(第33回)


説教日:2001年4月8日
聖書箇所:サムエル記第二・6章1節〜11節


 先週は、創立20周年記念礼拝で、「聖なるものであること」の基本的な意味についてのお話はお休みしました。今日は、そのお話に戻りますが、まず、一つの問題提起をしたいと思います。
 サムエル記第二・6章1節〜11節には、「ウザによる割り込み」の出来事が記されています。2節〜8節には、

ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アヨフは箱の前を歩いていた。ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。

と記されています。
 私たちは、このような記事が聖書に記されていることに、ある種のとまどいを感じます。いったいどうして、ウザは主の怒りに触れて死ななければならなかったのでしょうか。「不敬の罪のために」と言われていますが、このさばきは、あまりにも厳しすぎるのではないでしょうか。それでは、契約の箱を守ろうとした、ウザの善意は、どうなるのでしょうか。それとも、契約の箱がひっくり返りそうになっても、放っておいた方がよかったというのでしょうか。さまざまな疑問がわいてきます。


 このことを考えるために、契約の箱について、先々週お話ししたことを復習して、さらに、いくつかのことをお話ししたいと思います。
 出エジプト記25章8節には、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

と記されています。ここに示されていますように、主の聖所は、主がご自身の契約の民であるイスラエルの間にご臨在してくださるために、与えてくださったものです。
 そして、続く9節では、

幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と戒められています。主がご臨在してくださるための聖所は、神である主ご自身が示してくださる通りに作らなければなりませんでした。人間の考えによって、自分たちの目によいと見えるものを作ってはならなかったのです。
 私たちを死と滅びから救い出してくださるために、神さまが備えてくださったのは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いです。それは、人間の思いもよらないものです。コリント人への手紙第一・1章22節〜24節に、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されており、2章9節に、

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

と記されているとおりです。
 造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の本性は、罪によって腐敗してしまっています。しかし、人間は、まさにその罪による本性の腐敗のために、自分の本性が罪によって腐敗してしまっていることを知ることができません。そのために、神さまの聖さに対するわきまえも、いい加減なものになってしまっています。そのような人間が、自分の考えにしたがって神さまのご臨在される聖所を作るとしたら、神さまの聖さを冒すものとなることは避けられません。それで、

幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と、厳重に戒められているのです。
 これに続く10節〜22節には、聖所の奥にある至聖所に置かれるようになる「契約の箱」に関する戒めが記されています。これは、契約の箱の本体と、その上に載せる「贖いのふた」に関する戒めに分かれます。
 まず、契約の箱の本体について、10節〜16節に、

アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。わたしが与えるさとしをその箱に納める。また、純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。

と記されています。
 この戒めで、先々週、特に注目したのは、契約の箱を運ぶための備えです。これが、先ほどのウザの問題と深くかかわっています。
 どのようになっているかと言いますと、契約の箱の四隅に鋳造した「金の環」を取り付けます。その両側に「アカシヤ材」で作って金をかぶせた「」を通して、それで、契約の箱を担ぐのです。そして、この「」については、

棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。

と戒められています。
 この他、「机」と「香を焚くための壇」と「祭壇」も「」で担いで運ぶように指定されていますが、「」を差し込んだままにしておかなければならないと命じられているのは、契約の箱だけです。これらの用具を「」で担ぐのは、これらの用具が聖なるものであって、罪を宿す人がそれに直接的に触れて汚すことがないためです。その中でも、契約の箱は最も聖いものとして、さらに区別されているのです。それは、契約の箱が聖所の奥の至聖所に置かれていて、そこに主の栄光のご臨在があったからです。
 これに続く17節〜22節には、契約の箱の上蓋である「贖いのふた」についての戒めが記されています。その最後の部分の21節、22節で、

その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と言われていますように、「贖いのふた」の上に主のご臨在がありました。
 このように、契約の箱は、そこに主の栄光のご臨在がある所を表示するものですので、最も聖いものとして聖別されているのです。これらのことだけで、「ウザの割り込み」の問題の本質は見えてきますが、これと関連して、さらに知っておかなければならないことがあります。
 聖所の用具を運ぶのは、レビ人の中のケハテ族が担当するように指定されています。ちなみに、レビは、ヤコブの十二人の子の一人です。そして、レビの子孫がレビ人と呼ばれます。レビの子は、ゲルション、ケハテ、メラリです。このケハテの子孫がケハテ族です。ケハテの子は、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルです。このアムラムから、モーセとアロンが生まれました。そして、アロンの子孫が祭司として、主の幕屋で仕えました。
 ケハテ族の務めのことは、民数記4章1節〜20節に記されています。4節〜14節には、

ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。宿営が進むときは、アロンとその子らははいって行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真青の布を延べ、かつぎ棒を通す。また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。

と記されています。
 出エジプト記40章36節、37節に、

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

と言われていますように、イスラエルの民は、聖所にご臨在される「雲の柱」に導かれて旅をしていました。民数記4章5節で、「宿営が進むときは」と言われているのは、「雲が幕屋から上ったときに」旅立つときのことです。
 5節の続きと6節では、

アロンとその子らははいって行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真青の布を延べ、かつぎ棒を通す。

と言われています。「アロンとその子ら」とは祭司のことです。「アロンとその子らははいって行って」というのは、祭司たちが聖所の中に入っていって、聖所の用具を運ぶための準備をすることを示しています。
 最初にすべきことは、ここでは「あかしの箱」と呼ばれている契約の箱を運ぶための準備です。まず、「仕切りの幕を取り降ろし」と言われています。この「仕切りの幕」は、聖所とその奥の至聖所を仕切っていた「垂れ幕」のことです。それを取り降ろして、それで契約の箱をおおいます。
 先々週お話ししましたように、この垂れ幕には、主のご臨在がそこにあることを表示しつつ、主のご臨在を守っているケルビムが織り出されていました。そして、この垂れ幕の奥には、年に一度だけ、「大贖罪の日」に、大祭司が「やぎ」と「雄牛」の血を携えて入り、自分とイスラエルの民のために贖いをしました。それ以外の時には、誰も、この垂れ幕の中に入ることは許されていませんでした。
 このことは、主のご臨在は主の契約の民であるイスラエルの間にあるけれども、イスラエルの民が自らのうちに罪を宿すものなので、その御前に近づくことはできないことを示しています。それとともに、主が備えてくださる贖いによって、主のご臨在の御前に近づくことができるようになることが、いわば、約束の形で示されています。ただし、やぎと雄牛の血では「神のかたち」に造られている人間の罪を贖うことができませんので、民はやぎと雄牛の血によっては、主のご臨在の御前に近づくことができないことも示していました。
 これは、やがて来たるべき約束の救い主、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださる血による罪の贖いを指し示す、地上的な「影」あるいは「模型」です。ヘブル人への手紙10章19節、20節で、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と言われていますように、御子イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって、罪を聖めていただいている私たちにとっては、あの垂れ幕が示していた仕切りは取り去られています。私たちは、御子イエス・キリストの血によって、いつでも、また自由に、主の栄光のご臨在の御前に近づくことができます。
 話を元に戻しますと、イスラエルの民が移動する際に、主の契約の箱を運ぶに当たって、祭司が、ケルビムの織り出されている聖所の垂れ幕で契約の箱を覆いました。それによって、主がご臨在される契約の箱は、たとえ移動する時であっても、聖別されており、ケルビムによって守られていることが示されていました。主がご臨在される契約の箱は、どのような時でも、聖別されているのです。
 祭司たちは、垂れ幕で覆った契約の箱の上に、さらに、「じゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真青の布を延べ、かつぎ棒を」通しました。これが、契約の箱を運ぶために祭司がなした準備です。
 ここで「じゅごん」と訳されている言葉(タハシ)が示しているのは、地中海に生息していた「イルカ」か、紅海に生息していた「ジュゴン」のことであると考えられます。
 民数記4章7節〜14節には、さらに、その他の用具を運ぶための準備をすることが示されています。それもすべて、祭司が覆いをするのです。ところが、それらの用具の場合には、契約の箱を覆うのと少し違っています。
 契約の箱は、まず聖所の垂れ幕で覆われます。聖所の垂れ幕は一枚しかありませんでしたから、それで覆われる契約の箱は、他の用具とは区別されていたわけです。契約の箱は、次に、じゅごんの皮で覆い、最後に青い布で覆います。
 この覆うものの順序に注目しますと、契約の箱以外の用具は、まず、青い布で覆います。ただし、祭壇の時には紫色の布を用います。次に、「供えのパンの机」だけ、「緋色の撚り糸の布」で覆います。そして、最後に、じゅごんの皮で覆います。ですから、最後にどうなるかと言いますと、契約の箱は青い布で覆われるようになりますが、それ以外の用具はじゅごんの皮で覆われるようになります。このようにして、契約の箱は、それ以外の用具と区別されています。
 民数記4章では、これらの戒めに続く15節には、

宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。

と記されています。
 ここでは、聖所の用具を運ぶのはケハテ族の人々であることが示されています。しかし、ケハテ族の人々がすることは、祭司が準備した用具を担いで運ぶことだけです。契約の箱を初めとする、聖所の用具を覆うのは祭司たちです。ケハテ族の人々は、祭司たちがすべての準備をした後で、初めて、そこに入ってきて、その棒で担ぎました。ですから、ケハテ族の人々は、その棒に触れただけでした。それは、
彼らが聖なるものに触れて死なないためである。
と言われていますように、主のご臨在にかかわるものに、ケハテ族の人々が直接的に触れて死ぬことがないようにするための備えでした。
 そればかりか、契約の箱を初めとする、聖所の用具を運ぶ役割を与えられているケハテ族の人々であっても、契約の箱を初めとする、聖所の用具を見ることさえも許されていませんでした。17節〜20節には、

ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、はいって行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。彼らがはいって行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」

と記されています。
 これらの戒めが何を意味しているかは、改めて申すまでもありません。それは、主の契約の民が、どのような場合であっても、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまの聖さをわきまえて、細心の注意を払って、それを守るべきであるということです。いわば「聖所をたたんで」移動する場合であっても、無限、永遠、不変の栄光の主の聖さは、細心の注意をもって守られなければならないのです。
 そして、最初に取り上げました「ウザの割り込み」の出来事は、それが、時間が経って状況が変わったからといって、変わるわけではないことを示しています。
 同じ「ウザの割り込み」のことを記している歴代誌第一・13章1節〜4節には、主の契約の箱を運ぶに当たって、ダビデが、祭司やレビ人たちをも招集して合議したことが記されています。祭司やレビ人たちは、契約の箱を運ぶときには、祭司がその準備をして、ケハテ族の人々が担ぎ棒を担いで運ぶという、明確な主の戒めを知っていたはずです。しかし、この時は、それをないがしろにして、牛車で運んで、主の聖さを冒してしまいました。それによって、「ウザの割り込み」という出来事が起こってしまいました。
 どのような時にも、細心の注意をもって、無限、永遠、不変の栄光の主の聖さを守らなければならないことは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられる以上、永遠に変わることがありません。それで、このように、常に細心の注意を払って、神さまの聖さをわきまえ、それを守らなければならないのは、旧約の時代のことであるというような、恐ろしい考え方をしてはなりません。
 新約の時代になって変わったのは、神さまの聖さではありません。旧約の時代に厳しく守られていた神さまの聖さが、新約の時代になってどうでもよくなったということは、決してありません。むしろ、新約の時代になって、神さまの無限、永遠、不変の栄光が、御子イエス・キリストにあって、より豊に示されるようになったのですから、より細心の注意をもって、神さまの聖さを守らなければなりません。(これをどのようにして守るかについては、後ほどお話しします。)
 新約の時代になって変わったのは、神さまのご臨在が、もはや、地上的な「模型」である幕屋を通して示されることはなくなったということです。それは、その地上的な「模型」の「本体」である御子イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いが成就しているからです。それによって、私たちは、地上的な「模型」である聖所に近づくのではなく、神である主の栄光のご臨在そのものに近づいているのです。ヘブル人への手紙9章24節で、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と言われており、これを受けて、10章19節で、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

と言われているとおりです。
 「まことの聖所」とは、「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」ではなく、「天そのもの」のことです。それは、主の栄光のご臨在のあるところです。
 私たちが地上的な「模型」に近づくのではなく、神である主の栄光のご臨在そのものに近づいていることについて、さらに、ヘブル人への手紙12章18節〜 25節では、

あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

と言われています。
 私たちは、新約の祭司として、御子イエス・キリストにあってより豊かに示されている、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さをわきまえて、それを守るべきものす。そのために、先ほどの引用の最後に語られている、

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

という警告を心に留めておかなければなりません。
 しかし、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さは、私たちのうちにあるもので守ることはできません。なぜなら、私たちは自分自身のうちに罪を宿していて、本性が罪によって腐敗しているからです。神さまの聖さをわきまえて、それを守るためには、まず、このような私たちの現実をわきまえていなければなりません。
 たとえば、いたずらに恐れて、神さまの御前から身を引くことは、人間の目には、神さまの聖さを守ることのように見えますが、それも、私たちのうちにあるもの、すなわち、私たちの「殊勝さ」で神さまの聖さを守ろうとすることです。私たちの「殊勝さ」で、神さまの聖さをあかしし、守ることができると考えることは、神さまの聖さをわきまえていないことの現われでしかありません。
 それは、また、初めに取り上げた「ウザの割り込み」の出来事で言いますと、ウザがさばきを受けた後のことを記す、サムエル記第二・6章9節、10節に、

その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」ダビデは主の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。

と記されているようなことに当たります。しかし、それは主のご臨在を避けることで、決して主の聖さをわきまえて、それをあかしすることではありません。何故なら、これまで繰り返しお話ししてきましたように、私たちは、主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝することによってだけ、主の聖さをあかしすることができるからです。
 ですから、私たちは、ただ、神さまが約束してくださり、実現してくださった、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による贖いにあずかることによってだけ、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さをわきまえて、それをあかししつつ、守ることができます。御子イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって、神さまの栄光のご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することを通してだけ、真に、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さをわきまえて、それをあかしすることができるのです。
 私たちは、常に細心の注意を払って、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを、わきまえ、それを守らなければなりません。そのために必要なことは、私たちが、どのような場合にも、御子イエス・キリストの血による贖いに包んでいただいていることから、決して、それないようにすることです。そして、より積極的に、御子イエス・キリストの血によって、常に、大胆に、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛の交わりに生きるようにすることです。
 お気づきのように、これこそが、神さまが御子イエス・キリストにあって備えてくださった、永遠のいのちに生きることです。
 


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