに対して、罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって損なわれ、失われてしまいました。しかし、この「永遠のいのち」は、決して失われることがありません。 そのことは、先ほど引用しましたヨハネの福音書14章16節〜20節に記されているイエス・キリストの言葉では、16節で、 その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 と言われていることにも表われています。 この「いつまでも」という言葉(エイス・トン・アイオーナ)は、ここでは、文字通り「永遠に」ということで、父なる神さまが御イエス・キリストの御名によって、すなわち、御子イエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業に基づいて、お遣わしになる御霊は、永遠に神の子どもたちから失われることがないことを示しています。それは、神の子どもたちのうちに宿ってくださる御霊によって実現する、神の子どもたちと、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりが決して失われることがないことを意味しています。 私たちは、今、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった、御子イエス・キリストを信じています。それによって、御子イエス・キリストは、私たちを聖めて「聖所」としてくださり、私たちのうちに御霊を宿らせてくださいました。 コリント人への手紙第一・3章16節、17節では、 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。 と言われています。 これは、私たち全体が一つの「神殿」(ナオス・「聖所」)を構成していて、私たちの間に御霊がご臨在していてくださることを示しています。 また、6章19節、20節では、 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 と言われています。 これは私たちそれぞれのからだが「聖霊の宮」(ナオス・「聖所」)となり、そこに「神から受けた聖霊」が宿っていてくださることを示しています。 御子イエス・キリストは、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださったことによって、新しい契約の共同体である教会を造り出してくださいました。新しい契約の共同体である教会は、そこにイエス・キリストの御霊がご臨在してくださっているので、「キリストのからだ」と呼ばれます。 私たちは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、新しい契約の共同体に加えられていますので、私たちのうちにも御霊が宿っていてくださいます。これによって、私たちは、御霊と呼吸を合わせ、御霊と歩調を合わせるようにして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりのうちに、生きることができるようになりました。それで、私たちは、 御霊によって歩みなさい。 ガラテヤ人への手紙5章16節
と戒められています。 御霊と呼吸を合わせ、御霊と歩調を合わせることは、父なる神さまと御子イエス・キリストと呼吸を合わせ、歩調を合わせることです。なぜなら、御霊は、父なる神さまと御子イエス・キリストの御霊として、私たちのうちに宿ってくださっているからです。 今日、私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血にあずかっていることを示す聖餐式に参与します。これは、先ほどお話ししました、エデンの園にあった「いのちの木」を中心とする「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」や、園を初めとして全地を潤していた「一つの川」において示されていた、神である主のご臨在の豊かさが、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストの肉と血にあずかる私たちのうちに実現していることを意味しています。 |
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