![]() |
説教日:2002年7月14日 |
しかし、実際には、イスラエルの民は、そのような祭司の国としての使命を果たすことはできませんでした。父なる神さまのみこころにかなう実を結ぶことができなかったのです。イスラエルの民が父なる神さまのみこころにかなう実を結ぶことができなかったことは、イスラエルの民に特有の問題ではありません。人類が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後、すべての者は、イスラエルの民と同じように、自らのうちに罪の腐敗を宿しており、神さまのみこころにかなう実を結ぶことはできない状態にあります。それは、神学的には、「霊的な無能力」と呼ばれる状態です。その意味では、すべての民は、イスラエルの民と同じ状態にあります。 その使命を果たして、地のすべての国民に、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりの祝福をもたらしてくださったのは、アブラハムの子孫として来られたイエス・キリストです。イエス・キリストは、ご自身の民の罪を贖うために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そして、私たちの身代わりとなって十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまのさばきをその身に負ってくださいました。この罪の贖いの御業によって、私たちと神さまの愛にあるいのちの交わりを損なっていた罪が清算されました。さらに、死者の中からよみがえってくださって、私たちをその復活のいのちで生かしてくださり、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださいました。 このようにして、イエス・キリストは、イスラエルの民に委ねられた使命を実質的に実現されました。その意味で、父なる神さまのみこころに沿った実を結ぶ、「まことのぶどうの木」であられます。そして、ヨハネの福音書15章5節に、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と記されていますように、そのイエス・キリストが「ぶどうの木」で、私たちがその「枝」であると言われています。 先週お話ししましたように、これは、常にそうである事実を述べるものであって、私たちに対して、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストにつながる「枝」になりなさいと命じておられるのではありません。また、 わたしはまことのぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉と、 わたしはぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉は、強調の現在時制で表わされていて、イエス・キリストが、出エジプト記3章14節に記されています、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて語られたものです。 私たちは、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるイエス・キリストが成し遂げてくださった、贖いの御業によって、そして、それに基づいてお働きになる御霊のお働きによって、「まことのぶどうの木」につなげていただいて、その「枝」とされているのです。そして、この「まことのぶどうの木」は、すでに実を結んでおられますし、その「枝」をとおして実を結び続けられます。それで、この「まことのぶどうの木」につなげられている「枝」は、必ず実を結ぶのです。 ペテロの手紙第一・2章9節、10節には、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 と記されています。 これは、言うまでもなく、先ほど引用しました、出エジプト記19章5節、6節に記されている、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という、イスラエルの民に委ねられた祭司の国としての在り方と使命が、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」の間に実現しているということを意味しています。 以上、これまでお話ししてきたことを、少し補足しながら復習してみました。これらのことを踏まえて、さらにお話を続けましょう。ヨハネの福音書15章2節には、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。この言葉については、すでに、一つのことをお話ししました。それは、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、 という言葉は、聖書の御言葉にあかしされているイエス・キリストを、父なる神さまが与えてくださった贖い主として信じ、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを信仰によって受け入れている人でも、実を結ばない「枝」として取り除かれてしまうことがあるということを教えているのではないということです。 残念ながら、地上の教会に連なっていて、クリスチャンとして歩んでいるけれども、イエス・キリストの贖いの御業を信じて受け入れていない人々がいるのです。そのような人々が教会で何もしないとか、熱心ではないとかいうことではありません。何度も引き合いに出しますが、マタイの福音書7章22節、23節に、 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」 と記されている人々は、イエス・キリストの御名によって大きな働きをした人々です。そして、その実績を上げた人々です。しかし、その人々は、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」として、実を結んだのではありません。そのような人々が、実際には、主のものではなかったということが明らかにされる時があります。マタイの福音書7章22節、23節に記されている人々は、世の終わりのさばきの日まで分かりませんでしたが、地上の教会でのことであれば、その人々の方から福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを捨ててしまうという形を取ることになります。 そのどちらの場合も、3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていますが、イエス・キリストが語ってくださった御言葉を愚かなこととして、ないがしろにしていたり、捨ててしまっているのです。 これに対して、2節後半では、 実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 と言われています。実は、前半で、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、 と言われているときの「取り除き」と訳されている言葉は、アイレイ〈アイローの3人称単数形〉です。そして、後半で、 実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 と言われているときの「刈り込みをなさいます」と訳された言葉はカサイレイ〈カサイローの3人称単数形〉です。それで、アイレイ(「取り除き」)とカサイレイ(「刈り込みをなさいます」)の間に語呂合わせがあって、対比が強調されています。 この「刈り込みをなさいます」と訳されたカサイレイという言葉は、「きよめる」ことを意味しています。3節では、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていますが、この「きよい」と訳されている言葉はカサロスです。「刈り込みをなさいます」と訳されたカサイレイという言葉は、カサロス(「きよい」)な状態にすることを意味しています。それが、「ぶどうの木」について用いられていますので、「刈り込む」という意味で訳されているわけです。 このようなつながりを踏まえて、3節に記されている、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 というイエス・キリストの言葉を見てみましょう。 この「わたしがあなたがたに話したことば」の「ことば」は、ロゴスです。これは、単数形でイエス・キリストの教え全体を意味していますし、イエス・キリストの教えが全体として調和していることを意味しています。イエス・キリストの教えは、1章1節〜3節において、永遠の「ことば」として紹介されているイエス・キリストご自身と、それ以下の個所に記されているイエス・キリストの贖いの御業のことを中心とした教えで、全体的に調和しているものです。 14章23節、24節には、 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここでは、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」に対するその人の姿勢が、その人とイエス・キリスト、またその人と父なる神さまとの関係の在り方を決定している、ということことが示されています。 このような意味合いのある「ことば」を意味して、イエス・キリストは、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われました。これも、すでに実現している、弟子たちの現実を述べているものであって、弟子たちがきよめられつつあるということではありません。 そうしますと、この場合、弟子たちが、イエス・キリストが語られた「ことば」によって、すでにきよい状態にあるということは、どのようなことでしょうか。もちろん、それは、弟子たちに罪の性質がないという意味ではありません。 このことに光を投げかけるのは、この教えが語られたのと同じ夜に、すでに、イエス・キリストがこの「きよい」という言葉を用いて、あることを教えておられるということです。13章3節〜11節には、 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。 と記されています。 この最後の部分の、10節、11節に、 水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。 という言葉と、 みながきよいのではない。 という言葉が記されています。ここで用いられている「きよい」という言葉(カサロス)が、15章3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われているときの「きよい」と同じ言葉です。 13章10節、11節に記されている「きよい」ということは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、罪を贖われた者は、一度限り決定的に、きよめられた者となっているということを示しています。それが、 水浴した者は ・・・・ 全身きよいのです。 ということの意味です。 私たちは、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」をとおしてあかしされている、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を贖っていただいたその時に、きよめられた者となっています。その完全な実現は、世の終わりの復活の時を待たなければなりませんが、すでに、イエス・キリストの贖いの恵みの中に置かれている者であるのです。そして、そのことは、これから先も、永遠に変わることはありません。なぜなら、このような意味で「きよい」者となっているということは、御霊によってイエス・キリストご自身に結び合わされて、イエス・キリストのものとなっていることであるからです。 それが、15章3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていることの意味でもあります。それは、私たちが、イエス・キリストの贖いの恵みによって、「まことのぶどうの木」に連なる「枝」として、イエス・キリストに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされているということです。 5節には、イエス・キリストの、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 という言葉記されています。ここでは、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 という永遠にそうである事実の宣言の後に、それに基づいて、私たちがイエス・キリストのうちにとどまるということが語られています。それと、同じように、3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていることを受けて、4節では、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 というように、イエス・キリストのうちにとどまるべきことが語られています。 ですから、3節で、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていることと、5節で、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言われていることは、どちらも、私たちがイエス・キリストのうちにとどまることの土台を示していて、実質的に同じことです。 先週もお話ししましたが、4節と5節に記されている。私たちがイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるということは、そこに、契約関係があるということを意味しています。その意味で、その土台になっている、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われていることは、私たちが契約的にきよいということを意味しています。私たちが、主の契約の約束にしたがって備えられた、イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、きよめられた者となり、イエス・キリストの契約の民となっているということです。 このことに基づいて、私たちがイエス・キリストのうちにとどまるということは、私たちとイエス・キリストの間に、交わりがあることを意味しています。それは、「枝」が「ぶどうの木」に連なって、そのいのちによって生かされていることにたとえられる、いのちの交わりです。契約の神である「主」(ヤハウェ)が、ご自身の契約の民である私たちの間にご臨在してくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっているということです。これこそが、すでにお話ししました、神さまがご自身の契約をとおして約束してくださった祝福です。 これまでお話ししてきたことから分かりますように、このような、神さまが契約において約束してくださった祝福は、私たちの主イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて私たちの間に実現しています。そのことは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて、語られている、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 という、イエス・キリストの言葉があかししています。そして、そのような、イエス・キリストとのいのちの交わりが確立されたのは、イエス・キリストが、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と言われたように、私たちが、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」をとおしてあかしされている、イエス・キリストご自身を信じて、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を贖っていただいた時のことです。その意味で、イエス・キリストが「わたしがあなたがたに話したことば」と言われる「ことば」は、私たちの契約の主の「ことば」です。 それで、先ほども引用しました14章23節に記されているように、イエス・キリストは、 だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 と言われたのです。神さまが私たちとともに住んでくださることは、主の契約の祝福である、神さまとの愛にあるいのちの交わりがあることを意味しています。 また、15章7節には、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。 この言葉の意味するところについては改めてお話ししますが、今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら というイエス・キリストの言葉です。これは、5節で、 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら と言われているのと同じことを言い換えたものです。ですから、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるということは、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまっていることと切り離すことができません。イエス・キリストが私たちのうちにとどまっていてくださるのに、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまっていないということはありえませんし、イエス・キリストの「ことば」が私たちのうちにとどまっておられないのに、イエス・キリストが私たちのうちにとどまっておられるということもありえません。なぜなら、イエス・キリストが、 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 とあかししておられるように、私たちは、イエス・キリストが語ってくださった「ことば」をとおして、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」としていただき、その復活のいのちによって生かしていただいているからです。 これまでお話ししてきましたように、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」は、必ず実を結びます。そして、私たちが実を結ぶのは、4節、5節に、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と記されていますように、私たちがイエス・キリストにとどまることによってです。 私たちが「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」として、イエス・キリストのうちにとどまることは、そして、「農夫」にたとえられている父なる神さまのみこころに沿って実を結ぶようになることは、私たちがイエス・キリストが語ってくださった「ことば」を私たちのうちに豊かに宿らせることによって、そして、イエス・キリストを愛して、イエス・キリストの「ことば」を守ることによって、私たちの間の現実となります。 |
![]() |
||