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説教日:2002年6月23日 |
もう一つの背景は、 わたしはまことのぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉が、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という、強調の現在時制で記されていることに関わっています。この言葉の根底には、出エジプト記3章14節に記されている、古い契約の下での神さまの自己啓示の頂点とも言うべき、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という、神さまの御名の啓示があります。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という神さまの御名の啓示は、神さまが、「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないでご自身で在る、独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることなどを示しています。それと同時に、この御名は、神さまが、ご自身の契約に対して真実であられ、この世界の歴史の流れの中で、この世界の有り様がどのように変わっても、神さまはご自身の契約において約束されたことを必ず成し遂げてくださるということを示しています。 もちろん、神さまがご自身の契約において約束してくださったことは、約束の贖い主をとおして成し遂げてくださる贖いの御業によって、ご自身の民をご自身とのいのちの交わりに回復してくださるということです。 出エジプト記3章14節、15節の流れでは、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 として啓示された神さまの御名が、 わたしはある。 に圧縮され、さらに、「主」(ヤハウェ)に圧縮されています。この「主」(ヤハウェ)は固有名詞で、契約の神である主の御名です。 イエス・キリストが言われた、 わたしはまことのぶどうの木です。 という言葉は、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調の現在時制で表わされています。これは、表現の形としては、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という契約の神である主の御名の啓示のギリシャ語訳である70人訳の、 わたしは「(常に)在る者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン) と符合しています。 それで、イエス・キリストは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であることに基づいて、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言われたと考えられます。 言うまでもないことですが、これまでお話ししてきた、これら二つの背景は、 わたしはまことのぶどうの木です。 という、イエス・キリストの言葉の背景ですから、互いに深く結び合っています。 イエス・キリストは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言っておられます。 イエス・キリストは、「まことのぶどうの木」として、主の契約の民の地上の「ひな型」であったイスラエルの民があかししていたことを、すべて成し遂げてくださいました。ご自身が、約束の贖い主として来てくださり、十字架にかかって死んでくださって、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださいました。また、死者の中からよみがえって、ご自身の民を父なる神さまとのいのちの交わりに生きるものとして回復してくださいました。 これによって、アブラハムに約束されていた祝福が「地のすべての国々」に及ぶようになりました。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。 このように、イエス・キリストが、「まことのぶどうの木」として、主の契約の民の地上の「ひな型」であったイスラエルの民があかししていたことを、すべて成し遂げてくださったのは、イエス・キリストご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる「主」(ヤハウェ)であられるからです。 先週もお話ししましたように、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神である「主」(ヤハウェ)は、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後から、贖い主を約束してくださいました。そして、長い準備の時代を経て、今から二千年ほど前に、約束された贖い主が来られて、十字架の死をもってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえって、ご自身の民のために、父なる神さまとのいのちの交わりの道を開いてくださるまで、その約束を保ち続けてくださいました。 その間に そのどれを取ってみても、神である主の契約のうちに示された贖い主の約束を受け継いだ者たちを陥れようとする暗やみの力の盛んな働きかけがあったことを、感じ取らないではいられません。そのことは、言葉としては記されてはいませんが、それだけに、その働きが人間の目には隠されている巧妙なものであることを思わされます。創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されている「最初の福音」と呼ばれる贖い主の約束が、「蛇」の背後にいるサタンに対するさばきの言葉であること、そして、サタンについて、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われていることは、人類の歴史、特に、神である主の救いの御業の歴史を通して常に真実であったのです。 また、これらの人間の側の不信仰だけでなく、ノアの時代に人類全体がさばきに服するようになったこと、エジプトの王パロがイスラエルの民に誕生する男の子をみな殺すように命じたこと、アッシリヤやバビロンの手によって北王国イスラエルと南王国ユダが滅ぼされたこと、そして、イエス・キリストがお生まれになったとき、ヘロデ大王がベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を殺したことなどは、「女の子孫」として来られる贖い主に至る流れを根絶やしにしようとする暗やみの力の働きでもありました。 そのような、暗やみの力の巧妙な働きと、人間の側の不信仰と背教にもかかわらず、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる「主」(ヤハウェ)は、ご自身の契約のうちに約束してくださった贖い主をお遣わしくださり、ご自身の民のために贖いを成し遂げてくださいました。というより、人の性質を取って来てくださって、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、ご自身の民を父なる神さまとのいのちの交わりに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださった、御子イエス・キリストこそが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるのです。 イエス・キリストは、人の性質をお取りになって来られる以前から、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)として、暗やみの力の巧妙な働きかけと、ご自身の契約のうちに示された約束を受け継いだ者たちの不信仰と背教にもかかわらず、贖いの御業を成し遂げてこられました。そのお働きによって、ご自身の契約のうちに約束された贖い主と、贖い主によって贖いの御業が成し遂げられることを信じる民を起こしてくださり、その信仰を支えてくださり、約束が受け継がれるようにしてくださったのです。 造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の人類に、贖い主の約束を与えてくださったのは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)です。そして、その約束を信じる民を起こしてくださったのも、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)です。さらに、時代を越えてその約束と約束された贖い主を信じる民を保ってくださったのも、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)です。 ですから、「ぶどうの木」として植えられた主の契約の民が、どこかで実を結んだことがあったとしたら、それは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)が、一方的な恵みをもって、その民をご自身の契約の祝福のうちに保ってくださったからに他なりません。 このことは、私たちにもそのまま当てはまります。私たちがイエス・キリストを信じることができるようになったのは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)として、私たちを導いてくださり、支えてくださっているからです。私たちは、不真実な者ですが、その私たちが実を結ぶことがあるとしたら、それも、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)として、私たちを導いてくださり、支えてくださっているからです。 このように、イエス・キリストは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるということに基づいて、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言っておられます。そして、そのことが、私たちがその「枝」として実を結ぶことの根拠であり理由です。 ヨハネの福音書15章5節には、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 すでにお話ししましたように、この、 わたしはぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉も、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という、強調の現在時制で記されています。この言葉も、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるということに基づいて語られています。そして、そのことが、私たちが実を結ぶことの根拠であり理由であることが示されています。 ところが、同じ15章の2節には、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。さらに、6節には、 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 と記されています。 このことをどのように考えたらいいのでしょうか。 これは、すでにお話ししましたエゼキエル書15章1〜8節に示されていますように、「ぶどうの木」は、木そのものとしては、何の使いようもないということ、「ぶどうの木」は、ぶどうの実をならせることがなければ、「ぶどうの木」としての存在の意味をなさなくなってしまうということを背景として語られたものです。 そうしますと、ご自身、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるイエス・キリストにつながる「枝」でも、実を結ばないものがあるということなのでしょうか。あるいは、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であると信じて、父なる神さまとの交わりを回復していただいているのに、実を結ばない「枝」として、切り取られてしまうということがあるのでしょうか。 まず、注意したいことは、5節に記されている、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 というイエス・キリストの言葉です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 と訳されている言葉は、条件文のように見えますが、直訳すれば、 わたしにとどまっていて、わたしがその人にとどまっている人、そういう人は多くの実を結びます。 となります。これは、条件文ではなく、常にそうである事実を述べるものです。そして、これは、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストのうちにとどまっている人は、豊かな実を結ぶということを述べています。逆に言いますと、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストのうちにとどまっている人が実を結ばないということは、あり得ないということです。このことは、これまでお話ししてきましたように、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言っておられるイエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるということからも理解できることです。 これとともに、いくつかの、イエス・キリストの言葉を見ておきたいと思います。 ヨハネの福音書6章35節〜40節には、 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」 と記されています。35節に記されている、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 というイエス・キリストの言葉は、やはり、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という、強調の現在時制で記されています。 このことに基づいて、イエス・キリストは、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 と言われましたし、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 とも言われました。 ですから、イエス・キリストを信じる者が、一人として失われることがなく、すべて父なる神さまとのいのちの交わりに生かされるようになることが、父なる神さまのみこころであり、イエス・キリストのみこころです。そして、そのみこころは、イエス・キリストの、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)としてのお働きをとおして、必ず実現します。 また、10章27節〜30節には、 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここでは、イエス・キリストがご自身の羊をすべて、最後まで守ってくださることが示されています。 そして、これも、11節に記されている、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 という、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という、強調の現在時制で表わされている、イエス・キリストの言葉や、同じ形で14節に記されている、 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 というイエス・キリストの言葉を受けています。 その一方で、ヨハネの手紙第一・2章19節では、 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。 と言われています。 このことから、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 というイエス・キリストの言葉は、ある意味では、イエス・キリストを信じているけれど、真の意味で、イエス・キリストに結びついていない人々のことを述べていると考えることができます。この人々は、地上にあるキリストのからだである教会に何らかの意味でかかわっている人々です。 形の上でクリスチャンとして生きて、教会に通い続けたとしても、それで、その人が「ぶどうの木」であられるイエス・キリストにつながっている「枝」であるとはかぎりません。実際に、洗礼を受けて教会の一員となり、教会の働きの責任者ともなって熱心に奉仕をし、多くの方のお世話をした方なのに、実は、自分の罪を認めて、福音の御言葉に示されているイエス・キリストの贖いの恵みに自分を委ねたことはなかった、という方がおられます。また、多くの人々をイエス・キリストに導いたのに、真の意味で、イエス・キリストにつながっていなかったという方もいます。その人たちは、「恵みによって罪を赦された罪人」としてではなく、「いい人」としてクリスチャンでした。 私たちは、神である主がご自身の契約をとおして約束してくださった贖い主であり、実際に、人の性質を取って来てくださって、十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえって私たちのいのちの源となってくださったイエス・キリストを信じて、イエス・キリストのうちにとどまりたいと思います。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である「主」(ヤハウェ)であられるイエス・キリストは、私たちを最後までご自身のものとして保ってくださいます。そして、私たちを父なる神さまとの交わりのうちに生かしてくださるとともに、私たちをとおして豊かな実を結んでくださいます。 |
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