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説教日:2001年3月11日 |
まず、先週お話ししたことで、今日お話しすることと関係あることを、補足しながら、復習しておきます。 契約の神である主、ヤハウェは、エジプトの地で奴隷の状態にあって苦しみ、うめいていたイスラエルの民を、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいて、覚えてくださり、みこころに留めてくださいました。そして、モーセを召してくださり、パロのもとに遣わしてくださいました。主は、モーセとともにいてくださり、モーセを通して御業をなさり、イスラエルの民を贖い出してくださいました。 エジプトを出たイスラエルの民は、主がご臨在されるシナイの山に導かれてきて、その麓に宿営しました。主は、そこで、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。 主は、イスラエルの民と契約を結んでくださった後、モーセをシナイの山に上って、ご自身の御許に来るように召してくださいました。モーセは、シナイの山に上って行って、主から一連の戒めを受けました。それは、出エジプト記25章〜31章に記されています。31章12節〜17節に記されている、主の安息についての戒めは、その時モーセに与えられた一連の戒めの最後の部分に記されていて、戒め全体の結びに当たります。 モーセがシナイの山に上って主から受けた一連の戒めは、主がイスラエルの民と契約を結ぶ際に与えてくださった、十戒を中心とする一連の戒めとは違うものです。十戒を中心とする戒めは、主の契約の民であるイスラエルが、主との契約関係をどのように保つべきかを示しています。それは、主の一方的な恵みによって主の契約の民としていただいたものとして、どのようにあるべきであるかを示しています。主との関係において、また、お互いの関係において、どのようにあるべきであるかを示しています。 これに対しまして、モーセがシナイの山で主から受けた一連の戒めは、主がご臨在してくださるための、聖所を中心とする幕屋の建設にかかわる戒めです。25章8節、9節で、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 と言われているとおりです。 その一連の戒めは、「幕屋を作るためにイスラエルの民が捧げる奉納物」、「契約の箱の作り方」、「机の作り方」、「燭台の作り方」、「幕屋の作り方」、「祭壇の作り方」、「幕屋の庭の作り方」、「ともしびを灯すべきこと」、「祭司の装束の作り方」、「祭司の任職に関する規定」、「香を焚く祭壇の作り方とその規定」、「贖い金の規定」、「洗盤に関する規定」、「聖なる注ぎの油の調合法とその規定」、「聖なる香油の調合法とその規定」、「幕屋を作る職人の任命」にかかわる、さまざまな戒めです。 実際に、主が示してくださった通りに幕屋を造ることによって、主はイスラエルの民の間にご臨在してくださるようになりました。それによって、イスラエルの民が、主の契約の民としての実質をもつことができるようになったのです。 このように、主の贖いの御業は、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことで終わるものではありませんでした。主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったのは、イスラエルの民と契約を結んでくださって、イスラエルの民をご自身の民としてくださるためでした。そして、イスラエルの民をご自身の民としてくださったのは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださって、ご自身との親しい交わりにあずからせてくださるためでした。 それで、主は、イスラエルの民と契約を結んでくださった後に、モーセをご自身のご臨在の御許に召してくださいました。そして、ご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるようになるための、幕屋の建設にかかわる一連の戒めを与えてくださいました。 この、幕屋の建設にかかわる一連の戒めは、その最後に記されている、主の安息に関する戒めによってまとめられています。 実は、モーセがシナイの山にご臨在される主から、幕屋を造るべき戒めを与えられている間に、麓にいたイスラエルの民は、モーセの帰りが遅いということで、モーセを見限ってしまい、自分たちで、金の子牛を作って、これを拝み、主の御前に背教してしまいました。しかし、主は、モーセの執り成しを受け入れてくださって、再び、イスラエルの民をご自身の契約の民として受け入れてくださいました。 そのことは、32章〜34章に記されています。そして、35章からは、そのようにして始まった、主がご臨在してくださるための幕屋の建設のことが記されています。それによって、イスラエルが主の契約の民として回復されていることが、現実的に示されることになります。 興味深いことに、その幕屋の建設のことを記す記事は、35章1節〜3節の、 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。「これは、主が行なえと命じられたことばである。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」 という、主の安息に関する戒めを繰り返すことから始まっています。そして、その後には、「幕屋を作るためにイスラエルの民が捧げる奉納物」を受け取ることから始まる、幕屋の建設の記事が続いています。 ですから、主がご臨在される幕屋の建設に関する一連の戒めは、主の安息に関する戒めをもって結ばれており、実際に、幕屋が建設されたことを記す記事は、主の安息に関する戒めによって導入されているのです。 このことは、幕屋によって示されている主のご臨在と、主の安息が深く結びついていることを示しています。主の契約に基づいて、主がご自身の民の間にご臨在してくださることは、主の民が、主の安息にあずかって、主の安息を守ることと切り離すことができないのです。 このことは、いろいろなことから考えることができます。そして、これまでその中心にあることをお話ししてきましたが、今日は、31章13節、14節で、 あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。 と言われていることに注目したいと思います。 ここでは、主の契約の民であるイスラエルが守るべき安息は、「わたしの安息」すなわち「主の安息」であると言われています。そして、主の安息を守ることをとおして、契約の神である主、ヤハウェが、自分たちを聖別してくださっている方であることが、イスラエルの民に、経験的に示されるようになると言われています。 すでにお話ししましたように、造られたすべてのものは、神さまの無限の豊かさに基づく神さまの聖さの現われである栄光に触れるときには、神さまの御前にひれ伏して礼拝する他はありません。それ以外の形で、神さまの聖さを告白し、あかしすることはできません。 それで、主がご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるなら、イスラエルの民は、主を聖なる方として礼拝するほかはありません。 また、主の安息を守ることは、主の契約に示されている贖いの恵みによって、聖なる主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝することを意味しています。それで、主のご臨在と主の安息は、深く結びついているのです。 主の契約に示されている贖いの恵みによって、聖なる主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝することによって、イスラエルの民は、自分たちが主に聖別された民であることを自覚するようになります。そして、その礼拝をとおして、主の聖さを現わし、あかしするようになります。 それ以外の形で、自分たちが主に聖別されていることを自覚するようになることはできませんし、主の聖さを現わし、あかしすることもできません。 実際に、イスラエルの民は、主の契約に示されている贖いの恵みによって、聖なる主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝する民として召されました。イスラエルの民は、主のご臨在の御前で主を礼拝し、主に仕える「祭司の国」として召されているのです。 そのあたりのことを、出エジプト記の記事に沿って、見てみましょう。特に注目したいのは、主のご臨在が、一貫して、イスラエルの民とともにあるということです。そして、それが、主の契約に基づくことであるということです。 エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民は、自分たちに課せられた苦役にうめき、神さまに向かって叫びました。2章23節〜25節には、 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。 と記されています。 これは、何となく、それまで神である主がイスラエルの民を忘れておられたかのような印象を与えます。 けれども、1章1節〜7節に記されていますように、わずか70人でエジプトに下っていったイスラエルの民は、エジプトの地で増え広がりました。7節では、 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。 と言われています。 これは、主がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えていてくださったことの現われです。 それで、 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 ということは、神さまがその時までアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を忘れておられたということではなく、その契約のうちに約束してくださっていることを、実現してくださる時となったことを示しています。ここに、「主の時」が満ちたということです。 ここに言われている「聞いてくださること」と「思い起こしてくださること」、そして、次の節で、 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。 と言われているときの、「ご覧になってくださること」と「みこころを留めてくださること」は、主がご自身の契約に基づいて、なしてくださることです。 それは、全知全能の神さまが、すべてのことを知っておられるという、一般的な意味においてではなく、ご自身の契約の民に対して、神さまが、特別な意味で、深くまた親しくかかわってくださることを意味しています。 このように、ご自身の契約に基づいて、イスラエルの民を覚えてくださり、契約をとおして約束してくださったことを実現してくださる主は、続く、3章1節、2節で、 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。 と言われていますように、モーセに、ご自身を現わしてくださいました。そして、モーセを召して、エジプトの王パロのもとに遣わしてくださり、出エジプトの贖いの御業を始めてくださいました。 その際に、主は、モーセに、 わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。 出エジプト記3章12節
と言われました。 これは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されるのは、主のご臨在されるシナイの山で、主を礼拝するものとなるためであることを示しています。 このようにして、契約の神である主によって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民は、シナイの山に導かれてきて、その麓で宿営しました。そこで、主は、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。 主がイスラエルの民と契約を結んでくださったことは、19章〜24章に記されています。 19章は、いわば、契約を結ぶための「準備」に当たることを記しています。その3節〜6節には、 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」 と記されています。 これは、イスラエルの民が主の契約の民とされることの意味を示してくださったものです。 まず、主は、イスラエルの民に、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 と言われました。 これは、イスラエルの民が主のご臨在されるシナイの山の麓に導かれてくるまで、主のご臨在がイスラエルの民とともにあったことを思い起こさせるものです。 主はエジプトの地でイスラエルの民とともにいてくださって、救いとさばきの御業を遂行してくださいました。主は、エジプトの地にあるすべての「初子」を撃つという、過越の夜のさばきを頂点とする、十のさばきをもってエジプトさばかれましたが、イスラエルの民を区別してくださり、最後には、過越の小羊の犠牲による贖いを備えてくださいました。 また、エジプトの地を出た後にも、主のご臨在がイスラエルの民とともにありました。 13章21節、22節には、 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。 と記されています。 そして、パロの軍隊が紅海の海辺に宿営しているイスラエルの民に追い迫ってきた時には、その主のご臨在がイスラエルの民を守ってくださり、パロの軍隊をさばかれました。 14章19節〜29節には、 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。 と記されています。 このように、主のご臨在がイスラエルの民とともにあって、イスラエルの民を、主がご臨在されるシナイの山の麓まで導いてくださいました。19章4節の、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 という主の言葉は、主のご臨在がイスラエルの民とともにあることを強調しています。それによって、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から解放されたのも、主がご臨在されるシナイの山にまで導かれてきたのも、すべて、ただ主の恵みによることであることを示しています。そして、その主の恵みは、主のご臨在とともにあり、主のご臨在からあふれ出て、イスラエルの民を包んでいたのです。 続く、5節、6節に記されています、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という主の言葉は、主の契約の民が主にとってどのような意味をもった民であるかを示しています。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、 というのは、一種の「条件」を示しています。しかし、それは、救いの条件を示しているのではありません。主は、すでに、一方的な恵みによって、エジプトの奴隷の身分であったイスラエルの民を贖い出してくださいました。救いは、主の一方的な恵みによるものです。 この言葉は、主との契約を結んで、主の契約の民となることが、イスラエルの民の「自由な意志に基づく決断」によっていることを意味しています。 けれども、それは、先ほどの、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 という、主の言葉に示されていますように、主が常にイスラエルの民の間にご臨在してくださっていることに支えられての決断ですし、主が常にイスラエルの民の間にご臨在してくださることを約束してくださっている、主の契約を信じて受け入れる決断です。 その意味で、これは、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 という主の言葉に示されている、主がそれまでイスラエルの民とともにいてくださったことに対して、イスラエルの民が「応答する」ことを求めるものです。 これに続く、 あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 という、主の言葉は、そのようにして、主の契約の民となるなら、イスラエルの民は、地のすべての民とは区別され、主のために聖別されたものとなることを示しています。 「宝」という言葉(セグッラー)は、「特別な所有物」を意味しています。 そして、「すべての国々の民の中にあって」という言葉と「全世界はわたしのものであるから」という言葉は、イスラエルの民が地のすべての民と区別されていることを示すために用いられています。神である主は、天と地をお造りになった方です。それで、主は、すべてのものを所有しておられます。それとは違った、特別な意味で、主はご自身の契約の民を、ご自身の「宝」として所有してくださるのです。 この「宝」という言葉(セグッラー)は、申命記7章6節でも、イスラエルの民に当てはめられて用いられています。6節〜8節では、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と言われています。 ここでは、イスラエルが主の「宝の民」とされたのは、父祖たちへの契約の基づく、主の一方的な愛と恵みによることであることが示されています。このことは、イスラエルの民は、主の「宝の民」として、常に、主のご臨在の御許に大切に保たれていることを示しています。 最後の、 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という言葉は、イスラエルの民の使命を示しています。 「祭司の王国」であることと「聖なる国民」であることは、ともに、主の契約に基づく「宝の民」であるイスラエルの民の使命を示していると思われます。その意味では、「祭司の王国」であることと「聖なる国民」であることは同じことを示していますが、強調点が違っていると考えられます。 「祭司の王国」であるということは、イスラエルの民が、主の契約に基づいて、祭司的な使命を委ねられていることをことを意味しています。 祭司は、主のご臨在の御前に出でて、主を礼拝することを中心として、主に仕える使命を負っています。その際に、祭司は、民の全体を代表して、主のご臨在の御前に出でて、主を礼拝し、主に仕えます。 その意味で、「祭司の王国」は、「すべての国々の民の中にあって」という言葉と「全世界はわたしのものであるから」という言葉によって示されている、地のすべての民とのかかわりにおいて、主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝し、主に仕えるものです。イスラエルの民は、主の契約によって備えられている贖いの恵みにあずかって、主のご臨在の御前に近づけられています。それは、地のすべての民のために、主の御前で執り成し祈るために他なりません。 これに対しまして、「聖なる国民」であるということは、聖なるものであることにかかわっています。 すでにお話ししましたように、聖なるものであることには、二つの面があります。 一つは、イスラエルの民が、主の契約に基づいて、主のご臨在の御前に近づけられていることです。その意味で、イスラエルの民は地のすべての民と区別されています。 もう一つは、イスラエルの民が、主のご臨在の御許から、「すべての国々の民の中にあって」という言葉と「全世界はわたしのものであるから」という言葉によって示されている、地のすべての民のもとに遣わされているということです。これによって、主が、イスラエルの民をとおして救いとさばきの御業を遂行してくださるのです。 このように、地のすべての民は主が所有しておられます。その中で、イスラエルの民は、主の契約に基づく「宝の民」として、他のすべての民から区別され、主のご臨在の御前に近づけられて、主を礼拝する民とされています。それは、主の契約によって備えられている贖いの恵みを、すべての民にあかしするためです。 イスラエルが主の「宝」となり、主のご臨在の御前にある「祭司の王国、聖なる国民」となることは、イスラエルの資質や力によることではありません。すべて、主が、ご自身の契約によって備えてくださっている、贖いの恵みによって成し遂げてくださることです。 主の一方的な恵みにあずかって、主の契約の民とされているイスラエルの民は、主の「宝」の民とされており、「祭司の王国、聖なる国民」として、主のご臨在の御前において、主を礼拝して、主の聖さを現わします。そして、主の契約によって備えられている贖いの恵みを、すべての民に対してあかしします。 31章12節〜17節に記されています主の安息にかかわる戒めは、このようなことを背景としています。イスラエルの民が主の安息にあずかって、それを守ることは、主の契約の民が、「祭司の王国、聖なる国民」として、主のご臨在の御前において、主を礼拝して、主の聖さを現わし、すべての民に、主の贖いの恵みをあかしするためです。 それによって、主が、預言者イザヤを通して預言しておられる、 まことに主はこう仰せられる。 「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。 イザヤ書56章4節〜7節
という御言葉を実現してくださるのです。 このことは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、主の新しい契約の民とされている私たちにおいて成就しています。 ペテロの手紙第一・2章9節には、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 と記されています。 |
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