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説教日:2002年5月19日 |
まず、古い契約の下にあったイスラエルの民が「ぶどうの木」であるということですが、イザヤ書5章7節には、 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。 ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。 と記されており、1節、2節には、 わが愛する者は、よく肥えた山腹に、 ぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、 そこに良いぶどうを植え、 その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、 甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。 ところが、酸いぶどうができてしまった。 と記されています。 また、エレミヤ書2章21節には、 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。 という、ユダの人々に対して語られた神である主の言葉が記されています。 旧約聖書においては、「まことのぶどうの木」ではない「ぶどうの木」は、基本的に、古い契約の民であるイスラエルを指しています。 イスラエルの民は、神である主の確かな目的の下にエジプトの奴隷の身分から贖い出されました。主は、紅海においてその水を分けてイスラエルの民を救い出し、同じ水でエジプトの軍隊をおさばきになりました。その時に、モーセとイスラエルの民が歌った歌の一部を記している出エジプト記15章17節、18節には、 あなたは彼らを連れて行き、 あなたご自身の山に植えられる。 主よ。御住まいのために あなたがお造りになった場所に。 主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。 主はとこしえまでも統べ治められる。 と記されています。 主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださったのは、彼らをご自身の「御住まい」である「聖所」に住まわせてくださるためでした。ここで、 あなたは彼らを連れて行き、 あなたご自身の山に植えられる。 と言われていることは、イスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられることにつながっています。 さらに、19章4節〜6節には、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と記されています。 イスラエルは主の契約の民として、「祭司の王国、聖なる国民となる」という使命を託されていました。そのために、主は、イスラエルの民をご自身の「御住まい」である「聖所」に住まわせてくださったのです。イスラエルの民は自分たちの考えやイメージにしたがって、自分たちの思い描く「祭司の王国、聖なる国民」になるのではありません。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら という主の御言葉に示されていますように、主の御声に聞き従い、主の契約を守ることによって、主のご臨在の御前に住まう「祭司の王国、聖なる国民」としてのあり方が、イスラエルの民の間に実現します。 ここで言われていることは、主の契約の民としてのあり方のことです。イスラエルの民が主の契約の民とされたことは、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約に基づくことであり、出エジプトの贖いの御業によることでした。それは主の一方的な恵みによることであって、イスラエルの民の資質によることではありません。そのように、主の一方的な恵みによって主の契約の民とされているイスラエルの民は、主の御声に聞き従い、主の契約に忠実であることによって、主の契約の民としての実質をもつようになるのです。 しかし、実際には、イスラエルの民は主の契約を破り、御前に背教し、偶像に仕えるようになってしまいました。ホセア書9章10節に、 わたしはイスラエルを、 荒野のぶどうのように見、 あなたがたの先祖を、 いちじくの木の初なりの実のように見ていた。 ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、 恥ずべきものに身をゆだね、 彼らの愛している者と同じように、 彼ら自身、忌むべきものとなった。 と記されており、10章1節、2節に、 イスラエルは 多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。 多く実を結ぶにしたがって、 それだけ祭壇をふやし、 その地が豊かになるにしたがって、 それだけ多くの美しい石の柱を立てた。 彼らの心は二心だ。 今、彼らはその刑罰を受けなければならない。 主は彼らの祭壇をこわし、 彼らの石の柱を砕かれる。 と記されているとおりです。 そして、このことが、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 というイエス・キリストの言葉の直接的な背景となっていると考えられます。 ここで、「原理的に」という言葉の説明をしておきたいと思います。英語ではイン・プリンシプル( in principle)と言います。物事がきちんと計画どおりに運んでいくためには、それを根本から律して導いている原理的なことがうまく働いている必要があります。神さまの救いのご計画の実現においても、その根本的な原理が働いています。「原理」といいますと、抽象的な法則や力のような気がしますが、神さまの救いのご計画の実現にかかわる原理は抽象的なものではありません。それは、人の性質を取って来てくださったイエス・キリストご自身です。今お話ししていることとの関係で言いますと、イエス・キリストが、 わたしはまことのぶどうの木です。 と言われたことにあります。イエス・キリストこそが、「まことのぶどうの木」であり、父なる神さまのみこころにかなった実を結ぶ方であるということが、父なる神さまが人類の救いのために立てられたご計画の実現にとって、決定的な意味をもっているのです。 イエス・キリストは、主の契約の民イスラエルに委ねられていた主のご臨在の御前に住まう「祭司の王国、聖なる国民」としての使命を、「原理的に」実現しておられます。ここで「原理的に」というのは、主の契約の民イスラエルに委ねられた使命の実現に必要な土台はイエス・キリストが据えてくださり、後は、それが、歴史をとおして、イエス・キリストの血による新しい契約の民の間で実現していくだけであるという状況になっているからです。 そのような意味で、古い契約のもとに備えられた地上の「ひな型」が表わし、あかししていたものの「本体」は、すべて、イエス・キリストにおいて集約されて実現しています。 改めて、そのことを見てみましょう。 地上のイスラエルの民は古い契約のもとにありました。古い契約は、動物のいけにえの血によって確立されました。ヘブル人への手紙9章18節に、 したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。 と記されています。 これに対して、イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流された血をもって、新しい契約を確立してくださいました。同じヘブル人への手紙9章11節〜15節に、 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。 と記されているとおりです。 イスラエルが主の契約の民であることの最も大切な現われは、彼らの間に主のご臨在があるということです。その主のご臨在は聖所によって表示されていました。イエス・キリストは地上の聖所の成就としてまことの聖所であり、また、御霊によって聖所にご臨在される栄光の主ご自身でもあられます。ヨハネの福音書1章14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されており、2章19節〜22節に、 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されているとおりです。 また、イエス・キリストは地上の聖所で仕えた大祭司の成就として、まことの聖所において仕える大祭司であられます。さらには、地上の聖所においては、いくつかの意味をもった動物のいけにえが繰り返しささげられました。それらのいけにえは、主が備えてくださっている贖いの意味の豊かさと多様さを表わしていました。イエス・キリストはそれらすべての「ひな型」が示しているいけにえの意味を、十字架の上でささげられたご自身のからだといういけにえによって、すべて成就し、実現してくださいました。ヘブル人への手紙7章27節、28節に、 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。 と記されているとおりです。 また、イエス・キリストは地上の生涯を通して、律法に示されている父なる神さまのみこころに従い通されました。それによって、私たちのために義を確立し、栄光を獲得してくださいました。ローマ人への手紙5章17節〜19節に、 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 と記されているとおりです。 また、10章4節には、 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。 と記されています。ここは、人が義と認められることをめぐって、律法の終わりのことを述べています。その根底には、イエス・キリストが律法に従い、律法の要求をすべて満たしてくださったということがあります。 このように、イエス・キリストは、古い契約のもとにあったイスラエルの存在の意味をすべて、原理的また集約的に実現しておられます。その意味で、イエス・キリストこそは「まことのイスラエル」であられます。そして、それで、イエス・キリストは「まことのぶどうの木」であられます。 主が、イスラエルの民を主のご臨在の御前に住まう「祭司の王国、聖なる国民」として召してくださったことには、より広い目的がありました。それは、イスラエルの民を越えて、人類の救いのご計画にかかわることです。 先週お話ししたが、創世記1章26節〜28節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているように、天地創造の初めに、人間は、「神のかたち」に造られて、この世界のすべてのものを神さまのご栄光のために治める使命を委ねられています。 人間は、肉体と霊魂から成り立っている「神のかたち」として、この物質的な世界に置かれました。そして、神さまがお造りになったものをいつくしみ、それらが本来の特性を生かして存在できるように、仕えていくように召されています。それによって、神さまがお造りになったこの世界が、より豊かでいのちに満ちた世界として整えられていくのです。さらに、「神のかたち」に造られている人間が、自らに委ねられたものを代表する形で、造り主である神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することによって、造られたすべてのものが、造り主である神さまに対する感謝と讃美に連なって礼拝に参与するようになるのです。 人間は、「神のかたち」に造られて、このような使命を委ねられたものであるという意味で、確かな目的のもとに植えられた「ぶどうの木」にたとえられます。 しかし、人類はアダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。すべての人はその罪責を負い、自らのうちに罪の性質を宿す者として生まれてきます。そして、実際に、その生涯の間、思いと言葉と行ないにおいて、造り主である神さまに対してさまざまな罪を犯してしまいます。 もし主が、御前に堕落してしまっている人間の罪が、そのままの姿をむき出しにすることをお許しになっていたとしたら、たちまちのうちに、地上は恐るべき世界となり、罪の升目を満たして、主の最終的なさばきを招くに至っていたことでしょう。そのことは、歴史の中で一度だけ、それも終末のさばきの「ひな型」として、起こりました。それがノアの時代の大洪水によるさばきです。ノアの時代の時代状況を記している創世記6章5節〜7節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。 これが、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間の「正体」です。 ここで「正体」というのは、実際には、その姿がむき出しになって現われてはいないからです。それは、これからお話しします、神さまの恵みの備えによることです。 これに対して、神である主は、恵みによって、二つの備えをしてくださいました。 一つは、一般恩恵による聖霊のお働きです。これによって、人間の罪がそのままの姿をむき出しにして現われてこないように抑制してくださっています。そして、人間が罪の升目を満たして、神さまのさばきを招くことがないようにしてくださっているのです。それとともに、より積極的に、一般的な意味での良いことを追い求め、社会的な正義や公正を実現しようとする思いを啓発し、さまざまな分野での文化を形作る働きを支え、導いてくださっています。これによって、歴史が造られていくようにしてくださっています。 ただし、この一般恩恵は、贖いの恵みではありませんので、人間の罪を聖めるものではありません。一般恩恵に基づいてお働きになる御霊のお働きによって支えられている人間の活動には常に罪の陰と腐敗の汚染が付着しています。それで、その行ないが人間の目にどんなにすばらしく見えても、それによって神さまの御前に義を立てることにはなりません。 そればかりか、ノアの時代ほどは徹底していませんが、人類の歴史の中では、しばしば、ある地域や国家の罪が極まって造り主である神さまのさばきが執行されることによって初めて、それまでの罪が清算されるというようなことも繰り返されてきました。このような人間の姿が、先週引用しました申命記32章32節、33節では、 ああ、彼らのぶどうの木は、 ソドムのぶどうの木から、 ゴモラのぶどう畑からのもの。 彼らのぶどうは毒ぶどう、 そのふさは苦みがある。 そのぶどう酒は蛇の毒、 コブラの恐ろしい毒である。 と描写されています。 神である主が備えてくださっているもう一つの備えは、贖い主と贖い主が成し遂げてくださる贖いの御業です。 人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後から、神さまは贖い主と贖い主による贖いの御業を約束してくださいました。人を罪に誘った「蛇」に対するさばきをを記す、創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されているとおりです。これは、罪を犯した人間の権利ではなく、神さまが一方的な愛と恵みによって備えてくださったものです。 神さまが備えてくださった二つの備えのうち、最初にお話ししました、一般恩恵による聖霊のお働きは、いわば、人類の歴史を保持してくださるための備えです。それは、この贖い主と、贖い主によって贖いの御業が成し遂げられるという約束を支えるという意味をもっています。というのは、贖い主は人間の歴史の中に生まれてこられて、歴史の中で贖いの御業を成し遂げてくださるからです。 その贖い主が来てくださる前に、人間の罪の升目が全面的に満たされてしまったとしたら、神さまはご自身の聖さと義のために、最終的なさばきを執行しなければならなかったはずです。そうしますと、そこで歴史は終わってしまい、贖いの御業が実現しないまま、人類はすべて自らの罪に対するさばきを受けて、滅びてしまうことになってしまいます。 また、もし贖い主が来て贖いの御業を成し遂げてくださらないのに、ただ、人類の歴史だけが引き伸ばされたとしても、空しいことになってしまいます。贖いの御業がなされないのであれば、どんなに歴史が続いたとしても、いずれそのうちに救いの道が開けてくるというようなことはありません。すべては、ローマ人への手紙2章5節に、 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 と記されているようなことになってしまいます。 贖い主が成し遂げてくださる贖いの御業は、天地創造の初めに、神さまが「神のかたち」に造られた人間に委ねてくださった、ご自身がお造りになったすべてのものを治める使命を回復し、完成に至らせてくださるものです。その意味では、贖い主こそが、歴史の鍵を握っておられます。 先週お話ししましたように、イエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、天地創造の初めに人が「神のかたち」に造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられたことを、集約的にまた原理的に、実現されました。 ヘブル人への手紙2章5節〜10節には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストが、「神が多くの子たちを栄光に導く」ために贖いの御業を成し遂げられた「救いの創始者」であられると言われています。その意味では、主の契約の民イスラエルがあかししていたことが、イエス・キリストによって成就していることが示されています。しかし、ここでは、それ以上に、イエス・キリストが、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人に委ねられた、すべてのものを治める使命を、原理的に実現された新しい人類の創始者でもあられることが示されています。 この意味で、イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにそった実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられます。 このような恵みと祝福をもたらしてくださる贖い主は、歴史の中の具体的な時と場所に生まれてきます。実際には、そのことが、イスラエルの父祖であるアブラハムに約束されました。創世記12章3節に、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と記されており、さらに、22章18節に、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されているとおりです。 イスラエルの民は、父祖アブラハムに与えられたこの祝福をあかしするために、主のご臨在の御前に住まう「祭司の王国、聖なる国民」として召されたのです。ですから、イスラエルの民は、自分たちの存在をとおして、神である主の贖いの恵みを「地上のすべての民族」にあかしするために召されていました。イスラエルの民がエジプトの奴隷であったのも、自らの罪と、それをとおして人を奴隷化する悪魔の支配に縛られている人間の現実を、地上的なあり方において示していました。そして、そのエジプトの地にさばきが下されたことをとおして、神である主に逆らうすべてのものに対するさばきが執行されることが示されました。また、イスラエルの民が、そのような奴隷の身分から贖い出されたことをとおして、主が成し遂げてくださる贖いの御業が、人間の良さや資質によらないで、ただ主の一方的な愛と恵みによって備えられたものであることが示されています。 さらに、イスラエルが主のご臨在の御前に住まうようにと、聖所を与えられたのは、贖いの恵みにあずかって主の契約の民とされた民に与えられる主の契約の祝福が、主とのいのちの交わりであること、そして、それが、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間が、主のご臨在される「エデンの園」に住まい、礼拝を中心とした主との愛といのちの交わりの中に生きるようにされた祝福と、その交わりにあって、委ねられた使命を果たしていく祝福を回復することであることを、あかししていました。 主の契約の民イスラエルは、主のご臨在の御前に住まう「祭司の王国、聖なる国民」として、このような使命を委ねられていました。その意味で、主が植えられた「ぶどうの木」でした。それが、本来の使命を見失って、「まことのぶどうの木」ではなくなってしまいました。 イエス・キリストが父なる神さまのみこころにそった実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられるということは、イエス・キリストが、主の契約の民イスラエルが、不十分ながらも、その存在をとおしてあかししていた、主の一方的な愛と恵みによって成し遂げられる贖いの御業を、集約的にまた原理的に成就されたということを意味しています。 それは、また、イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業をとおして、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の本来の姿を回復してくださり、人間に委ねられた使命をも、集約的にまた原理的に成就されたということを意味しています。 イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であられることは、その「枝」にたとえられている私たちのあり方を決定しています。私たちは、父なる神さまのみこころにそった実を結ぶ「まことのぶどうの木」の「枝」であるので、実を結ぶことができます。また、イエス・キリストが父なる神さまのみこころにそった実を結ぶ「まことのぶどうの木」であられるので、必ず、その実は結ばれます。それは、イエス・キリストが私たちをとおして結んでくださる実ですので、歴史的な意味をもっていて、神さまの創造の御業と贖いの御業の目的を実現するものです。 |
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