(第92回)


説教日:2002年8月11日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜1


 先週は、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえを用いたイエス・キリストの教えのうち、7節に記されている、

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

という祈りに関する教えについて、すでにお話ししたことの補足をいたしました。きょうも、その補足的なお話を続けたいと思います。
 ここに記されているイエス・キリストの教え全体の基礎となっているのは、1節に、

わたしはまことのぶどうの木です。

と記されており、5節で、

わたしはぶどうの木です。

と記されているイエス・キリストの言葉です。
 この二つの言葉は、ともに、エゴー・エイミ ・・・・ という、強調の現在時制で記されています。これらは、イエス・キリストが、出エジプト記3章14節に記されている、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられることに基づいて語られています。―― この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名も、ギリシャ語で表わせば、エゴー・エイミ ・・・・ という、強調の現在時制で表わされます。
 出エジプト記3章14節、15節では、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名が、

わたしはある。

に圧縮され、さらに、「ヤハウェ」に圧縮されています。
 イエス・キリストは、古い契約のもとでの贖いの御業の頂点である出エジプトの贖いの御業を遂行された、契約の神である主、ヤハウェであられます。


 イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることは、これだけでなく、また、これを含めてヨハネの福音書において、エゴー・エイミ ・・・・ という強調の現在時制で表わされている7つの教えだけでなく、新約聖書のそのほかいくつかの個所にも示されています。
 たとえば、ローマ人への手紙10章9節、10節には、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

と記されています。ここでは、人は、誰でも、十字架にかかって死んでくださって、ご自身の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じて、イエス・キリストを主であると告白することによって救われると言われています。
 そして、これを受けて、13節では、

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

と言われています。ここでは、

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。

ということは、イエス・キリストを主であると告白することを言い換えたものです。そして、この、

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。

という言葉は、ヨエル書2章32節からの引用ですが、ヨエル書2章32節では、「主の御名」の「」は、契約の神である主、ヤハウェです。
 このように、ローマ人への手紙10章9節〜13節では、

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。

というヨエルの預言は、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

ということにおいて成就していることが示されています。
 ですから、今お話ししていることとの関連で言いますと、古い契約のもとで、契約の神である主、ヤハウェとして贖いの御業を遂行なさった方は、御子イエス・キリストにほかなりません。
 また、これまで繰り返しお話ししましたが、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、主が永遠に存在される方であり、何ものにも依存しないで存在される独立自存の方であられること、そして、永遠に変わることのない方であられることなどを表わしています。イエス・キリストは、ご自身がまさにそのような方であられるということを教えておられます。
 ヨハネの福音書8章58節には、

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

と記されています。

アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

というイエス・キリストの言葉の、

わたしはいるのです。

という言葉(エゴー・エイミ)は、強調の現在時制で表わされていて、まさに、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名が圧縮された、

わたしはある。

に当たります。
 アブラハムが生まれたのは紀元前二千年頃ですから、イエス・キリストがユダヤ人たちと話しておられるこの時より二千年ほど前のことです。その二千年前にアブラハムが存在するようになる以前に、イエス・キリストは、

わたしはある。

という方であられるというのです。
 これは、イエス・キリストが、アブラハムが存在するようになる前から存在しておられたということと似ていますが、意味はまったく違います。イエス・キリストが、アブラハムが存在するようになる前から存在しておられたということは、イエス・キリストがこの世で二千年以上生きている存在だということを意味しています。―― 私たち日本人が考える神仏はそのような存在です。しかし、それは、たとえば、大きな岩がアブラハムが存在するようになる前からずっとあったというのと同じことです。その岩は、二千年の時の流れの中で崩れ去ったり風化してしまったりしないで、ずっとあったということです。しかし、それだからといって、岩が永遠の存在であるということを意味してはいません。
 イエス・キリストが、アブラハムが存在するようになる前に、強調の現在時制で表わされる、

わたしはある。

という方であられるということは、イエス・キリストが、その二千年を越える時の流れの中で存在し続けられたということではなく、その二千年の時の流れを超越して永遠に存在される方、すなわち、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられるということを意味しています。
 ヨハネの福音書では、続く59節に、

すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。

と記されています。これは、ユダヤ人たちが、イエス・キリストがご自身のことを契約の神である主、ヤハウェであられると主張しておられることを理解し、そのように主張することは神さまの聖さを冒すことであるとして、石打の刑を執行しようとしたということです。もちろん、ユダヤ人たちは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを信じていないから、そうしようとしたのです。
 このように、イエス・キリストは、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

と言われて、ご自身が、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられることを示しておられます。
 それは、ヨハネの福音書8章に記されている記事の文脈では、ユダヤ人たちが、自分たちの父祖はアブラハムであるということを誇っていたことを踏まえています。そのように、アブラハムの子孫であるということを誇りとしていたユダヤ人に対して、イエス・キリストは、ご自身が、アブラハムを存在させ、アブラハムを召してご自身との契約に入れてくださった契約の神である主、ヤハウェであられると言っておられるのです。事実、その前の56節には、

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 そして、その少し前の、39節、40節に、

彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。」

と記されているとおり、もしユダヤ人が、真の、アブラハムの子孫であれば、アブラハムが信じたイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの言葉に聞き従うはずであるということを示されました。
 もちろん、血肉のつながりという点では、ユダヤ人はアブラハムの子孫でした。イエス・キリストが言っておられるのは、血肉のつながりのことではなく、信仰によるアブラハムの子孫こそが、真の、アブラハムの子孫であるということです。ガラテヤ人への手紙3章6節〜9節に、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されているとおりです。
 これらのことから分かりますように、御子イエス・キリストは、古い契約のもとでは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェとしてご自身をお示しになり、贖いの御業を遂行されました。そして、イスラエルの民の父祖であるアブラハムを召し、アブラハムにご自身の契約を与えられて、アブラハムの子孫によって、この世界のすべての民族が祝福を受けるようになると約束してくださいました。創世記22章18節に、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されているとおりです。
 さらに、主は、このアブラハムへの契約に基づいて、モーセの時代に、エジプトの奴隷の身分であったイスラエルの民を心にとめてくださいました。そして、古い契約のもとでの贖いの御業の頂点である出エジプトの贖いの御業を遂行されました。
 その出エジプトの贖いの御業は、古い契約のもとで遂行されたもので、やがて来たるべき贖い主によって遂行される贖いの御業、「まことの出エジプト」としての贖いの御業の地上的なひな型でした。
 地上的なひな型としての出エジプトの贖いの御業においては、過越の小羊が身代わりとなって死んだことによって、イスラエルの民の初子は、地上の帝国であるエジプトの地にいたすべての初子を撃つという主のさばきを免れました。そして、イスラエルの民は、エジプトの奴隷の身分から解放されました。さらに、主がご臨在される幕屋を中心として住まう、主に仕える祭司の国とされました。これは、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

というアブラハムへの契約の約束によることで、イスラエルの民が、アブラハムの子孫として、「地のすべての国々」が祝福を受けるようになるために、主の御前で祭司の国としての使命を果たすようになるためでした。
 その祭司の国としての使命の根本は、主がご自身の契約において約束してくださっている贖いの御業にあずかって、主との愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。そして、そのことの中で、「地のすべての国々」に向けて、主の愛によって備えられ、契約によって保証されている贖いの恵みをあかしすることにあります。
 すでにお話ししてきましたように、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えにおいて語られている、「実を結ぶこと」は、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにおいて、この祭司の国としての使命を果たすことの中で実現します。
 古い契約のもとにある地上のひな型としての幕屋においては、民の罪のために、絶えず動物のいけにえがささげられていました。それによって、主のご臨在の御許に近づくためには、主が備えてくださるいけにえの血によって罪をきよめられる必要があることが教えられていました。しかし、それらのいけにえは、地上的なひな型で、イスラエルの民の罪をきよめて、内側から新しく造り変えることのできるものではありませんでした。ヘブル人への手紙9章9節に、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

と記されているとおりです。
 これに対して、その本体である「まことの出エジプト」においては、約束の贖い主として来てくださった御子イエス・キリストが、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださり、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださいました。ヘブル人への手紙10章10節に、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されており、19節、20節に、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と記されているとおりです。

大胆にまことの聖所にはいることができる

というのは、神さまの栄光のご臨在の御許に近づき、その御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかることができるということです。これは、神さまが与えてくださっている契約の祝福の中心です。そして、この神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることの中で、祭司の国としての使命が果たされていきます。
 このように、永遠の神の御子イエス・キリストは、古い契約のもとにおいては、契約の神である主、ヤハウェとしてご自身をお示しになり、地上的なひな型としての出エジプトの贖いの御業を遂行されました。そして、時いたって、この永遠の神の御子ご自身が、私たちの罪を贖ういけにえとなるために人の性質を取って来てくださり、十字架の上でご自身をおささげになりました。そして、私たちを新しく栄光あるいのちに生かしてくださるために、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 ヨハネの福音書15章1節において、イエス・キリストが、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

と言われたのは、イエス・キリストが、「農夫」にたとえられている父なる神さまのみこころにかなった実を結ばれる、「まことのぶどうの木」であられることを示しています。そのことは、イエス・キリストが、父なる神さまのみこころにしたがって、このような贖いの御業を成し遂げられたことによって、確かな現実となっています。
 私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上でご自身をいけにえとしておささげになったことによって成し遂げられた贖いにあずかって、主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしていただいています。そして、主のご臨在の御前で仕える祭司の国としての使命に生きるものとしていただいています。そのことを、これまでお話ししてきた、イエス・キリストの贖いの御業との関わりで見るとどうなるでしょうか。
 十字架においてご自身をいけにえとしておささげになって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストは、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それによって、ご自身につながる私たちを、ご自身の復活のいのちによって生かしてくださるためです。イエス・キリストは、その後、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。それは、私たちの大祭司として、天にあるまことの聖所に入られたということを意味しています。ヘブル人への手紙9章24節に、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と記されているとおりです。
 そのようにして、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、父なる神さまの御許から聖霊を注いでくださいました。使徒の働き2章33節に、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されているとおりです。
 これによって、イエス・キリストは、新しい契約の共同体としての教会を、ご自身のからだとして生み出してくださいました。エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されており、2章20節〜22節に、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されているとおりです。
 これは、神さまの戒めに沿ってではありますが、人の手によって建てられた建物である幕屋や神殿が、古い契約のもとにあった、地上的なひな型であったのに対し、栄光の主であられるイエス・キリストが御霊によって建てられた、ご自身のからだとしての教会が、その地上的なひな型の本体であることを意味しています。
 また、イエス・キリストご自身は、今も、父なる神さまの右の座に着座しておられて、私たちの大祭司として、父なる神さまの御前において仕えておられます。
 ヘブル人への手紙4章14節〜16節には、

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。また、7章24節〜27節には、

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

と記されています。
 今お話ししていることとの関連で大切なことは、大祭司には、その大祭司に連なる祭司たちがいるということです。そして、十字架においてご自身をいけにえとしておささげになって、罪の贖いを成し遂げてから、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストを大祭司として戴く祭司は、イエス・キリストの血によって贖われた新しい契約の民としての私たちです。ペテロの手紙第一・2章4節、5節に、

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

と記されているとおりです。
 言うまでもなく、この、

主のもとに来なさい。

という言葉は、私たちが主のご臨在の御許に近づくことを意味していますが、それ派、また、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを意味しています。
 ここでは、イエス・キリストが「生ける石」〈単数〉であると言われています。これは、イエス・キリストが「生きておられる人格的な方」であるということだけでなく、十字架の死をもって罪の贖いを成し遂げられてから栄光のうちに「よみがえられた方」であるということも意味しています。さらに、そのような方として、ご自身の契約の民を、ご自身の復活のいのちで「生かしてくださる方」―― ご自身との愛にあるいのちの交わりに「生かしてくださる方」であることをも意味しています。
 ここでは、また、私たちが「生ける石」〈複数〉であると言われています。これは、私たちが「生きている人格的な存在」であるということだけでなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされていることによって「生きているもの」であることも表わしています。
 ちなみに、ここで、

主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。

と言われていることは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章20節〜22節で、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と言われていることに当たります。
 このように、イエス・キリストを礎石として、使徒と預言者、すなわち、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の御言葉を土台として、神さまがご臨在してくださる聖所として建て上げられている私たちが、地上のひな型としての祭司の国の本体です。そのことが、先週も引用しました、ペテロの手紙第一・2章9節に、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

と記されています。
 私たちは、イエス・キリストを大祭司として戴く、新しい契約の祭司です。イエス・キリストは、天にあるまことの聖所、すなわち、父なる神さまの右の座に着座しておられますが、御霊によって、私たちの間にご臨在してくださっておられます。この御霊のお働きによって、私たちは、天にあるまことの聖所につながる祭司とされているのです。
 このことを見るとき、私たちは、イエス・キリストを大祭司として戴く、新しい契約の祭司の務めの広がりを覚えさせられます。私たちは、自分たちが遣わされている社会に根差している祭司として、この社会のためにとりなし祈り、神さまの愛によって備えられた贖いの恵みをあかしする使命を、主から委ねていただいています。
 それと同時に、エペソ人への手紙6章18節に、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されているように、私たちは、地上に存在する新しい契約の共同体、キリストのからだである教会における信仰の家族のためにとりなし祈るとともに、国家や社会の隔たりを越えて、すべての聖徒たちのためにとりなし祈る祭司としての務めに召されています。―― それは、父なる神さまの右の座において、ご自身の契約の民のために絶えずとりなしてくださっている大祭司、「まことのぶどうの木」であられる方に連なる「」としての働きでもあります。

 


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