(第81回)


説教日:2002年5月12日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 今日もヨハネの福音書15章1節〜16節に記されている、「ぶどうの木」とその「」のたとえを用いたイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 先週は、1節に記されている、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

というイエス・キリストの言葉に注目しまして、イエス・キリストがご自身のことを「まことのぶどうの木」であると言われたことの意味についてお話ししました。
 イエス・キリストは、ただご自身が「ぶどうの木」であると言われたのではなく、「まことのぶどうの木」であると言われました。それは、「まことのぶどうの木」ではない「ぶどうの木」があることを意識してのことです。
 先週は、その「まことのぶどうの木」ではない「ぶどうの木」とは、古い契約のもとにあったイスラエルのことであるということと、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストにおいて、主の契約の民であるイスラエルの本質がすべて実現しているということをお話ししました。今日は、それをさらに広い視野から見てお話ししたいと思います。


 「ぶどうの木」を地上の民を表わす表象として用いることは、すでに、申命記32章に記されている「モーセの歌」の中で見られます。32章32節、33節には、

  ああ、彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から、
  ゴモラのぶどう畑からのもの。
  彼らのぶどうは毒ぶどう、
  そのふさは苦みがある。
  そのぶどう酒は蛇の毒、
  コブラの恐ろしい毒である。

と記されています。
 これは、主の契約の民イスラエルに敵対している民のことを述べるものです。その民は、罪を犯して背教してしまうイスラエルの民を、主がおさばきになるときに用いられるものです。しかし、それは、その民が優れているからではありません。むしろ、その民は、ここに、

  ああ、彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から、
  ゴモラのぶどう畑からのもの。

と述べられていますように、悪と腐敗に満ちた民でした。ここでは、そのような民が用いられて主のさばきが執行されるほどに、イスラエルの民の不信仰と背教がひどいものであるということが示されています。そして、この後の部分においては、主が、主の契約の民イスラエルに敵対している民をも、彼ら自身の悪と腐敗のために、おさばきになることを示しています。
 先週お話ししましたように、主の契約の民イスラエルを「ぶどうの木」にたとえることは預言者たちの間に見られることです。そして、そのほとんどの場合が、イスラエルが主の御前に罪を犯して背教してしまったことと、それに対する主のさばきが執行されるようになることを表わしています。その代表的な例として、先週も引用しました、イザヤ書5章1節〜7節を見てみましょう。そこには、

  「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
  そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
  わが愛する者は、よく肥えた山腹に、
  ぶどう畑を持っていた。
  彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、
  そこに良いぶどうを植え、
  その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、
  甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
  ところが、酸いぶどうができてしまった。
  そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、
  さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
  わがぶどう畑になすべきことで、
  なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。
  なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、
  酸いぶどうができたのか。
  さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。
  わたしがわがぶどう畑に対してすることを。
  その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、
  その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
  わたしは、これを滅びるままにしておく。
  枝はおろされず、草は刈られず、
  いばらとおどろが生い茂る。
  わたしは雲に命じて、
  この上に雨を降らせない。」
  まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。
  ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。
  主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。
  正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。

と記されています。
 ここでは、主が「良いぶどう」を植えて、よく手入れをされて「甘いぶどう」の実がなることを期待しておられたのに、その木は「酸いぶどう」をならせてしまったことが記されています。これによって、主の契約の民イスラエルが主の御前に背教してしまったことが示されています。そして、そのことを受けて、主がイスラエルの民をおさばきになることが預言的に語られています。
 このことと、先ほど引用しました申命記32章32節、33節に記されていることを合わせて見ますと、主の契約の民イスラエルも、それに敵対している民も、主の御前に堕落している点においては、変わりがないことが分かります。人間としての資質という点では、イスラエルの民もそれに敵対する民も同じように、自らのうちに罪を宿していて、実際にさまざまな罪を犯しており、造り主である神さまのみこころを悲しませているということです。
 先週は、「酸いぶどう」をならせるようになってしまったイスラエルの民に対して、イエス・キリストが、ご自身のことを「まことのぶどうの木」であると言われたということをお話ししました。それは、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えを理解するうえでとても大切なことです。
 それとともに、申命記32章32節、33節では、主の契約の民イスラエルに敵対している民も「ぶどうの木」にたとえられて、「毒ぶどう」をならせるものであると言われています。このことから、イエス・キリストは、主の契約の民イスラエルだけでなく、それに敵対する民をも含めて、人類全体が「酸いぶどう」や「毒ぶどう」をならせるものであることに対しても、「まことのぶどうの木」であられるということが、おぼろげながら見えてきます。このことは、聖書を全体的に見ることをとおして、はっきりしてくることです。今日は、このことについてお話しすることになります。
 このこととの関連で、先週お話ししたことで、もう一つ思い出していただきたいことがあります。主がご自身の契約の民であるイスラエルを「ぶどうの木」にたとえておられるのは、「ぶどうの木」がぶどうの実を結ぶという、一つの確かな目的のもとに植えられるものであるからです。「ぶどうの木」は、実を結ぶことがなければ、木そのものとしては他に何の使いようがないものです。それで、「ぶどうの木」が実を結ばなければ、「ぶどうの木」としての存在の意味を失ってしまいます。
 そのことが、ヨハネの福音書15章2節に記されている、

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

というイエス・キリストの教えや、6節に記されている、

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

という教えの背景となっています。
 「ぶどうの木」が一つの確かな目的のもとに植えられるものであるということは、主の契約の民イスラエルだけでなく、同じように「ぶどうの木」にたとえられている、イスラエルに敵対している民にも当てはまります。イスラエルもそれに敵対している民も「ぶどうの木」にたとえられているのは、主の御前においては、すべての民が同じように、ある目的をもって存在しているからです。
 それでは、その目的とはどのようなものでしょうか。それは、神さまの「永遠のみこころ」において定められているものですが、天地創造の御業によって示されるようになりました。創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 天地創造の初めに、人間は「神のかたち」に造られて、神さまがお造りになったこの世界を治めるようにとの使命を与えられました。人間は、神である主のご臨在されるエデンの園に置かれて、主の御前での礼拝を中心として、主との交わりをもち、主から委ねられた使命を果たしていました。
 人間は、「神のかたち」に造られて、この世界に置かれたものとして、この世界において神さまを代表するものであるだけでなく、目に見えない神さまを、自分の存在と生活をとおして現わしてあかしするものでした。
 もし、この世界に「神のかたち」に造られている人間が存在しなかったとしたら。どうなったでしょうか。
 考えようによっては、自然が守られ、生きものたちが絶滅させられることもなく、さまざまな生きものが生きていただろうとも考えられます。しかし、人間が自然を自分の都合によって作り変え、環境を破壊してしまったのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためのことです。いま考えているのは、人間が「神のかたち」に造られたことの意味です。
 もし、「神のかたち」に造られている人間が存在していなかったとしたら、この物質的な側面をもった世界において、造り主である神さまのことをわきまえて、神さまを礼拝する存在はいなくなってしまいます。―― 「物質的な側面をもった世界において」というのは、物質的な側面をもっていない御使いたちを除いて考えているからです。自然界の活動は繰り返され、花は咲き乱れ、生きものたちも動き回ることでしょうが、その中には、自分たちの造り主である神さまをわきまえて、感謝と讃美をもって神さまに礼拝をささげて、神さまに栄光を帰する存在はいなくなってしまいます。
 だからといって、神さまが、寂しいとかつまらないと思われるということではありません。神さまは無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。三位一体の御父、御子、御霊の間に無限の愛の通わしがあり、神さまは、常にまた永遠に、全く充足しておられます。
 神さまが、この世界に「神のかたち」に造られている人間を置いてくださったことによって、人間が、この造られた世界の側から、造り主である神さまに向かって応答するようになりました。この世界にあっては、ひとり、「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまをわきまえて、神さまの愛といつくしみを受け止め、感謝と讃美をもって礼拝をささげ、神さまに栄光を帰する存在です。
 もちろん、「神のかたち」に造られている人間がいなかったとしても、この世界は神さまの御手の作品ですから、神さまの知恵と力といつくしみを反映して表わしたことでしょう。人格的な応答ではありませんが、それとして、造り主の栄光を現わしています。そして、それも、広い意味での礼拝と言えます。しかし、この世界に「神のかたち」に造られている人間が置かれたことによって、礼拝の質が人格的なものとして高められました。
 「神のかたち」に造られている人間が、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられたことは、このことと深くかかわっています。
 人間は「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられているものとして、この世界において造り主である神さまを代表し表わしています。そのようなものとして、すべてのものを治める使命を果たすことは、自分に与えられた能力を駆使して、神さまが委ねてくださったものが、その特性を十分に発揮して存在するようになるようにと、「お世話をする」ということに他なりません。神さまがお造りになったものを、神さまのものとして、大切にお世話するということです。
 人間は、また、物質的な側面をもつものとして造られて、この世界に置かれたものとして、この造られた世界にあるものと一体の関係にあります。そして、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられたものとして、この造られた世界にあるものを代表しています。
 それが、造り主である神さまに対する応答としての礼拝において、最もはっきりと現われてきます。この世界のすべてのものは、神さまの御手の作品として、神さまの知恵と力といつくしみを反映して表わしています。すべてのものは、声なき讃美を神さまの御前にあげています。そのすべては、「神のかたち」に造られて、すべてのものを委ねられている人間のささげる礼拝と結びついています。人間は、自分たちが造り主である神さまを礼拝するだけではありません。造られたすべてのもののが神さまの御手の作品であり、神さまの知恵と力といつくしみを映し出していることをわきまえて、造り主である神さまの御前にひれ伏して、感謝と讃美をもって礼拝をします。
 それで、「神のかたち」に造られている人間の礼拝は、造られたすべてのものの礼拝を一つの礼拝としてまとめて、造り主である神さまにささげるような意味をもっています。詩篇148篇1節〜10節では、

  ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
  いと高き所で主をほめたたえよ。
  主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
  主をほめたたえよ。主の万軍よ。
  主をほめたたえよ。日よ。月よ。
  主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
  主をほめたたえよ。天の天よ。
  天の上にある水よ。
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。
  主が命じて、彼らが造られた。
  主は彼らを、世々限りなく立てられた。
  主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
  地において主をほめたたえよ。
  海の巨獣よ。すべての淵よ。
  火よ。雹よ。雪よ。煙よ。
  みことばを行なうあらしよ。
  山々よ。すべての丘よ。
  実のなる木よ。すべての杉よ。
  獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。
  翼のある鳥よ。
  地の王たちよ。すべての国民よ。
  君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
  若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。
  主の御名だけがあがめられ、
  その威光は地と天の上にあるからだ。

と歌われています。
 ここでは、御使いも含めて、すべての造られたものが造り主である神さまを礼拝するという点で、礼拝が一つのものとしてまとまっていることが示されています。そして、その全被造物を包み込む礼拝をわきまえて、すべての造られたものに向かって、礼拝を呼びかけているのは、「神のかたち」に造られている人間です。その意味で、「神のかたち」に造られている人間は、本来、この造られた世界において、祭司としての務めを果たすものなのです。
 このように、「神のかたち」に造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界において、すべてのものを治める「王的」な役割を委ねられているだけでなく、「祭司的」な役割も委ねられています。そして、すべての造られたものが、造り主である神さまとのかかわりで意味をもっていることをわきまえて、その意味を明らかにし、告白する「預言者的」な役割をも果たすものとされています。それで、「神のかたち」に造られている人間は、いわば、神さまへの礼拝を中心として、造られたすべてのものを造り主である神さまに結びつける「仲保者的」な立場に立っているのです。
 人間は、このような明確な目的のもとに、「神のかたち」に造られています。そして、神さまがお造りになったこの世界の中に置かれて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられています。その意味で、人類全体が、いわば「ぶどうの木」にたとえられるべきものです。
 「神のかたち」に造られて、そのような栄光に満ちた使命を委ねられている人間には、また、それを果たすために必要な賜物も与えられています。人間は、そのすべてを傾けて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を果たし、神さまの栄光を現わすべきものです。それが、「ぶどうの木」として実を結ぶことの中心にあることです。
 しかし、実際には、人間は、自分に委ねられた使命の栄光と、それを果たすために与えられた賜物の豊かさの意味を見失い、造り主である神さまの御前に高ぶり、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人類全体が「酸いぶどう」や「毒ぶどう」をならせるものになってしまったのです。
 人間は自らを神の位置に据えて、もはや、造り主である神さまを神として礼拝することはなくなりました。その一方で、人間は自らを神の位置に据えてはいるものの、ことあるごとに自分で自分を支えきれないことを痛感させられています。それは、神さまが、人間に向かって、自らをわきまえてご自身の御許に帰るように呼びかけてくださる機会として用いてくださっていることです。しかし、人間は、造り主である神さまの御許に帰るかわりに、自分のために偶像を作って、これに頼るようになりました。そのようにして、神さまの働きかけをも押さえつけてしまっています。
 さらに、人間は、自分を神の位置に据えたものとして、すべての造られたものを、自分のために支配しようとしています。そのために、神さまがお造りになったこの世界は荒廃し、汚染がこの世界全体を覆うような事態となってしまっています。神さまの御手の作品である多くの生きものも、人間の都合によって絶滅させられたりしています。
 そればかりではなく、人間同士が、国家の次元ばかりでなく、個人の関係においても、覇権をめぐって争いを続け、いろいろな意味での「殺戮」が行なわれています。
 言うまでもなく、これは、人間が、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられていることが、罪によって歪められ、腐敗した結果、現われてきたことです。
 その意味では、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、なお、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられたものとして存在しているのです。それは、今日においても同じで、すべての人に当てはまります。それで、「ぶどうの木」のたとえを用いますと、歴史の終わりには、最終的な「収穫の時」があるのです。すべての人は、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられたものとして、どのような実を結んだかということをめぐってさばきを受けます。
 人類全体がこのような状況になってしまった中での神さまのみこころは、人類を、実を結ばない「ぶどうの木」として、直ちに、火の中に投げ込んでしまうことではありませんでした。むしろ、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられたものとして存在している人間の本来の姿を回復してくださることでした。そのために、神さまは、人類の堕落の直後から、贖い主を遣わしてくださることを約束してくださいました。
 もう詳しい説明は必要ないと思いますが、神さまが、贖い主をとおして成し遂げてくださる贖いの御業によって、「神のかたち」に造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられたものとして存在している人間の本来の姿を回復してくださったなら、人間は「神のかたち」に造られたものにふさわしく、すべての造られたものを造り主である神さまに結びつける、仲保者的な務めを果たすようになります。それによって、自分自身が造り主である神さまを礼拝するだけでなく、全被造物を包み込む壮大な礼拝が回復されるようになります。
 このようにして、神さまが植えられた「ぶどうの木」が、本来の実を結ぶようになります。
 マタイの福音書28節18節〜20節には、十字架の上で死んだ後、栄光を受けて死者の中からよみがえって、ご自身の民の罪のための贖いの御業を成し遂げてくださった、イエス・キリストのことが、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 ここに記されているイエス・キリストの言葉は、広く「大宣教命令」と呼ばれています。実は、これは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に委ねられた、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、広く「文化命令」と呼ばれている使命を、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業の中で実現するためのものです。イエス・キリストは、十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、「神のかたち」の本来の姿を回復してくださっただけでなく、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている使命をも回復してくださったのです。それで、今日の状況では、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、「神のかたち」に造られている人間に委ねられている使命は、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という、復活のキリストから委ねられた使命を果たすことによって実現していくのです。
 ただ、残念ながら、この「大宣教命令」は、狭い意味での教会の拡大というイメージで捉えられてしまっています。そのために、これが、そのような、神さまの創造の御業において示されたみこころを実現するものであるということは、あまり理解されてはいません。
 いずれにしましても、イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業は、全被造物を包み込む壮大な礼拝の回復につながっています。そのことは、たとえば、ピリピ人への手紙2章6節〜11節に示されています。そこには、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ということは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

というイエス・キリストの言葉に符合しています。そして、これは、イエス・キリストが、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に授けられた、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を本質的に実現されたことを意味しています。その結果、

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

という、全被造物を包む礼拝が実現しているのです。
 その最終的な完成は世の終わりの栄光のキリストの再臨を待たなければなりませんが、これは、すでにイエス・キリストにある現実として始まっています。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第80回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第82回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church