(第97回)


説教日:2002年9月15日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 今日も、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されている、ぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話しします。
 これまで、9節、10節に記されている、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

という戒めについてお話ししてきました。そして、先週と先々週は、10節に記されている、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えは、誤解して受け止められやすいということをお話ししました。その誤解は、私たちがイエス・キリストの戒めを守ると、イエス・キリストはそのことをよしと認めてくださって、私たちをご自身の愛のうちにとどまらせてくださるというように、イエス・キリストの教えを理解してしまうものです。
 なぜそのように誤解してしまうかと言いますと、かつて、私たちが因果応報の発想に慣れ親しんでいたからです。それは、「神」は、人間が何かよいことをすると、それに報いてよいことをしてくださり、人間が悪いことをすると、それに報いて罰を与えるというような考え方です。そのような考え方が根深く私たちのうちに残っていて、聖書の読み方を歪めてしまうことがあるのです。
 人は、因果応報の原理に基づいて「神」のことを考えているときには、その「神」の愛というようなことは考えません。というのは、その「神」は因果応報の原理にしたがって人間に対処するだけですので、そこには、愛が入る余地がないのです。また、その人も、「神」がくれるとされている「報い」としての「御利益」の方に目が行ってしまっています。それは、因果応報の考え方よりももっと深いところに、神さまに対して罪を犯した人間の罪の自己中心性があって、「神」をも自分のために利用しようとしているからです。
 また、この因果応報の考え方では、突き詰めると、人間が「神」を動かすことになります。「神」は、人間が何かよいことをすると、それに報いてよいことをしてくださり、人間が悪いことをすると、それに報いて罰を与えるというように、人間次第で動き方を変えるのです。さらに言いますと、そのような「神」は、因果応報の原理の枠の中だけでしか動くことができません。「神」といえども、因果応報の原理に縛られているのです。
 これに対して、聖書を通してご自身をあかししてくださっている神さまは、私たちが存在するようになる前から、すなわち私たちが何かをするようになる前から、私たちを愛してくださっておられます。エペソ人への手紙1章3節〜5節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいましたすなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されているとおりです。
 神さまは永遠の初めから、私たちを愛してくださっておられます。その愛によって、私たちを「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛にある交わりに生きるものとしてくださいました。私たちが神さまに対して罪を犯して堕落してしまった後にも、その愛を変えたもうことはありませんでした。かえって、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、私たちの罪を贖ってくださり、再びご自身との愛の交わりに生きる者としてくださいました。
 この御子の十字架における身代わりの死によって、私たちの罪に対するさばきは執行されて、私たちの罪はすべて清算されていますので、神さまの義は全うされています。神さまは因果応報の原理の枠を越えて、ご自身の義と私たち罪人への愛を全うされました。


 親は子どもを愛しています。それは、子どもが自分に何かをしてくれるからではありません。その愛が初めにあります。それで、たとえば、子どもが自分の誕生日にちょっとしたプレゼントをしてくれたというようなときに、それがとても嬉しいものになります。その場合、子どもがプレゼントをくれたから愛が生まれてきたのではありません。愛が先にあるから、プレゼントしてくれたことを喜ぶのです。
 神さまは生きておられます。決して、冷徹で無感動の方ではありません。私たちが神さまを愛して、御言葉に示されたみこころに従い、委ねていただいた使命を果たすときに、それをお喜びくださいます。その場合も、私たちがみこころに従ったので、神さまのうちに私たちに対する愛が生まれたのではありません。神さまは、永遠の前から、ご自身の愛で私たちを覆ってくださっています。それで、私たちが神さまを愛して、みこころに従い、委ねていただいた使命を果たすときに、それをお喜びくださるのです。
 イエス・キリストは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と教えられましたが、それに先立って、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

ということを明らかにしてくださっています。イエス・キリストは永遠に変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっておられます。そして、このことに基づいて、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられます。それは、私たちがイエス・キリストの戒めを守るなら、イエス・キリストのうちに私たちへの愛が生まれてくるということではありません。イエス・キリストの愛は永遠の初めから変わることなく、私たちに注がれています。
 愛は相互的なものです。永遠に変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっているイエス・キリストの愛のうちにとどまる者がイエス・キリストを愛することは、最も自然なことです。もし、私たちがイエス・キリストを愛していないのであれば、私たちはイエス・キリストの愛を受け取っていないし、イエス・キリストを利用しているだけです。ただ、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いだけを受け取って、罪の結果である死と滅びから救われさえすれば、イエス・キリストには用はないというのは、イエス・キリストを利用するだけのことです。私たちは、そのような「利用し利用される関係」でイエス・キリストにつながっているのではありません。愛によって、イエス・キリストにつながっているのです。
 イエス・キリストが私たちを愛してくださって、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださったのは、私たちをご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださるためです。そして、このイエス・キリストとの愛にある交わりこそが永遠のいのちです。イエス・キリストは、私たちをこの永遠のいのちに生かしてくださるために、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださったのです。
 親が自分を愛していることを信じきっている子どもは、親の言葉に耳を傾けますし、その言うことに従います。なぜなら、親が自分を愛して自分のためにそう言ってくれていることを信じているからです。イエス・キリストの永遠に変わることがない完全な愛に包まれている人も同じです。イエス・キリストの戒めはすべて、私たちに対する永遠に変わることがない完全な愛から出ています。人間の場合には、親の側にも罪があるために、罪の自己中心が現われてきてしまい、子どもを自分の思うように支配してしまうことがあります。しかし、イエス・キリストの愛には、そのような自己中心性の影もありません。イエス・キリストの戒めは、すべて、私たちに対するイエス・キリストの永遠に変わることがない完全な愛から出ていて、いのちの道を示しています。ですから、イエス・キリストの愛を受け取って、その愛に包まれている人は、イエス・キリストの愛を信じていますので、イエス・キリストの戒めを守ります。
 これまでお話ししましたように、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という言葉に示されている、イエス・キリストの「さまざまな戒め」は、すべて、その後の12節に、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と記されている「一つの戒め」に集約され、まとめられます。そして、この、私たちがお互いに愛し合うことを求める戒めは、私たちのいのちの道を示しています。
 そのことを御言葉にしたがって見てみましょう。ヨハネの手紙第一・3章14節には、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

と記されています。また、5章1節にも、

イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

と記されています。
 これらの御言葉に示されていますように、私たちが、イエス・キリストの贖いにあずかって罪を贖われており、よみがえりにあずかって新しいいのち―― 永遠のいのちに生きていることは、私たちがお互いに愛し合うことに現われてきます。ですから、私たちがお互いに愛し合うことは、いのちの道を歩むことにほかなりません。それで、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

ということは、私たちがイエス・キリストの死とよみがえりにあずかって、新しいいのちに生きているということを現実のものとする道を示しているのです。
 以上、これまでお話ししましたことを補足しつつ振り返って見ました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

というイエス・キリストの戒めとの関わりで、もう一つ注目したいことがあります。それは、この戒めでは、イエス・キリストと私たちの交わりが、

父がわたしを愛されたように

とか、

それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

と言われていますように、父なる神さまと御子イエス・キリストの交わりになぞらえられているということです。
 このことは、前に少し触れましたが、愛が神さまの本質的な人格的特性であり、「神のかたち」に造られている人間の愛が神さまから出ていることを反映しています。ヨハネの手紙第一・4章7節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と記されています。
 神さまの本質的な特性は愛ですから、神さまは、愛のうちにこの世界のすべてのものをお造りになりました。それで、神さまがお造りになったこの世界には神さまの愛が映し出されています。神さまの愛は、特に、「神のかたち」に造られている人間を通して最も豊かに映し出されます。「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性は愛です。
 神さまが愛のうちにこの世界のすべてのものをお造りになったことは、ヨハネの福音書の冒頭に記されています。1章1節〜3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 この個所については、すでに、いろいろな機会にお話ししましたが、今お話ししていることとの関わりで、いくつかのことをまとめておきたいと思います。
 1節の、

初めに、ことばがあった。

と言われていることの「初め」は、創世記1章1節に、

初めに、神が天と地を創造した。

と記されていることの「初め」に相当します。それは、神さまがこの宇宙のすべてのものをお造りになった創造の御業の「初め」で、文字通り、この世界のいっさいの物事の初めです。それはまた、この世界の時間の「初め」でもあります。そのような「初め」において、「ことば」はすでに存在しておられました。このことによって、「ことば」は、この造られた世界の時間の流れを越えた方であり、この造られた世界に属する方ではないことが示されています。
 そして、このことと調和して、3節では、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていて、「ことば」がこの世界のすべてのものをお造りになった方であることが示されています。それで、1節の最後においては、

ことばは神であった。

と言われています。
 このような永遠の「ことば」について、1節では、

ことばは神とともにあった。

と言われており、2節では、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われています。
 このことから分かりますように、ここでは、永遠の「ことば」であられる方が、父なる神さまとともにおられるということが、繰り返し述べられていて強調されています。この場合の「神とともに」という言葉(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が父なる神さまの方を向いていて、「ことば」と父なる神さまの間に愛の交わりがあることが示されています。この「ことば」と父なる神さまの間に愛の交わりがあるということは、18節で、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

というように、永遠の「ことば」のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていることによっても示されています。
 このように、1節、2節においては、特に、永遠の「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが強調されています。それは、神さまの本質的な特性が愛であるということからしますととても大切なことです。三位一体の御父、御子、御霊の間には、永遠に変わらない、また、無限の愛の通わしによる交わりがあるのです。その愛は、人間の言葉では限界があって十分に言い表わすことはできませんが、あえて表わすとしますと、神さまの愛は常に無限の愛として満ちあふれており、常に無限の愛としてあふれている点において変わることはありません。
 当然、このような永遠にして無限の愛の交わりのうちにおられる神さまは、永遠に充足しておられます。
 ですから、3節において、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われているのは、この世界のすべてのものが、父なる神さまとの永遠にして無限の愛による交わりのうちにあって、まったく充足しておられる「ことば」によって造られたということを伝えています。
 これも復習ですが、この場合に、

すべてのものは、この方によって造られた。

と言われているときの「この方によって」という言葉(ディ・アウトゥー)は、「この方」すなわち永遠の「ことば」が、実際に創造の御業を遂行されたことを意味しています。
 私が家を建てるというとき、私が家を建てるという計画を立てますが、実際に家を建てるのは、私が建築を委託した大工さんです。この場合、私が大工さん「によって」(ディア)家を建てるということになります。それと同じように、この世界のすべてのものは、父なる神さまが、永遠の「ことば」によって、お造りになりました。
 ただし、私の場合には、自分で家を建てる力がないために、大工さんに頼むわけですが、父なる神さまの場合には、能力がないので永遠の「ことば」にその働きをお委ねになったということではありません。
 人間的な言い方ですが、創造の御業と贖いの御業を遂行なさるに当たって、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間で「役割分担」がなされました。父なる神さまは無限、永遠、不変の神さまを代表する立場に立たれました。父なる神さまにおいて、神さまの無限、永遠、不変の栄光はそのまま表現されています。それで、父なる神さまが直接この世界をお造りになると、この世界は、父なる神さまの無限、永遠、不変の栄光に直接さらされることになってしまい、一瞬のうちに焼き尽くされてしまいます。
 それで、天地創造の御業を遂行なさる役割は、御子が担われました。御子は、無限、永遠、不変の神であられますが、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、創造の御業を遂行なさったのです。このようにして、創造の御業において、三位一体の神さまを代表する立場に立たれた父なる神さまが、御子によって創造の御業を遂行されたのです。
 このことは、創造の御業の遂行だけでなく、贖いの御業の遂行にも当てはまります。贖いの御業の遂行においても、父なる神さまは、神さまを代表しておられ、無限、永遠、不変の栄光をそのまま表現しておられます。御子は父なる神さまのみこころにしたがって贖いの御業を遂行されました。そして、御霊は、御子が成し遂げられた贖いの御業を私たちに当てはめてくださっています。
 このように言いますと、私たちが大工さんに委託して家を建てるというときに、私たちは実際に家を建てる働きをしていませんので、父なる神さまは創造の御業の遂行に関わっておられないかのような印象をもってしまいます。しかし、御言葉は、父なる神さまも創造の御業の遂行に深く関わっておられるということを示しています。
 たとえば、創世記1章26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。
 この「われわれ」という言葉が何を指しているのかということには、さまざまな議論があります。それについては別の機会にお話ししましたので、ここでは、その議論は省いて結論だけを言いますと、これは、造り主である神さまのうちに複数の人格があることを反映していると考えられます。ただし、後の啓示によって、その人格は御父と御子と御霊の三つの人格であることが分かりますが、この時点では、その人格が三つであることは示されていません。
 そうしますと、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という神さまの言葉は、父なる神さまが、創造の御業を遂行なさっておられる御子とともにあって、御子を通して働いておられることを示しています。そのことは、贖いの御業の遂行においてよりはっきりと示されています。たとえば、ヨハネの福音書14章10節には、

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 また、5章19節、20節には、

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」

と記されています。

子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。

というのは、その当時の社会で、父の職業を継ぐ子どもが、父のすることを見ながら腕を磨くことをたとえとして語られたものと考えられます。これによって、子のしていることに深く父が関わっていることが示されています。さらに、注目すべきことは、

父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。

という言葉によって、父なる神さまが、贖いの御業を遂行なさっておられる御子イエス・キリストを愛しておられて、深く関わっておられることも示されています。
 ですから、御子が創造の御業を遂行されたときにも、また贖いの御業を遂行されたときにも、父なる神さまは御子を愛して、絶えずその愛を御子に注いでおられます。御子は、父なる神さまの愛のうちにとどまって、創造の御業と贖いの御業を遂行されたのです。―― このことは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。
 ヨハネの福音書1章2節、3節に、

この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われているのは、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられる御子が、「すべてのもの」をお造りになったことを示しています。それは、また、御子が創造の御業を遂行なさったときに、父なる神さまが絶えずご自身の愛を御子に注いでおられて、御子を通して働いておられたことを意味しています。
 それは、贖いの御業においても同じです。父なる神さまが御子を愛して、御子とともにあって、絶えずご自身の愛を御子に注いでいてくださったので、御子は父なる神さまの愛の中で贖いの御業を遂行されました。
 御子は愛において父なる神さまと心を合わせて、創造の御業と贖いの御業を遂行され、父なる神さまは御子を通して働いておられたのです。それで、御子イエス・キリストの十字架の死によって、ヨハネの手紙第一・3章16節で、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と言われていますように御子の愛が示されただけではなく、ローマ人への手紙5章8節で、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われていますように、父なる神さまの私たちに対する愛も示されています。
 このように、父なる神さまは、御子イエス・キリストが創造の御業を遂行されたときにも、贖いの御業を遂行されたときにも、絶えず御子とともにいてくださって、ご自身の愛を御子に注いでいてくださいました。―― もちろん、御子が私たちの罪を贖ってくださるために十字架におつきになったときにも、さらには、その御子に私たちの罪に対するさばきを下されたときにも、父なる神さまの御子に対する愛は変わっていませんでした。父なる神さまは、さばきの御怒りを、ご自身の愛しておられる御子に下されたのです。
 このように見ますと、イエス・キリストが、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

と言われたことは、ご自身が、父なる神さまとの絶えることのない愛の交わりのうちに、創造の御業と贖いの御業を遂行されたことをを背景として語られたことが分かります。
 私たちがイエス・キリストを愛して、イエス・キリストの戒めにしたがってお互いに愛し合うときに、私たちは、御子イエス・キリストが父なる神さまを愛して、そのみこころに従って、創造の御業と愛美を遂行されたことを映し出しているのです。また、私たちがイエス・キリストを愛して、イエス・キリストの戒めにしたがってお互いに愛し合うときに、イエス・キリストは私たちとともにいてくださって、ご自身の愛を常に私たちに示してくださいます。そして、私たちを通して働いてくださり、私たちの間にご自身の愛を全うしてくださいます。ヨハネの手紙第一・4章12節に、

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と記されているとおりです。

 


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