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説教日:2002年9月8日 |
このことに関して、先週はヨハネの手紙第一・4章10節に記されている、 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 という御言葉を読みました。ここに記されていますように、神さまは私たちが神さまを愛する前に、御子を遣わしてくださって、私たちのためのなだめの供え物としてくださるほどに私たちを愛してくださいました。 また、ローマ人への手紙5章8節〜11節には、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 と記されています。 神さまは、「私たちがまだ罪人であったとき」、また神さまを「敵」として歩んでいたときに、すでに、私たちを愛してくださり、私たちのために御子をなだめの供え物として遣わしてくださったのです。そして、 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 と言われていますように、私たちに対する神さまの愛は一貫していて、変わっていないことが示されています。 確かに、私たちは、時には、自分の罪の結果で苦しまなければならないことがあります。私たちを取り巻く状況が厳しくなってしまったり、私たちの心や身体が傷つくこともあります。また、私たち自身の良心が、自分を赦せなくなることもあります。しかし、そのことは、私たちに対する神さまの愛が変わってしまったことの現われではありません。むしろ、御言葉は、それは、神さまが私たちをご自身の子としてくださっているので、私たちの霊の父として接してくださっていることの現われであると教えています。 ヘブル人への手紙12章4節〜11節には、 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。 主の懲らしめを軽んじてはならない。 主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 と記されています。 ですから、自分が犯した罪のために、何か「よくないこと」が起こったときでも、主の愛が失わてしまったのではないかと考えてはなりません。それは、神さまの愛も私たちの行ない次第だと考えることで、そこから「悪魔のわな」に陥ってしまいます。むしろ、私たちは、神さまの愛を信じて、ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束にしたがって、神さまに罪を告白して、その罪を赦していただくのです。 このように、ヨハネの福音書15章10節の、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 というイエス・キリストの教えを、イエス・キリストは、私たちがご自身の戒めを守ることを条件として、私たちを愛してくださり、ご自身の愛のうちにとどまらせてくださるということだと理解してはなりません。 イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストを愛するようになる前に、私たちを愛してくださり、私たちのためになだめの供え物となってくださって、十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス・キリストの愛は決して変わることがありません。このことと調和して、10節で、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われているのは、その前の9節で、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 と言われていることを受けています。 すでにお話ししましたように、この、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。 ということは、イエス・キリストが決して変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっていることを意味しています。ヨハネの手紙第一・3章16節で、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と言われていますように、イエス・キリストは、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために「ご自分のいのちをお捨てに」なるほどに、私たちを愛してくださいました。その愛は、一時的なものではなく、今も変わることなく、私たちに注がれています。また、これと同じことは、先ほど引用しましたローマ人への手紙5章8節の、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 という言葉にも示されています。 このような、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。 ということを受けて、イエス・キリストは、 わたしの愛の中にとどまりなさい。 と戒めておられます。 イエス・キリストが私たちを愛していてくださっていないのであれば、私たちはイエス・キリストの愛のうちにとどまることはできません。私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまることができるのは、イエス・キリストが決して変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっているからです。それで、イエス・キリストが、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われるときには、私たちはすでにイエス・キリストの決して変わることがない完全な愛の中に入れられています。私たちはイエス・キリストの決して変わることがない完全な愛に包まれて、イエス・キリストの戒めを守るのです。また、私たちはイエス・キリストの決して変わることがない完全な愛に包まれているので、イエス・キリストの戒めを守るようになるのです。 先週お話ししましたように、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われているときの「わたしの戒め」は複数形ですので、イエス・キリストの「さまざまな戒め」を表わしています。そして、12節で、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と言われているときの「わたしの戒め」は単数形で、イエス・キリストの「一つの戒め」を表わしています。 これによって、イエス・キリストが与えてくださっている「さまざまな戒め」が、すべて、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと という、「一つの戒め」に集約され、まとめられるということが示されています。イエス・キリストが与えてくださっている「さまざまな戒め」は、すべて、私たちが互いに愛しあうようになるための戒めであるということです。 このことが分かりますと、イエス・キリストの、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 という教えをよりよく理解できるようになります。 イエス・キリストは、決して変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっています。普通に考えますと、そのような私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるということは、私たちもイエス・キリストを愛するようになることだと考えます。そして、それは、そのとおりです。 ヨハネの福音書14章21節には、 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。 というイエス・キリストの言葉が記されています。ここで言われている「わたしの戒め」は複数形で、イエス・キリストが与えてくださる「さまざまな戒め」です。当然、この「さまざまな戒め」も、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと という「一つの戒め」に集約され、まとめられます。 このように、イエス・キリストが決して変わることがない完全な愛をもって私たちを愛してくださっていますので、私たちもイエス・キリストを愛するようになります。そして、私たちがイエス・キリストを愛することは、イエス・キリストの「さまざまな戒め」を守ることに具体的に現われてきます。そのイエス・キリストの「さまざまな戒め」は、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと という「一つの戒め」に集約され、まとめられます。 ですから、 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言ってもいいイエス・キリストの教えが、 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われているのです。そして、このように言われていることによって、私たちがイエス・キリストを愛していることは、私たちがお互いに愛することに具体的な形を取って現われてくるということが示されています。 これと同じように、私たちがイエス・キリストを愛していることは、私たちがお互いに愛することに具体的な形を取って現われてくるということは、このほかの個所においても教えられています。特に、同じヨハネによって記されたヨハネの手紙第一には、いくつか見ることができます。 たとえば、先ほど引用しました3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されていました。この場合も、そうであれば、私たちもイエス・キリストを愛すべきだということになります。しかし、実際には、16節後半では、 ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と言われています。改めて説明するまでもありませんが、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 ということの「ですから私たちは」の後には省略があります。その省略をしないで言いますと、 「ですから私たちは、」キリストを愛すべきです。そして、キリストを愛する者は、キリストにならって「兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」 というようになるでしょう。 これに続く17節〜19節では、「兄弟のために、いのちを捨てる」ことを具体的に説明して、 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 と言われています。 この「行ないと真実をもって」兄弟を愛することを教えているヨハネの言葉は、マタイの福音書25章31節〜46節に記されています、イエス・キリストの言葉を思い起こさせます。そこには、 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストは、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 というヨハネの言葉と同じことを教えておられます。この二つの教えの違いは視点の違いで、イエス・キリストが述べておられる、世の終わりに起こることを、ヨハネは、今の私たちの生き方に引き寄せて、それを映し出しています。 イエス・キリストは最後に、 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。 と言っておられます。これは、人は善い行ないによって救われるということを述べているのではありません。というのは、実際には、すべての人のうちに罪があり、みな神さまに対して罪を犯しているので、神さまの御前に義と認められる人はいないからです。同じマタイの福音書の9章12節、13節に記されていますように、イエス・キリストご自身が、 医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ・・・・ わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。 と言っておられます。 この「正しい人」という言い方には、一種の「皮肉」があります。それは、自分の行ないを自分が認めて、自分で自分のことを「正しい人」だと思っている人々のことを指しています。この「正しい人」(複数)は、先ほどの、イエス・キリストが認めておられる「正しい人たち」と同じ言葉で表わされています。同じ言葉で表されている「正しい人たち」ですが、一方は、自分の行ないを自分が認めて、自分で自分のことを「正しい人」だと思っている人々です。これに対して、イエス・キリストが「正しい人たち」と認めておられる人々は、イエス・キリストが招いてくださった人々のことです。そして、イエス・キリストの恵みによって、義と認められた人々です。ローマ人への手紙3章23節に、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されているとおりです。 ですから、イエス・キリストが、 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。 と言われるときの「正しい人たち」は、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」ています。そして、そのように義と認められているので、「永遠のいのちにはいるのです。」 この人々は、ヨハネの福音書15章1節〜16節の言葉で言いますと、「まことのぶどうの木」につなぎ合わされた「枝」のことです。そして、これまでお話ししてきましたように、その人々は、イエス・キリストの戒めを守って、イエス・キリストの愛のうちにとどまります。そして、そのイエス・キリストの戒めは、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 という「一つの戒め」に集約されます。 また、イエス・キリストが、 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。 と言われるときの「これらのわたしの兄弟たち」は、イエス・キリストが「わたしの兄弟たち」と呼んでおられる人々ですから、ヨハネが、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と教えているときの「兄弟」(複数)のことです。 ですから、イエス・キリストが、 あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、 と言われたのは、そのお互いに愛し合う愛が具体的な状況の中で生まれてきているということを意味しています。 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」た人々、すなわち、「まことのぶどうの木」につなぎ合わされた「枝」は、当然、イエス・キリストの決して変わることのない完全な愛に包まれて、お互いに愛し合うようになります。 それで、私たちは、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの戒めを守って、お互いに愛し合っているときに、自分が、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」ているということを確信するることができます。先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・3章17節、18節に、 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 と記されているとおりです。 念のために繰り返しますが、人が義と認めれらるのは、その人の行ないによることではありません。それで、私たちが互いに愛し合うから義とされるのではありません。私たちは「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」ています。そして、そのようにして義と認められている人々は、必ず、イエス・キリストの戒めにしたがって互いに愛し合うようになります。それで、私たちが義と認められていることを、私たちが確信することができるのは、私たちがイエス・キリストを信じて、お互いに愛し合っていることの中でです。 ほかにもありますが、最後に、ヨハネの手紙第一・4章19節〜5章2節を見ておきましょう。そこには、 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 と記されています。 ここで、 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。 と言われているときの、「この命令」は単数形です。そして、「命令」と訳された言葉(エントレー)は、ヨハネの福音書15章10節と12節で「戒め」と訳された言葉と同じ言葉です。それで、 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令[戒め(単数)]をキリストから受けています。 ということは、イエス・キリストの、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒め[単数]です。 という教えと同じことを述べています。 また、 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 と言われているときの、「命令」は複数形です。これも、ヨハネの福音書15章10節と12節で「戒め」と訳された言葉と同じ言葉です。それで、 私たちが神を愛してその命令[戒め(複数)]を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 ということは、イエス・キリストが、 もし、あなたがたがわたしの戒め[複数]を守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 と言われたことと同じことを別の面から述べています。 このように、御言葉は一貫して、私たちが、イエス・キリストの決して変わることがない完全な愛の中にとどまることは、私たちがイエス・キリストを信じ、イエス・キリストの戒めにしたがって、お互いに愛し合うことのうちに実現することを教えています。 |
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