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説教日:2001年2月18日 |
「人」が「土地のちり」を素材として造られたということは、「人」と「土地」が緊密に結びついていることを示しています。そのことは、さらに、ヘブル語の原文では、「人」(ハーアーダーム)と「土地」(ハーアダーマー)という二つの言葉の間に語呂合わせがあることによっても、印象的に示されています。 これは、先週もお話ししましたように、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」を理解するうえで大切なことです。「歴史と文化を造る使命」のことは1章28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 「人」は神さまがお造りになったこの世界に置かれた「神のかたち」として、目で見ることができない神さまを代表して「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する使命を委ねられているのです。 これは、神さまを代表することですから、当然、その働きをとおして神さまが映し出されるようにして、あかしされなければなりません。お造りになった一つ一つのものの上に注がれている神さまの愛といつくしみを具体的なかたちで現わし、あかしするものでなければなりません。 ご自身の無限の豊かさのうちにまったく充足しておられる神さまは、ご自身の豊かさをもってこの世界のすべてのものを満たしてくださっています。それによって、神さまによって造られた一つ一つのものが、それぞれの特性を発揮してこの世界に存在しています。 そのような中で、「神のかたち」に造られている人間は、神さまによって造られ、神さまの豊かさによって満たされている一つ一つのものの特性を見出し、それをより豊かなものへとはぐくみ育てていく使命を委ねられているわけです。 ですから、それは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の考える「支配」ではありません。自分たちに委ねられているものの上に立って、力づくで押さえつけ、それらを搾取するというようなものではなく、今日の言葉で言えば、それらに「仕えること」に当たります。イエス・キリストが、ご自身の十字架の死による贖いの御業をとおして本来の姿を回復してくださった私たちの間での「支配すること」の特質について、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 マルコの福音書10章42節〜45節
と教えてくださっているとおりです。 そのことの最初の現われは、創世記2章19節で、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と言われていますように、すべての生き物に名を付けることでした。 聖書の中では、名を付けることは、名を付けたものが名を付けられたものの上に権威を持っていることを意味しています。それで、「人」がすべての生き物に名を付けたことは、「人」がすべての生き物との関係を確立し、それを治めるようになったことを意味しています。 また、聖書の中では、このようにして付けられた名は、その名をもつものの本質や特性を表わします。ですから、この時、「人」はすべての生き物の本質と特性を観察して、それぞれにふさわしい名を付けたのです。 このようにして、「人」は、自分に委ねられている「歴史と文化を造る使命」にしたがって、すべての生き物たちを支配する立場に立ち、実際に支配し始めました。 このことを記す記事の中でも、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき と言われています。 この「土から」の「土」は、「人」が「土地のちり」で形造られたと言われているときの「土地」と同じ言葉(ハーアダーマー)です。ですから、「人」も生き物たちも同じく「土」から出たものとして、生き物たちとの「一体性」の中にあります。「人」はそのような自覚のもとにへりくだって、生き物たちを支配していたと考えられます。そのようにして初めて、ご自身を「陶器師」の表象をもって示してくださるほどに身を低くして、「人」に向き合ってくださった神である主のお姿を映し出すことができます。 「人」が「土地のちり」で形造られたということとのかかわりで、創世記3章19節に記されていることを見てみましょう。そこには、 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と記されています。 これは、神である主の御前に罪を犯して堕落してしまったアダムに対するさばきの言葉です。ここでは、 ついに、あなたは土に帰る。 と言われていますが、この「土」は、2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、 と言われているときの「土地」と同じ言葉(ハーアダーマー)です。また、 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と言われているときの「ちり」も、2章7節の「土地のちり」の「ちり」と同じ言葉(アーファール)です。 このことから、3章19節の、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 ということは、「土地のちり」で造られたものが、「土地のちり」に帰るということを述べているのであって、どうしてこれがさばきの言葉なのかというような気がします。 これについては、前にお話ししたことがありますが、陶芸の名人が土くれを練り、見事な陶器に形造ったとします。その陶器は、土くれからできたものですが、もはや土くれではありません。同じように、最初の「人」は「土地のちり」をもって形造られましたが、それによって「神のかたち」としての栄光と尊厳性を担うものに造られたのです。もはや、「土地のちり」ではなくなりました。 ところが、その「人」が神である主の御前に罪を犯して堕落してしまったことによって、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と言われるものになってしまったのです。 このことは、「人」が神である主の御前に罪を犯して堕落してしまったことによって、「神のかたち」の栄光と尊厳性を失ってしまったことを意味しています。さらに、その結果、神である主が「人」のうちに吹き込んでくださった御霊による、主との交わりが失われてしまったということを意味しています。そのことの現われが、3節24節で、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と言われています。 改めて注意したいことは、「人」は「土地のちり」をもって形造られたから「土に帰る」のではないということです。そうではなくて、「人」は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったので、「土に帰る」のです。「人」は「土地のちり」をもって形造られたから「土に帰る」のだ、という考え方は、「この世界の悪の源は物質的なものである」とするギリシャ的な考え方であって、聖書の教えではありません。 少し話がそれますが、3章19節の、 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 という神である主のさばきの言葉も、「陶器師」の表象で表わされた神である主が形造られた「人」のからだのことを述べています。しかし、それは、24節で、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と言われていることに現われていますように、神である主とのいのちの交わりを失ってしまったという、霊的な死の現実をも含んでいます。 ということは、2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることにおいても、「人」に神である主の息吹としての御霊が吹き込まれて、「人」が神である主とのいのちの交わりを始めたという霊的な現実も含まれているということを感じさせます。 実際に、2章8節以下の描写から分かりますように、「人」は神である主の御手によって形造られたその時から、神である主とのいのちの交わりにあずかっています。 これらのことを踏まえて、コリント人への手紙第一・15章45節〜49節を見てみましょう、そこでは、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と言われています。 ここには難しい問題がいくつもありますが、今お話ししていることと関係のあることだけを取り上げます。 まず、これは、この部分の導入を記している35節で、 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」 と言われていますように、復活の「からだ」についての疑問に答える中で語られているものです。復活そのもののことについては、すでに、1節〜28節で論じられています。 45節の、 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、 という言葉は、創世記2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることに触れるものです。 それに続く、 最後のアダムは、生かす御霊となりました。 というのは、十字架の死によって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、「生かす御霊」となられたことを述べています。 これは、御子の存在あるいは実体が御霊になってしまったということではありません。ここでは、「生かす御霊」の「生かす」(「いのちを与える」)ということ、すなわち、御子イエス・キリストの「お働き」のことが語られているのです。栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストは、御霊のまったき充満によって、その「生かす」(ゾーオポイエオー「いのちを与える」)というお働きにおいて、御霊とまったく一つとなられたということです。イエス・キリストは地上の生涯において、御霊に満たされて贖い主としての御業をなさいました。しかし、栄光をお受けになってよみがえられた時には、さらに充満な形で御霊に満たされておられたのです。 このことを受けて、46節では、 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。 と言われていて、「最初の人アダム」のからだは「血肉のものであり、御霊のものでは」ないと言われています。そして、「最後のアダム」であられるイエス・キリストの復活のからだは、「御霊のもの」であると言われているのです。 47節では、さらにこの対比が説明されて、 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。 と言われています。 この「土で造られた者」と訳されている言葉(コイコス)は形容詞で、性質(特質)を表わしています。この言葉の名詞の形(クース)は、旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳の創世記2章7節で、「土地のちり」の「ちり」の訳語に当てられています。 それで、 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、 という部分は、(いろいろなことを「・・・的」と言って表わす)今風に直訳しますと、 第一の人は地から出て、ちり的です。 となります。つまり、「第一の人」アダムは「ちり的」な性質(特質)をもっているということです。 実際には、このような性質(特質)があったために、「第一の人」は神である主の御前で罪を犯して堕落してしまいました。それで、この「ちり的」という言葉の背景には、創世記3章19節の あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 という言葉もあって、罪による堕落の事実も含まれていると考えられます。 そうしますと、これとの対比で記されている、 第二の人は天から出た者です。 ということでは、その後に、「ちり的」に対比される「天的」ということが省略されていると考えられます。それを補えば、 第二の人は天から出て、天的です。 となります。 事実、続く48節で、 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。 と言われているときの「土で造られた者」は「ちり的」という言葉(コイコス)によって表わされており、「天からの者」と「天から出た者」は、その「天的」(エプゥーラニオス)という言葉で表わされています。(どちらも、形容詞に冠詞を付けて実体化しています) 「土で造られた者はみな」の「土で造られた者」は複数で、アダムをかしらとするすべての人を指しています。「この土で造られた者に似ており」の「土で造られた者」は単数で、最初の人アダムのことです。「天からの者はみな」の「天からの者」は複数形で、コリントの信徒を初めとする主の民のことです。そして、「この天から出た者に似ているのです。」の「天から出た者」は単数で、栄光のうちによみがえられた御子イエス・キリストのことです。 ごちゃごちゃ言いましたが、ここでは、「第一の人」アダムが「地」に属しており「ちり的」であることと、「第二の人」イエス・キリストが「天」に属しており「天的」であることが対比されているのです。 その上で、49節で、 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 と言われています。 後半の、 天上のかたちをも持つのです。 という訳は大切なことを見失わせてしまいます。 これをこれまで使ってきた言葉で訳しますと、 私たちは、ちり的な者のかたちを持っていたように、天的な者のかたちを持つようになるのです。 となります。 この「天的な者のかたち」は、栄光のうちによみがえられたイエス・キリストのかたちのことです。これを「天上のかたち」と訳しますと、栄光のうちによみがえられたイエス・キリストのかたちが見失われてしまいます。 ここでは特に復活のからだのことが問題となっていますから、これは、コリント人への手紙第二・3章18節で、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と言われていることが、私たちの肉体と霊魂のすべてにおいて完成することを述べています。 それは、ローマ人への手紙8章28節〜30節で、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と言われている、父なる神さまの「永遠のみこころ」が、完全に実現することでもあります。 今、私たちは、この完成への途上にあります。しかし、それは、私たちだけのことではありません。これまでお話ししてきましたように、「神のかたち」に造られている人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」は、委ねられた「地」やすべての生き物たちとの「一体性」において遂行していくべきものでした。この「一体性」のために、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落した結果、「土地」を初めとしてこの世界のすべてのものが虚無に服することになりました。創世記3章17節で、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 と言われているとおりです。 同時に、この「一体性」のために、コリント人への手紙第一・15章49節で、 私たちは、ちり的な者のかたちを持っていたように、天的な者のかたちを持つようになるのです。 と言われていることが実現する時には、「神のかたち」に造られている人間に委ねられているすべてのものが、「天的」な栄光にあずかるようになります。ローマ人への手紙8章19節〜23節で、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われているとおりです。 これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、これらすべてのことは、神さまが天地創造の第7日を祝福し聖別してくださったことの中で起こっています。 そして、そのことの完成の途上にある私たちは、「私たちのからだの贖われる」日、すなわち、御子イエス・キリストの再臨の日に私たちが復活の栄光にあずかるとともに、新しい天と新しい地が完成することを待ち望んでいます。 |
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