(第95回)


説教日:2002年9月1日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうも、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えからのお話を続けます。
 これまで、9節に記されている、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めについてお話ししました。先週は、それを受けて語られている10節の、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

という教えについてのお話を始めました。きょうも、この教えについてお話しいたします。
 この、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えは、誤解されやすいものです。この戒めは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら

というように、条件文で始まっています。このことから、私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるためには、まず、私たちがイエス・キリストの戒めを守らなければならないと受け止められ、さらに、イエス・キリストは、私たちが戒めを守っているのを見て、私たちを愛してくださるというように受け止められかねません。
 そうしますと、イエス・キリストの私たちに対する愛は、条件つきの愛であるということになります。よく、心理的な問題で苦しんでいる青年期の方々が、子どもの時に、自分が何かよいことをしたときだけに父や母が喜んでくれたので、いつも何かよいことをしなければ、父や母に愛してもらえないという思いに取りつかれてしまっていた、というような告白をすることがあります。もし、私たちがイエス・キリストの戒めを守らなければ、イエス・キリストに愛してもらえないというのであれば、イエス・キリストの私たちに対する愛も、そのようなところがあるということになります。
 しかし、それは、たとえば、ヨハネの手紙第一・4章10節に、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されていることや、19節に、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記されていることと矛盾してしまいます。
 ですから、ヨハネの福音書15章10節の、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えを、まず私たちがイエス・キリストの戒めを守ると、それを見て、イエス・キリストは、私たちを愛してくださるというように理解することはできません。


 そうしますと、10節に記されている、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という教えを、どのように理解したらいいのでしょうか。
 このことについては、これまでお話ししてきたことから、すでに、お分かりの方もおられると思いますが、そして、これまでお話ししたことを繰り返すことにもなりますが、あらためて、整理しておきたいと思います。
 イエス・キリストの、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という教えは、その前の9節に記されている、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めを踏まえて語られたものです。

わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

という事実の上に与えられています。ここでは、私たちを愛してくださったイエス・キリストの愛が、完全な愛で、決して変わることがないということが示されています。
 そのことは、

父がわたしを愛されたように

と言われているように、イエス・キリストが私たちを愛してくださっていることのモデルが、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられることであると言われていることによって分かります。
 また、すでにお話ししましたように、文法の上でも、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

ということの、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛されたことも、イエス・キリストが私たちを愛してくださったことも、不定過去形で表わされています。そして、これは、それが完全な愛によっているということを示しています。
 ですから、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

と言われているイエス・キリストの愛は、決して、条件つきの愛ではありません。
 もしかしますと、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

ということが、過去形で記されているので、私たちは、イエス・キリストが完全な愛で私たちを愛してくださったのは過去のことである。そして、その、過去に示された愛がこの上ない愛であった、というような受け止め方をしてしまうかもしれません。たとえば、ヨハネの手紙第一・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されていることは、二千年前の出来事です。そして、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

の「お捨てになりました」は、不定過去形で表わされています。それと同じように、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

というときの、イエス・キリストの愛も過去のものではないかという感じ方です。
 けれども、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

ということが不定過去形で表わされているのは、イエス・キリストが私たちのためにご自分のいのちをお捨てになったことは、過去に起こったことであるというだけでなく、一度限りですべてのことがなされて、繰り返される必要のないことであるということを示すものです。この、イエス・キリストの死によって私たちの罪は、過去に犯した罪も、これから犯すであろう罪も、みな贖われるという、完全な贖いを成し遂げてくださったということです。やはり、ここでも、一種の完全性の意味合いが伝えられています。
 イエス・キリストは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

と言っておられます。この「父がわたしを愛された」ということは、父なる神さまはかつて御子イエス・キリストを愛しておられたという意味ではありません。それは、父なる神さまが、常に変わることなく、御子イエス・キリストを愛しておられるということを意味しています。それと同じように、イエス・キリストは、常に変わることなく、私たちを愛していてくださいます。そして、その変わることのない愛によって、今から二千年前に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

 ですから、二千年前に、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことによって示された私たちへの愛は、今も、また、これからも変わることはありません。
 このように、イエス・キリストは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

と言われて、ご自身が私たちを、完全で変わることのない愛をもって愛していてくださっていることをお示しになりました。そして、そのことに基づいて、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられます。
 イエス・キリストの方が、先に、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになるほどに愛してくださり、今も変わることなく、その愛をもって愛していてくださいます。そして、私たちは、そのイエス・キリストの愛のうちにとどまるようにと戒められています。ですから、イエス・キリストの愛は、私たちがイエス・キリストの戒めを守ることを条件としているものではありません。
 このことをしっかりと踏まえたうえで、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えを理解しなければなりません。
 そうしますと、確かに、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら

という言葉は条件を表わす文ですが、それは、私たちがイエス・キリストの愛にとどまることができるための根拠を表わすものではないことが分かります。私たちがイエス・キリストの戒めを守ると、イエス・キリストはそれをよしとして認めてくださり、それに報いて、ご自身の愛のうちにとどまらせてくださるということではありません。
 それでは、この、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら

という「条件」をどのように考えたらいいのでしょうか。
 それは、ここでイエス・キリストが用いておられるたとえで言いますと、枝はぶどうの木につながっていて初めて成長し、実を結ぶようになります。また、ぶどうの木につながっている枝は、自然と、成長して実を結ぶようになります。その意味で、枝がぶどうの木につながっていることと、成長して実を結ぶことは、一つのことの裏表です。枝が成長して実を結ぶようになるなら、その枝はぶどうの木につながっています。また、その枝がぶどうの木につながっているなら、成長して実を結ぶようになります。
 私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるということもそのようなことです。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

ということは、「枝が成長して実を結ぶようになるなら、その枝はぶどうの木につながっているのです。」というようなことに当たります。
 ただ、ぶどうの木とその枝の関係は、人格的なものではありませんので、枝が自分の意志でぶどうの木に結びついたり、離れたりすることはありません。しかし、私たちは「神のかたち」に造られている人格的な存在です。自分に与えられている自由な意志によって、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの愛のうちにとどまるべきものです。それで、イエス・キリストは、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられます。
 そして、ちょうど枝がぶどうの木につながっていることと、その枝が成長して実を結ぶようになることは一つのことの裏表であるように、私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまることと、私たちがイエス・キリストの戒めを守ることは、一つのことの裏表です。
 ただし、私たちは枝とは違って、自分の意志でイエス・キリストの戒めを守ります。それは、先週お話ししましたように、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる御霊のお働きによることですが、その御霊の有機的なお働きは、私たちの意志を生かしてくださるものです。それで、それは、確かに私たち自身の意志によることになります。
 このようなことから、イエス・キリストは、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と教えておられるのです。
 このこととの関連でとても大切なことですが、イエス・キリストが、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と言われるときの、イエス・キリストの戒めは、愛に集約され、愛によってまとめられる戒めです。
 イエス・キリストが、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら

と言われるときの「わたしの戒め」は複数形です。イエス・キリストが与えてくださっている「さまざまな戒め」のことを意味しています。
 これに対しまして、12節には、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの戒めが記されています。この「わたしの戒め」は単数形です。
 このことによって、10節で、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら

と言われているイエス・キリストのさまざまな戒めは、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という一つの戒めにまとめられることが示されています。
 これを逆から見て言い換えますと、イエス・キリストのさまざまな戒めは、私たちがお互いに愛し合うときの愛を、具体的に現わすための戒めなのです。
 マタイの福音書22章35節〜40節には、

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 「律法全体と預言者」というのは旧約聖書全体を指していますが、この「律法全体と預言者とが」、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに集約されて、まとめられます。それと同じように、イエス・キリストの戒めも、この二つの「たいせつな戒め」にまとめられます。
 ぶどうの木につながっている枝が成長して実を結ぶことが自然なことであるのと同じように、イエス・キリストの愛のうちにとどまっている私たちが、イエス・キリストの戒めを守ることは自然なことです。なぜなら、そのイエス・キリストの戒めは愛に集約される戒めだからです。イエス・キリストの愛のうちにとどまっている私たちが、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストが愛しておられる兄弟を愛することは自然なことです。
 私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまり、イエス・キリストの戒めを守ることは、私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちで生かしてくださる御霊のお働きによることです。そして、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節に、

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と記されているように、その御霊が私たちのうちに、また、私たちをとおして結んでくださる実は、その第一に挙げられている愛に集約され、愛によってまとめられます。なぜなら、神さまの本質的な特性が愛であるからです。
 ヨハネの手紙第一・4章7節、8節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と記されています。
 イエス・キリストが、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられるときの、イエス・キリストの愛は、先ほど引用しました、ヨハネの手紙第一・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されていますように、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださった愛です。私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるということは、私たちのために死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストの愛のうちにとどまることです。イエス・キリストは、その愛によって、私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出してくださるために十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちのいのちの源となり、私たちを復活のいのちによって生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。
 ぶどうの木につながっている枝が、自然と成長して実を結ぶように、イエス・キリストの愛のうちにとどまっている私たちは、当然、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いに基づく罪の赦しにあずかり、復活のいのちによって生きるようになります。それは、これまでお話ししてきましたように、私たちが、「神のかたち」の本来の姿に回復していただき、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることです。
 神さまは創造の御業によってこの世界をお造りになり、この世界の一つ一つのものに固有の特質をお与えになりました。たとえば、草や木は大地に根を張って成長し、魚は水の中を泳ぎ回ります。草や木のよりどころは大地であり、魚の住み処は水の中です。神さまが創造の御業をとおして与えてくださったそれぞれに固有の特性にしたがって生きることが、真に生きることになります。人間は、「神のかたち」に造られて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして造られています。それで、人間のいのちは、本来、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きるいのちです。そして、それが、永遠のいのちの本質です。その意味で、人間のよりどころと住み処は、造り主である神さまご自身であり、神さまの愛です。
 天地創造の初めに、神さまが人を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださったので、人は「神のかたち」として生きるものとなりました。そのようにして、神さまとの愛にある交わりのうちにあるとき、私たち人間は、ぶどうの木につながっている枝にたとえられる状態にあります。
 しかし、その「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまに対して高ぶって、神さまに対して罪を犯したことによって、ぶどうの木から切り離された枝にたとえられる状態になってしまいました。
 イエス・キリストは、そのように、罪によって造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまっていた私たちを、ご自身の十字架の死による罪の贖いに基づいて、再び神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださったのです。これによって、私たちは、ぶどうの木につながっている枝にたとえられる状態に回復されました。
 ヨハネの福音書15章1節で、

わたしはまことのぶどうの木です。(エゴー・エイミ・ヘー・アムペロス・ヘー・アレーシネー)

と言われたイエス・キリストは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられます。ご自身が永遠にある方であり、永遠に変わることなくある方です。また、何者にも依存されない独立自存の方です。そのような方として、ご自身の契約に対して真実であられますので、契約をとおして約束されたことを必ず成し遂げてくださいます。
 そして、そのとおりに、今から二千年前に、人の性質を取って来てくださって、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目に死人の中からよみがえってくださいました。それによって成し遂げられた贖いによって、私たちをご自身に結び合わせてくださり、ご自身のいのちによって生かしてくださったのです。私たちは「まことのぶどうの木」に接ぎ木された枝となったのです。
 その私たちにとって、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストにつながっているということは、イエス・キリストの愛のうちにとどまることにほかなりません。そして、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストのいのちによって生きるということは、御霊のお働きによって新しく造り変えられて、「神のかたち」の本来の姿を回復していただいたものとして、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの戒めに沿って生きるということを意味しています。このことによって、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えが、私たちの間の現実となります。
 ヨハネの福音書3章16節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されています。また、ヨハネの手紙第一・4章9節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と記されています。
 これらの言葉では、私たちが永遠のいのちをもつようになったのは、神さまの愛によることであるということが強調されています。もちろん、私たちが永遠のいのちをもつようになったのは、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちのいのちの源となってくださったからです。これが、私たちが罪を赦され、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされていることの根拠です。しかし、御言葉は、これらすべてのことが、神さまの愛から出ているということを強調しています。
 神さまは私たちを愛してくださって、私たちのために御子を遣わしてくださいました。御子は、父なる神さまを愛しておられるので、愛において父なる神さまと一つとなって私たちを愛してくださり、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、三日目に死人の中からよみがえってくださいました。―― これが、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という言葉に続いて、

それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

と言われているように、イエス・キリストが父なる神さまの戒めを守って、父なる神さまの愛のうちにとどまっておられるということの、最もはっきりとした現われです。
 贖いの御業は、神さまの愛から出て、神さまの愛によって成し遂げられました。そして、その目的も、神さまの愛が私たちのうちに全うされることにあります。神さまの愛が私たちのうちに全うされるということは、私たちも、神さまの愛によって生きるようになることであり、私たちも、私たちを愛してくださった神さまを愛し、神さまが愛しておられる兄弟を愛するようになることです。
 ヨハネの手紙第一・4章12節、13節には、

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

と記されています。

 


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