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説教日:2002年5月5日 |
今日、注目したいのは、1節で、イエス・キリストがご自身のことを、「まことのぶどうの木」であると述べておられることです。これは、ここに記されているイエス・キリストの教えを理解するうえでの鍵となると思われます。 イエス・キリストは、ただ、ご自身が「ぶどうの木」であると言われたのではなく、「まことのぶどうの木」であると言われました。どうして、わざわざ「まことの」という言葉をつけて、ご自身が「まことのぶどうの木」であると言っておられるのでしょうか。 これには旧約聖書の背景があります。旧約聖書の中では、「ぶどうの木」は、しばしば、主の契約の民であるイスラエルを象徴的に示しています。 その例をいくつか見てみましょう。 イザヤ書5節1節〜7節には、 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。 そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。 わが愛する者は、よく肥えた山腹に、 ぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、 そこに良いぶどうを植え、 その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、 甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。 ところが、酸いぶどうができてしまった。 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、 さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。 わがぶどう畑になすべきことで、 なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。 なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、 酸いぶどうができたのか。 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。 わたしがわがぶどう畑に対してすることを。 その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、 その石垣をくずして、踏みつけるままにする。 わたしは、これを滅びるままにしておく。 枝はおろされず、草は刈られず、 いばらとおどろが生い茂る。 わたしは雲に命じて、 この上に雨を降らせない。」 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。 ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。 主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。 正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。 と記されています。 7節に記されている、 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。 ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。 という言葉から分かりますように、「ぶどう畑」は、主がご自身のものとしてご臨在の御前に植えられたイスラエルを象徴的に表わしています。ここでは、主が「ぶどう畑」にたとえられるイスラエルを植えて、丹精を込めて育てられたのに、イスラエルの民は御前に背教して「酸いぶどう」をならせるようになってしまったことと、それに対して主のさばきが執行されることが記されています。 このように、イスラエルの民が主の御前に背教してしまったことと、それに対するさばきが執行されることを、「ぶどうの木」をたとえとして述べることは、他の預言者たちの間でも見られることです。 エレミヤ書2章21節には、 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。 という神である主の言葉が記されています。また、5章10節、11節には、 ぶどう畑の石垣に上って滅ぼせ。 しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。 そのつるを除け。 それらは主のものではないからだ。 イスラエルの家とユダの家とは、 大いにわたしを裏切ったからだ。 と記されています。 エゼキエル書では、三個所ほどで、ユダ王国が「ぶどうの木」にたとえられて、その背教とそれに対するさばきの執行が語られています。そのすべてが長いので、ここでは、ヨハネの福音書15章に記されているイエス・キリストの教えと関係があると思われる、15章1節〜8節を見てみましょう。そこには、 次のような主のことばが私にあった。 人の子よ。ぶどうの木は、 森の木立ちの間にあって、 その枝が、 ほかの木よりどれだけすぐれているのか。 その木を使って何かを作るために その木は切り出されるだろうか。 それとも、あらゆる器具を掛けるために これを使って木かぎを作るだろうか。 見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、 火がその両端を焼き尽くす。 その中ほども焦げてしまえば、 それは何の役に立つだろうか。 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、 まして、火がそれを燃やして、焦がせば、 もう、それで何が作れよう。 それゆえ、神である主はこう仰せられる。 わたしはエルサレムの住民を、 わたしがたきぎとして火に投げ入れた、 森の木立の間のぶどうの木のように、 火に投げ入れてしまう。 わたしは彼らから顔をそむける。 彼らが火からのがれても、 火は彼らを焼き尽くしてしまう。 わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、 あなたがたは、 わたしが主であることを知ろう。 彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、 わたしはこの地を荒れ果てさせる。 と記されています。 ここでは、5節の、 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、 まして、火がそれを燃やして、焦がせば、 もう、それで何が作れよう。 という言葉に集約されていますように、「ぶどうの木」は、木そのものとしては、何の使いようもないということが強調されています。「ぶどうの木」は、ぶどうの実をならせることがなければ、「ぶどうの木」としての存在の意味をなさなくなってしまうということです。 このことが、ヨハネの福音書15章2節に記されている、イエス・キリストの、 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 という教えや、5節、6節に記されている、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 という教えの背景にあります。 旧約聖書の背景の方に戻りますが、ホセア書9章10節には、 わたしはイスラエルを、 荒野のぶどうのように見、 あなたがたの先祖を、 いちじくの木の初なりの実のように見ていた。 ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、 恥ずべきものに身をゆだね、 彼らの愛している者と同じように、 彼ら自身、忌むべきものとなった。 と記されており、10章1節、2節には、 イスラエルは 多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。 多く実を結ぶにしたがって、 それだけ祭壇をふやし、 その地が豊かになるにしたがって、 それだけ多くの美しい石の柱を立てた。 彼らの心は二心だ。 今、彼らはその刑罰を受けなければならない。 主は彼らの祭壇をこわし、 彼らの石の柱を砕かれる。 と記されています。 これらのことから分かりますように、主の契約の民であるイスラエルが「ぶどうの木」にたとえられているのは、「ぶどうの木」が、ぶどうの実を結ぶという、確かな目的の下に植えられるものであるからです。主がイスラエルをご自身の契約の民として、主のご臨在の御前に生きるものとされたことにも、確かな目的がありました。イスラエルは、主の御前に仕える祭司の国として召されています。 主が恵みによってイスラエルの民の間にご臨在してくださることによって、この地上に主のご臨在があるという恵みがあかしされます。イスラエルの民が、主の恵みにあずかって、主のご臨在の御前において、主を礼拝することによって、主を礼拝する民がなおも地上に存在していることになります。しかし、イスラエルの民が主を礼拝しなくなったら、もはや、主を礼拝する民は地上にはいなくなってしまいます。「ぶどうの木」にたとえられているイスラエルの存在理由は、まさにこの点にあります。 しかし、これらの個所では、そのような使命のもとに召されているイスラエルの民が、主に背いて偶像に仕え、主の契約を破ってしまったことと、それに対して主のさばきが執行されることが語られています。そして、旧約聖書の中でイスラエルが「ぶどうの木」にたとえられている個所のほとんどで、イスラエルの民の背教とそれに対する主のさばきが語られています。 それとともに、イスラエルが「ぶどうの木」にたとえられている個所の中に、ごくわずかではありますが、主のさばきに会ったイスラエルの民が、悔い改めをもって、主の恵みとあわれみによる回復を祈り求めている個所もあります。 詩篇80篇8節〜19節には、 あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、 国々を追い出して、それを植えられました。 あなたがそのために、地を切り開かれたので、 ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。 山々もその影におおわれ、 神の杉の木もその大枝におおわれました。 ぶどうの木はその枝を海にまで、 若枝をあの川にまで伸ばしました。 なぜ、あなたは、石垣を破り、 道を行くすべての者に、 その実を摘み取らせなさるのですか。 林のいのししはこれを食い荒らし、 野に群がるものも、これを食べます。 万軍の神よ。どうか、帰って来てください。 天から目を注ぎ、よく見てください。 そして、このぶどうの木を育ててください。 また、あなたの右の手が植えた苗と、 ご自分のために強くされた枝とを。 それは火で焼かれ、切り倒されました。 彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。 あなたの右の手の人の上に、御手が、 ご自分のため強くされた人の子の上に、御手が ありますように。 そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。 私たちを生かしてください。 私たちは御名を呼び求めます。 万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、 御顔を照り輝かせてください。 そうすれば、私たちは救われます。 と記されています。 そして、主は預言者たちをとおして、ご自身の契約の民を回復してくださることも示してくださっています。 イザヤ書27章1節〜6節には、 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、 逃げ惑う蛇レビヤタン、 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、 海にいる竜を殺される。 その日、 麗しいぶどう畑、これについて歌え。 わたし、主は、それを見守る者。 絶えずこれに水を注ぎ、 だれも、それをそこなわないように、 夜も昼もこれを見守っている。 わたしはもう怒らない。 もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、 わたしはそれを踏みつぶし、 それをみな焼き払う。 しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、 わたしと和を結ぶがよい。 和をわたしと結ぶがよい。 時が来れば、ヤコブは根を張り、 イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、 世界の面に実を満たす。 と記されています。 これは、1節に記されている、 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、 逃げ惑う蛇レビヤタン、 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、 海にいる竜を殺される。 という言葉に示されている、終わりの日に行なわれる主の敵に対する終末的なさばきとともに、主がイスラエルの民を回復してくださることを、「ぶどう畑」の回復として、預言的に記すものです。 また、ホセア書14章4節〜7節では、その前の1節〜3節に記されている、 イスラエルよ。 あなたの神、主に立ち返れ。 あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。 あなたがたはことばを用意して、 主に立ち返り、そして言え。 「すべての不義を赦して、 良いものを受け入れてください。 私たちはくちびるの果実をささげます。 アッシリヤは私たちを救えません。 私たちはもう、馬にも乗らず、 自分たちの手で造った物に 『私たちの神』とは言いません。 みなしごが愛されるのは あなたによってだけです。」 というイスラエルの悔い改めを受けて語られた、 わたしは彼らの背信をいやし、 喜んでこれを愛する。 わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。 わたしはイスラエルには露のようになる。 彼はゆりのように花咲き、 ポプラのように根を張る。 その若枝は伸び、 その美しさはオリーブの木のように、 そのかおりはレバノンのようになる。 彼らは帰って来て、その陰に住み、 穀物のように生き返り、 ぶどうの木のように芽をふき、 その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。 という主の言葉が記されています。 このように、旧約聖書の中では「ぶどうの木」は、イスラエルを象徴的に表わすために用いられています。「ぶどうの木」を植える者は、良いぶどうの実を収穫することを期待して、「ぶどうの木」を植え、手入れをします。「ぶどうの木」が実を結ばなければ、木そのものは他に何の役にも立たないものですので、ただ燃やしてしまうほかはありません。そのように、「ぶどうの木」には、良い実を結ぶことだけが期待されています。このことは、イスラエルの民の存在理由を表わしています。イスラエルの民は主の契約の民として、主のご臨在の御前にあって、祭司の国としての使命を果たすように召されているからです。 また、旧約聖書の中では、「ぶどうの木」の表象のほとんどが、イスラエルの民が主の契約を破って背教してしまって、主のさばきを招くに至ることを語ることの中で用いられています。そのように、「ぶどうの木」の表象が、おもに、イスラエルの民の背教の現実を映し出すために用いられているのは、古い契約のもとでは、イスラエルの民が、真に主が期待される実を結ぶ「ぶどうの木」ではなかったということを意味しています。それは、古い契約によって備えられている動物の血による贖いによっては、イスラエルの民のうちに宿っている罪を聖めることができないからです。そのために、イスラエルの民の結ぶ実は、どうしても、「酸いぶどう」になってしまいます。 その一方で、旧約聖書の中では、真のイスラエルが回復されることが、「ぶどうの木」が良い実を豊かに結ぶようになることの表象によって、預言的に語られていました。それは、古い契約のもとで備えられている動物の血による贖いにまさる贖いが備えられるようになることを予想させます。 これらのことが、ヨハネの福音書15章1節で、イエス・キリストが、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 と言っておられることの背景となっています。 しかし、このイエス・キリストのたとえによる教えには、旧約聖書におけるたとえにはない、新しい面も見られます。旧約聖書では、主の契約の民であるイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられています。それをそのまま用いますと、主の契約の民である私たちが「ぶどうの木」であるということになるはずです。けれども、このイエス・キリストの教えでは、イエス・キリストご自身が「まことのぶどうの木」であると言われています。 これは、決して、おかしなことではありません。というのは、新約聖書においては、人の性質を取って来てくださったイエス・キリストが、新しいイスラエルとしての意味をもった方であることが示されているからです。 マタイの福音書1章1節〜17節には、イエス・キリストの系図が記されていますが、1節には、 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図 と記されています。イエス・キリストは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」としての意味を持った方として来てくださいました。それは、イエス・キリストが約束の贖い主であられることを意味していますが、より広い一般的な意味では、イエス・キリストが、「アブラハムの子孫」であるイスラエルに属しておられることを意味しています。そして、イスラエルの存在の理由と意味はすべて、イエス・キリストにおいて集約的に実現しています。 また、ガラテヤ人への手紙4章4節、5節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と記されています。 この場合の「律法」が、イスラエルの民に与えらえたモーセ律法であるのか、それとも、天地創造の御業の初めに人が「神のかたち」に造られたときに、その心に記された律法であるのか、意見が分かれています。この場合は、モーセ律法のことであろうと考えられます。しかし、モーセ律法の根本精神は、天地創造の御業の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された律法の根本精神と全く一致しています。それで、モーセ律法を完全に守ることは、天地創造の御業の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された律法を完全に守ることを意味しています。ここでは、イエス・キリストがモーセ律法を完全に守ってくださることによって、天地創造の御業の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に記された律法をも完全に守ってくださったということが、踏まえられていると考えられます。 いずれにしましても、ここでは、イエス・キリストは、確かに人間性を取ってこられただけでなく、ユダヤ人として、主の契約において与えられている律法の下にお生まれになって、律法の要求をすべて満たしてくださったことが記されています。それは、ただ形の上で律法の条文を守ったということではありません。イエス・キリストは、主が与えてくださった律法の真の精神を回復してくださり、それを完全に成就してくださいました。さらに、律法の要求である罪に対するさばきも、ご自身の十字架の死において満たしてくださいました。また、いけにえの制度によってあかしされていた罪の贖いも、十字架の死と死者の中からのよみがえりによってすべて成就してくださいました。 さらに、いわゆる「宮聖め」の後になされたイエス・キリストとユダヤ人のやり取りを記す、ヨハネの福音書2章19節〜22節には、 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されています。ここでは、イエス・キリストの復活のからだが、地上の「ひな型」であるエルサレム神殿の「本体」であることが示されています。 また、ヘブル人への手紙7章24節〜28節には、 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。 と記されています。ここでは、イエス・キリストが、地上の「ひな型」である神殿で仕えた大祭司の「本体」であられることが示されています。 その他、「荒野の試み」においては、イエス・キリストは、イスラエルの民が試みられて罪に陥ってしまったのと同じ試みをお受けになって、イスラエルの民に与えられていた主の御言葉にしたがって、その試みを退けられました。 このように、古い契約のもとで契約の民として召されたイスラエルの祭司の国としての意味は、イエス・キリストに集約していて、すべて成就しています。その意味で、イエス・キリストにおいて、真の契約の民であるイスラエルの本質がすべて実現しています。このことに基づいて、イエス・キリストは、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 と言われたのです。 これまでお話ししてきたことから分かりますように、この「まことのぶどうの木」は、実を結ばなかったり、実を結んでも「酸いぶどう」を結ぶような、古い契約のもとにあるイスラエルの民と対比されています。この「まことのぶどうの木」は、必ず良い実を結びますし、実際に、良い実を結んでいるのです。このことが、ここに記されているイエス・キリストの教えを理解するうえでの鍵です。 イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であられて、主の契約の民であるイスラエルの存在と使命の本質を完全に実現しておられるということが、その「枝」である私たちのあり方を決定しています。 このことの上に立って、イエス・キリストは、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 と言ってくださいました。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっています。そして、その贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、主の契約の民であるイスラエルの存在と使命の本質を完全に実現しておられるイエス・キリストに結び合わされて、新しい契約の民、真のイスラエルとされています。それで、私たちは、良い実を結ぶものとされているのです。 |
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