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説教日:2002年6月9日 |
しかも、この御名の啓示は、モーセの、 今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。 という問いかけに、神さまが答えてくださったものです。 ここで、モーセは、イスラエルの民は、「あなたを遣わした神は、私たちにとって、どのような意味がある神ですか。」あるいは、「私たちの父祖の神は、どのような方として、あなたを私たちに遣わしたのですか。」と質問するだろうと予測して、それに対してどう答えたらいいのか尋ねていると考えられます。 ですから、この神さまの御名の啓示は、神さまが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって表示される方、すなわち「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられるということが、イスラエルの民にとって意味をもっていることを示しています。 そのことは、すでにお話ししましたように、神さまの御名が、まず、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 として啓示され、それが、 わたしはある。 に圧縮され、さらに、この、 わたしはある。 が「主」(ヤハウェ)として示されていることに表わされています。この、最後の「主」(ヤハウェ)という御名は、ご存知のように、「主」(ヤハウェ)が契約の神であられること、契約の神としてご自身の契約の民に深く関わってくださる方であることを意味しています。 これを逆に見ていきますと、契約の神として、ご自身の契約の民に深くかかわってくださる「主」(ヤハウェ)は、 わたしはある。 という方であり、さらに、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という方であるということになります。 このことから、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の啓示は、神さまが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを啓示してくださるものであるだけでなく、この方が、契約の神として、ご自身の契約の民に深く関わってくださる方であることを啓示するものでもあることが分かります。 この点をよりはっきりと示しているのが、15節の、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(ヤハウェ) という主の御名の啓示です。先週お話ししたとおり、これは、「主」(ヤハウェ)は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるということを伝えています。 これは、6節に記されていますように、主がモーセに、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われたことを受けています。 この、主の言葉も、70人訳においては、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされています。そして、この、ギリシャ語にした場合に強調形の現在時制で表わされるべき、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 という主の言葉が、モーセに向かって語られたということが、大切なことです。主は、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。」というように、過去形でご自身のことを示しておられるのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去って数百年後の人であるモーセにも、主は、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 という形で、ご自身を示してくださっているのです。 このことを念頭において、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということに注目したいと思います。 創世記17章7節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と記されていますように、主はアブラハムに契約を与えてくださり、アブラハムの神となられました。そして、アブラハムがこの世を去ってその子イサクの時代になった時、主はアブラハムの神であられることを止めることなく、イサクの神となられました。「アブラハムの神、イサクの神」となられたのです。同じように、ヤコブの代になった時には、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」となられました。 そして、さらに時代が巡ってモーセの時代になっても、主は、ご自身が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると言われました。そのことは、今日の私たちの時代にも変わりません。主は今日も「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。 このように、主が今日私たちの時代にも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるのは、主が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられるからです。 この、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(ヤハウェ) という主の御名は、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 という形で示されています。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(ヤハウェ) という主の御名は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブへの契約を覚えて、モーセをイスラエルの民のもとに遣わしてくださったこととのかかわりで示されているのです。このことも、「主」(ヤハウェ)という御名は、主がご自身の契約の民に深くかかわってくださる方であることを表わすものであるということを示しています。 これらのことから分かりますように、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(ヤハウェ) という御名の啓示は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられる「主」(ヤハウェ)が、歴史を通してご自身の契約に真実であられること、それゆえに、ご自身の契約の民に深く関わってくださることを意味しています。 そして、それは、二つの方向に現われてきます。 一つは、歴史的なことです。歴史の流れの中で時代状況がどのように変わっても、主が契約において約束されたことは必ず実現するということです。主の契約は歴史を通して継承されていきます。そして、その契約を受け継いだ者たちは、その契約の祝福にあずかっていきます。この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び方自体がそのことを示しています。 このことは、また、主の契約が、主の救いの御業の歴史、すなわち「救済史」を造るということを意味しています。その中心にあることに注目しますと、最初の人を罪へと誘った「蛇」の背後にあるサタンに対する主のさばきの言葉を記している創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されていますように、神である主は人類の堕落の直後に、贖い主を約束してくださいました。その約束は、一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約の最初の備えです。 その契約の約束は、歴史の流れの中で、より具体的な約束として示されるようになりました。主のアブラハムに対する約束を記している、創世記22章18節に、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されていますように、贖い主はアブラハムの子孫として来られることが約束されました。また、ダビデに対する約束を記している、サムエル記第二・7章12節、13節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されていますように、同じアブラハムの子孫の中でもダビデの子孫として来られることが約束されました。 そして、この約束は、永遠の神の御子が贖い主となるために、人の性質を取って来てくださったことによって成就しています。それまでの間の人類の歴史においては、ノアの時代の洪水や、アブラハムの子孫であるイスラエルの民の背教など、危機的な状況が何度もありました。しかし主は、ご自身の契約に対して真実であられて、その約束を確かに果たしてくださいました。 「主」(ヤハウェ)が歴史を通してご自身の契約に真実であられ、ご自身の契約の民に深く関わってくださるということのもう一つの方向は、いわば、個人的なことです。 契約の神である主は、ご自身の民一人一人に最後まで真実であられるということです。この「最後まで」というのは、この世にいる間ということで終わるものではありませんので、「いつまでも」あるいは「永遠に」と言い換えることができます。これは、先週取り上げましたルカの福音書20章37節、38節に記されています、 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。 というイエス・キリストの教えに示されています。 これは、たとえば、アブラハムだけに注目しますと、「主」(ヤハウェ)はご自身の一方的な恵みによって、アブラハムと契約を結んでくださり、アブラハムの神となられました。アブラハムは主の契約のうちに示された恵みにあずかって、主との交わりのうちに生きるようになりました。アブラハムは主に対して生きているものとなったのです。そのアブラハムが肉体的に死んだたとき、それで主がアブラハムの神であることをお辞めになったわけではありません。主はモーセの時代においてもアブラハムの神であられましたし、私たちの時代においても、アブラハムの神であり続けられます。主は、いのちそのものであられ、いのちあるすべてのもののいのちの源であられます。その主が、アブラハムの神であられるかぎりアブラハムは主との交わりのうちに生かされています。そのことを、イエス・キリストは、 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。 と言われました。 言うまでもなく、このことは、アブラハムという特別な人物について当てはまるだけでなく、主の契約の民である私たち一人一人に当てはまることです。 このように、旧約聖書における神さまの御名の啓示の頂点とも言うべき、出エジプト記3章13節〜15節に記されています、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の啓示は、神さまが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを啓示してくださるものであるとともに、神さまが、契約の神として、ご自身の契約の民に深く関わってくださる方であることをも啓示するものです。 そして、この契約の神である主が、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを示す、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 ということに基づいて、イエス・キリストは、ヨハネの福音書に記されています、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表現された、一連の自己啓示をしてくださっているのです。 それを、改めて見てみましょう。 一つ目は6章35節に記されています。そこでは、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 と言われています。 二つ目は8章12節で、 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 と言われています。 三つ目は、10章7節の、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。 という言葉と、9節の、 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 という言葉です。 四つ目は、10章11節の、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 という言葉と、14節の、 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 という言葉です。 五つ目は、11章25節、26節で、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と言われています。 六つ目は、14章6節で、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 と言われています。 そして、この15章1節の わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 という言葉が七つ目に当たります。また、5節でも、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と言われています。 これら七つのイエス・キリストの自己啓示が、「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされているということは、イエス・キリストこそが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる、契約の神である主(ヤハウェ)であられることを示しています。 そして、これら七つのイエス・キリストの自己啓示は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という契約の神である主(ヤハウェ)の御名が示していることを、さらに具体的に示していると考えられます。 すでにお話ししましたように、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名は、契約の神である主(ヤハウェ)が、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを啓示してくださるものであるとともに、神さまが、契約の神として、ご自身の契約の民に深く関わってくださる方であることをも示すものです。 契約の神である主(ヤハウェ)であられるイエス・キリストが、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であることが、ご自身の契約の民である私たちにとって、どのような意味を持っているかを示してくださったのが、七つの「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされている、イエス・キリストの自己啓示なのです。 具体的に見てみますと、イエス・キリストは、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる方であることに基づいて、 わたしがいのちのパンです。 と言われました。そして、このことは、イエス・キリストの契約の民である私たちに深く関わっていますので、 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 と教えられているのです。 そして、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれるイエス・キリストは、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられるので、 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 という、私たちイエス・キリストの契約の民への祝福は、私たちがこの世にある時だけでなく、この世を去って、イエス・キリストの御許に行くときにも変わることなく、私たちに対する祝福となってあふれます。 このことは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる主であられることに基づいて語られている、七つの「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされている、イエス・キリストの自己啓示のすべてに当てはまります。 イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる主であられるということを信じることです。 最後に、念のためということで、このことと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げられた贖いの御業との関係について、簡単にお話ししたいと思います。 イエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる主、すなわち、歴史を通して変わることなくご自身の契約に真実な主として、ご自身の契約の民である私たちに深く関わってくださいます。そのことのもっとも豊かな現われが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりです。 イエス・キリストは、私たちのために、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、栄光をお受けになって、3日目に死者の中からよみがえってくださって、私たちのいのちと祝福の源となってくださいました。このことによって、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる主であられるということに基づいて語られた、七つの「わたしは ・・・・ です。」(エゴー・エイミ ・・・・ )という強調形の現在時制で表わされている、イエス・キリストの自己啓示が示している祝福が、永遠に私たちに対する祝福として確立されているのです。 |
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