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説教日:2002年7月7日 |
そのように、神さまが贖いの御業をなしてくださるのは、神さまがイスラエルの民の父祖アブラハムに与えてくださった契約の基づいてのことです。その契約のことは、すでに何度か取り上げましたが、創世記17章7節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と記されています。1節に、この時、アブラハムは九十九歳であったと言われていますから、出エジプトの贖いの御業がなされる約六百年前のことです。 神さまが贖いの御業をなしてくださることがアブラハムへの契約の基づくことであるので、出エジプト記3章6節に記されていますように、神さまは、モーセに、ご自身のことを、まず、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 として表わされました。そして、そのうえで、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって示される、永遠に在る方、永遠に変わることなく在る方、何物にも依存されないで、ご自身で在る方として、イスラエルの民のために贖いの御業を遂行されるということを示されました。 3章15節には、 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」 と記されています。ここでは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名を圧縮した「主」(ヤハウェ)という御名が、神さまの永遠の呼び名であると言われています。 「主」(ヤハウェ)という御名が、神さまの永遠の呼び名であるので、モーセの時代より約六百年前に神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことを記す、創世記17章1節、2節には、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 と記されています。 神さまはアブラハムに、 わたしは全能の神である。 と言われました。モーセに「主」(ヤハウェ)という御名が啓示される約六百年前のアブラハムには、神さまは、ご自身を「全能の神」(エール・シャダイ)としてお示しになりました。しかし、そのことを記す導入の言葉は、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。 となっています。ですから、その時、すでに、神さまは、「主」(ヤハウェ)という御名が表わしている方として働いておられたのです。 イエス・キリストが、強調形の現在時制で、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言われたこと、また、 わたしはぶどうの木です。 と言われたことは、神さまがご自身のことを、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方として啓示してくださったことに基づいています。そして、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であられることを意味しています。それは、具体的に、どのようなことでしょうか。 モーセの時代に、出エジプトの贖いの御業を遂行されることをとおして、神さまは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であられることを示してくださいました。その出エジプトの贖いの御業は、古い契約の時代の地上的な「ひな型」で、やがて来たるべきまことの贖いの御業を前もってあかしするものでした。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)は、まことの贖いの御業を遂行してくださる方です。その、まことの贖いの御業とは、言うまでもなく、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死によって、ご自身の契約の民の罪を贖い、死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民を、神さまとのいのちの交わりの中に生かしてくださったことです。 地上において、エジプトの王パロが武力などの血肉の力によってイスラエルの民を奴隷していたとき、パロは「神のかたち」に造られている人間としての自由をもってはいませんでした。パロは自らのうちにある罪の力に縛られており、この世の流れの中で生み出された価値観にしたがって、権力を積み上げていました。それは、人を「神のかたち」にお造りになった神さまの御前にさばきを積み上げることでした。それが、「主」(ヤハウェ)が出エジプトの贖いの御業を遂行なさった時に、エジプトに対するさばきが十も積み重ねられたことをとおして示されました。 また、神である主の御手によって、エジプトの奴隷の身分から解放されたイスラエルの民も、それで、「神のかたち」に造られている人間としての自由を獲得したのではありませんでした。イスラエルの民も自分たちの罪によって縛られてしまっていました。 それは、パロをかしらとするエジプトの人々やイスラエルの民だけでなく、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人類全体の姿です。すべての人が罪と死の力に捕らえられてしまっており、造り主である神さまの御前にさばきを積み上げてしまっています。 そして、そのような状態にある人間は、さらに徹底した罪の腐敗をうちに宿して罪そのもののように巧妙に活動している、サタンとその軍勢の支配に閉じ込められてしまっています。ちょうど、軍事力を頼みとしている者が、より強大な軍事力をもつ者に屈服させられて、その従属者になるように、罪に縛られている状態の人間は、さらに徹底的に罪に縛られているサタンとその軍勢の罪の仕業に引き込まれてしまうということです。エペソ人への手紙2章1節〜3節には、人類のそのような姿が、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。 私たちの主イエス・キリストは、私たちをそのような状態から解き放ってくださる贖いの御業を成し遂げてくださいました。エペソ人への手紙2章4節〜6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。また、コロサイ人への手紙1章13節、14節には、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されています。 このような贖いの御業こそが、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださった贖いの御業が地上のひな型としてあかししていた、まことの贖いの御業です。そして、このまことの贖いの御業を成し遂げてくださった私たちの主イエス・キリストこそが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるのです。 このように、イエス・キリストは、出エジプトの時代に、モーセをとおして、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方としてご自身をお示しになった契約の神である「主」(ヤハウェ)であられます。そして、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名は、「主」が永遠に在る方、永遠に変わることなく在る方、何物にも依存されないで、ご自身で在る方であられることを示すとともに、そのような方として、歴史の流れの中でこの世界の有り様がどのように変わっても、また、たとい私たちがこの世を去っても、ご自身は変わりたもうことがなく、契約を守り、約束してくださったことを必ず実現してくださる方であられることを示しています。 このことを踏まえて、すでにお話ししました、神さまの聖さの本質をを思い出していただきたいと思います。 神さまの聖さは、神さまが、ご自身のお造りになった、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方ですし、知恵、力、聖、義、善、真実、愛、いつくしみなどの人格的な属性の一つ一つにおいても、無限、永遠、不変の方です。また、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。それで、神さまは、あらゆる点で限りのある、この世界のどのようなものとも比べることは出来ません。その意味で、神さまは、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別されます。 そうしますと、神さまと、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが「絶対的に」区別されるのであれば、神さまとこの世界の「接点」はないのではないかという疑問が出てきます。それ以上に、神さまの存在が無限、永遠、不変であるうえに、神さまの聖さの現われである栄光が無限、永遠、不変の栄光であれば、この世界のすべてのものは、神さまの無限、永遠、不変の栄光にさらされることになります。しかし、この世界のどのようなものも、罪のない状態の人間も、最も聖い御使いも、神さまの無限、永遠、不変の栄光にさらされて存在することはできません。テモテへの手紙第一・6章15節、16節に、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されているとおりです。 そうであれば、神さまがこの世界を造り出された時に、この世界は神さまの無限、永遠、不変の栄光にさらされて、たちまちのうちに焼け溶けてしまっていたはずです。この世界は燃えさかる炉の中に投げ込まれた紙切れのような状態になってしまっていたはずです。しかし、実際には、この世界も、その中に住んでいる私たちも、神さまの御手によって造り出され、同じ御手によって支えられて存在しています。 なぜそのようなことが可能であるのかということについても、すでにお話ししましたが、このことは、いまお話ししていることに関わっていますので、改めて、まとめておきたいと思います。 結論的に言いますと、それは、神さまが三位一体の神さまであられるからです。三位一体の神さまは、存在と栄光において無限、永遠、不変な方として、聖なる方でありつつ、この世界と私たちを造り出しくださいましたし、今も、この世界と私たちにかかわってくださり、触れてくださることがおできになるのです。 人間になぞらえて言いますと、天地創造の御業を遂行されるに当たって、三位一体の神さまは、御父、御子、御霊の間で、「役割分担」をされました。 父なる神さまは、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する「役割」を担われました。それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光は、父なる神さまにおいて、常に、充満な形で表現されており、無限の豊かさをもって輝いています。その父なる神さまが、天地創造の御業と贖いの御業をご計画されました。 御子は、父なる神さまのみこころにしたがって、実際に、創造の御業と贖いの御業を遂行されました。そして、創造の御業を遂行されるに当たって、造られたものをご自身の無限、永遠、不変の栄光によって損なってしまうことがないようにと、その栄光を制限しておられます。さらに、贖いの御業を遂行されるために人の性質を取って来てくださったことにおいては、文字通り、その栄光をお捨てになって来てくださいました。そして、私たちの罪を贖う「いけにえ」となって、死の苦しみをも味わってくださいました。 そして、御霊は、御子が遂行された創造の御業をこの世界の現実として実現してくださっています。また、御子が成し遂げられた贖いの御業を、私たちに当てはめてくださって、私たちを父なる神さまとの交わりに生きるものとしてくださっています。御霊も、この御業をなさるに当たっては、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を制限しておられます。 それで、聖書は、この世界のすべてのものは、父なる神さまが、御子によってお造りになったとあかししています。これを人間にたとえますと、父なる神さまがこの世界をお造りになったというのは、ちょうど、私たちが家を建てるということに比べられます。家を建てる計画を立てて、どのような家にするかを決めるのは、私たちです。しかし、実際に家を建てる作業をするのは大工さんたちです。この大工さんたちの働きが、創造の御業におけるイエス・キリストのお働きに比べられます。私たちが大工さんによって家を建てるというのと同じように、父なる神さまが御子によってこの世界をお造りになったのです。 これもすでにお話ししたことですが、ヨハネの福音書の冒頭の1章1節〜3節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 天地創造の「初めに」すでに「ことば」は「在った」と言われていて、「ことば」が時間的なこの世界に属していない、永遠の存在であられることが示されています。しかも、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていますように、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにあります。 そして、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と言われていますように、この世界のすべてのものは、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにある「ことば」によって造られました。この、 すべてのものは、この方によって造られた。 というときの「この方によって」という言葉は、先ほどのたとえでは、「大工さんによって」家が建てられたということに当たります。ですから、創世記1章1節〜2章3節に記されています、天地創造の御業を遂行しておられるのは、御子イエス・キリストです。 このように、ここで永遠の「ことば」として紹介されている御子イエス・キリストは、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を制限して、私たちと私たちの住んでいるこの世界を造り出してくださり、今も、その御手によって支えてくださっています。 さらに、ヨハネの福音書1章14節では、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と言われています。 父なる神さまとの永遠の愛による交わりのうちにある御子は、人の性質をお取りになることにおいて、文字通り、無限、永遠、不変の栄光をお捨てになりました。そして、実際に、人の性質を取って来てくださり、私たちの罪を贖うために十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまのさばきをすべてその身に負ってくださいました。 また、18節では、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と言われています。 人間も最も聖い御使いも、無限、永遠、不変の栄光の神さまをありのままに見ることはできません。しかし、神さまは、御子イエス・キリストをとおして、ご自身を私たちに示してくださいました。それで、御子は無限、永遠、不変の栄光の神さまを私たちに啓示してくださる「役割」を担っておられます。御子は、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を制限して、ご自身を私たちに啓示してくださったのです。 そのような御子イエス・キリストの自己啓示が、出エジプトの時代には、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)として示されました。そして、すでにお話ししましたように、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられたご自身の契約を覚えていてくださって、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出してくださるための御業を遂行してくださいました。 繰り返しになりますが、神さまの聖さは、神さまが、ご自身のお造りになった、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。そして、この、神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとの「絶対的な区別」は、神さまが存在においても、人格的な属性の一つ一つにおいても、無限、永遠、不変の方であることに基づいています。言い換えますと、神さまは、存在と属性のすべてにおいて、無限、永遠、不変の豊かさに充ち満ちておられる方であられるという点で、造られたすべてのものと「絶対的に」区別されるということです。 このような、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまが、御子イエス・キリストによってこの世界と私たちにかかわっていてくださるということは、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさをもって、私たちとこの世界を満たしてくださっているということを意味しています。その具体的な現われが、御子イエス・キリストによって成し遂げられた創造の御業であり、贖いの御業なのです。 そして、父なる神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちとこの世界にかかわってくださることを、ご自身の契約によって示してくださり、保証してくださっています。それで、御子イエス・キリストは、私たちにとって、契約の主であられます。そして、その意味で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の「主」(ヤハウェ)であられます。 このように、神さまは、ご自身の契約において、ご自身の聖さの根底にある無限の豊かさをもって、ご自身の契約の民を満たしてくださるという祝福を約束し、保証してくださっています。そして、その祝福の本質は、ご自身との愛にあるいのちの交わりです。御子イエス・キリストは、私たちをそのような祝福で満たしてくださる契約の主なのです。 ヨハネの福音書15章5節に記されている、 わたしはぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であられることに基づいて語られたものです。それで、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 という言葉によって示されている関係は、イエス・キリストを契約の主とする契約関係であると考えられます。 実際、ここに記されているイエス・キリストの教えに繰り返し出てくる、「キリストにとどまる」ということは、イエス・キリストを契約のかしらとする契約関係におけることであるとする理解が現われてきています。それは、「キリストのうちに」という言葉の研究から生まれてきた理解のようですが、強調の現在時制によって表わされている、 わたしはぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉が、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神、「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて語られたものであるという点からも理解できることです。 すでにお話ししましたように、5節の、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 というイエス・キリストの言葉の前半の、 わたしはぶどうの木です。 ということは、強調形の現在形で表わされています。しかし、それに続く、 あなたがたは枝です。 ということは、 あなたがたは枝。 というような言い方で、強調形ではありません。 このことは、この契約関係においては、かしらであられるイエス・キリストが、 わたしはぶどうの木です。 と言われる方であるということが、決定的に大切であることを意味しています。 イエス・キリストは、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される聖なる主です。同時に、その無限、永遠、不変の豊かさをもって私たちを満たしてくださるために、私たちの契約の主となってくださいました。そして、十字架の上でご自身のからだを裂かれ、血潮を流されて、私たちの贖いとなってくださいましたし、死者の中からよみがえって、私たちのいのちの源となってくださいました。 この主が、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言ってくださっています。これは、常にある事実を述べているものであって、私たちに「ぶどうの木」であるイエス・キリストの「枝」になりなさいと命じておられるものではありません。イエス・キリストは、すでに、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちをご自身につながるものとしてくださっているのです。 このように、私たちの契約の主となってくださったイエス・キリストが、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みによって、このいのちの関係を造り出してくださり、それを支えてくださっています。 私たちに求められているのは、4節に、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。 と記されていますように、その恵みを信じて、イエス・キリストにとどまることです。 それは、私たちのすることです。また、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。 というイエス・キリストの言葉は、私たちとイエス・キリストが相互になすことを示しています。けれども、それは、たとえて言えば、子どもとお母さんが手をつないで歩いているようなものです。確かに、お母さんが子どもの手を取っているだけでなく、子どももお母さんの手を握っています。その意味で、それは相互に手を握り合っていることです。しかし、子どもはつまずいたりすると、自分の力でお母さんの手を握り続けることはできません。しかし、お母さんがその子の手を握っているので、その子はしっかりと保たれていて、倒れることはありません。 それと同じように、私たちがイエス・キリストにとどまることができるのは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方として、私たちを、常にまた永遠に、ご自身とのいのちの交わりのうちに保ってくださっており、無限の豊かさによって満たしてくださっているからです。また、イエス・キリストは、私たちをご自身のうちにとどまらせてくださることによって、私たちに実を結ばせてくださいます。 |
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