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説教日:2002年7月28日 |
このこととの関連で、神さまの契約について、確認しておきたいことがあります。 私たちは、20世紀の時代を越えて21世紀に生きています。そのような私たちの発想では、「契約」という言葉は、何らかの事業を進めていくうえでの取引や、物の売買に関わる取引のための契約を思い出させます。それで、神さまの契約のことも、そのようなものではないかという気がしてしまいます。実は、これが、神さまの契約についての理解を根本的に歪めてしまう原因ではないかと思われます。 神さまの契約を事業を進めるうえでの取引関係のモデルで考えると、神さまの御言葉についての理解や、信仰のあり方、そして、きょうお話しする祈りも、取引のような意味合いをもったものとなるように歪められてしまいます。神さまの契約を考えるうえでの本来のモデルは、そのような取引関係ではなく、「神のかたち」に造られている男女の愛にある交わりとしての結婚関係です。言うまでもなく、結婚の関係は取引の関係ではありません。 神さまの契約を考えるうえでのモデルが結婚の関係であることは、聖書の中で、しばしば、神さまが、ご自身の契約の民との関係を、結婚の関係にたとえておられることによって分かります。もっとも、それは、ほとんどの場合、預言者たちが、イスラエルの民が主の契約に対して不真実であることを糾弾するために用いられたたとえです。 エペソ人への手紙5章31節、32節には、 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 と記されています。 それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。 というのは、最初の人アダムがその妻となるエバと出会った時のことを記す、創世記2章24節からの引用です。これにはいろいろなことが関わっていますが、今お話ししていることとの関わりでは、創造の御業によって確立された、神さまと「神のかたち」に造られている人間の契約関係は、同じく「神のかたち」に造られている男女の結婚の関係をモデルにして理解されるべきことを示しています。 ある人が、結婚するカップルに向かって、「これまでは、あなた方の愛が二人の(恋愛)関係を支えてきました。しかし、これからは、この結婚(の関係)が、あなた方の愛を支えるのです。」というようなことを言いました。まさにそのとおりです。神さまの契約は、神さまのご臨在が神さまの契約の民とともにあることを約束し、保証してくださるものです。そして、契約の民である私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることを支えてくれるとともに、より豊かな愛にあるいのちの交わりに入るようになることを目的とするものです。このことを踏まえておきませんと、神さまの契約に対して根本的な誤解が生じてきますし、契約の枠の中で与えられている律法の理解や、信仰の姿勢なども歪んだものになってしまいます。 これらのことを踏まえたうえで、7節に記されています祈りについてのイエス・キリストの教えを見てみましょう。 すでにお話ししたことですが、7節初めの、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら というイエス・キリストの言葉は、4節、5節に、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と記されていますイエス・キリストの言葉を受けています。4節、5節では、私たちがイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるということが記されています。 それが、7節では、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら というように、私たちがイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるという代わりに、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまると言われています。 このような言い換えがなされているのは、この7節では、祈りのことが語られているからであると考えられます。それは、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまっていることが、私たちの祈りにとっては決定的に大切なことであるということを意味しています。 この7節で、イエス・キリストが「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言われるときの「ことば」は、レーマの複数形のレーマタです。3節では、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われています。 この3節で、イエス・キリストが「わたしがあなたがたに話したことば」と言われるときの「ことば」は、単数形のロゴスです。これによって、イエス・キリストの教えが全体として一つのものであることを表わしています。イエス・キリストの教えは、すべて、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストがなされた贖いの御業に関する教えとしてのまとまりをもっており、しかも、全体としての調和の中にあります。それで、それが単数形のロゴスで表わされています。 これに対して、7節のレーマタは、その時その時にふさわしく語られる言葉というような意味合いを伝えていると考えられます。それが複数形であることは、やはり、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」の総体を指していると考えられます。 イエス・キリストが公生涯の初めに経験された荒野の試みを記すマタイの福音書4章3節、4節には、 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 と記されています。ここでイエス・キリストは、申命記8章3節に記されています、 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。 という御言葉を引用しておられます。この「神の口から出る一つ一つのことば」の「ことば」がレーマです。この場合のレーマは単数形ですし、「一つ一つのことば」の「一つ一つの」と訳された言葉も「すべての」とも訳すことができますので、神さまの御言葉の全体をひとまとめとして見たものとする見方もあります。しかし、申命記8章3節の文脈や、「神の口から出る」ということとのつながりからは、やはり、その時その時にふさわしい「一つ一つのことば」ということを意味していると考えられます。 そうしますと、ヨハネの福音書15章3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われているときの「ことば」(単数形のロゴス)と、7節で、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら と言われているときの「ことば」(複数形のレーマタ)の関係をどのように考えたらいいのでしょうか。 すでにお話ししましたように、3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われているときの「ことば」(単数形のロゴス)は、イエス・キリストの教え全体を指しています。そして、この「ことば」によって弟子たちがすでに「きよい」とされているのは、イエス・キリストがご自身の血によって確立される新しい契約の民とされているという意味において、「きよい」と宣言されていると考えられます。 古代オリエントの契約の考え方では、契約文書と契約は一つのものでした。契約文書を破棄することは、契約を破棄することを意味していました。イエス・キリストが語ってくださった「ことば」(単数形のロゴス)は、いわば、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった契約の文書に当たるものです。古い契約のもとでのひな型である聖所の奥にあった至聖所には契約の箱が置かれていました。その契約の箱の中には神さまの契約文書である二枚の「石の板」が納められていました。神さまは契約の箱の上蓋である「贖いの蓋」の上のケルビムの間にご臨在されて、モーセをとおして、イスラエルの民に語ってくださいました。それと同じように、イエス・キリストは、その「ことば」(単数形のロゴス)に基づいて、ご自身の民の間にご臨在してくださいます。 14章23節には、 だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 この場合の「ことば」も単数形のロゴスです。そして、この「ことば」が守られるところに、イエス・キリストと父なる神さまのご臨在があるということが示されています。この、イエス・キリストと父なる神さまのご臨在が私たちとともにあるということが、神さまの契約の祝福の中心です。そのご臨在の御許で、神さまとの愛にあるいのちの交わりが現実のものとなるのです。 このように、15章3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われているのは、弟子たちがすでに、イエス・キリストの契約の民とされているということを示しています。それは、「枝」が「ぶどうの木」に結び合わされているように、弟子たちもイエス・キリストに結び合わされているということを意味しています。この結びつきは、一般に「いのちの関係」と呼ばれていますように、根本的で、決定的な関係です。この関係は、イエス・キリストの「ことば」(単数形のロゴス)に基づいて成り立っている契約関係です。 新しい契約の主であるイエス・キリストの「ことば」(単数形のロゴス)に基づいて、イエス・キリストとの契約関係が成り立っているときに、私たちは、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きることができます。そして、そのイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりを保つために、4節、5節に記されています、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 という戒めが与えられているのです。 ですから、まず、3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われている、イエス・キリストとの根本的で決定的な結びつき このように見ますと、イエス・キリストの「ことば」(単数形のロゴス)は、私たちの契約の主であられるイエス・キリストと私たちの間の契約関係の根底にあってそれを支えているような意味をもっています。そして、それによって成り立っている契約関係の中で、私たちは、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きています。 そのイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの中で、その時その時にふさわしい「ことば」(複数形のレーマタ)が私たちに与えられます。それは、ばらばらで断片的なものの寄せ集めではありません。すでにお話ししましたように、それ自体が全体的なまとまりをもっています。そして、それはイエス・キリストが語ってくださっている「ことば」(単数形のロゴス)に基づいており、その全体と一致し調和するものです。その意味では、私たちのうちにとどまっている「ことば」(複数形のレーマタ)は、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」(単数形のロゴス)が、私たちの生きている具体的な状況の中で語られたもの、あるいは、その具体的な状況にある私たちに向けて語られたものと言うことができます。 ですから、7節で、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら と言われていることは、私たちが、すでに、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」(単数形のロゴス)を信じて受け入れており、イエス・キリストとの契約関係に入れていただいているということの上に立っています。 繰り返しになりますが、私たちがイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまるということは、イエス・キリストご自身が私たちのうちにとどまってくださることを言い換えたものです。実際には、イエス・キリストご自身が私たちのうちにとどまっていてくださるときに、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまるようになるのです。それで、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら と言われていることにおいて、いちばん大切なことは、それに先だって、私たちと、私たちの契約の主であられるイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりがあって、私たちがイエス・キリストの愛と恵みに包まれており、私たちもイエス・キリストを愛して生きているということです。そのことの中で、イエス・キリストの「ことば」(複数形のレーマタ)が私たちのうちに豊かに宿るようになるのです。 このようにして、イエス・キリストの「ことば」(複数形のレーマタ)が私たちのうちに豊かに宿るようになるということは、私たちが、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちにあって、イエス・キリストと心を合わせるようになるということを意味しています。 15節には、 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 イエス・キリストが御父から聞いたことをみな知らせてくださったことによって、イエス・キリストの「ことば」(複数形のレーマタ)が私たちのうちに豊かに宿るようになりました。それによって、私たちは、イエス・キリストから「友」と呼ばれるほどに、イエス・キリストと心を合わせるものとされています。それが、具体的には、7節で、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 と言われていますように、私たちの祈りとなって現われてきます。 新改訳の「何でもあなたがたのほしいもの」という訳には、少し問題があります。ここでは、これは、「何でもあなた方の願うこと」で、イエス・キリストの「ことば」に導かれ、イエス・キリストと心を合わせて願うことのことを意味しています。それで、これは、あれが欲しい、これが欲しいというように欲しがるもののことではありません。 お気づきのことかと思いますが、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 というイエス・キリストの言葉は、ヨハネの手紙第一・5章14節、15節に、 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。 と記されていますことと同じことを述べています。 この二つの言葉を合わせて見ますと、「神のみこころにかなう願い」とは、私たちがイエス・キリストのうちにとどまっていて、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまっているときになされる、イエス・キリストの「ことば」に導かれた祈りのことであることが分かります。 しかし、ここでも、私たちが心に留めておかなければならないことがあります。それは、これまでお話ししてきたことから明らかであると思いますが、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 というイエス・キリスト教えの、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら ということを、私たちの祈りを神さまに聞いていただくための条件や方法、あるいは手段であるかのように考えてはならないということです。 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら という言葉は、私たちが、イエス・キリストの契約に基づく、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの中で、イエス・キリストと心を合わせるようにして生きていることを示しています。それは、神さまの契約の祝福の中心が私たちのうちに実現しているということを意味しています。そして、このイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりは、決して、手段化されてはならないものです。 ですから、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 という言葉によって、イエス・キリストが教えておられるのは、私たちが、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら という言葉に示されているように、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの中で、イエス・キリストと心を合わせるようにして生きているなら、そこからイエス・キリストの「ことば」に導かれた祈り、神さまのみこころにかなう祈りが生まれてくるということなのです。 そして、そのような祈りを、神さまはお聞きくださるということが教えられています。 私たちの祈りは、私たちが、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」(単数形のロゴス)によってあかしされている、イエス・キリストご自身とイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、イエス・キリストの契約の民としていただいているということの上に成り立っています。そのようにして、「枝」が「ぶどうの木」につながっているように、イエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている私たちが、子であることの確信をもって、父なる神さまに向き合うことが、私たちの祈りの初めであり、私たちの祈りにとって最も大切なことです。なぜなら、これは、神さまの契約の祝福の中心である、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることの具体的な現われだからです。 このように、私たちの祈りにおいて、大切なことは、私たちが、神さまの契約によって約束され、保証されている神さまのご臨在の御前に立っているということです。 ある人の娘がまだ1歳の時に、夜中に突然、40度を越える熱を出してしまったことがありました。馴れない外国でのことであり、その人は朝まで祈りました。とにかく神さまを信頼するほかはないという状況でしたので、主だけを見詰めて、必死で祈りました。そして、その娘は、奇跡的にというわけではありませんが、いやされました。 その人は、その時は、何かを考えるという余裕もありませんでしたが、後から振り返ってみますと、不思議なことに気がつきました。娘が奇跡的にいやされたというのであれば、そのことの方に心が奪われてしまっていたことでしょうが、そういうことではありませんでしたので、それとは別のことに気がついたということでしょう。それは、娘の身体が熱くなってきて、どうかなってしまうのではないかと心配して、必死で祈っているうちに、その人にとっては、神さまがそこにいてくださるということがいちばん重いことになってきたということです。その人は、それによって、神さまと向き合うという深い経験をしていたのです。 マタイの福音書6章7節には、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。そこに置かれていても生きていない偶像に向かって、言葉数を多くして祈ることは空しいことです。それは、自己満足か自己陶酔しか生み出さないからです。 しかし、私たちは、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった契約の中にあって、イエス・キリストと父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの中に生きる者としていただいています。それで、「その人」のように、初めのうちは問題に圧倒されて神さまに向き合うようなことであっても、やがて、神さまがともにいてくださることの重さによって支えられ、ともにいてくださる神さまご自身に向き合うように導かれるようになります。それによって、ますます、神さまを呼び求めるようになりますが、それは、心配と不安にさいなまれてのことではなく、むしろ、ともにいてくださる神さまを信頼するように導かれてのことです。 そのような神さまとの交わりが、私たちの祈りの中心にあります。そして、それは、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら というイエス・キリストの言葉が示している、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりが、祈りをとおして、具体的に現われてきたものだと考えられます。 |
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