(第29回)


説教日:2001年3月4日
聖書箇所:出エジプト記31章12節〜17節


 一週あきましたが、今日も、聖なるものであることの基本的な意味についてお話しします。
 いつものように、まず、聖さそのものであり、造られたすべてのものの聖さの源であり土台である、神さまの聖さについてまとめておきます。
 神さまの聖さは、基本的に、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることにあります。神さまが、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるのは、神さまが、あらゆる点において無限に豊かな方であるからです。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方です。また、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。そして、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。
 あらゆる点において無限に豊かな方である神さまは、生きておられる人格的な方です。それで、ご自身が無限に豊かな方であることを知っておられるだけでなく、ご自身の無限の豊かさのうちに充足しておられます。神さまは、特に、その人格の本質的な特性である愛において、まったく充足しておられます。三位一体の御父、御子、御霊の間には無限、永遠、不変の愛が通わされており、神さまはその愛の交わりのうちに永遠に充足しておられます。


 神さまの天地創造の御業は、このご自身の愛にあるまったき充足を、いわば、ご自身の外に向けて表現してくださったものです。神さまによって造られたこの世界のすべてのものは、神さまの無限、永遠、不変の豊かさの中から満たされて、それぞれの特性を発揮しながら存在しています。
 その中で、人間は「神のかたち」に造られています。「神のかたち」の本質は、愛を本質的な特性とする人格的な存在であることにあります。人間が「神のかたち」に造られているということは、ご自身の無限、永遠、不変の愛のうちに充足しておられる神さまの「かたち」に造られているということです。それは、「神のかたち」に造られている人間が神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの愛の交わりのうちに真の充足を得るようになるためです。
 神さまは、このことを実現してくださり、より豊かな完成に導いてくださるために、創造の第七日をご自身の安息の時としてくださり、そのために第七日を、祝福して聖別してくださいました。ことがどのような意味をもっているかについて、すでに、いくつか基本的なことをお話ししてきました。今日は、出エジプト記31章12節〜17節に記されている安息日についての戒めからお話ししたいと思います。
 出エジプト記31章12節〜17節には、

主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」

と記されています。
 まず、この戒めが与えられた状況を見てみましょう。
 この戒めは、モーセがシナイの山において、主のご臨在の御前で主から受けた戒めの最後のものです。この戒めは31章12節〜17節に記されていますが、続く18節では、

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と言われています。そして、これに続く、32章以下では話題が変わって、モーセがシナイの山から戻ってくることが遅れたために、イスラエルの民が金の子牛を造ってこれを拝んで背教してしまったことが記されています。
 ですから、31章12節〜17節に記されている安息日についての戒めは、モーセが、主のご臨在の御前で、主から受けた戒めの最後のもので、そこで与えられた戒めの結論のような意味をもっています。
 では、モーセが、主のご臨在の御前で、主から戒めを与えられるようになったのは、どのような事情によっているのでしょうか。
 3章に記されていますが、主は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民の苦しみに目を留めてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった、ご自身の契約を覚えてくださいました。そして、シナイの山で、モーセにご自身を現わしてくださいました。その時、主は、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出して、ご自身の御許で仕える祭司の国としてくださるために、モーセをエジプトの王、パロのもとに遣わしてくださいました。
 エジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民は、シナイの山に導かれて来て、その麓で宿営しました。そこで、主はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。
 そのことは、19章〜24章に記されています。具体的に言いますと、19章には、契約を結ぶための「準備」に当たることが記されています。続く20章〜23章には、契約の主であるヤハウェが、ご自身の契約の民であるイスラエルに与えてくださった律法が記されています。これは十戒を中心とする一連の戒めです。そして、24章には、契約の締結、すなわち、主がご自身の契約をイスラエルの民と結んでくださったことが記されています。
 契約が結ばれた後、主は、モーセに、シナイの山に上って、ご自身のご臨在の御許に来るように命じられました。24章12節には、

主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」

と記されており、15節〜18節には、

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

と記されています。
 このことに呼応して、先ほど引用した31章18節では、

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と言われているのです。
 このようにして、モーセはシナイの山に登って行き、主のご臨在の御前に立って、主から一連の戒めを受けました。それは、主の契約が結ばれた時に、それに先立って与えられた、十戒を中心とする一連の戒めとは区別されるものです。
 それでは、シナイの山で、主が、ご自身のご臨在の御前に立つモーセに与えてくださった戒めはどのようなものだったのでしょうか。
 それは25章〜31章にわたって記されているのですが、ただ一つのことに関する戒めです。それは、主がご臨在されるための幕屋を作ることにかかわる戒めです。その全体は、25章8節、9節に記されている、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

という主の言葉によってまとめられます。
 これに沿って、「幕屋を作るためにイスラエルの民が捧げる奉納物」(25章1節〜9節)、「契約の箱の作り方」(25章10節〜22節)、「机の作り方」(25章23節〜30節)、「燭台の作り方」(25章31節〜40節)、「幕屋の作り方」(26章)、「祭壇の作り方」(27章1節〜8節)、「幕屋の庭の作り方」(27章9節〜19節)、「ともしびを灯すべきこと」(27章20節、21節)、「祭司の装束の作り方」(28章)、「祭司の任職に関する規定」(29章)、「香を焚く祭壇の作り方とその規定」(30章1節〜10節)、「贖い金の規定」(30章11節〜16節)、「洗盤に関する規定」(30章17節〜21節)、「聖なる注ぎの油の調合法とその規定」(30章22節〜33節)、「聖なる香油の調合法とその規定」(30章34節〜38節)、「幕屋を作る職人の任命」(31章1節〜11節)にかかわるさまざまな戒めが与えられています。
 そして、この後の31章12節〜17節に、先ほど引用しました、安息日に関する戒めが記されています。
 このように見ますと、最後の安息日に関する戒めだけが何か場違いな感じがします。けれども、この安息日に関する戒めがここに記されていることには意味があります。
 主がイスラエルの民に幕屋を作ることを命じられたのは、先ほどの25章8節に記されている、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

という主の言葉に示されていますように、契約の神である主が、ご自身の契約の民であるイスラエルの民の間にご臨在してくださるためです。
 主の契約の祝福は、レビ記26章11節、12節の、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主の言葉によってまとめられます。
 ここには、主の契約の民が受ける祝福の二つの面が示されています。一つは、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。

という主の言葉に示されている、主のご臨在が主の契約の民とともにあるということです。もう一つは、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主の言葉に示されている、主と主の契約の民の身分の上での一体性とそれに基づく交わりです。
 そして、主の契約の祝福の二つの面は、一つのことの裏表のような関係にあります。それで、そのどちらかがあれば、必ず、もう一つの面もあります。
 このように、主の契約の民を主の契約の民たらしめているのは、主がそこにご臨在してくださっているということです。
 実際、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイの山の麓で金の子牛を作って、これを拝んで背教してしまった時、モーセは、繰り返し、イスラエルの民のために執り成しの祈りをしました。その中で、モーセは、

私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。
出エジプト記33章16節

と祈っています。
 出エジプトの贖いの御業は、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくださったことでは完結しませんでした。エジプトの奴隷の状態から解放してくださったイスラエルの民を、ご自身の契約の民としてくださらなければなりませんでした。
 そして、主がイスラエルの民をご自身の契約の民としてくださることは、イスラエルの民との契約を結んでくださることで終わるものではありませんでした。主の契約に基づいて、主ご自身が、イスラエルの民の間にご臨在してくださって初めて、イスラエルの民は、主の契約の民としての実質をもつようになったのです。
 それで、出エジプト記では、19章〜24章で、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったことが記されており、それに続いて、25章〜31章で、主がご臨在されるための幕屋の建設のことが記されているのです。
 そして、このような意味をもっている幕屋の建設にかかわる戒めの結びに、31章12節〜17節にある、安息日を守るべき戒めが記されているのです。
 このことは、安息日は、主がご自身の契約の民の間にご臨在してくださっていることに、深くかかわっていることを示しています。
 25章〜31章に記されている戒めは、モーセがシナイの山にご臨在される主の御許まで上って行って、主のご臨在の御前で告げられた戒めです。そして、その戒めは、主のご臨在がイスラエルの民とともにあるようになるための聖所の建設のための戒めでした。
 それで、後に、イスラエルの民は、主がシナイの山においてお示しくださったことにしたがって、主がご臨在される聖所を中心とする幕屋作りました。そして、主も、ご自身の契約の約束に基づいて、幕屋にご臨在してくださいました。40章33節後半〜35節に、

こうして、モーセはその仕事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

と記されているとおりです。
 このように、神である主は、ご自身の契約に基づいて、イスラエル民の間にご臨在してくださいました。これに対して、主の契約の民として選ばれ、主の契約の祝福である主とのいのちの交わりにあずかることが許されているイスラエルの民はどうすべきであったのでしょうか。
 そのことについての戒めが、31章12節〜17節に記されている、安息日に関する戒めであるのです。
 改めて、その戒めを見てみましょう。それは、

あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。

というものです。
 ここでは、いくつかのことが繰り返し語られていて、強調されています。
 まず、安息がどのようなものであるかということを示すものとしては、第一に、「安息を守らなければならない。」という戒め、第二に、安息が主の安息であること、第三に、それゆえに、安息は、イスラエルの民にとって、聖なるものであること、第四に、主の安息が、主とイスラエルの民の間の「契約のしるし」であること、第五に、主の安息は、一時的なものではなく、永遠のものであることなどが、繰り返し語られています。
 これに基づいて14節、15節に記されている、主の安息をけがす者に対する制裁の厳しさにも注目させられます。そこでは、「だれでも」ということと「必ず殺されなければならない。」ということが、それぞれ二回繰り返されています。また、「その民から断ち切られる。」ということは、主の契約の外にあるものとされるということで、単なる肉体的な死を越えたさばきを意味しています。
 最後に、安息が主の安息であり、永遠にわたる意味をもっており、主の契約の民にとって聖なるものであることの理由が、17節で、

これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。

と述べられています。
 このような厳しいさばきの言葉に反発を覚える方や、恐れを抱く方がおられるかもしれません。しかし、これには、とても大切なことがかかわっています。それを、「原則的なこと」と「特殊な事情」の二つに分けてお話しします。
 まず、原則的なことですが、かりに、誰かが時価数億円もする宝石を預かったとします。その人は、その宝石をポケットに入れて持ち歩くようなことは決してしないでしょう。それを、どのように守るかということに、心を砕くことでしょう。あるいは、そんな高価なものを預かることは危なくてごめんだということもあるでしょうから、愛する人から送られたプレゼントのことを考えてみましょう。私たちは大切なものを、そこらに放り出しておくようなことはしません。自分の宝物のようにとっておきます。
 これまでお話ししてきました、主の安息の意味を思い出してください。主の安息は、神さまが私たちを含めてこの世界のすべてのものをお造りになったことの目的です。主は、ご自身がお造りになったすべてのものを、ご自身の豊かさをもって満たしてくださいます。特に、私たちご自身の民を、ご自身との愛にある交わりの中にあるまったき安息にあずからせてくださるまでは、ご自身の安息も完成しないとしてくださいました。
 主の安息は、主が、ご自身の無限の豊かさの中から、お造りになったすべてのものを満たしてくださるために、この世界にご臨在してくださることを示してくださっている「契約のしるし」です。それによって、特に、ご自身の民である私たちの間にご臨在してくださることを保証してくださるとともに、実際に、それを実現してくださるのです。そして、これによって実現する主のご臨在の御前における交わりこそが、聖書が示している永遠のいのちです。
 これは、もう、数億円の宝石どころではありません。神である主の私たちに対する無限の愛から出た「贈り物」です。主の安息に込められている、私たちに対する主の愛と恵みの無限の重さを知っているなら、誰でも、それを命がけで守ることでしょう。私たちが、主を愛して、主の御顔を仰ぎたいと願っているなら、主が、その時にこそ、私たちに御顔を向けてくださると約束して、聖別してくださった時である、主の安息を大切に守ることです。
 主の安息を汚す者は、たとえてみますと、主の祝宴として指定された時に、主のご臨在の御許に行くことを拒否するということに当たります。そのために、主のご臨在の御許でのいのちの交わりにあずかることができないということは、その人にとっての死を意味しているわけです。
 以上は、原則的なことですが、この安息日の規定には、また、「特殊な事情」があります。
 古い契約の「影」あるいは「視聴覚教材」としての「模型」に仕えていたイスラエルの民には、その「模型」を「模型」として正確に保っていくことが求められていました。そのために、主はイスラエルの国家を、モーセを通して与えられた律法の上に成り立たせてくださいました。そして、主ご自身が見える形でそこにご臨在されて、さまざまな備えをしてくださっていました。
 その一つの例は、荒野を旅を続けていたイスラエルの民を養うために主が備えてくださった「マナ」です。主は毎日一日分のマナを備えてくださいましたが、安息日の前の日には二日分のマナを備えてくださいました。そして、安息日にはマナは与えられませんでした。(出エジプト記16章13節〜30節)
 古い契約のもとにあった地上のイスラエルの社会では、それを治める王を初め、すべての者が、主の安息を守る体制になっており、そのための制度も整っておりました。それによって、主の安息の意味を、きちんとあかしするためです。
 このように、古い契約のもとにあった地上のイスラエルの社会全体が安息日を守る体制にあり、そのための制度も整っておりました。安息日を破った人々は、そのような中で、あえて、主の安息を守らなかったのです。安息日の戒めに含まれている制裁の厳しさは、このような事情のもとでのことであるという一面があります。
 主の安息に込められている、ご自身の契約の民に対する主の愛と恵みを拒むことは、死を意味しています。主の安息においてこそ、神さまの創造の御業の目的は実現し、私たちは永遠のいのちに生きるものとなります。ですから、主の安息に込められている、ご自身の契約の民に対する主の愛と恵みを拒む人は、自ら死を選び取っているわけです。
 主の安息を守らないものに加えられている制裁の厳しさは、このことを、きちんと、誤解の余地のないように、あかしするためのものです。主の安息に込められている主の愛と恵みを拒むことは、自ら永遠のいのちを拒んで、永遠の滅びを選び取ることであるということを、いわば、「石打ち」という刑罰によって、制度的な形で私たちに示しています。
 このように、主の安息を守らないものに加えられている制裁の厳しさの意味は、主の安息に込められている、ご自身の契約の民に対する主の愛と恵みを受け止めて初めて、正しく理解することができるものです。ですから、私たちは、いたずらに恐れることのないようにしましょう。むしろ、主の安息に込められている、契約の民に対する主の愛と恵みをしっかりと受け止めとめることに心を注ぎましょう。
 出エジプト記31章12節〜17節に記されている、主の安息に関する戒めにおいても、繰り返し強調されていますように、主の安息は永遠の意味をもっています。当然、その意味は、新しい契約のもとにある主の民にとっても、変わってはいません。主は、私たちを、ご自身との愛にある交わりの中にあるまったき安息にあずからせてくださるまでは、ご自身の安息も完成しないとしてくださいました。そして、「神のかたち」に造られている人間が罪を犯して、ご自身のご臨在の御前での交わりを絶たれてしまった後も、贖い主を備えてくださって、ご自身の民をご自身との交わりのうちに回復してくださるようにしてくださいました。
 出エジプト記31章12節〜17節に記されている、主の安息に関する戒めは、25章〜31章にわたって記されている戒め全体の「結び」に当たる戒めでした。そして、その全体は、主がご臨在してくださるための聖所を中心とする、幕屋の建設にかかわる戒めでした。
 幕屋が建設されたのは、そこに主がご臨在してくださって、主の民が主のご臨在の御前に導かれて、主との愛にある交わりに生きるようになるためです。そして、それによって主の安息が実現するためです。
 このことは、「安息日の主」(マルコの福音書2章28節)であられる御子イエス・キリストにおいて、すべて成就しています。御子イエス・キリストは、主の安息を私たちのうちに実現してくださるために、十字架にかかってくださり、贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 このように、主の安息の意味は、新しい契約のもとにある主の民にとっても、変わってはいません。むしろ、それは、御子イエス・キリストにあって、私たちの現実となっています。しかし、それは、必ずしも、社会の制度として保証されているということではありません。
 以前お話ししたことがありますが、新約聖書の時代に、ローマ社会で奴隷であった人々が主を信じて、主の契約の民とされました。その人々は、通常、安息日だからといって、その日の仕事を休むことはできませんでした。また、おそらく、昼間に主のご臨在の御前に立って、主を礼拝することもできなかったと思われます。
 もちろん、新約聖書は、その人々のことを糾弾してはいません。その一方で、その人々は、主の安息にあずかろうとして、その日の務めを終えて疲れていたでしょうが、それでも主のご臨在の御前に立って、主を礼拝するために集ったようです。というより、奴隷として大変な重荷を負ってあえいでいたからこそ、主の安息のうちに真の慰めと希望を見出していたと言うべきでしょう。そのようにして、主の安息に込められている主の愛と恵みを大切にしたわけです。
 そのような人々にとってこそ、

  私は主を待ち望みます。
  私のたましいは、待ち望みます。
  私は主のみことばを待ちます。
  私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、
  まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、
  主を待ちます。
詩篇130篇5節、6節

という、主のご臨在を慕い求める御言葉は、切実で真実なものであるのでしょう。
 


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