(第94回)


説教日:2002年8月25日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうも、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話しします。先週お話ししました、9節の、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

という教えに続いて、10節には、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでは、私たちは、イエス・キリストの戒めを守ることによって、イエス・キリストの愛のうちにとどまるということが教えられています。きょうは、このことを理解するための前提となっている、御霊の「有機的な」お働きについて、ここに記されているイエス・キリストの教えに関わらせて、お話ししたいと思います。
 1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えには、御霊のお働きのことは出てきません。しかし、これに先立つ14章後半と、これに続く15章の終りの部分から16章前半に記されているイエス・キリストの教えの中心主題は、イエス・キリストが父なる神さまの御許から遣わしてくださる御霊と、そのお働きのことです。このように、ぶどうの木とその枝のたとえによる教えは、御霊とそのお働きについての教えに挟まれています。それで、この教えは御霊とそのお働きを背景として語られていると考えられます。


 先週お話ししましたように、9節の、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

というイエス・キリストの戒めは、4節に、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

と記されている、イエス・キリストの戒めを、別の面から言い換えたものです。1節〜16節に記されているイエス・キリストの教え全体が、ぶどうの木とその枝のたとえによって語られていますので、4節に記されている、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という戒めと約束が、この教え全体の基本的な戒めと約束であると考えられます。
 「」は、「ぶどうの木」から切り離されると枯れてしまいます。「」は生きることでも、実を結ぶことでも、「ぶどうの木」に全面的に依存しています。その意味で、「ぶどうの木」とその「」の関係は「いのちの関係」です。この「いのちの関係」は、御子イエス・キリストの贖いの御業によって生み出されています。
 永遠の神の御子が、私たちの贖い主となってくださるために、人の性質を取って来てくださり、私たちの罪の咎をご自身の身に負って十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちの罪を―― 過去の罪だけでなく、これから犯すであろうすべての罪も、完全に贖ってくださいました。そして、栄光のうちに死者の中からよみがえってくださって、私たちの永遠のいのちの源となってくださいました。「いのちの関係」は、私たちが、十字架にかかって死んでくださり、栄光のうちによみがえってくださったイエス・キリストと結び合わされることによって始まっています。
 「ぶどうの木」にたとえられているイエス・キリストは、十字架の死によって贖いを成し遂げられた後、栄光を受けてよみがえってくださったイエス・キリストです。このたとえによって示されている「」を生かしている「ぶどうの木」のいのちは、復活のいのちです。
 この栄光ある(復活の)いのちは、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた人が、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きながら、委ねられた使命を果たすことをとおして獲得すべきものでした。
 しかし、最初の人であるアダムは、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。それによって、人間はもともと与えられていたいのちさえも失い、死の力に捕えられてしまいました。そのために、生まれてくるすべての者は、原罪という罪の性質と、それに対する刑罰を受けなければならないという状態(罪責)を受け継いで生まれてきます。そして、生まれた後には、実際に思いと言葉と行ないにおいて罪を犯します。その一つ一つが刑罰に値します。
 イエス・キリストは、ご自身の十字架の死によって、これらのすべてから、私たちを贖い出してくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その報いとして、栄光を受けてよみがえられました。その栄光あるいのちが復活のいのちです。それは、イエス・キリストが、契約のかしらとして、ご自身の契約の民を、それによって生かしてくださるために獲得してくださったいのちです。
 ですから、復活のいのちとしてイエス・キリストが獲得してくださった栄光あるいのちは、本来は、「神のかたち」に造られている人間が、自らの生涯をとおして神さまのみこころに従うことによって獲得すべきものでした。実際にあったことではありませんので、はっきりしないこともありますが、その場合には、罪を犯さない人間は死ぬことがなかったので、復活という形ではなく、その状態から栄光化されるという形を取っていたことでしょう。―― エノクやエリヤは、肉体的な死を経験しないで、天に引き上げられました。イエス・キリストの場合には、父なる神さまのみこころに従って、委ねられた使命を果たすことが、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死なれることでしたので、栄光あるいのちを獲得することは、死者の中からのよみがえりという形を取ったわけです。
 いずれにしましても、「いのちの関係」は、「」にたとえられている私たちが、「ぶどうの木」にたとえられているイエス・キリストに結び合わされたことによって始まっています。そして、この結びつきの中で、私たちは、イエス・キリストの復活のいのち、すなわち、栄光あるいのちによって生かされています。
 「」にたとえられている私たちが、「ぶどうの木」にたとえられているイエス・キリストに結び合わされたのは、永遠の神の御子でありながら私たちの贖い主となってくださった、イエス・キリストの贖いの御業によっています。そして、この贖いの御業には、二つの面があります。
 一つは、いわば、客観的な面で、贖いの土台というか根拠を据えるもので、イエス・キリストの御業です。それは、イエス・キリストが、今から二千年前に、人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からのよみがえってくださったことです。
 私たちは、この世界が神さまの天地創造の御業によって造り出されたと信じています。この場合、天地創造の御業は、神話やおとぎ話の世界のことではなく、この世界の歴史の初めに、神さまが創造の御業を遂行されたと信じています。つまり、神話やおとぎ話の中で起こったとされていることから、この世界が存在するようになったのではなく、天地創造という「歴史的な」御業―― 歴史を造り出す御業によって、この世界が存在するようになったと信じています。
 それと同じように、私たちは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業も、歴史的な御業であると信じています。それは、神話やおとぎ話の中であったとされるお話ではなく、今から二千年前に成し遂げられた御業です。それで、この贖いの御業は、贖いの効果を発揮して、私たちの現実を変えることができるものなのです。
 贖いの御業のもう一つの面は、いわば、主観的な面で、御霊のお働きです。それは、私たちを、私たちの贖いのために死んでよみがえってくださったイエス・キリストに結び合わせてくださり、その復活のいのちによって生かしてくださっているお働きです。御霊は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになり、その贖いを私たちに当てはめてくださいます。
 御霊は、父なる神さまが御子によってお造りになったこの世界のすべてのものを、それぞれの特性を生かしながら保っていてくださっています。この世界は、約150億光年の彼方に広がる、私たちには気の遠くなるような壮大な世界でありながら、クオークやレプトンというような、私たちの想像を超えた微細な要素から成り立っています。一つ一つのものの成り立ちや、存在するものの間の関わりの複雑さということになりますと、さらに、私たちの理解を越えたものとなります。それでも、そのすべてのものの成り立ちと関わりには、見事な調和があります。それは、神さまがお造りになったこの世界とその中のすべてのものの素晴しさですが、また、それは、この世界をこのようなものとして保っていてくださる御霊のお働きによることです。この御霊のお働きによって、この物質的な世界も、人間がさまざまな法則として発見する、規則性と調和の中に保たれています。
 ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。ここでは、御子が、

その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と言われています。御子の「みことば」をこの世界の一つ一つのものに当てはめて、すべてのものの間に実現しておられるのは御霊です。御霊は、造られたすべてのものを、それぞれの特徴と特性を生かしながら、支えてくださっています。それで、いのちあるものは、そのいのちを燃やして生きることができますし、実を結ぶべきものは、成長して実を結ぶようになるのです。
 これは、創造と摂理の御業における御霊のお働きのことですが、贖いの御業における御霊のお働きも当てはまります。御子が成し遂げられた贖いを私たちに当てはめてくださる御霊は、「神のかたち」として造られている私たちの人格的な特性を無視してお働きになることはありません。御霊は、私たちの人格的な特性を生かしてお働きになりますし、私たちの人格的な特性をとおして、私たちに働きかけてくださいます。御霊は、私たちの思いや考え方を導いてくださるのです。そのような御霊のお働きを、神学的には、「有機的な働き」と言います。―― この場合、「有機的」ということと対比されるのは、「機械的」ということです。
 「神のかたち」として造られている私たちは、自由な意志を与えられていますので、自分のあり方を自分の意志で決めて生きています。また、「神のかたち」である私たちの心には、造り主である神さまの律法が書き記されています。その律法は「愛の律法」で、造り主である神さまを愛し、隣人を愛することにまとめられます。この、「神のかたち」に造られている人間に自由な意志が与えられているということと、その心に神さまの律法が書き記されているということを合わせますと、人間は、「倫理的な主体」であるということになります。私たちは、造り主である神さまの律法を心に記されていて善悪のわきまえをもっているとともに、自由な意志をもっていて、造り主である神さまに対して責任を負っているものであるということです。
 御霊は、このような、私たちの人格的な特性を生かして、私たちの思いや考え方を導いてくださいます。それは、マインド・コントロールのように、私たちの思いや考え方を「操作」によって支配することではありません。また、一時的な影響というようなものでもありません。御霊の私たちに対するお働きは、外側からの「操作」のような、一時的で表面的なものではありません。
 御霊は、まず、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、私たち自身を、本来の私たち、すなわち、「神のかたち」の本来の姿に回復してくださいます。それが、ヨハネの福音書3章3節に記されている、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

というイエス・キリストの言葉の意味するところです。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業は、歴史的な御業です。それは、私たちの現実を変えることのできる御業です。その御業に基づいてお働きになる御霊によって新しく生まれるということは、ただ単に、考え方や感じ方が変わるということではありません。私たち自身が変わるのです。私たちが、御霊の再創造のお働きによって、「神のかたち」の本来の姿に、造り変えられるということです。コリント人への手紙第二・5章7節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されているとおりです。そして、私たち自身が変わる結果、私たちの考え方や感じ方も変わるのです。
 このように、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく、御霊の再創造のお働きは、私たちを、「神のかたち」として、内側から根本的に造り変えてくださるものです。それで、エペソ人への手紙4章22節〜24節に、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と記されています。
 イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく御霊の再創造のお働きは、私たち自身を内側から根本的に造り変えてくださるだけではなく、私たちと造り主である神さまとの関係をも、根本的に新しくしてくださいます。先ほど引用しました、コリント人への手紙第二・5章17節に続いて、18節〜21節には、

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 生まれながらに罪の性質をうちに宿し、実際に罪を犯しているために、神さまの御怒りの下にあった私たちが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いにあずかって、神さまとの和解の関係に入れていただきました。―― 神さまが、御子イエス・キリストによって、私たちのために贖いを備えてくださり、神さまの方から、私たちと和解してくださったのです。
 エペソ人への手紙4章22節〜24節に記されている、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

という言葉と、コリント人への手紙第二・5章20節、21節に記されている、

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

という言葉は、私たちのなすべきこととして記されています。それは、私たちを新しく造り変えてくださる御霊のお働きが、「機械的」ではなく「有機的」なお働きであるからです。
 エペソ人への手紙4章22節に先立つ21節で、

ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。

と言われていますように、まず、私たちがイエス・キリストが教えてくださった教えを理解しなければなりません。私たちの思いと考えを導いてくださって、イエス・キリストの教えを理解させてくださるのは御霊です。そして、その御霊のお働きは「有機的な」お働きです。
 この、御霊のお働きが「有機的な」お働きであるということを、別の面からお話ししたいと思います。
 御霊は、一般恩恵によるお働きによって、ご自身の民だけでなく、すべての人々の思いと考えを支えるとともに、啓発してくださっています。それによって、この世界に、さまざまな文化的な活動がなされています。そのような、御霊による神さまのお働きを信じない人々は、人間が文化を築くのは、人間に能力があるからだと考えています。それは、そのとおりです。「神のかたち」に造られている人間には、歴史と文化を築くための、さまざまな能力が与えられています。
 しかし、その能力を与えられている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、かえって、神さまがお造りになったこの世界を破壊するようになってしまいました。この世界だけでなく、自分たち自身の「神のかたち」としての尊厳性さえも、破壊するようになってしまいました。さまざまな機会にお話ししましたが、人類の歴史の中では、そのことが最終的にはどういう事態になってしまうかということが、一度だけ起こりました。それが、神さまのさばきである洪水によって滅びたノアの時代の状況でした。その後、今日まで、そのような最終的・終末的な状況は起こっていません。それは、ノアの時代以後の世界に与えられている「永遠の契約」によることです。創世記9章8節〜11節には、

神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

と記されています。
 この契約は、16節で「永遠の契約」と呼ばれています。そして、この「永遠の契約」によって保証されているように、人類の歴史は、今日に至るまで、大洪水によるさばきに至るような事態にならないように守られてきました。それには、創世記11章1節〜9節に記されている、バベルでの出来事のような、神さまの摂理的なお働きが関わっていますが、より深いところでは、聖霊の一般恩恵のお働きによって、罪の升目を満たしてしまうことがないように、人々の思いと考えが守られてきたのです。
 このように、今日に至るまで、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人々の思いと考えは守られ、啓発を受け、導かれてきました。しかし、人々は、御霊のお働きを感じてはいません。それは、御霊のお働きが「有機的な」お働きで、人々の思いや考えを生かしてお働きになるからです。
 御霊のお働きが「有機的な」お働きであるということは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを新しく造り変えてくださるときにも、変わることはありません。それで、私たちには、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

というように、また、

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

というように、私たちのなすべきことが示されているのです。
 御霊は、私たちが、このイエス・キリストの教えにしたがって、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨て」て、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことの中で働いてくださいます。また、私たちが、福音の御言葉にしたがって、神さまの側からの「和解」を信じて受け入れることの中で働いてくださって、それを私たちのうちに実現してくださいます。しかし、私たちがそのお働きを「感じる」ことはありません。
 それなら、御霊のお働きがあることは、どうして分かるのかということになります。
 先ほど引用しましたヨハネの福音書3章3節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

というイエス・キリストの教えが記されています。この教えを聞いたニコデモは、4節に記されているように、

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。

と問いかけました。それに対して、5節〜8節に記されているように、イエス・キリストは、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

とお答えになりました。
 ここでは、人が新しく生まれるのは、御霊(の新しい創造の御業)によることが示されています。そして、その御霊のお働きについて、

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

と言われています。ここでは、御霊のお働きは、御霊の主権的なご意志によることで、私たちには、そのすべてを理解することはできないけれど、御霊のお働きの結果は、確かに、私たちの現実として造り出されると言われています。
 私たちは、聖書に記されている福音の御言葉を聞いて、そこにあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じています。私たちが信じることができたのは、御霊のお働きによることです。なぜなら、コリント人への手紙第一・2章14節に、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されているからです。私たちは、その御霊のお働きを感じることはなかったのですが、御言葉は、それが御霊のお働きであると教えています。御霊が、私たちが福音の御言葉を福音として理解することができるように導いてくださったのです。このような御霊の「有機的な」お働きを、神学的には、「御霊の内的照明」と呼んでいます。
 また、前後関係は無視して引用しますが、マタイの福音書12章13節には、片手のなえた人のことが、

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

と記されています。
 これまでお話ししたことをこのことに当てはめますと、イエス・キリストが「その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた」とき、御霊がイエス・キリストの言葉をその人の現実とされました。しかし、その人は、その御霊のお働きを感じたことはなかったでしょう。その人が感じたのは、自分の手に力が戻ってきたということだったはずです。それは、御霊のお働きそのものではなく、御霊のお働きの結果です。
 もう一つ考えたいことは、もし御霊のお働きがなければ、いくらその人が、その手を伸ばそうとしても、伸びることはありません。御霊のお働きがあるので、イエス・キリストの御言葉はその人の現実となり、その人は手を伸ばすことができたのです。その場合、その手を伸ばしたのは、その人自身です。御霊が、その人に、イエス・キリストの言葉を信じる信仰をお与えくださったので、その人は、イエス・キリストの言葉を信じて、自分の手を伸ばしたのです。
 それは、御霊のお働きによることですが、その人は、自分がしていることだけを意識しているはずです。それは、御霊のお働きが「有機的な」お働きであるからです。
 私たちが、聖書に記されている福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じたのは、御霊のお働きによることです。私たちに御言葉を理解し、イエス・キリストを信じさせてくださったのは御霊の「有機的な」お働きですが、それを私たちの側から見ますと、私たちが御言葉を理解し、イエス・キリストを信じたのです。
 そればかりではありません。御霊は、福音の御言葉を信じている私たちを、その御言葉にしたがって、栄光のキリストに結び合わせてくださっています。私たちはそのことを感じることはできません。しかし、私たちが、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

というイエス・キリストの御言葉を信じて、それに従うときに、御霊がそれを私たちの現実としてくださいます。御霊が、私たちに、イエス・キリストの愛を確信させてくださり、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださいます。言い換えますと、もし私たちがイエス・キリストの愛を確信して、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きているなら、それは、御霊が私たちのうちで働いてくださっているからです。
 そして、これに続く、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えは、御霊のお働きによって、イエス・キリストの愛を信じて、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きている私たち―― イエス・キリストの愛のうちにとどまっている私たちに対して語られたものです。私たちがイエス・キリストの戒めを守るときに、すでに私たちにイエス・キリストの愛を確信させてくださり、イエス・キリストの愛のうちにとどまらせてくださっている御霊が、私たちのうちにあって働いてくださり、その戒めを私たちのうちに、あるいは、私たちをとおして実現してくださいます。それを私たちの側から見ますと、私たちがイエス・キリストの戒めを守るということになります。

 


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