![]() |
(第32回)
説教日:2001年3月25日 |
まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわりのあることをまとめておきたいと思います。 この主の安息を守ることについての戒めは、25章〜31章にわたって記されている、モーセが主のご臨在されるシナイの山に上って行って、主から受けた一連の戒めの最後の部分に当たります。その意味では、その一連の戒め全体をまとめるような意味をもっています。 そして、その一連の戒めは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために、聖所を中心とした幕屋を造ることに関する戒めです。この一連の戒めの初めの部分に当たる、25章8節、9節に、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 と記されているとおりです。 このことは、この主の安息を守ることについての戒めを理解するうえで、とても大切なことです。このことから、この主の安息を守ることについての戒めは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための幕屋を造ることに深くかかわっていることが分かります。 主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるのは、イスラエルの民が主のご臨在の御前に近づいて、礼拝を中心とする主との交わりに生きるようになるためです。そして、イスラエルの民が主の安息を守ることは、主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝することを中心とする主との交わりの時を持つためです。このように、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださることも、イスラエルの民が主の安息を守ることも、イスラエルの民が主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝するようになるためのことです。 主の契約の民としていただいたイスラエルの民の存在と使命がどのような意味をもっていたかは、出エジプト記19章5節、6節に記されている、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という、主の言葉に示されています。 この主の言葉は、イスラエルの民が、主の「すべての国々の民の中にあって」という言葉と「全世界はわたしのものである」という言葉によって示されている、地にあるすべての民との区別と関係において、主の契約の民とされていることを明らかにしています。 まず、イスラエルの民の存在については、イスラエルの民は、主の契約に基づいて、主の「宝」となると言われています。主はこの世界のすべてのものをお造りになった方ですから、地のすべての民は主のものです。その中で、イスラエルの民は、主の契約に基づいて、主の「宝」となる、と言われているのです。イスラエルの民は、主のご臨在の御前において、「宝」のように大切に守られているのです。 そして、イスラエルの民の使命については、主の御前に「祭司の王国、聖なる国民」となると言われています。 「祭司の王国」は、祭司的な使命を果たす国ということで、地のすべての民を代表して主のご臨在の御前に出でて主に仕えることを意味しています。イスラエルの民は、地のすべての民が主の契約に基づく一方的な恵みによって備えられている贖いにあずかるようになるために、執り成し祈るように召されているわけです。 「聖なる国民」は、イスラエルの民が地のすべての民とは区別されて、主のご臨在の御前に近づけられ、聖別されている民であることを示しています。それとともに、「聖なる国民」は、主のご臨在の御許から、この世界へと遣わされた民であることも意味しています。 これによって、イスラエルの民は、地のすべての民に対して、主の契約に基づく一方的な恵みによって備えられている贖いをあかしすることになります。 先ほど引用しました、出エジプト記25章8節には、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。 という、主の約束が記されており、9節には、 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 という基本的な戒めが記されています。 これに続く10節〜22節には、幕屋の中心にある至聖所に置かれるようになる「契約の箱」に関する戒めが記されています。これは、大きく、契約の箱本体に関する戒めと、契約の箱の上蓋に関する戒めの二つに分けられます。 10節〜16節では、契約の箱の本体について、 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。わたしが与えるさとしをその箱に納める。また、純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。 と記されています。 この戒めで、今日、特に注目したいのは、契約の箱を運ぶための備えです。契約の箱の四隅に、鋳造した「金の環」を取り付けます。その両側に、「アカシヤ材」で作って金をかぶせた「棒」を通して、それで、契約の箱を担ぐようにするのです。そして、この「棒」については、 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。 と戒められています。 この他、「机」と「香を焚くための壇」と「祭壇」も「棒」で担いで運ぶように指定されていますが、「棒」を差し込んだままにしておかなければならないと命じられているのは、契約の箱だけです。このように、「棒」で担ぐのは、これらの用具が聖なるものであって、罪を宿す人がそれに直接触れて汚すことがないためです。その中でも、契約の箱は最も聖いものとして、さらに区別されているのです。 これらの用具が聖いものであるとされるのは、それらが、聖所に置かれていて、主のご臨在にかかわるものであるからです。その中でも、契約の箱は、聖所のさらに奥の至聖所に置かれていて、そこに主の栄光のご臨在がありました。 そこに主の栄光のご臨在があることを表示しているのは、これに続く17節〜22節に示されている、契約の箱の上蓋である「贖いのふた」です。それについては、 また、純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。槌で打って作った二つの金のケルビムを「贖いのふた」の両端に作る。一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを「贖いのふた」の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。 と記されています。 「贖いのふた」と訳された言葉(カッポーレス)は、旧約聖書のヘブル語では、契約の箱の上蓋を表わすためだけに用いられています。この言葉の由来については議論のあるところですが、はっきりしているのは、この言葉が、「贖い」(キップゥル)や「贖い代」(コーフェル)の同族語で、贖いにかかわることを示しているということです。 「贖いのふた」については、先ほど引用しました21節、22節で、 その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。 と言われていますように、そこに主のご臨在があります。そして、その、主がご臨在されるところである契約の箱の上蓋が、「贖いのふた」と呼ばれているのです。 この「贖いのふた」が表わしている贖いは、レビ記16章に記されている、年に一度の「大贖罪の日」にイスラエルの民のためになされる罪の贖いにかかわっていると考えられます。「大贖罪の日」の意味については、レビ記16章の最後の34節で、 以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。 と言われています。 「大贖罪の日」に関する戒めは、16章2節の、 かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の「贖いのふた」の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが「贖いのふた」の上の雲の中に現われるからである。 という戒めから始まっています。 「垂れ幕の内側の聖所」というのは、「至聖所」のことです。そこには、年に一度、大祭司が入ることが許されていて、イスラエルの民の罪のための贖いをするのです。そのことは11節〜19節に記されています。 まず、11節〜14節には、大祭司、この場合はアロンですが、大祭司自身のための贖いについての戒めが記されています。そこでは、 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の「贖いのふた」をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかけなければならない。 と言われています。 大祭司は、「自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる」だけではなく、 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の「贖いのふた」をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。 と戒められています。それは、大祭司が、主の栄光がご臨在される「贖いのふた」を直接的に見るようなことがあれば、大祭司が滅ぼされてしまうので、大祭司を守ってくださるための備えであると考えられます。それは、主がアロンの現実を、そのままご覧にならないようにしてくださるための備えであるという見方もあります。しかし、 香から出る雲があかしの箱の上の「贖いのふた」をおおうようにする という言葉は、「贖いのふた」を隠すことが目的であって、大祭司がそれを直接的に見ることがないようにするためであることを示しているように思われます。 いずれにしましても、これは、大祭司が自分のためにほふった「いけにえの雄牛」の血では、大祭司の罪が贖えないことを示しています。 大祭司が、主の栄光がご臨在される「贖いのふた」を直接的に見ることができなかったことは、出エジプト記33章20節〜23に記されている、主がモーセに語られた言葉を思い起こさせます。そこでは、 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」 と言われています。 次に、レビ記16章15節には、イスラエルの民の罪の贖いのために大祭司がすることとして、 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを「贖いのふた」の上と「贖いのふた」の前に振りかける。 と記されています。 このように、「贖いのふた」は、そこに栄光の主がご臨在されるところとしての意味をもっており、それは、自分の罪のために「いけにえの雄牛」をほふって、その血を携えている大祭司でさえも、直接的に見ることはできないものです。それとともに、そこに主の栄光のご臨在があるから最も聖い所とされる「贖いのふた」においてこそ、主の契約の民の罪を贖うための血が注がれるのです。 出エジプト記25章18節〜20節には、 槌で打って作った二つの金のケルビムを「贖いのふた」の両端に作る。一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを「贖いのふた」の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。 と記されていました。 ここに「ケルブ」と「ケルビム」が出てきますが、「ケルビム」は「ケルブ」の複数形です。ケルビムは、そこに主のご臨在があることを表示しつつ、主のご臨在の聖さを守っている生き物です。 ケルビムは、 互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。 と言われています。これは、ケルビムが「贖いのふた」に注意深く目を注いでいて、そこに主の契約の民の罪を贖うために流された血が注がれているかどうかを確認していることを意味していると考えられます。 ケルビムについては、さらに、26章1節で、 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。 と言われています。幕屋そのものも、ケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。 これは、いろいろな機会にお話ししましたが、造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまった人間の現実を示しています。創世記3章24節では、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と言われています。 人間は、本来、「神のかたち」に造られていて、神である主のご臨在の御前に出でて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとのいのちの交わりに生きていました。「エデンの園」は、神である主がご臨在される所として聖別されていました。そして、見えない神さまのご臨在の祝福を見える形で表示し、保証していたのが「いのちの木」です。 しかし、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間が、その罪を自覚しないで、神さまのご臨在の御前に近づくなら、神さまの聖さを冒すものとして、滅ぼされてしまいます。それで、 神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 のです。「いのちの木への道」は残されているけれども、罪によって堕落している人間は、そこを通って、神である主のご臨在の御前に近づくことはできないのです。 そのような状態にある人間のために、神である主は、贖い主を約束してくださり、贖い主のいのちの血による罪の贖いを備えてくださいました。その贖いの恵みによって、罪を贖っていただいた者は、再び、神である主のご臨在の御前に出でて、主を礼拝することを中心とするいのちの交わりにあずかることができます。そのことを指し示す「影」(視聴覚教材)が、シナイの山で、主がモーセに示してくださった幕屋とその用具でした。 イスラエルの民は、このような意味をもっている、主の贖いの恵みをあかしするために、選ばれ、主の「宝」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」とされました。 けれども、あの「大贖罪の日」になされたことが示していますように、動物の血では、「神のかたち」に造られている人間の罪を贖うことはできません。ヘブル人への手紙10章1節〜4節で、 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 と言われているとおりです。 「雄牛とやぎの血」というのは、「大贖罪の日」に、大祭司が自分の罪の贖いのためと民の罪の贖いのために「贖いのふた」にふりかけたものです。 「大贖罪の日」は、主がご自身の契約の民の罪のために、贖いを備えてくださることをあかししていました。その一方で、「大贖罪の日」が年ごとに繰り返されたことは、 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 ということをあかししていたのです。 「神のかたち」に造られている人間の罪は、ただ、ご自身が永遠の神の御子であられて、私たちと同じ人間の性質を取ってきてくださったイエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって贖われるのです。 ヘブル人への手紙10章19節〜22節では、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と言われています。 これは、古い契約の「影」に仕えていた大祭司が、「大贖罪の日」に「雄牛とやぎの血」を携えて至聖所に入ったけれども、直接的に主のご臨在される「贖いのふた」を見てはならなかったこととはまったく違います。 御子イエス・キリストを、神である主が備えてくださった贖い主として信じて受け入れている私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって、罪をまったく贖っていただいています。ヘブル人への手紙10章12節〜14節で、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と言われているとおりです。 それで、私たちは、主の栄光のご臨在の御前に出でて、その御顔を仰ぎ見ることが許されています。コリント人への手紙第二・3章18節で、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と言われているとおりです。 これによって、私たちは、出エジプト記31章12節〜17節に記されている戒めが示している、主の安息を守る者の祝福にあずかる者とされています。それで、先ほど引用しました、ヘブル人への手紙10章19節〜22節に続いて記されている、23節〜25節では、 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 と勧められています。 |
![]() |
||