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説教日:2001年2月11日 |
先週と先々週は、創世記2章7節に、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されていることに基づいて、「神のかたち」に造られている人間が神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの愛の交わりのうちに真の充足を得るようになることが、最初の「人」が造り出された時から現実となっていた、ということをお話ししました。 今日は、この創世記2章7節に記されていることについて、もう少しお話しします。先週と先々週は、どちらかと言いますと、後半の、 その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 と言われていることに焦点を合わせてお話ししましたので、今日は、その前の、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、 と言われていることに焦点を合わせてお話しします。 原文のヘブル語では、この、 土地のちりで人を形造り ということに語呂合わせがあります。「人」はハーアーダーム(ハーは定冠詞)で、「土地のちり」の「土地」はハーアダーマー(ハーは定冠詞)です。ですから、ここには、ハーアーダームとハーアダーマーという語呂合わせがあります。この語呂合わせによって、「人」と「土地」の深い関係が示されています。 「土地のちり」の「ちり」(アーファール)は、土地の表面のやわらかな土を表わします。また、比喩的に、非常に多いことや、どこにでもある無価値なものを指すのに用いられることもあります。ここでは、「非常に細かい土」を指していると考えられます。 また、「人を形造り」の「形造る」(ヤーツァル)の現在分詞形(ヨーツェール)は「陶器師」を意味しています。 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、 という言葉では、「土地のちり」は、陶芸に適した土ではありませんが、ここに記されている神である主のお働きは、陶器師の働きをほうふつさせるものです。 聖書の中には、神さまが陶器師にたとえられている個所がいくつかあります。その例を見てみましょう。 イザヤ書29章16節では、 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。 造られた者が、それを造った者に、 「彼は私を造らなかった。」と言い、 陶器が陶器師に、 「彼はわからずやだ。」と言えようか。 と言われています。 また、エレミヤ書18章1節〜6節には、 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。 それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―― 主の御告げ。―― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。 ・・・・ 」 と記されています。 さらに、ローマ人への手紙9章20節、21節では、 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。 と言われています。 これらの個所に描かれている陶器師の表象は、形造る方と形造られたものとの関係を示しています。それは、三つ方向で考えることができます。 一つは、神である主が、ご自身の「目的」に合わせて「人」を「設計」してお造りになったということです。 第二に、神である主が、ご自身の知恵と力を傾けて「人」をお造りになったということです。 第三に、神である主によって形造られた「人」は、神である主の主権の下に置かれているということです。 このように、創世記2章7節では、神である主のお働きが陶器師の表象によって描かれています。先週と先々週もお話ししましたように、それは、このような擬人化された表現によって、神である主が、この上なく身を低くしてくださって、深くまた親しく「人」にかかわってくださっていることを示すためです。 当然、この表象には、表象としての限界があります。それで、ここで、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、 と言われていることから、必ずしも、子どもたちが泥人形を作るように、神である主も、泥をこねるようにして原寸大の泥人形をお造りになった、と考えなくてはならないわけではありません。神さまには人間のような肉体的な手はありませんから、土を固めて人形のようなものを造るということが文字通りには当てはまらないように思われます。 もちろん、実際に、そのようになさったという可能性を否定することはできませんが、今日の言葉で言いますと、神である主がすでに「土地」の中に備えでおられた身体化学的に必要な要素をお用いになって、「人」を形造られたのかもしれません。そのようにして「人」が形造られていく様にも、陶器師の働きの表象は当てはまると思われます。いずれにしましても、ここでは、最初の「人」が、すでに神さまがお造りになっておられた「土地のちり」を素材として造られたということが示されています。 これによって、「人」は、神である主とのかかわりにあって初めて存在することができるものであることが示されているのは、もちろんのことです。「土地のちり」が自動的に集まって「人」になっていく、というようなことは考えられません。 しかし、「人」は神である主との関係にあって生きたものとなるという点は、すでに先週と先々週にお話ししたことですが、これに続く、 その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 という言葉によって、よりはっきりと示されるようになります。この、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、 という言葉において示されていることの中心は、「人」が自分が置かれたこの世界に属しているということ、特に、自分がそこから取られた「土地」と深く結びついていることが示されています。それは、先ほど触れました、「人」(ハーアーダーム)と「土地」(ハーアダーマー)の語呂合わせによっても印象的に示されています。 これを文脈の中で見てみますと、4節〜7節では、 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われています。 ここでは、「土地」に関心が寄せられています。そして、5節で、「人」は「土地」を耕すべきものとして期待されており、7節で、「人」は「土地のちり」をもって造られたと言われています。ここに、「土地」とそれを耕す「人」との親近性が示されています。 ちなみに、この「土地を耕す」の「耕す」と訳されている言葉(アーバド)は、基本的に、「仕える」ことを表わす言葉で、この名詞の形(エベド)は「しもべ」を表わしています。これは、1章28節に記されている、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 という、「神のかたち」に造られている人間に与えられている「歴史と文化を造る使命」を理解するためにとても大切なことです。 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 ということは、神である主が「人」を「土地のちり」をもって形造ってくださったことから始まっています。いわば、神である主が「生み出して」くださった「人」が子孫を生み出し、「地」にふえ広がるようになったのです。 そして、 地を従えよ。 ということは、「人」が「土地を耕す」ことにおいて実現しています。それは、「地」を搾取することではなく、「地」に仕えることです。 また、1章24節では、 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 と言われており、2章19節では、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と言われています。 ここでは、神である主が、「土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られた」ことが記されています。それは、「人」が「土地のちり」をもって造られたことに符合することです。「人」は、神である主の御手によって「土地のちり」をもって造られたという点で、他の生き物と深くつながっています。 その一方で、 人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と言われていることは、「人」が造り主である神さまから委ねられた権威を発揮して、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を遂行していることを意味しています。 しかし、これは、たとえば、飼っているいる犬に「ポチ」という名を付けたというようなことではありません。生き物たちの本質を理解して、その本質を表わす名をつけたということを意味しています。それが犬であれば、犬としての本質と、他の生き物との区別と関係を理解し、それを「犬」と分類し名を付けたということです。 生き物たちに名を付けることは、21節〜23節で、 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。 「これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。」 と言われている、「ふさわしい助け手」を「女」と名付けたことにつながっています。「ふさわしい助け手」を「女」と名付けたことにおいて、名を付けることは、愛をもって関係を確立することを意味していました。 それは、生き物たちに名を付けたことにも当てはまります。「人」が生き物たちに名を付けたことは、それらの生き物たちとの関係を確立することを意味しています。それは、「人」が生き物たちを良く知って、「仕える」(「お世話する」)ために必要なことでした。 これらのことから、「人」が「土地のちり」をもって造られたことは、「人」が自分に委ねられた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という「歴史と文化を造る使命」を遂行するうえで、深い意味をもっていることが分かります。その使命は、自分が、自分に委ねられている「地」や生き物たちと一体であるという自覚の上で遂行すべきものだったのです。 このことを、先週と先々週お話ししたこととのかかわりで考えてみましょう。2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることは、「人」が生きたものとなって初めて意識したのは、この世界の何かでも、自分自身でもなく、自分の胸に吹き込まれた神である主の息吹であり、神である主の御霊のご臨在であったことを意味していました。人間が生きたものとなって、まず意識したのは、自分が神である主の愛と恵みに満たされているということでした。 それで、「人」は、自分に向き合ってくださっている神である主と、自分が神である主の愛と恵みに満たされているということをはっきりと自覚した上で、自分を自覚するようになり、自分を取り巻いている世界を理解し受け止めるようになったわけです。 ですから、「人」は、造り主である神さまから委ねられている「歴史と文化を造る使命」を遂行するようになるのに先立って、神である主が自分のうちに吹き込んでくださった「いのちの息」を感じ取り、さらに深く存在の奥底まで満たしてくださっている、神である主の息吹としての御霊のご臨在の豊かさを自覚していたのです。そして、神である主の豊かさに満たされていたので、神さまから委ねられた「歴史と文化を造る使命」を遂行することができたのです。 この時「人」は、まだ、造り主である神さまの御前に罪を犯して堕落していませんでした。それで、自分のうちから、自分を肥やすために「地」や生き物たちを搾取しようとする欲望や衝動がわき上がってくることはありませんでした。 しかし、それはことの一面でしかありません。しかも、消極的な面でしかありません。実際には、「人」は、自分のうちにご臨在してくださっている御霊によってもたらされる神である主の豊かさに満たされていました。それで、神である主のご臨在の豊かさを、自分の外に向けて表現していくことは、「人」にとって自然なことだったと考えられます。それが、「人」が「土地を耕す」ことにおいて、また、生き物たちに仕えることにおいて実現したのだと考えられます。 このことは、神さまの天地創造の御業が、ご自身の無限の豊かさを、お造りになったこの世界に向けて表現してくださることであったことに符合しています。 私たちのうちから、自分を肥やすために「地」や生き物たちばかりでなく、他の人々や「神」をも利用し搾取しようとする欲望や衝動がわき上がってくるのは、私たちのうちに罪があるからです。このような、罪の欲望は、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることに示されている、「神のかたち」に造られている人間の本来の豊かさと、その豊かさから生まれてくる自由を失っていること、その意味での霊的な貧しさから生まれてきていることが分かります。 私たちの罪は、神である主との愛にあるいのちの交わりを断ち切ってしまったものですが、それは、神である主が吹き込んでくださった「いのちの息」を感じ取り、心の奥底まで満たしてくださっている御霊のご臨在の豊かさを自覚するという、「神のかたち」に造られている人間の本来の豊かさと自由を奪い取るものであるのです。 御子イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった罪の贖いによって、私たちを、罪とその結果である死の力から解放してくださっています。そればかりでなく、私たちのうちに宿ってくださっている御霊のお働きによって、私たちのうちに、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿を回復してくださっています。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 コリント人への手紙第二・3章18節
それは、これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、ただ、私たちのうちから、自分を肥やすためにあらゆるものを利用し搾取しようとする欲望や衝動がわき上がってくることがなくなっていくということで終わるものではありません。むしろ、私たちは、御子イエス・キリストを信じる信仰によって御霊のご臨在の豊かさにあずかり、心の奥底まで満たされて、御霊と呼吸を合わせ、歩調を合わせるように招かれているのです。また、その豊かさによって生み出される自由において、真実な愛をもって、互いに仕えるものとなるように召されているのです。 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 ガラテヤ人への手紙5章13節
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