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説教日:2002年6月2日 |
イスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられているのは、神である主がイスラエルの民を目的をもって「植えられた」からです。イスラエルの民は、主のみこころによって、主の契約の民として召されました。その召しについて、出エジプト記19章4節〜6節には、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という神である主の御言葉が記されています。 イスラエルの民は、主にとって「祭司の王国、聖なる国民」となるために、エジプトの奴隷の身分から贖い出されました。それは、「すべての国々の民の中にあって」のことであり、主が「全世界はわたしのものである」と言われることに基づくことです。イスラエルの民は、主の一方的な恵みによって奴隷の身分から贖い出されたものとして、自分たちの存在をとおして、主の贖いの恵みを「すべての国々の民」にあかしする使命を負っていたのです。 イスラエルの民にこのような使命が委ねられたことには、歴史的な背景があります。天地創造の初めに、神さまは、人を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。造り主である神さまとの交わりに生きることが、「神のかたち」に造られている人間のいのちの本質です。しかし、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人間はそのいのちを失ってしまいました。 イスラエルの民は、神である主が一方的な恵みによって人間の罪を贖ってくださって、ご自身との交わりを回復してくださる道を開いてくださるということを、自分たちの存在をとおしてあかしする使命を委ねられました。 そのために、まず、イスラエルの民自身が、主の契約の民の地上的な「ひな型」として、主のあわれみと恵みにあずかって「祭司の王国、聖なる国民」となったのです。そして、罪を宿す人間をとりこにする力を表わす地上的な「ひな型」であるエジプトという強大な帝国の奴隷の身分であったのに、主の御手によって解放されました。そして、主の契約の民とされて、主の栄光のご臨在の御前に生きるものとされました。そのために、主の栄光のご臨在を表わす地上的な「ひな型」である聖所が与えられ、さらに、主の御前に近づくために罪の贖いがなされることを示す地上的な「ひな型」としての動物のいけにえの制度も与えられました。 ところが、イスラエルの民は、自分たちに委ねられた使命を忘れてしまって、周囲の国々と同じように、数の力や、軍事的な力、経済的な力などの血肉の力を頼みとしてしまいました。主の契約の御言葉の上に国家を建設するのではなく、周囲の国々にならって王を立て、周囲の国々の神々を導入して、それらを中心として国家を建設し、文化を形成しようとしました。それによって、イスラエルもこの世の国家の一つになってしまい、主にとって「祭司の王国、聖なる国民」であることの実質を失ってしまいました。約束された贖い主を通してなされる主の贖いの御業をあかしするために召された唯一の民が、委ねられた使命を見失ってしまったら、この世に救いの恵みを示す光はなくなってしまいます。 そのようなイスラエルの民の姿に対して、主は、 わたしは、あなたをことごとく 純良種の良いぶどうとして植えたのに、 どうしてあなたは、わたしにとって、 質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。 と嘆いておられるのです。 これに対して、イエス・キリストは、「祭司の王国、聖なる国民」としてのイスラエルの民が地上的な「ひな型」としてあかししていた契約の神である主の恵みを、すべて成就してくださいました。人となって来てくださったイエス・キリストは、ご自身の民の間にご臨在される栄光の主です。そして、その十字架の死は、「ひな型」であるさまざまな動物のいけにえが表わしていた贖いの恵みをすべて成就するものでした。そして、十字架の死に至るまでの従順によって獲得してくださった復活の栄光は、ご自身の契約の民を栄光の主のご臨在の御前に近づくためにふさわしく栄光化してくださるものです。その意味で、イエス・キリストは、イスラエルの民に与えられた使命を、原理的に、あらゆる点で成就された「まことのぶどうの木」であられるのです。 このこととの関連で、今日、特に、注目したいことがあります。イエス・キリストは、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言っておられます。これは、強調形の「わたしは ・・・・ です」(エゴー・エイミ ・・・・ )という言い方です。これと同じ強調形で、イエス・キリストがご自身のことを「わたしは ・・・・ です」と言われたのは、ヨハネの福音書の中では、これ以外にも6回あります。全体で7回になるわけです。 これ以外の個所を見てみますと、6章35節では、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 と言われています。この、 わたしがいのちのパンです。 という言葉が、強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方で表わされています。 以下同じですが、8章12節では、 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 と言われています。 10章9節では、 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 と言われています。同じことは、7節にも、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。 と記されています。 10章11節では、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 と言われており、14節でも、 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 と言われています。 11章25節、26節では、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と言われています。そして、14章6節では、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 と言われています。 そして、この15章1節の わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 という言葉がその最後の7番目に当たります。 これらの御言葉において用いられている強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方(エゴー・エイミ ・・・・ )は、旧約聖書に記されている、契約の神である主の御名の啓示に基づくものです。契約の神である主の御名の啓示につきましては、すでに、いろいろな機会にお話ししたことがありますが、ここで改めてお話しします。 出エジプト記3章1節〜8節には、 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。 と記されています。 ここで、主は、モーセに、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われて、ご自身のことをお示しになりました。 これは、主が、ご自身の一方的な恵みによってアブラハムを召し、アブラハムと契約を結んでくださったことに基づいています。その契約は、主が、アブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださるという契約でした。創世記17章7節、8節に記されていますように、主はアブラハムに、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と約束してくださいました。 その契約のとおりに、主は、アブラハムの神となってくださっただけでなく、イサクの神となってくださり、ヤコブの神となってくださいました。さらに、このモーセの時代には、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に、ご自身を現わしてくださいました。 このことの中に、人間の歴史の流れの中で、どのように時代が変わっても、契約の神である主の真実さは変わらないということが示されています。 そして、この契約の神である主の真実さによって、イスラエルの民は、エジプトの奴隷の身分から贖い出され、主にとって「祭司の王国、聖なる国民」となる使命を委ねられたのです。それも、創世記22章18節に記されています、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という、アブラハムに対する主の約束に基づいています。 このように、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主の御名は、契約の神である主の真実さを表わしています。このことは、死人のよみがえりにかんするサドカイ派の人々との論争の中で、イエス・キリストが語っておられるところでもあります。 ルカの福音書20章37節、38節には、 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このイエス・キリストの教えのポイントは、 死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで ということと、 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。 ということです。 まず、 死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで ということについてですが、人間の目からは、モーセの時代にはアブラハムもイサクもヤコブも過去の人でした。しかし、そのモーセの時代に、神さまは、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として示されました。かつて「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であったということではなく、モーセの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるということです。そして、同じ論理で、神さまは、今この私たちの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。 これに続いて、イエス・キリストは、 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。 と言われました。 これによって、神さまが、今この時も、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるのであれば、アブラハムもイサクもヤコブも、今この時、神さまに対して生きているということが示されています。もちろん、神さまとの愛といのちの交わりにあって生きているのです。 そして、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということは、特に、神さまがアブラハムに、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 というご自身の契約をお与えになったこととかかわっています。神さまは、ご自身の契約に対して真実であられ、イサクの時代には、アブラハムへの契約のゆえにイサクの神となられました。もちろん、アブラハムの神であることをお辞めになったわけではありませんから、「アブラハムの神、イサクの神」となられたわけです。それは、さらに、ヤコブの時代にも受け継がれました。そのようにして、主は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」となられました。 これらのことから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主の御名について、さらに一つのことが見えてきます。この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主の御名は、すでにお話ししましたように、主が歴史を通して常に、ご自身の契約に対して真実であられるということを示しています。そして、これらのことから、その主の真実は、ご自身の民が地上にある時に、その人に対して真実であられるというだけではなく、その人がこの世を去った後も、その人に対して真実であり続けてくださり、その人の神であり続けてくださるということが分かります。 出エジプト記3章13節〜15節には、 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 と記されています。 ここには、契約の神である主の御名が啓示されたことが記されています。 その御名は、14節で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と言われています。この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 全体が契約の神である主の御名です。そして、その後の、 わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。 という主の御言葉において、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名が「わたしはある」に圧縮されています。そして、この「わたしはある」が、15節で、「主」(ヤハウェ)という固有名詞として示されています。 このこととの関連で、二つのことに注目しておきたいと思います。 一つは、13節〜15節前半までは、一貫して「神」という言葉が用いられていて、ご自身の御名を啓示してくださることとのかかわりで初めて、「主」(ヤハウェ)という固有名詞が示されているということです。それで、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という主の御名が「わたしはある」に圧縮され、さらに、「主」(ヤハウェ)という固有名詞で示されていると考えられます。 もう一つは、この「主」(ヤハウェ)という御名は、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主[ヤハウェ] として示されているということです。原文のヘブル語では「主」(ヤハウェ)が先に出てきて、それに、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 が続いています。つまり、「主」(ヤハウェ)が、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 として説明されているのです。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という神の御名についてはさまざまな見方がありますが、これまでお話ししたことからも分かりますように、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という言葉と、その圧縮された形である「わたしはある」という言葉、さらに「主」(ヤハウェ)は同じ意味を伝えていると考えられます。 そして、先ほどお話ししましたように、「主」(ヤハウェ)という御名は、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主[ヤハウェ] という形で示されています。それで、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名は、神さまが歴史を通して変わることなく、常に、ご自身の契約に対して真実であられる方であることを示していると考えられます。そして、その主の真実は、ご自身の民が地上にある時だけでなく、その人がこの世を去った後にも、変わることなくその人に対して示されるということを意味しています。 そして、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名は、旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳では、 わたしは『在る者』です。(エゴー・エイミ・ホ・オーン) と訳されています。これは、まさに、「わたしは ・・・・ です」(エゴー・エイミ ・・・・ )という形の表現です。 そして、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の圧縮された形である、「わたしはある」という言葉をギリシャ語で表わしますと、「エゴー・エイミ」になります。 この歴史を通して変わることなく、常に、ご自身の契約に対して真実であられる方であることを示している主の御名である、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 あるいは、 わたしはある。 に基づいて、ヨハネの福音書に出てくる、強調形の「わたしは ・・・・ です」(エゴー・エイミ ・・・・ )という言葉によって表わされている、イエス・キリストのご自身にかんする7つの教えがなされています。 これは、何よりもまず、イエス・キリストこそが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって表わされる、真実な契約の主であられることを示しています。 このことから、前回まで詳しくお話ししてきましたように、イエス・キリストが、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言われて、ご自身が、主の契約の民イスラエルの本質を、原理的にですが、すべて実現しておられるということが理解できます。イスラエルが主の契約の民としての本質を保ち続けることができるのは、イスラエルの民の資質によるのではなく、主が、歴史を通して変わることなく真実であられて、ご自身の契約を守ってくださるからです。そして、その契約において示された約束は、すべて、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名においてご自身を表わされた、御子イエス・キリストにおいて成就しているのです。 それとともに、これらの強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方によって示されているのは、イエス・キリストが、「わたしは ・・・・ です」と言われたことが、イエス・キリストを契約の主とする私たちにとって意味をもっているということです。イエス・キリストは、 わたしがいのちのパンです。 と言われました。そして、そのことが、私たちに、 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 という祝福をもたらしていると言われています。 また、イエス・キリストは、 わたしは、世の光です。 と言われました。そのことが、私たちに、 わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 という祝福をもたらしています。同じように、 わたしは門です。 ということは、 だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 という祝福をもたらします。 これで十分だと思いますが、これらの強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方によって示されているイエス・キリストがどなたであられるかということが、そのまま、私たちへの祝福の土台となっているのです。 しかも、その祝福は、私たちが地上にある間だけのことではなく、私たちがこの世を去って主の御許に行くときにも変わることがありません。 それで、イエス・キリストの、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 という言葉も、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって表わされる、真実な契約の主であられることがもたらす、私たち、主の契約の民への祝福を意味しています。そして、その祝福は、私たち、主の契約の民が主の御前に良い実を結ぶことに現われてきます。 実は、強調形の「わたしは ・・・・ です」という言い方によって、イエス・キリストが「ぶどうの木」であられることが、5節においても示されています。そこでは、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 と言われています。 人間の歴史的な状況がどのように変わっても、ご自身の契約に常に真実であられる主が、ご自身のことを、 わたしはぶどうの木です。 という言葉によって啓示してくださいました。そして、ここでは、このことに基づく主の契約の民への祝福が、私たちに良い実を豊かに結ばせてくださることであるということが、はっきりと示されています。 私たちが「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに連なる「枝」であることは、永遠に変わることがありません。それは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって表わされる主であられるからです。 |
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