(第31回)


説教日:2001年3月18日
聖書箇所:出エジプト記31章12節〜17節


 先週と先々週は、出エジプト記31章12節〜17節に記されている、主の安息についての戒めについてお話ししました。今日も、そのお話を続けます。
 出エジプト記31章12節〜17節には、

主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」

と記されています。
 まず、これまでお話ししたことで今日お話しすることと関係のあることを、おさらいしておきましょう。
 この戒めは、イスラエルの民に、主の安息を守ることを求めるものです。そして、この戒めは、25章〜31章に記されている、モーセがシナイの山にご臨在される主の御許に上って行って、主から受けた一連の戒めの最後に記されているものです。その一連の戒めは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための幕屋をどのように造るかを示している戒めです。その一連の戒めの最後にあって、全体を締めくくる戒めが、この安息日に関する戒めです。
 このことは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださることと、イスラエルの民が主の安息を守ることが深く結びついていることを示しています。確かに、主のご臨在がイスラエルの民の間にあり、イスラエルの民が主のご臨在の御前にある時、イスラエルの民にとって最も自然なことは主を礼拝することです。そして、主の安息を守ることの中心は、主を礼拝することです。


 イスラエルの民は、契約の神である主、ヤハウェのご臨在の御前において、主を礼拝するために、主の契約の民として選ばれ、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。
 主は、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を贖い出してくださるために、モーセをエジプトの王パロのもとに遣わしてくださいました。そして、モーセとともにいてくださって、エジプトに対するさばきを執行し、イスラエルの民を奴隷の状態から贖い出してくださいました。エジプトの地では、過越の日の夜に、エジプトのすべての初子を撃つことを頂点とする十のさばきを執行されました。主は、そのすべてにおいてイスラエルの民を区別してくださり、最後には、過越の小羊の血による贖いを備えてくださいました。
 このように、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことは、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血による贖いによって、私たちを罪と死の力から、また、罪と死の力によって支配する「暗やみの圧制」から贖い出してくださったことをあらかじめ指し示してくださったものです。

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
コリント人への手紙第一・5章7節

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
コロサイ人への手紙1章13節、14節

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
ペテロの手紙第一・1章18節、19節

 主が、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったのは、イスラエルの民をご自身の民として、ご臨在の御許に住まわせてくださり、礼拝を中心とするご自身との交わりに生かしてくださるためでした。そのことは、出エジプトの贖いの御業の初めから示されています。
 出エジプト記3章12節には、神である主がモーセをパロのもとにお遣わしになるに当たって、

わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。

と言われたことが記されています。
 また、15章1節〜18節には、主が紅海においてパロの軍隊を滅ぼされた時に、モーセとイスラエルの民が、主に向かって歌った讃美が記されています。13節では、

  あなたが贖われたこの民を、
  あなたは恵みをもって導き、
  御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と言われています。また、17節では、

  あなたは彼らを連れて行き、
  あなたご自身の山に植えられる。
  主よ。御住まいのために
  あなたがお造りになった場所に。
  主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

と言われています。
 そのように、主は、イスラエルの民を、モーセにご自身を現わしてくださり、ご自身がご臨在されるシナイの山へと導いてくださいました。そして、そこで、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。その契約は、イスラエルの民をご自身の民として、ご臨在の御許に住まわせてくださり、礼拝を中心とするご自身との交わりのうちに生かしてくださるための契約でした。そのことを明らかにするのは、先週も取り上げました、19章4節〜6節に記されている、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

という主の言葉です。
 簡単にまとめておきますと、ここでは、イスラエルの民が、主の「すべての国々の民の中にあって」という言葉と「全世界はわたしのものである」という言葉によって示されている、地にあるすべての民との区別と関係において、主の契約の民とされていることが示されています。
 主はこの世界のすべてのものをお造りになった方です。その意味で、すべてのものは主のものです。全世界のすべての民は主のものです。その中で、イスラエルの民は、主の契約に基づいて、主の「」となると言われています。
 それは、イスラエルの民の価値によるものではなく、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に示されている、一方的な愛と恵みによることです。申命記7章6節〜8節に、

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と言われているとおりです。
 それと同時に、イスラエルの民は、主の御前に「祭司の王国、聖なる国民」となると言われています。これは、主のご臨在の御前に「」とされている、主の契約の民の使命のことを述べています。
 「祭司の王国」は、祭司的な使命を果たす国ということで、地のすべての民との関係を示しています。イスラエルの民は地のすべての民を代表して主のご臨在の御前に出でて主を礼拝し、主に仕えます。それによって、地のすべての民に対して、主の契約に基づく一方的な恵みによって備えられている贖いをとおして、主のご臨在の御前に至る道が開かれていることをあかしすることになります。
 「聖なる国民」は、やはり、主の契約に基づく一方的な恵みによって備えられている贖いをとおしてのことですが、地のすべての民とは区別されて、主のご臨在の御前に近づけられ、聖別されている民であることを示しています。
 それとともに、「聖なる国民」は、主のご臨在の御許から、この世界へと遣わされた民であることも意味しています。
 これによって、地のすべての民は、イスラエルとの対比で見られることになります。もちろん、イスラエルの民と地のすべての民の違いは、イスラエルの民が、先に、主の一方的な愛と恵みによって備えられた贖いにあずかって、主のご臨在の御前に生きる民としていただいているということです。それで、イスラエルとの対比で見られることによって、地のすべての民も、主の一方的な恵みによって備えられている贖いにあずかって、聖められなければならない状態にあることが示されることになります。
 このように、主の契約によって備えられている贖いの恵みによって、主の「」とされ、主のご臨在の御前に大切に守られているイスラエルの民は、地のすべての民が主の恵みにあずかるようになるための使命を負っています。
 イスラエルの民が主の「」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」として、地のすべての民が主の恵みにあずかるようになるための使命を負っていることは、より広く、出エジプトの贖いの御業がアブラハム契約に基づいて遂行されていることとのかかわりで見ることができます。(「アブラハム契約」とは、主がアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約を指しています。)
 まず、主が、出エジプトの贖いの御業をアブラハム契約に基づいて遂行してくださったことですが、先週も引用しました出エジプト記2章23節〜25節には、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されています。
 そして、3章6節に記されていますように、主がご自身をモーセに現わしてくださった時に、
わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
と言われました。
 また、3章16節、17節に記されていますように、モーセをイスラエルの民に遣わしてくださるに当たって、

行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。「わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。」

と言われました。
 さらに、6章2節〜8節には、

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

と記されています。
 これらのことから、出エジプトの贖いの御業は、主がアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブへと受け継がれた契約に基づいて遂行されたことが分かります。
 主がアブラハムに与えてくださった契約は、創世記17章1節〜8節に記されています。そこでは、

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

と言われています。

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

という主の言葉は、12章1節〜3節に記されている、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

という、アブラハムへの召命の言葉を反映しています。
 アブラハムは、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束のもとに「カルデヤ人のウル」から導き出されました。これが、アブラハムへの契約の基本的な精神となっています。このことを見失いますと、アブラハムへの契約は、民族主義的なものと受け止められてしまいます。
 そして、このことは、アブラハムが約束の子であるイサクを主にささげたときに、主がアブラハムに、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
創世記22章18節

と約束してくださったことへと受け継がれていきます。
 この「あなたの子孫」の「子孫」は単数です、これは集合名詞と取れば主の契約の民としてのイスラエルの民を指すことになり、一人の人物と取れば、約束の贖い主を指すことになります。神である主の啓示の全体の光から言いますと、これは、当面、主の契約の民としてのイスラエルの民を指しつつ、最終的には、新しい契約の主である御子イエス・キリストにおいて成就していきます。
 それで、この約束は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が、主の契約に基づいて主の「」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」として主のご臨在の御前で仕えるようになることに、最初の成就を見ます。
 このように、イスラエルの民が、主の「」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」として主のご臨在の御前で仕えるようになることが、地上のすべての民にとって意味があることであるのは、出エジプトの贖いの御業が、アブラハムへの契約に基づいて遂行されているからです。
 私たちがアブラハムの子孫としてお生まれになった御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、主の契約の民としていただいているのは、出エジプトの贖いの御業が、アブラハムへの契約に基づいて遂行されたことの成就です。
 イスラエルの民が、主の「」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」として主のご臨在の御前で仕えるようになるためには、まず、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださらなければなりません。主がイスラエルの民の間にご臨在してくださらなければ、イスラエルの民は主のご臨在の御前に立って、主を礼拝することを中心とする主との交わりのうちに生きることはできません。それで、主は、イスラエルと契約を結んでくださった後、直ちに、ご自身がご臨在されるモーセをシナイの山に上るようにと召してくださり、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための、幕屋を造るための戒めを与えてくださったのです。
 出エジプト記31章12節〜17節に記されている、主の安息を守るべき戒めは、その一連の戒めの最後に記されていて、その全体をまとめるものです。このことは、イスラエルの民が、主の「」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」として、主のご臨在の御前で仕えるようになることは、基本的には、イスラエルの民が、主の安息を守ることによって果たされるものであることを意味しています。
 そして、このイスラエルの民の使命は、地のすべての民がアブラハムの子孫によって祝福されるという、アブラハム契約の祝福を実現するものです。
 それで、アブラハム契約の祝福は、地のすべての民が、主のご臨在の御許からあふれ出てくる贖いの恵みに包まれて、主とのいのちの交わりの中で、安息にあずかるようになることにあることが分かります。
 このアブラハム契約の約束は、最終的には、アブラハムの子孫であり、約束の贖い主であるイエス・キリストにおいて、私たちの間に成就しています。ガラテヤ人への手紙3章8節、9節に、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されており、13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されているとおりです。
 御子イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった贖いに基づいて「約束の御霊」が私たちのうちに宿ってくださることによって、古い契約ものもとで造られた幕屋が「影」の形で示していた主のご臨在は、私たちの現実となっています。そして、御霊によって私たちの間にご臨在してくださる主とのいのちの交わりのうちに、私たちは、主の安息にあずかる者とされています。
 このように、私たちは、御子イエス・キリストの血による新しい契約に基づいて、主の「」としていただき、主のご臨在の御許に大切に守られているのです。そして、その上で、「祭司の王国、聖なる国民」として、地のすべての民に仕える使命を委ねていただいています。先週も引用しましたペテロの手紙第一・2章9節に、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

と記されているとおりです。
 


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