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説教日:2002年6月16日 |
アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去ったからといって、天と地とその中のすべてのものをお造りになって、御手によって支えておられる主が、彼らを見失ってしまったということはありません。主は、この世にあって生きている者も、すでにこの世をさった者も、同じように御手に治めておられます。 神さまの御言葉である聖書は、人間は死んで消滅してしまうとは教えていません。神さまは、人間を死んで消滅してしまうようなものとしてはお造りにならなかったということです。人間は肉体的に死んでこの世を去りますが、それで、その人の存在が、神さまの御手からもこぼれ落ちて、なくなってしまうということはありません。 人間のいのちと死を区別するのは、この世に在ることとこの世を去ることではありません。人間のいのちと死を区別するのは、造り主である神さまとの関係のあり方です。神さまは、無限、永遠、不変のいのちそのものであられ、この世界のいのちあるものをお造りになり、そのいのちを支えておられます。その神さまといのちの交わりのうちにある人は、この世に在っても、この世を去っても、いのちのうちにあって生きています。しかし、神さまとのいのちの交わりのうちにない人は、この世に在っても、この世を去っても、死の力に捕らえられています。 天地創造の初めに、神さまは人を「神のかたち」にお造りになりました。人間は、造り主である神さまとのいのちの交わりにあって生きる者として造られ、実際に、神さまとのいのちの交わりのうちに生きていました。この神さまとのいのちの交わりは、神さまが人間を「神のかたち」に造ってくださったことによって人間に与えられたものであって、人間が努力して獲得するというようなものではありません。人間が生きているということは、初めから、造り主である神さまとのいのちの交わりのうちにあるということでした。それが、人間にとって自然の姿なのです。 人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまとのいのちの交わりを絶たれてしまったことによって、死の力に捕らえられてしまいました。そのような人間が、人間としての本来のいのちを取り戻すためには、造り主にして、すべていのちあるもののいのちの源である神さまとの、交わりを回復するほかはありません。 しかし、造り主である神さまに対して罪を犯した人間は、その罪に対するさばきによって死の力に捕らえられています。人間は、自分の力で、この死の力から自分を解き放つことはできません。それは、人間が自分の力で、神さまとの交わりを回復することはできないからです。神さまに対する罪は、神さまの無限、永遠、不変の聖さとその現われである栄光を冒すものであるので無限の重みをもっていて、人間のいのちを限りなく積み上げたとしても償いきれないからです。 確かに、神さまは、ご自身の聖さと義の尺度にしたがって、人間の罪をおさばきになります。それは聖書をとおして、神さまが明言しておられるところです。同時に、神さまは、ご自身の一方的な恵みによって、私たちのために神さまとのいのちの交わりを回復してくださることを、ご自身の契約によって、約束してくださいました。神さまは、その約束のとおりに、ご自身の御子を、私たちの贖い主として遣わしてくださいました。ヨハネの手紙第一・4章9節、10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されているとおりです。 無限の重さをもっている私たちの罪を贖うことができるのは、ご自身が無限、永遠、不変の神であられる神の御子イエス・キリストのいのちの値だけです。神さまは、御子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪に対する最終的なさばき 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 と記されているとおりです。それで、私たちの罪に対する最終的なさばきはすでに、今から二千年前に、イエス・キリストの十字架において終わっています。それで、ヨハネの福音書3章18節では、 御子を信じる者はさばかれない。 と言われています。神さまは、このことに基づいて、私たちをご自身とのいのちの交わりに回復してくださいました。 ヨハネの福音書には、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされているイエス・キリストの自己啓示が七つ出てきます。そのうちの6つ目は、14章6節に記されていて、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 と言われています。これは、十字架にかかって、ご自身の契約の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストによって、人は神さまとのいのちの交わりに入れていただくことができるということを明らかにしています。 アブラハムがこの世を去ってから約550年後、ヤコブがこの世を去ってから約400年後のモーセの時代に、主がなおも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるので、アブラハム、イサク、ヤコブが神さまとのいのちの交わりのうちに生きているというのは、この、主が備えてくださった贖いの恵みに基づいています。 もちろん、アブラハム、イサク、ヤコブの時代には、贖い主はまだ遣わされていません。それでは、なぜ、アブラハム、イサク、ヤコブが、神さまとのいのちの交わりにあずかって生きることができていたのでしょうか。それは、アブラハム、イサク、ヤコブが、神さまの契約のうちに約束されていた贖い主を信じたからです。あるいは、同じことを言い換えるだけですが、贖い主を遣わしてくださると、ご自身の契約によって約束してくださった神さまを信じたからです。アブラハム、イサク、ヤコブは、神である主と、主がご自身の契約によって約束してくださった贖い主を信じたので、その信仰によって義と認められたのです。 アブラハムが信仰によって義と認められたことは、ローマ人への手紙4章に記されています。1節〜5節には、 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 と記されています。また、17節〜25節には、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されています。 人が信仰によって義と認められるということは、古い契約のもとにおいても、新しい契約のもとにおいても、変わることはありません。ただ古い契約のもとにおいては、贖い主は約束の形で与えられていました。それは人間の約束ではなく、神さまの約束です。しかも、それは、神さまの契約の中で与えられた約束です。神さまの約束は、必ず実現します。それで、約束の形で与えられていた贖い主を信じたアブラハム、イサク、ヤコブは、いわば、自分たちの罪の贖いの「約束手形」を与えらえていたのです。それに対して、私たちは、 私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されているとおり、父なる神さまが約束のとおりに遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じて、義と認められているのです。 このように、モーセの時代に、主がなおも、ご自身が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのは、そして、それが、アブラハム、イサク、ヤコブが神さまとのいのちの交わりのうちに生きていることを意味しているのは、主が、ご自身の契約によって贖い主を遣わしてくださることを約束してくださっていたからですし、アブラハム、イサク、ヤコブがその約束を信じて、神さまの御前に義と認められていたからです。 モーセは、ご自身が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ことをお示しになって、自分をエジプトにいるイスラエルの民のもとにお遣わしになった神さまに向かって、イスラエルの民から、モーセをお遣わしになった神さまの御名が何かと尋ねられたときには、どう答えたらいいかと問いかけました。それに対する神さまのお答えは、出エジプト記3章14節、15節に記されています。そこには、 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 と記されています。 その時、神さまは、ご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 であるということをお示しになりました。これは、直訳的に訳せば、 わたしは「わたしは在る。」である。 となります。これが、続いて、 わたしはある。 に圧縮されており、さらにそれが、「主」(ヤハウェ)に圧縮されています。 先週お話ししましたように、この、 わたしは「わたしは在る。」である。 という神さまの御名は、神さまが、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを啓示してくださるものです。また、それとともに、神さまが、契約の神として、ご自身の契約の民に深く関わってくださる方であることを啓示するものでもあります。 先ほど、アブラハム、イサク、ヤコブは、神である主と、主がご自身の契約によって約束してくださった贖い主を信じたので、その信仰によって義と認められたということをお話ししました。その際に、アブラハム、イサク、ヤコブが義と認められた「根拠」あるいは「土台」は、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰にあるのではありません。それは、あくまでも、アブラハム、イサク、ヤコブが信じた約束の贖い主が、その約束のとおりに、アブラハム、イサク、ヤコブのために贖いの御業を成し遂げてくださることにあります。 お話を分かりやすくするために、事実にまったく反する仮定をしますが、もし、神である主の約束された贖い主が遣わされることがなかったとしたら、また、贖い主がご自身の民の罪の贖いを成し遂げられなかったとしたら、いくらアブラハム、イサク、ヤコブが信じたとしても、その信仰は空しいものになってしまいます。私たちも、もしイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださっていなかったとしたら、また、死者の中からよみがえってくださっていなかったとしたら、いくら信じても、その信仰は空しいものになってしまいます。このような場合には、アブラハム、イサク、ヤコブも私たちも、信仰によって義とされることはありません。 ですから、アブラハム、イサク、ヤコブが信仰によって義とされたときの「根拠」は、アブラハム、イサク、ヤコブが信じた主の契約において約束されていた贖い主が、実際に、歴史の中で贖いの御業を成し遂げてくださったということにあります。アブラハムからは約1850年ほど後、ヤコブからは約1700年ほど後に、神さまが御子イエス・キリストをとおして、ご自身の契約の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことが、アブラハム、イサク、ヤコブが信仰によって義と認められたことの「根拠」であり「土台」であるのです。 このことに対して、実際に、御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださって、ご自身の契約の民の罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえってくださって、父なる神さまとのいのちの交わりに生きる永遠のいのちを獲得してくださったのは、アブラハムがこの世を去ってから約1850年ほど後、ヤコブからは約1700年ほど後なのに、どうして、アブラハム、イサク、ヤコブが信仰によって義と認められたのか、という疑問がわいてくるかも知れません。それは、これまでお話してきたことからお分かりのことと思いますが、神さまの契約の約束が確かなものであるからです。 そして、これらすべてのことの根底には、神さまが、 わたしは「わたしは在る。」である。 という御名によって呼ばれる方である、ということがあります。神さまは、ご自身が、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられます。そして、そのような方として、人類がご自身に対して罪を犯して堕落した直後から、贖い主を遣わしてくださると約束してくださったのです。 ですから、信仰によって義と認められたのは、アブラハムが最初ではありません。贖い主の約束は、創世記3章15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「蛇」の背後にあって人を罪に誘ったサタンに対するさばきの言葉のうちに示されています。 最初の人アダムは、この神である主の約束の言葉をとおして、罪によって死の力に捕らえられてしまった自分たちを、再び神さまとのいのちの交わりの中へと生かしてくださる贖い主は「女の子孫」として来てくださるということを信じたので、自分の妻を「エバ」と名づけたのであると考えられます。創世記3章20節には、 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。 と記されています。 これには、意味の重なりがあると考えられます。いちばん外側の意味としては、「エバ」から子どもたちが生まれてくるということを述べたものです。しかし、それだけではなく、それとともに、より深い意味があると考えられます。アダムは、実際に、エデンの園において神さまとのいのちの交わりを経験しています。それこそが人間が生きるということであるということを、身にしみて知っています。そして、自らの罪のために神さまとのいのちの交わりを失ったということが、死を意味しているということをはっきりと思い知らされていました。そのアダムにとって、この「生きているもの」とは、本来の意味で「生きているもの」のことであるはずです。そして、その「生きているもの」とは、自分の子孫すなわち「アダムの子孫」としてではなく「女の子孫」として来ると約束されていることを認めて、それを記念するためにこの名をつけたと考えられます。 また、創世記4章1節には、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。 と記されています。これは、エバが、カインが約束された贖い主ではないかと期待していたことを示す言葉です。実際には、カインはそのような者ではありませんでしたが、エバが神である主の約束を信じて、現実的に期待していたことは汲み取れます。 また、カインがアベルを殺してしまった後に、なおも、セツが生まれたときのことを記す、4章25節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」 と記されています。 エバは、 カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。 と言いました。この「もうひとりの子」の「子」と訳された言葉(ゼラァ)は、3章15節に出てくる「女の子孫」の「子孫」という言葉です。このエバの「もうひとりの子孫」という言葉は、エバが最初から「女の子孫」として来られる贖い主を信じて期待していたことを意味しています。 このように、人類が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後から、契約の神である主、ヤハウェは、贖い主を約束してくださいました。そして、最初の人アダムとその妻エバは、主の約束を信じて義と認められていたのです。 神さまがアブラハムに与えてくださった契約の約束には、贖い主の約束がないのではないかという思いを抱かれる方がおられるるかもしれません。しかし、創世記12章3節に記されていますように、神である主が、アブラハムに、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と約束してくださったとき、アブラハムは、その「祝福」が、地上的な繁栄のことではないと理解していました。ヘブル人への手紙11章、9節、10節に、 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。 と記されているとおりです。 それで、創世記22章18節に記されていますように、神さまが、さらに、アブラハムに、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と約束してくださったのは、贖い主をとおしての約束であると考えられるわけです。 また、このアブラハムへの約束は、人類の歴史の初めに、人が造り主である神さまに罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に与えられた「女の子孫」として来られる贖い主の約束を受け継ぐものです。「女の子孫」がさらに「アブラハムの子孫」に範囲が狭められたのです。 このように見ますと、贖い主の約束とその約束に対する信仰は、最初の人アダムとエバから、ノアなどの父祖を通して、アブラハムにまで、正確な年数は分かりませんが、とても長い間、途絶えることなく受け継がれて来たことが分かります。それは、もう、人間の力の限界を越えています。もし、単なる人間の言い伝えということであれば、それだけの長い年月の経過の中で、変質してしまっていたはずです。それで、私たちは、これらすべてのことの中に、契約の神「主」(ヤハウェ)が、確かに、 わたしは「わたしは在る。」である。 という御名をもって呼ばれる方であり、そのような方として働いていてくださって、贖い主の約束とその約束に対する信仰を受け継がせてくださっている、ということを見て取ることができます。 創世記15章6節には、アブラハムについて、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。この場合に、アブラハムが信じた「主」は、新改訳では太字になっていることから分かりますように、契約の神「主」(ヤハウェ)です。アブラハムの信仰に倣うということは、契約の神「主」(ヤハウェ)を、その御名のとおり、 わたしは「わたしは在る。」である。 として信じることです。それは、契約の神「主」(ヤハウェ)が最初の人に与えてくださった贖い主の約束とその約束に対する信仰が、歴史を通して連綿と受け継がれて、アブラハムに至ったという壮大な歴史 わたしは「わたしは在る。」である。 という御名をもって呼ばれる契約の神「主」(ヤハウェ)ご自身が、約束の通りに贖い主として来てくださって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったことを信じることです。 すでにお話しましたように、 わたしはまことのぶどうの木です。 というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが、 わたしは「わたしは在る。」である。 という御名をもって呼ばれる契約の神「主」(ヤハウェ)であられることに基づいて語られたもので、歴史を越えて受け継がれてきた私たちに対する契約の祝福を示しています。 |
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