(第98回)


説教日:2002年9月29日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうもヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話しします。これまで、9節、10節に記されている、イエス・キリストの、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

という教えについてお話ししてきました。先週は講壇交換で、一週空いてしまいましたので、まず、これまでお話ししたことを補足しながらまとめておきたいと思います。
 これまで特に、10節に記されている、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えに注目してきました。それは、この教えが誤って理解されると、福音そのものが歪められてしまうというような問題を含んでいるからです。
 この教えは、イエス・キリストは私たちがイエス・キリストの戒めを守ることを条件にして、私たちをご自身の愛のうちにとどまらせてくださるというように理解されてしまう危険性があります。私たちがイエス・キリストの戒めを守らないと、イエス・キリストも私たちをご自身の愛のうちにとどまらせてくださらないで、私たちをご自身の愛から締め出されるというような理解です。そうなりますと、イエス・キリストに愛していただくためには、イエス・キリストの戒めを守らなければならないというようになってしまいます。
 しかし、それはここでのイエス・キリストの教えの意味ではありません。というのは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という教えに先だって、イエス・キリストは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

と言われて、イエス・キリストが永遠に変わることのない完全な愛をもって私たちを愛してくださっていることを示してくださっているからです。そして、その上で、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられるからです。
 イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストの戒めを守ることを条件として私たちを愛してくださるのではありません。私たちがイエス・キリストを愛する前に、また、イエス・キリストの戒めを守るようになる前に、イエス・キリストは私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にかかってご自身のいのちを捨ててくださいました。このイエス・キリストの私たちへの愛は永遠に変わることがありません。このことの上に立って、私たちは、イエス・キリストの愛のうちにとどまるようにと戒められています。そして、私たちは、イエス・キリストの戒めを守ることによって、イエス・キリストの愛のうちにとどまるようになると言われているのです。


 それではどうして、私たちはイエス・キリストの戒めを守ることによって、イエス・キリストの愛のうちにとどまるようになるのでしょうか。
 それは、愛が一方的なものではないからです。いくらイエス・キリストが永遠に変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっていても、私たちがその愛を受け入れないのであれば、私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるということはあり得ません。私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるためには、私たちがイエス・キリストの愛を信じて、受け入れなければなりません。そして、私たちがイエス・キリストの愛を信じて、受け入れるということは、私たちもイエス・キリストを愛するようになるということを意味しています。
 イエス・キリストは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と言われましたが、この場合の「戒め」は複数形で、「さまざまな戒め」を意味しています。そして、12節で、イエス・キリストは、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と言われました。この場合の「戒め」は単数形で、「一つの戒め」です。これによって、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と言われているイエス・キリストの「さまざまな戒め」はすべて、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という「一つの戒め」に集約されることが示されています。もし私たちがイエス・キリストの愛を信じて、受け入れているなら、私たちはイエス・キリストを愛するようになります。そうしますと、私たちもイエス・キリストが、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも

と言っておられるように、イエス・キリストにならって、イエス・キリストが愛しておられる兄弟姉妹たちを愛するようになります。ヨハネの手紙第一・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されているとおりです。
 ヨハネの福音書14章23節、24節には、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

ということは、仮定法で記されていますが、もし私たちがイエス・キリストを愛しているなら、私たちがイエス・キリストの「ことば」を守るのは自然なことであるという意味合いを伝えています。
 また、この「ことば」(単数形のロゴス)は、イエス・キリストの教え全体が一つのまとまりとなっていることを意味しています。そして、このイエス・キリストの「ことば」には、イエス・キリストの戒めも含まれています。それで、私たちがイエス・キリストの「ことば」を守ることは、イエス・キリストの戒めを守ることも含んでいて、それよりは意味が広いと考えられます。ですから、ここでは、私たちがイエス・キリストを愛しているなら、自然と私たちはイエス・キリストの「ことば」を守るようになります。そして、そのことの中で、イエス・キリストのさまざまな戒めを守るようになるということが示されています。
 このことは、イエス・キリストが新しい契約の主であられることと深く関わっています。イエス・キリストは、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

と教えてくださいました。この、

わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

ということは、神さまの契約の祝福の中心を示しています。そして、これは、天地創造の御業の目的でもありました。
 イザヤ書45章18節には、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

と記されています。神さまはこの世界を「人の住みかに」お造りになりました。神さまは、ご自身がお造りになったこの世界に私たちを住まわせてくださったのです。
 その一方で、聖書は、神さまはこの世界を、ご自身がご臨在される世界としてお造りになったと教えています。イザヤ書66章1節、2節には、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。」

と記されています。

  天はわたしの王座、地はわたしの足台

ということは、神である主が天と地にご臨在しておられること、すなわち、神さまが造りだされた天と地が神さまのご臨在される神殿であることを示しています。
 また、創世記1章2節には、最初に造り出されたときの地の状態について、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。まだ、この世界が「人の住みかに」整えられる前に、神さまは御霊によってこの世界にご臨在しておられたのです。この世界は、「人の住みかに」なる前から、神さまがご臨在される世界でした。そして、このご臨在の御許から発せられる、

光よ。あれ。

を初めとする一連の御言葉によって、この世界を「人の住みかに」整えてくださいました。その上で、人を「神のかたち」にお造りになって、ご自身が整えられたこの世界に住まわせてくださったのです。その際に、神さまは、エデンの園をご自身がご臨在されるところとして聖別して、そこに人を住まわせられました。これによって人は、そこにご臨在しておられる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。このように神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。
 ところが、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間は、神さまのご臨在の御許から退けられてしまい、死の力に捕らえられてしまいました。しかし神さまは、一方的な愛と恵みによって、贖い主を約束してくださいました。それは、その贖い主のお働きによって、神さまとの愛にあるいのちの交わりを再び回復してくださるという約束に他なりません。ヨハネの福音書14章23節に記されている、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

というイエス・キリストの言葉は、このことが、私たちの間に実現していることを示しています。
 父なる神さまと御子イエス・キリストが私たちの間に住まわれるということは、私たちの間に神さまのご臨在があることだけでなく、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりにあずかるようになることを意味しています。このような、契約の神である主の祝福が、イエス・キリストの「ことば」を守ることを通して私たちの現実になると言われています。
 そうしますと、このイエス・キリストの「ことば」がどのようなものであるかが問題となります。それは、私たちにとっては聖書に記されている福音の御言葉のことです。実は、このイエス・キリストの「ことば」は、私たちの贖い主となってくださったイエス・キリストをあかししています。ヨハネの福音書5章39節に記されているように、イエス・キリストは、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

とあかししておられます。
 ですから、イエス・キリストの「ことば」を守るということは、福音の御言葉にしたがって、イエス・キリストを神さまがお遣わしになった贖い主として信じて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって永遠のいのちをもつようになること、そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを中心としています。
 ヨハネの福音書5章24節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

という、イエス・キリストの教えが記されています。この場合の「わたしのことば」も、14章23節で、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

と言われているときの「わたしのことば」と同じ言葉で表されています。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と言われるときの、イエス・キリストの「戒め」を守ることは、イエス・キリストが、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

と言われるときの、イエス・キリストの「ことば」を守ることの中でなされることです。
 それで、私たちは、福音の御言葉にしたがって、イエス・キリストを神さまがお遣わしになった贖い主として信じて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって永遠のいのちをもつようになっていること、そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになっていることの中で、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という「一つの戒め」に集約されるイエス・キリストの「さまざまな戒め」を守るのです。イエス・キリストの戒めを守ることは、私たちが福音の御言葉に示されている贖いの恵みにあずかって、父なる神さまとイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生かされていることの中でなされることです。このことが見失われますと、イエス・キリストの戒めを守ることに対するさまざまな誤解が生まれてきます。
 ヨハネの福音書15章5節に記されているように、イエス・キリストは、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言っておられます。この、

わたしはぶどうの木です。

という言葉は、強調の現在時制で表わされていて、イエス・キリストが、モーセを通して啓示された、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である「主」(ヤハウェ)であられることを示しています。この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、契約の神である「主」(ヤハウェ)が永遠に在る方、永遠に変わることなく在る方、何物にも依存されないで、ご自身で在る方であられることを示しています。それだけでなく、この契約の神である「主」の御名は、「主」がその無限、永遠、不変の豊かさと、真実をもって、ご自身の契約の民とともにいてくださるということを意味しています。先ほど引用しました、イエス・キリストの、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

という言葉は、このことを指しています。
 そして、まさにそのことによって、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われているイエス・キリストと私たちの関係が現実のものとなっているのです。
 イエス・キリストは永遠の神の御子であられるのに、私たちと同じ人の性質をお取りになって来てくださいました。それによって、イエス・キリストは、私たちと一つとなってくださいました。その「一つである」ということは、イエス・キリストが私たちの契約の主、契約のかしらとなられ、私たちがその民となるという意味においての一体性です。このようにして私たちと一つとなってくださったイエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪の刑罰をすべてその身に負って死んでくださり、3日の後に死者の中からよみがえってくださいました。このすべては、イエス・キリストが私たちの契約の主、契約のかしらとして成し遂げてくださったのです。それで、私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。
 イエス・キリストが、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われるのは、私たちが贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストと一つに結び合わされていること、そして、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて与えられるいのちの祝福にあずかっているということを意味しています。
 イエス・キリストは、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

と言われたのに続いて、

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と言われました。
 私たちは、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「」として、「ぶどうの木」のいのちによって生かされています。そして、

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

というイエス・キリストの言葉が示しているように、私たちが「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「」として「」を結ぶことは当然のことであり、最も自然なことなのです。
 このことを受けて、9節では、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と言われています。それで、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

というイエス・キリストの戒めは、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「」として、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストにとどまることに他なりません。ここでは、そのようなイエス・キリストとの結びつきが愛にあるいのちの交わりとして現実のものとして現われてくることを示しています。
 そして、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

というイエス・キリストの教えは、私たちが「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「」として、イエス・キリストのいのちによって生かされているなら、私たちを通してイエス・キリストの復活のいのちが現われてくるということを教えています。そして、イエス・キリストの復活のいのちは、何よりもまず、私たちが、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの「一つの戒め」にしたがって、互いに愛し合うことに現われてきます。ヨハネの手紙第一・3章14節には、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

と記されています。
 ヨハネの福音書15章11節には、

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 これは、イエス・キリストが、それに先立つ9節、10節に記されている、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

という戒めと教えを与えてくださった目的を示しています。私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまり、その愛に包んでいただいて互いに愛し合うことによって、私たちのうちにイエス・キリストの喜びが宿るようになるためであるというのです。
 注意したいのは、イエス・キリストが、まず、

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり

と述べておられるということです。私たちのうちからわき出てくる喜びではなく、イエス・キリストの喜びが私たちのうちにあるようになるということです。そして、その結果、私たちの喜びが満ちるようになると言われています。
 9節、10節とのつながりから、イエス・キリストの「喜び」は、イエス・キリストが、

わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっている

と述べておられることにある喜びであることが分かります。イエス・キリストは、父なる神さまを愛しておられたので、父なる神さまのみこころに従うことを、ご自身の喜びとしておられました。
 私たちは、自らのうちに罪を宿していますために、本当に喜ぶべきことを喜んでいるとは限りません。私たちが何に心を寄せているかによって、私たちの喜びは変わります。逆に言いますと、私たちが何を喜んでいるかが、私たちが何に心を寄せているかを表わしています。私たちは、神さまの目から見ますと、空しいものに心を寄せて、空しいもののことで喜んでいるという場合がいくらでもあります。ルカの福音書6章24節〜26節には、

しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 イエス・キリストが「わたしの喜び」と言われる喜びは、父なる神さまのみこころを行なうことから生まれてくる喜びでした。
 また、イザヤ書11章1節〜5節には、

  エッサイの根株から新芽が生え、
  その根から若枝が出て実を結ぶ。
  その上に、主の霊がとどまる。
  それは知恵と悟りの霊、
  はかりごとと能力の霊、
  主を知る知識と主を恐れる霊である。
  この方は主を恐れることを喜び、
  その目の見るところによってさばかず、
  その耳の聞くところによって判決を下さず、
  正義をもって寄るべのない者をさばき、
  公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
  口のむちで国を打ち、
  くちびるの息で悪者を殺す。
  正義はその腰の帯となり、
  真実はその胴の帯となる。

と記されています。これは、メシヤ預言で、イエス・キリストにおいてすべて成就しています。
 ここでは、

  この方は主を恐れることを喜ぶ。

と言われています。それは、それに先立って、イエス・キリストを満たしていた主の御霊が、

  主を知る知識と主を恐れる霊である。

であるとあかしされていることによっています。
 このように、イエス・キリストは、父なる神さまを知ることと、父なる神さまを畏れ、父なる神さまのみこころを行なうことを喜びとしておられました。その父なる神さまのみこころの中心は、イエス・キリストが私たちの身代わりになって、私たちの罪のさばきをすべてその身に負って死なれることでした。それは、イエス・キリストにとってはこの上ない苦しみでしたが、イエス・キリストはその父なる神さまのみこころを行なうことを喜びとされました。そして、そのことの中で、イエス・キリストは、父なる神さまのみこころを成し遂げることが、私たちを死からいのちへと救い出すことになることを知っておられました。
 ですから、イエス・キリストが、父なる神さまを知ることと、父なる神さまを畏れ、父なる神さまのみこころを行なうことを喜びとしておられたことは、そのまま、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることを喜びとしてくださったことをも意味しています。ですから、少し大胆な言い方になりますが、私たちが、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、新しいいのちに生きるようになることは、イエス・キリストが喜びとしておられることの実現なのです。
 このように見ますと、イエス・キリストが、

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

と言われたことの意味が理解できます。
 私たちがイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、新しいいのちに生きるようになり、イエス・キリストの「一つの戒め」にしたがってお互いに愛し合うことを通して、私たちが新しいいのちに生きていることが現われてきます。イエス・キリストは、そのようにして、私たちが新しいいのちに満たされて生きていることを、ご自身の喜びとしてくださっているのです。そして、それは、いわば「ぶどうの木」であられるイエス・キリストからあふれ出る喜びとして、「ぶどうの木」に結び合わされている「」へと伝えられてくる喜びです。
 これによって、私たちは、イエス・キリストの喜びを自分の喜びとすることを学ぶようになります。そうなりますと、私たちもイエス・キリストのみこころにしたがって、お互いに愛しあうことを喜びとするようになります。そして、私たちが愛している兄弟や姉妹たちが、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかってより豊かないのちに生きるようになるとき、私たちの心は喜びに満たされるようになります。
 ヨハネは、その第二の手紙の4節〜6節で、

あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

と述べています。

 


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