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説教日:2002年7月21日 |
しかし、実際には、イスラエルの民は、そのような使命を見失ってしまいました。イスラエルの民は、周囲の国々のさまざまな偶像を取り入れて、これを拝むようになりました。それと同時に、契約の神である「主」(ヤハウェ)も拝んだのですが、それによって、物言わぬ偶像たちと「主」(ヤハウェ)が同列に並べられてしまいました。これは、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられるという点で、すべての造られたものと「絶対的に」区別される方である「主」(ヤハウェ)の聖さを冒すことです。また、それによって、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名が示している、「主」(ヤハウェ)が永遠に在る方、永遠に変わることなく在る方、何物にも依存されないで、ご自身で在る方であられることが、まったく否定されてしまっています。 きょうお話しする実を結ぶことについてのイエス・キリストの教えとのかかわりでも大切なことですが、神さまの契約の祝福において本質的なことは、契約の「主」(ヤハウェ)のご臨在です。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名が示している、永遠に在る方、永遠に変わることなく在る方、何物にも依存されないで、ご自身で在る方として、常に私たちとともにいてくださることです。そして、そのご臨在の御許にご自身の契約の民を住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることです。「主」(ヤハウェ)は、この世の歴史がどのように変わっても、また、私たちを取り巻く状況がどのように変化しても そのことは、すでに、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方である、御子イエス・キリストが人の性質をお取りになって来てくださり、十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださったことによって、そして、死者の中からよみがえってくださって、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださったことによって、すでに、私たちの確かな現実となっています。 しかし、イスラエルの民は、このような神さまの契約にとって本質的なことを見失ってしまいました。神である主は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方として、その無限、永遠、不変の豊かさと、真実をもって、ご自身の契約の民とともにいてくださるということを、あかしすることができなくなってしまいました。 すでにお話ししましたように、旧約聖書においてイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられているのは、おもに、預言者たちが、イスラエルの民の不信仰による背教を糾弾することの中でのことです。イスラエルの民は、自分たちに委ねられた「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるために、祭司の国として仕えるという使命を果たすことができなくなってしまったのです。それは、イスラエルの民を「ぶどうの木」のようにお植えになった神さまのみこころにそった実を結ぶことがなかったということです。 このことを受けて、ヨハネの福音書15章1節には、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにそった実を結ぶ「まことのぶどうの木」です。その意味で、古い契約のもとにあったイスラエルの民と対比されます。 これらのことから、ヨハネの福音書151節〜16節に記されているイエス・キリストの教えにおいて、実を結ぶことが何を意味しているかを理解することができます。 ここに記されているイエス・キリストの教えに出てくる実が何であるかについては、さまざまな見方があります。まず、それがどのようなものであるかお話しします。 5節には、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、実を結ぶためには、「枝」にたとえられている私たちが、「ぶどうの木」にたとえられているイエス・キリストのうちにとどまっていなければならないと言われています。 さらに、9節、10節には、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と記されています。 この二つの個所から、イエス・キリストにとどまることと、イエス・キリストの愛のうちにとどまることが同じことを指していることが分かります。それで、イエス・キリストのうちにとどまって実を結ぶことは、イエス・キリストの愛のうちにとどまって、イエス・キリストの戒めにしたがって愛の実を結ぶことであるという見方が出てきます。この場合には、実は、愛であったり、愛の具体的な現われとしての愛の行ないのことであるということになります。確かに、それに続く12節では、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 というイエス・キリストの戒めが記されています。 さらに、聖書の中では、実はしばしば、イエス・キリストに似た人格や、その人格的な特性のことを指しています。ガラテヤ人への手紙5章22節、23節には、 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 と記されています。この「御霊の実」の「実」は集合名詞で単数形です。それで、この「御霊の実」は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などの人格的な特性を備えている人格であると考えられます。そして、その特性の第一のものが「愛」であるということになります。 このことから、そのような人格的な特性そのものや、そのような人格的特性を備えている人格が、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されている実であるという見方が生まれてきます。これは、先程の見方が、愛することという行ないを強調するのに対して、その行ないの奥にある人格的な特性にまでさかのぼって実を考えるわけです。 ヨハネの福音書15章に記されているイエス・キリストの教えに、ガラテヤ人への手紙に記されているパウロの教えを関連づけることは問題があると言われるかも知れません。それはには耳を傾けるべきですが、ヨハネの福音書15章に記されている教えは、14章〜16章に記されているイエス・キリストの教えの中にあるものです。そして、14章〜16章に記されている教えを全体として見たときに、そこで強調されているのはイエス・キリストが栄光をお受けになった後に、父なる神さまの御許からお遣わしになる御霊のことです。それで、ここで「御霊の実」のことを考えることは、まったく見当違いのことであるとは言い切れません。 さらに、ヨハネの福音書15章16節には、 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 と記されています。 ここでは、実を結ぶことが、イエス・キリストの選びと任命に結びつけられています。その意味では、すでにお話ししました、イスラエルの民が、「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるために、祭司の国として仕えるという使命を委ねられていたということに符合しています。 さらに、イエス・キリストは、 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、 と言っておられます。ここでは、「行って」という言葉によって示されている、宣教あるいは伝道のために派遣されることの中で実が結ばれるということが示されています。これは、「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるためにということが、具体的に、実現することを感じさせます。 この場合の実は、「そのあなたがたの実が残るため」と言われていることから、遣わされて行った所で行なう宣教あるいは伝道の活動によって、イエス・キリストを信じて、新しくイエス・キリストの契約の民の群れの中に加えられた人々のことであると考えられています。この見方では、遣わされて行った所で行なう宣教あるいは伝道の活動そのものは、「そのあなたがたの実が残るため」ということに当てはまらないということで、実から除外されることがあります。 しかし、ピリピ人への手紙2章13節〜16節には、 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。 と記されています。また、黙示録14章13節には、 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」 と記されています。 これらの御言葉から分かることは、神の子どもたちの行ないは歴史の流れとともに消えてしまうことはなく、神さまの御前に残るものであるということです。私たちが神である主の恵みによって、委ねられた使命にそって生きること、特に、ペテロの手紙第一・2章9節に、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 と記されていますように、イエス・キリストを大祭司として戴く祭司の国としての使命にそって、神さまの贖いの御業をあかしすることは、それ自体が「残る実」であると考えることができます。 そうしますと、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えの中で語られている実をどのように考えたらいいのでしょうか。 これまでお話しした中では、いちばん最後に取り上げました、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業をあかしすることが実を結ぶことであるという見方が、ここに記されているイエス・キリストの教えの中で語られている実を結ぶことであるように思えます。その場合には、イエス・キリストを大祭司として戴く祭司の国としての使命にそって、神さまの贖いの御業のあかしをすることと、その働きの結果、新しく主の契約の民に加えられた人々が、イエス・キリストの教えの中で語られている実であるということになります。 この点をまず、しっかりと心に留めておきたいと思います。その上で、さらに考えなければならないことがあります。それは、なぜ、神さまの贖いの御業をあかしする使命が、イエス・キリストを大祭司として戴く祭司の国である主の契約の民に委ねられたのかということです。 私たちにそのような使命が授けられているのは、アブラハムに与えられた契約の約束のとおり、アブラハムのまことの子孫であるイエス・キリストによって、「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるためです。そして、その祝福は、天地創造の御業の初めから一貫して、神さまの契約の民が、神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。 私たちは、「地上のすべての民族」がこの祝福にあずかるようになるために、この世に遣わされています。そのためには、まず、私たち自身が、この祝福にあずかっていなければなりません。 イエス・キリストは、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と言われました。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていますように、私たちは、契約の「主」(ヤハウェ)であられるイエス・キリストが語ってくださった「ことば」を信じて、その「ことば」にあかしされている、イエス・キリストの贖いの御業にあずかり、新しい契約の民とされ、イエス・キリストと結び合わされてています。 そのことを踏まえて、イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストのうちにとどまるようにと戒めておられます。そして、そうしなければ、私たちが実を結ぶことはできないと教えておられます。 すでにお話ししましたとおり、私たちがイエス・キリストのうちにとどまること、そして、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださることは、イエス・キリストと私たちの間に契約関係があることを示しています。イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流してくださった血によって、新しい契約を確立してくださり、私たちをその祝福にあずからせてくださいました。 主の契約は、神さまが「神のかたち」に造られている人間をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、人間とともにいてくださること、すなわち、ご自身のご臨在を約束し、保証してくださるものです。私たちがイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるということは、私たちの新しい契約の主であられ、ご自身、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方である、御子イエス・キリストが、私たちの間にご臨在してくださって、私たちを、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっていることを意味しています。 ですから、私たちがイエス・キリストのうちにとどまらなければ実を結ぶことはできないということは、私たちがイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていなければ、実を結ぶことはできないということを意味しています。このことから、イエス・キリストが、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と言われたこと、そして、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と言われたことは、私たちが実を結ぶことと深くかかわっていることが分かります。 問題は、私たちがイエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていなければ、実を結ぶことはできないということの意味です。ある人々は、そのことを、私たちが私たちに委ねられているあかしを成功させるために、あるいは、伝道を成功させるためには、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていなければならない、ということだと考えます。言い換えますと、私たちがイエス・キリストにあって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることは、私たちがこの世であかしをし、伝道活動をするために必要な力をいただくためのこと、そのための手段であるというような考え方です。 しかし、このような考え方は、本末転倒した考え方です。 神さまが人間を「神のかたち」にお造りになったのは、何よりもまず、人間を愛してくださって、常にご自身の愛に包んでくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためです。この愛にあるいのちの交わりこそが、神さまの契約の祝福の本質です。 このことのために、神さまは人を「神のかたち」にお造りになりました。また、人類の罪による堕落の後には、この祝福を回復してくださるために、御子イエス・キリストを遣わしてくださって、贖いの御業を成し遂げてくださいました。そして、「地上のすべての民族」がこの祝福にあずかるようになるために、ご自身の民を、この世に遣わしてくださっているのです。ですから、まず、私たち自身がイエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということが、私たちに契約を与えてくださった神である主の第一のみこころであり、みこころの中心なのです。 このことは、イエス・キリストが教えてくださった「いちばん大切な戒め」にも反映しています。マタイの福音書22章37節〜40節には、 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 私たちの間に、イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりと、私たちお互いの間の愛にある交わりが実現していなければ、それ以上、神である主のみこころが実現するということはあり得ません。 ですから、イエス・キリストが、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と言われたことや、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と言われたことは、それ自体が、神さまの契約の祝福が私たちの間に実現するための戒めです。 そして、このイエス・キリストの戒めにそって、私たちがイエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きること、そして、お互いの愛にある交わりに生きることが、私たちの間に結ばれる最初の実となります。 さらには、そのことの中で、御霊のお働きによって、私たちがイエス・キリストに似た者に造り変えられていくことや、教会がキリストのからだとして建てあげられていくことなども、私たちの間で結ばれる実となります。 そして、私たちの間に、契約の主のご臨在の御前での愛にあるいのちの交わりが実現しているときに、新しくその交わりに加えられる民が導かれるようになります。 私たちは、そのようにして、宣教と伝道のためにこの世に遣わされているのです。それは、「地上のすべての民族」が、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった新しい契約の祝福にあずかって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるために、祭司の国の民として仕えることです。私たちが、それぞれの家庭において、また、仕事の場や学びの場において、イエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きている者としての人格的な特性を発揮して生きる中で、そのあかしは立てられていきます。そのような中で、機会が与えられるなら、直接的なあかしもできるようになります。そして、そのあかしのための働きも、また、その結果、主によって契約の民の交わりに導き入れられた人々も、主の御前に結ばれる実と数えられているのです。 |
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