(第93回)


説教日:2002年8月18日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうも、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されています、ぶどうの木とその枝のたとえによる、イエス・キリストの教えについてお話ししたいと思います。
 きょう、特に注目したいのは、9節〜11節に、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

と記されているイエス・キリストの教えの中の、9節の、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

という教えです。
 ここでイエス・キリストは、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられます。
 これと同じような戒めは、4節にも記されていて、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

と言われています。4節では、これに続いて、

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

と述べられています。
 1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えの全体が、「ぶどうの木」とその「」のたとえをもって語られているということからしますと、4節に記されている、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という戒めが、ここに記されているイエス・キリストの教えの最も基本的な戒めであると考えられます。そして、この、イエス・キリストのうちにとどまるという、基本的な戒めが与えられたのは、これに続いて、

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

と言われていることから分かりますように、私たちが実を結ぶようになるためです。それは、1節で、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

と言われていますように、「まことのぶどうの木」として、父なる神さまのみこころにかなう実を結ばれるイエス・キリストに結び合わされた「」として、私たちも、実を結ぶようになるということです。
 すでにお話ししましたように、この、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という基本的な戒めは、これに先立って、3節で、

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

と言われていることを受けています。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

というイエス・キリストの言葉は、戒めではなく宣言です。この「わたしがあなたがたに話したことば」の「ことば」(ホ・ロゴス)は、イエス・キリストの教えを表わしています。この「ことば」は単数形で、イエス・キリストが語ってくださった教えの全体が一つのまとまりをもっていることが示されています。イエス・キリストの教えは、ご自身がどのような方であるかということと、ご自身が遂行なさる贖いの御業についての教えであるということで、いわば、主題的なまとまりをもっているのです。
 ですから、3節では、そのようなまとまりをもっているイエス・キリストの「ことば」を聞いて、その「ことば」によってあかしされているイエス・キリストと、イエス・キリストが遂行される贖いの御業を信じて、自らをイエス・キリストにお委ねした者は、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約の民としていただいているということ―― ここでのたとえを用いて言いますと、「まことのぶどうの木」に結び合わされた「」となっているということが語られているのです。
 3節では、イエス・キリストが、弟子たちは、ご自身の「ことば」に基づいて、ご自身を信じているということを認められたので、弟子たちに、

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

と宣言しておられます。
 この点は、私たちの場合も同じです。イエス・キリストが語ってくださった「ことば」は、イエス・キリストの契約の言葉ですが、それは、私たちにとっては福音の御言葉として、新約聖書にまとめられています。私たちが、その「ことば」にしたがって、イエス・キリストが永遠の神の御子であられることと、その永遠の神の御子が私たちの罪を贖ってくださるために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの身代わりになって十字架の上で、私たちの罪に対するさばきを負って死んでくださったこと、そして、私たちを新しいいのちに生かしてくださるためによみがえってくださったことを信じたときに、イエス・キリストは、

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

と宣言してくださっています。
 そして、このことの上に立って、4節の、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という戒めと約束が語られています。


 9節に記されている、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めは、4節に記されている、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という戒めと約束を別の面から言い換えたものです。

わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めは、それに先立って語られている、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

ということを踏まえて与えられています。それは、4節の、

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

という戒めが、3節に記されている、

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

という宣言を踏まえて語られているのと同じです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

というイエス・キリストの言葉も、戒めではなく、イエス・キリストが、すでに、私たちに対してなさってくださっていることを述べているものです。
 この、

父がわたしを愛されたように

の「愛された」という言葉は(不定過去形で表わされていて)、父なる神さまが完全な愛によって御子イエス・キリストを愛しておられることを表わしていると考えられます。そして、

わたしもあなたがたを愛しました。

ということも、これと同じ言葉で表わされています。イエス・キリストは、決して変わることがない、完全な愛をもって、私たちを愛してくださいましたし、愛してくださっています。13節には、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

と記されています。イエス・キリストは、まさに、そのような愛によって私たちを愛してくださいました。
 ガラテヤ人への手紙2章20節後半には、

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

というパウロの告白が記されています。
 これは20節後半に記されていますが、前半では、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言われています。そして、これに続く、後半の、

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

という言葉では、前半の「キリスト」が「神の御子」と言い換えられています。ですから、

私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子

という言葉には、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」方は、なんと「神の御子」であられる、という思いが込められています。
 また、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されています。
 ここで、ヨハネは、

それによって私たちに愛がわかったのです。

と言っています。ということは、それまでは「」が分からなかったということです。もちろん、私たちは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったことを信じる前にも愛を知っていました。しかし、それは、罪の自己中心性に縛られている私たちのうちから生まれた愛です。そのような私たちが考えていた愛です。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったことに現われた愛は、そのような私たちの思いをはるかに越えた愛です。
 たとえば、私たちは、私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったイエス・キリストを信じたときにどう思ったでしょうか。それまで、イエス・キリストのことを勝手に考えていたけれど、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストは、そして、私たちが信じたイエス・キリストは、かつて自分が考えていたイエス・キリストとは、まったく違う方であると感じたはずです。そして、それまではイエス・キリストのことを知らなかったと言うはずです。それと同じことは、私たちに対するイエス・キリストの愛についても言うことができます。
 私たちは、そのイエス・キリストの愛をどのようにして知ったのでしょうか。
 それは、十字架につけられたイエス・キリストのことを、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」、すなわち、福音の御言葉をとおして知ったことによってです。それだけではありません、私たちは、イエス・キリストを信じたことによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、罪と死の力から解放していただき、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしていただいています。それによって始まったイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの中で、イエス・キリストを知るようになることによって、その愛が分かるようになったのです。私たちは、イエス・キリストの愛によって生かされている中で、イエス・キリストの愛を知るようになりました。
 そして、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったことに現われた愛を知ったときに、それまでは愛というものを知らなかったと言うほかはないことも分かったのです。
 このように、ヨハネの福音書15章9節に記されている、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

というイエス・キリストの戒めは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

という、イエス・キリストが私たちを変わることがない完全な愛をもって愛してくださっていることを踏まえて与えられています。
 それは、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストの語ってくださった「ことば」を信じたことによって、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストにつなげられている「」として、イエス・キリストのうちにとどまるということを言い換えたものです。4節で、「ぶどうの木」とその「」のたとえによって、イエス・キリストにとどまることが語られているのは、「」は「ぶどうの木」につながっていなければ枯れてしまうし、「ぶどうの木」につながって、そのいのちによって生かされていて初めて、実を結ぶことができるという、「いのちの関係」を表わしています。これに対して、この9節で、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と言われているのは、その「いのちの関係」が「愛の関係」であることが示されています。
 「いのちの関係」を示すのには、「ぶどうの木」とその「」のたとえが有効です。しかし、9節に記されている「愛の関係」は、「ぶどうの木」とその「」のたとえでは十分に表わすことはできません。この「愛の関係」においては、私たちが「神のかたち」に造られていて、自由な意志をもっている人格的な存在であることが前面に出てきています。それが、10節の、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

というイエス・キリストの言葉に反映しています。
 私たちは、私たちの主であるイエス・キリストが、一方的な愛と恵みによって、私たちを贖いにあずからせてくださって、罪をきよめてくださり、私たちを内側から新しく造り変えて、ご自身の契約の民としてくださったので、イエス・キリストのうちにとどまるのです。それは、結婚によって結ばれた男女が、結婚によって夫と妻になったので、夫として、また妻としての関係の中にとどまっているのと同じです。そして、二人が夫と妻の関係にとどまっているということは、愛によって、自分を与え合い、思いを一つにして歩みをともにするということに現われてきます。
 私たちがイエス・キリストの愛のうちにとどまるということも、それと同じです。イエス・キリストは、愛によって、私たちにご自身のいのちを与えてくださいました。私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、私たちのいのちの源となってくださいました。それは、今から二千年前のことですが、そのことによって表わされた、私たちに対するイエス・キリストの愛は、今日も変わっていません。
 今日、私たちに、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と言われるのは、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストです。私たちは、御霊のお働きによって、このイエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。そのように、イエス・キリストは、私たちにご自身のいのちを与えてくださいました。また、今も、私たちをご自身のいのちによって生かしてくださっています。
 そうであれば、私たちがなすべきことは、イエス・キリストが十字架の上でご自身のいのちをささげてくださって成し遂げてくださった贖いにあずかって、罪をきよめていただくことであるとともに、イエス・キリストの復活のいのちによって、愛のうちに生きることです。それが、イエス・キリストの愛のうちにとどまることの中心です。
 繰り返しになりますが、9節では、

わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒められていますが、それは、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

という事実を踏まえて語られています。ですから、イエス・キリストの愛のうちにとどまるためには、イエス・キリストが私たちを愛してくださった愛を受け止めて、私たちも愛をもって応答することが必要です。そのことについては、今お話ししたとおりです。
 それとともに、9節では、ただ単に、

わたしはあなたがたを愛しました。

と言われているのではなく、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

と言われています。
 これは、父なる神さまと御子イエス・キリストの間で通わされている愛が、私たちの契約の主であられるイエス・キリストと私たちの間の愛のモデルであるということを意味しています。このことも、続く10節において、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

と言われていることに反映しています。
 このように、9節、10節では、父なる神さまと御子イエス・キリストの間の愛が、御子イエス・キリストと私たちの間の愛のモデルであるということが示されています。それは、逆に言いますと、神さまが、その愛によって備えてくださり、御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪をきよめられ、復活のいのちによって生かされて生きている者たちのうちに生み出される愛は、実に、三位一体の神さまの、父なる神さまと御子の愛を映し出すものであるということを意味しているのです。
 それは、驚くべきことですが、御言葉の教えにしたがって考えますと、当然であるとも言えます。
 ヨハネの手紙第一・4章7節、8節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と記されています。
 ここでは、

愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われています。もちろん、この愛は、先ほど引用しました、同じ手紙の3章16節で、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と言われている愛です。実際、4章では、これに続く9節、10節において、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われています。
 この二つの御言葉を合わせて読みますと、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストの愛において、父なる神さまの愛が最も豊かにあかしされているということが分かります。
 そして、先ほど引用しました3章16節の後半も含めて引用しますと、そこには、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。
 また、4章9節、10節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われているのを受けて、11節、12節では、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と言われています。
 私たちのためにご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストの愛において、父なる神さまの愛が最も豊かにあかしされているということは、説明するまでもありません。ヨハネの手紙第一で示されているのは、それだけではなく、私たちも、神さまが愛であられることをあかしする愛に生きるものとされているということです。そのことは、

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

とか、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

というように、戒めの形で示されていますが、それは、愛のない者に向かって愛を求めるのとは違います。イエス・キリストが十字架の上でご自身のいのちをささげてくださって成し遂げてくださった贖いにあずかって、罪をきよめていただくとともに、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるようにしていただいた者のうちに、御霊が本当の愛を回復してくださっているということが踏まえられています。
 ガラテヤ人への手紙5章22節、23節には、

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と記されています。これは、私たちをイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて新しく造り変えてくださった御霊が、私たちのうちに結んでくださる実のことを述べています。
 この「御霊の実」は単数形で、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が全体としてのまとまりをもっていることを示しています。その意味で、「御霊の実」は、御霊によって新しく造り変えていただいた者の人格的な特性としてのまとまりをもっています。そして、その全体的なまとまりをもっている「御霊の実」を特徴づけているのが、最初に挙げられている愛であると考えられます。その愛の中で、「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が生み出されるということです。
 それで、

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という戒めや、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

という戒めは、ただ単に、イエス・キリストの愛や父なる神さまの愛に倣うということでなく、御霊が私たちのうちに生み出してくださっている愛を、具体的な形で現わすように求めているのです。
 そして、私たちが、そのような、お互いの愛に生きるようになるための土台、また、出発点は、イエス・キリストが、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と戒めておられるように、イエス・キリストの変わることのない完全な愛のうちにとどまって生きることです。
 ヨハネの福音書15章12節で、イエス・キリストは、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と述べておられます。これは、実質的に、私たちが互いに愛し合うようにとの戒めですが、これも9節の、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

という戒めを踏まえて語られています。
 イエス・キリストの血による贖いにあずかって、イエス・キリストの契約の民とされている者たちは、主であるイエス・キリストの、変わることのない完全な愛のうちにとどまることによって、そして、イエス・キリストの愛のうちにとどまることの中で、互いに愛し合うようになります。

 


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