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説教日:2002年8月4日 |
ヨハネの福音書15章1節の、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 というイエス・キリストの言葉は、古い契約のもとにあった地上のひな型としてのイスラエルの民が、神さまの御前によき実を結ぶことがなかったこととの対比で語られたと考えられます。これによって、イエス・キリストは、ご自身が父なる神さまの御前によき実を結ぶ「まことのぶどうの木」であることを示しておられます。 このことは、イスラエルの民に委ねられている使命と関わっています。出エジプト記19章5節、6節には、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という主の言葉が記されています。 これは、契約の神である主の一方的な恵みによって、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民とされたイスラエルの民の使命を示しています。今お話ししている祈りとの関連で二つのことに注目したいと思います。 一つは、 あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 と言われていることです。 この「宝」と訳された言葉(セグラー)は、その人にとって特に大切な所有物を意味しています。それで、新改訳は「宝」と訳しています。これによって、イスラエルの民が主にとって大切な所有、すなわち「宝」の民となったことが示されています。 これに続いて、主が、 全世界はわたしのものであるから。 と言っておられることを見ますと、このことが、どれほど重い意味をもっているかに気づかせられます。 全世界はわたしのものである と言われていますように、この世界のすべてを所有しておられる主には、何の不足もありません。それ以上に、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる主は、ご自身で無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられます。そのような主が、イスラエルの民のことを「わたしの宝」、ご自身にとって特に大切な所有の民であると言われるのです。 申命記7章6節〜8節には、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されています。ここに出てくる あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。 の「宝」も同じ言葉(セグラー)です。 イスラエルの民が、主の大切な所有の民、「宝の民」とされたのは、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 と言われていますように、イスラエルの民にどこかよいところがあったからではありません。むしろ、「地の面のすべての国々の民」のうちで最も数が少なく、しかも、エジプトの奴隷となっていた民でした。 イスラエルの民が、主の大切な所有の民、「宝の民」とされたのは、 主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから と言われていますように、主の一方的な愛によることですし、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約の約束によることでした。 主の契約の民は、主にとって大切な所有の民です。まさに、「宝の民」です。普通、「宝」といいますと、「宝」そのものに価値があります。しかし、主の契約の民の場合には、契約の民そのものには価値やよい資質はありませんでした。何のよさや価値のないものを、主が愛してくださったので、主の大切な「宝の民」となったのです。 このことは、私たちイエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民に、そのまま当てはまります。私たちは神さまに対して罪を犯して神さまを造り主としてあがめることをしない者でしたし、自分自身の罪の罪過の中に死んでいる者として、神さまの聖なる御怒りの下にありました。私たち自身の資質が神さまから引きだすのは、聖なる御怒りとさばきだけです。しかし、神さまはそのような私たちを愛してくださって、罪の中に死んでいた私たちを、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、罪と死とさばきの下から贖い出してくださり、ご自身の大切な所有の民としてくださいました。ですから、神さまの愛が、そして、神さまの愛だけが、私たちをご自身にとって大切な所有の民としてくださっているのです。 エペソ人への手紙2章1節〜6節には、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。 主の契約の民の第一にして根本的な使命は、このような主の一方的な愛と恵みを受け止めて、その愛のうちに生きることです。そして、それが、「神のかたち」に造られている人間にとってのいのちの本質です。もし私たちが、このような神さまの愛を受け止めていないとしたら、それ以上、主の契約の民として、主に仕えることや、それをとおして、何らかの実を結ぶというようなことはできません。 今お話ししている祈りは、このような、私たちをご自身にとって大切な所有の民としてくださっている主の愛を受け止めて、主の愛のうちに生きている者としての私たちの、神さまへの応答であり、語りかけです。私たちの祈りにおいて、祈る私たちを支えてくださっているのは、私たちをご自身にとって大切な所有の民としてくださっている主の愛です。 もし、この愛がなければ、私たちは、自分の罪と罪過の中に死んでいる者でしたし、聖なる御怒りの下にある者でしたから、神さまに向かって顔を上げることもできなかったことでしょう。むしろ、死と滅びの予感の下に、神さまの御許から逃げ去っていたことでしょう。そして、自分にとって都合のよさそうな偶像を作り上げたり、おまじないやお払いでそれらの恐れを消そうとしたりしてしまっていたはずです。それは、御子イエス・キリストにある神さまの愛に支えられて、その贖いの御業に基づく神さまとのいのちの交わりの中で、神さまに語りかける祈りと何と違ったものでしょうか。 先ほどの、出エジプト記19章5節、6節に記されている、主の一方的な恵みによって、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民とされたイスラエルの民の使命につて注目したい、もう一つの点があります。 イスラエルの民は、「地の面のすべての国々の民のうちから」選ばれて、主にとって大切な所有の民とされました。それは、この世界をお造りになった方として、すべてのものを御手に収めておられる主の「宝の民」とされているということです。しかも、主は、わざわざイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出して、ご自身の契約の民とされました。それは、イスラエルの民に何らかの価値やよい資質があったからではありませんでした。ただ、主がイスラエルの民を愛されたからです。 この点に関して一つの問題があります。それは、このことは、神さまがイスラエルの民だけを愛されたということを意味しているかということです。 旧約聖書を読んでいきますと、何となく、神さまはイスラエルの民だけを愛されたと言われているような気がします。たとえば、先ほど引用しました申命記7章6節では、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。 と言われています。 確かに、主は、イスラエルの民を、「地の面のすべての国々の民のうちから ・・・・ 選んでご自分の宝の民とされ」ました。しかし、それは、より広い神さまの救いのご計画と、救いの御業の歴史の流れの中にあってのことです。神さまの救いのご計画と御業の歴史を見失ってしまいますと、イスラエルの民が、古い契約の下での主の契約の民として選ばれたことの意味も分からなくなってしまいます。 神さまは天地創造の初めから、人間を、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、「神のかたち」にお造りになりました。これまでの言葉を用いますと、人間は、初めから、天と地をお造りになってそのすべてをを所有しておられる神さまの「宝の民」となるように、「神のかたち」に造られていたのです。そして、人間が神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落し、いのちの交わりを失ってしまった後には、神さまは、贖い主による贖いの御業をとおして、人間を「神のかたち」の本来の姿に回復し、ご自身との愛にあるいのちの交わりを回復してくださいました。それによって、神さまは、人間を再びご自身の「宝の民」としてくださったのです。 そのことのために、主は、古い契約の下で、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、「地の面のすべての国々の民のうちから ・・・・ 選んでご自分の宝の民とされ」ました。それによって、主は、ご自身が備えてくださっている救いが、人間の側の価値や資質のよさによらないで、ただ、神さまの一方的な愛によって備えられていること、そして、その救いの方法としては、過越の小羊の血による贖いによるものであることを示してくださったのです。 イスラエルの民が選ばれたのは、「地の面のすべての国々の民」に向けて、このような、神さまの救いに表わされている愛と恵みをあかしするためでした。その意味で、イスラエルの民は、「すべての国々の民」のために祭司の国として、主の御前に仕えるように召されたのです。このように、イスラエルの民は特別な使命を委ねられた民として選ばれていました。そして、主の愛にあずかっていました。しかし、それは、ほかの国々の民に対する神さまの愛と恵みの先駆けとして、それをあかしするものであったのです。 私たちも、御子イエス・キリストの血によって確立されている新しい契約の民として、これと同じ使命を委ねられています。ペテロの手紙第一・2章9節に、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 と記されているとおりです。 先ほどお話ししましたように、このような使命を果たすためには、何よりもまず、主の契約の民であるイスラエルの民自身が、主の一方的な愛によって成し遂げられた贖いの御業にあずかっていなければなりません。そして、神さまの愛に包まれて、神さまとのいのちの交わりの中に生きていなければなりません。 イスラエルの民が、古い契約の下で祭司の国としての使命を委ねられていたということ、そして、私たちが新しい契約の民として、祭司の国としての使命を委ねられているということとの関わりで、すでにある形でお話ししたことですが、改めて、注意しておきたいことがあります。 イスラエルの民は、自分たちの価値や資質のよさによってではなく、神さまの一方的な愛によって、神さまにとって大切な所有の民としていただきました。その神さまの愛には、何の駆け引きもありません。イスラエルの民をご自身の「宝の民」としてくださるために、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったのは、イスラエルの民から何らかの「見返り」があることを計算してのことではありません。繰り返しになりますが、天と地をお造りになって、そのすべてを所有しておられる神さまにとっては、そのような「見返り」はいっさい必要ではありません。 このように言いますと、やはり、一つの疑問が湧いてきます。もう一度、出エジプト記19章5節に記されている、主の言葉を見てみましょう。そこには、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 と記されています。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、(あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。) と言われているのであれば、イスラエルの民が主にとって大切な所有の民となるのは、条件付きのことなのではないでしょうか。あるいは、主は、イスラエルの民がご自身に従うようになるという「見返り」を求めて、イスラエルの民をご自身の所有の民とされたのではないでしょうか。 これに対しては、この、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 という言葉の冒頭には「今」という言葉があることに注目したいと思います。実際には、これは、「そこで今」(ウェアター)で、その前に述べられていることを受けて、「そこで」とか「そういうことだから」というような意味合いを伝えています。 そして、その前の4節では、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 と言われています。 この言葉に示されていますように、すでに、主は、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきを執行されました。そして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださっておられます。それは、主の一方的な愛と恵みによってなされた贖いの御業に、イスラエルの民をあずからせてくださったということです。まさに、 あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 と言われていますように、イスラエルの民は、ただ、その贖いの御業にあずかっただけです。 このように、イスラエルの民が主の契約の民となるために必要な贖いの御業は、すべて主が、ご自身の愛と恵みによって成し遂げてくださいました。さらに、 わたしのもとに連れて来た ということは、イスラエルの民をご自身のご臨在の御前に立たせてくださったということを意味しています。 そのことを受けて、5節では「そこで、もし」と語られているのです。それで、この、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら という言葉は、私たちが普通に考えるような意味での条件を述べるものではありません。これは、主の一方的な愛と恵みによって、また、それによってなされた贖いの御業によって、すでに、主のご臨在の御前に立たせていただいているイスラエルの民に、応答を求める言葉です。 それは、祭司の国として召されたイスラエルの民が、主のご臨在の御許に備えられている贖いの恵みを信じて歩むことにおいて、主の愛と恵みをあかしするという形での応答です。また、それは、契約の主の御言葉の上に建てられ、そこにご臨在される主を中心とした国家のあり方において、やがて来たるべきメシヤの御国をあかしする、地上のひな型としての応答です。 主は、天と地とその中にあるすべてのものをお造りになって、それを所有しておられます。しかし、それらのものの中で、人格的に、また、主への愛において、主に応答するのは誰でしょうか。それは、本来、「神のかたち」に造られていて、ご自身との愛にある交わりに生きるものである人間にほかなりません。 その主への愛による応答の声は、人間の罪による堕落の後に、かき消され、罪と死の影におびえた応答だけが聞こえるようになってしまいました。創世記3章9節、10節に、 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 と記されているとおりです。 しかし、主への愛による応答の声はまったく途絶えてしまったわけではありません。主の一方的な愛と恵みに基づくみこころによって約束された贖い主の約束を信じて、主に応答をした人々が起こされました。すでに、創世記4章25節、26節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。 この「主の御名によって祈る」という訳は意訳で、この言葉は、「主の御名を呼ぶ」とも訳すことができるものです。それで、これは、祈りを含んだ、広い意味での礼拝における主への応答を示しています。 その応答の声も、歴史の流れの中で、しばしば、かき消されそうになりましたが、主は、やはり、その愛と恵みによって「残りの者」を残してくださり、贖い主への約束とその約束への信仰を受け継ぐ人々の応答を支えてくださいました。創世記12章7節、8節には、 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。 と記されています。 そして、この出エジプトの時代には、いよいよ、一つの民族が、祭司の国として召されて、主のご臨在の御前に立たせていただいているのです。そのイスラエルの民に対して、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 と言われています。 ですから、この言葉だけを見ますと、これは一般的な意味での、条件付きの言葉であるかのように見えます。しかし、この言葉が語られている、全体の文脈を視野に入れて、その流れの中で見てみますと、これは、イスラエルの民に、自らの意志による応答、主の愛と恵に対する応答を促す言葉であることが分かります。 そして、人類の歴史の初めのセツの時代の人々のように、また、主の栄光のご臨在に触れたアブラハムのように、神である主の愛と恵みに触れた者にとっては、主に対する愛において応答することは、もっとも自然なことなのです。言うまでもなく、今お話ししています祈りも、主に対する私たちの応答の一つの形です。 このように、イスラエルの民は、神さまの一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、神さまのご臨在の御前に立つものとされています。その上で、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 という主の御言葉を聞いています。そして、これは、主がイスラエルの民に主への愛による応答を求めるものであることを意味しています。イスラエルの民は主にとっての大切な所有であり「宝」です。しかし、それは物言わぬ品物ではありません。主との愛にあるいのちの交わりに生きるという意味での「宝」なのです。 このように見ますと、これと同じようなことが、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えにも見られることが分かります。 3節には、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、ご自身、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、私たちを、その血をもって確立してくださった新しい契約の民としてくださっていることを示しています。ぶどうの木とその枝のたとえを用いて言いますと、すでに、私たちを、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストにつながる「枝」としてくださっているということです。それは、イエス・キリストの一方的な愛と恵みによることです。 そして、このことを受けて、4節では、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 と言われています。 ですから、私たちがイエス・キリストのうちにとどまることは、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストにつながる「枝」としていただいているものとして、もっとも自然な信仰の応答なのです。さらに、今お話ししている祈りも、そのような応答の一つの形です。 また、9節、10節には、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と記されています。 ここに記されているイエス・キリストの戒めも、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストにつながる「枝」としていただいているものに、もっとも自然な信仰の応答を求めているものです。 |
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