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説教日:2002年4月28日 |
まずこの女性が抱えていた問題について、先週お話ししたことを整理しておきたいと思います。 25節、26節には、 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 と記されています。 彼女は、この時まで「十二年の間長血をわずらって」いました。そして、このことにともなうさまざまな苦しみが彼女を襲っていました。 まず、身体的な問題がありました。毎日、絶えることなく血の流出があったたということではなかったでしょうが、12年間という長い間の血の流出によって、彼女の身体はかなり衰弱していたと思われます。また、彼女は子どもができないという問題を抱えていたかもしれません。子どもができないということは、その当時の女性にとっては、今日感じられるよりは、はるかに深刻な問題と感じられていました。 さらに、 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった と言われていますように、彼女は「多くの医者」にかかって、何とか病気を治そうとしました。 しかし、その当時、血の流出のある人に対してなされた治療法の記録によりますと、ゴム、ミョウバン、クロッカスを混ぜた粉を入れたぶどう酒を一杯飲むとか、ぶどう酒で料理したペルシャネギを「汝の血の流れより立ち上がれ。」という言葉とともに服用するとか、急なショックを与えるとか、ダチョウの卵の灰をある種の布に入れて携帯するというような、かなりいい加減なものであったようです。そのために「自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」のに、病気はかえって悪くなるばかりでした。 そして、今日、特に注目したいことですが、この女性は、レビ記に記されている儀式律法の規定によって「汚れた者」とされていました。 レビ記15章19節には、 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。 という規定が記されており、25節〜31節には、 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。もし女がその漏出からきよくなったときには、七日を数える。その後にその女はきよくなる。八日目には、その女は山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。祭司は一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげる。祭司は、その汚れた漏出のために、主の前でその女のために贖いをする。あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。 という規定が記されています。 この規定によりますと、この女性は、血の流出のある間、汚れているとされています。それだけでなく、彼女に触れる者は誰でも汚れるとされています。さらに、彼女の寝床や、彼女の座るものすべてが汚れたものとなり、それらの汚れたものに触る者も汚れるとされています。 ですから、彼女は、血の流出のある間は人との接触を避けなければならない立場にありました。 そればかりでなく、31節の、 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。 という規定は、神である主がご臨在される主の幕屋 このように、この女性がレビ記の儀式律法の規定によって「汚れた者」とされていたことが、この時の彼女の考え方と振舞いに影響を与えていると考えられます。そのことを具体的に見てみましょう。 マルコの福音書5章27節には、 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 と記されています。 彼女は、誰にも気づかれないように、群衆の中に紛れ込みました。そして、イエス・キリストにも知られないように、後ろからイエス・キリストに近づいていって、後ろからそっとイエス・キリストの「着物」にさわりました。 マタイの福音書9章20節には、 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。 と記されています。この「ふさ」と訳されている言葉(クラスペドン)は、「ふさ」も表わしますが、基本的には「着物の端」を表わしています。この女性の場合には、特に「ふさ」にさわったというより、単純に、イエス・キリストの上着の端にさわった可能性があります。 彼女が、このようなことをしたのは、彼女が「汚れた者」とされていたからであると考えられます。 マルコの福音書5章28節には、 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 と記されています。ここでの強調点は「着物」にあり、彼女が、イエス・キリストの「着物」にでもさわることができれば「きっと直る」と信じていたことを示しています。 これは、彼女の信仰の強さを示していると考えられるかもしれませんが、先週お話ししましたように、この彼女の信仰には問題があります。この時の彼女は、イエス・キリストの力にしか関心がありませんでした。もちろん、彼女はイエス・キリストを信じたのですが、それは、イエス・キリストの力を当てにするというという意味での信仰です。 しかも、イエス・キリストの「着物」にさわれば治るというような考え方には、一種の「おまじない」のような信仰の姿勢が潜んでいます。そこには、イエス・キリストと人格的につながって、イエス・キリストご自身を知り、イエス・キリストを愛し信頼するというような、本来の、イエス・キリストを信じる信仰の姿勢はありません。 この女性はどこから、 お着物にさわることでもできれば、きっと直る。 というような結論を引き出したのでしょうか。 一つには、先週お話ししたように、その時までに、多くの人々がイエス・キリストにさわって病をいやされていたからです。ルカの福音書6章19節には、 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。 と記されています。当然、彼女もこのことを耳にしていたと考えられます。さわった人がみないやされたということは、それがどのような病気であったとしても、いやされたということです。彼女は、イエス・キリストにそれほどの力があるのであれば、自分の病気は、せめて「着物」にでもさわることができれば「きっと直る」と信じたわけです。 しかし、ここには別の問題があります。その頃は、 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。 わけですから、この女性も堂々とイエス・キリストに近づいていって、イエス・キリストにさわればよかったのではないでしょうか。彼女がそのようにしなかったのは、やはり、自分が汚れた状態にあるので、人に触れてはならないし、特に、イエス・キリストに触れてはいけないと考えていたからではないかと思われます。 彼女は、常に血の流出があったわけではないと思われますが、この時は、29節で、 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 と言われていることから分かりますように、血の流出があって汚れた状態になっていました。 それでも、彼女にとっての最後の望みは、イエス・キリストにさわって、いやされることでした。それで、人に知られないように群衆の中に紛れ込み、イエス・キリストにも知られないように後ろから近づいていって、そっと、イエス・キリストの「着物」の端にさわったのだと思われます。その際に、人々はもとより、神さまから特別な力を授けられているイエス・キリストに直に触れることはできないと考えたのではないでしょうか。そのような思いの中で、イエス・キリストに直に触れなくても、せめて「着物」にでもさわることができれば「きっと直る」と信じたのだと思われます。彼女としては、そのように信じるほかはないような状況にもあったわけです。 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 と言われていることの中に、この時、彼女の心の奥深くに、「自分は汚れた者である」という思いがあって、彼女を支配していたことがうかがわれます。 また、先週も触れましたが、 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 と言われているときの、「直る」と訳された言葉(ソーゾー・「救う」の受動態)は、新改訳では星印がついていて、欄外注で「直訳『救われる』」と注釈されていますように、「救われる」ことを表わしています。この言葉は、続く29節で、 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 と言われているときの「直った」という言葉(イアオマイ・「いやす」の受動態)とは違います。この29節では、病気がいやされたことを記しているのですから、「直った」という言葉が使われているわけです。 しかし、すでにお話ししましたように、この女性はただ単に血液の流出による身体の衰弱という、身体的な問題で苦しんでいただけではありません。経済的な行き詰まりに直面していました。また、それ以上に、レビ記の儀式律法によって「汚れた者」とされていることよってひどく苦しんでいました。ですから、この女性が、 お着物にさわることでもできれば、きっと直る。 と考えていたと言われているときには、ただ病気から解放されるだけでなく、それにともなうこれらすべての苦しみから解放されるという意味で「救われる」という言葉が使われているのです。この言葉は、この女性の苦しみの深さと、その苦しみからの解放、特に、神さまとの関係において「汚れた者」とされている苦しみからの解放を切に願う思いが込められています。 さらに、先ほど引用しました29節には、 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 と記されています。 この「ひどい痛み」と訳されている言葉(マスティクス)は「ムチ」を意味する言葉です。これが比喩的に用いられるときには、神さまのさばきを表わします。おそらく、彼女は、この病のために自分が「汚れた者」とされていることが、神さまのさばきであるというように感じていたのでしよう。 私たちすべては、自らのうちに罪を宿しています。そして、実際に思いと言葉と行ないにおいて罪を犯してしまいます。そのために、何か苦しいことがあると、さばきを受けているのではないかと感じる傾向をもっています。おそらくこの女性にも「思い当たること」があったのでしょう。彼女からしますと、この病は神さまのさばきとしての意味をもつものと感じられていて、それが重くのし掛かってきていたと考えられます。そうであれば、彼女にとっていちばん深い問題は、神さまとの関係であったということになります。そして、このことも、「汚れ」の問題がどれほど深く彼女を苦しめていたかを示しています。 念のために確認しておきますが、イエス・キリストは、私たちの過去の罪を贖ってくださるためだけでなく、これから犯すであろうすべての罪も贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちから、さばきを取り去ってくださいました。それで、私たちにふりかかってくるさまざまな困難と苦しみは、さばきとしての意味を失っています。神さまはそれを真実な摂理の御手によって、私たちを聖めてくださり、神の子どもとして育ててくださるために用いてくださいます。このことは、この女性にも見られることです。 そのような恵みの中にありますので、私たちは、罪を犯した場合には、ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という約束を信じて、罪を告白し、その罪を赦していただくとともに、実質的に聖めていただくことができます。 このように、この女性には、血の流出からくる身体的な衰弱や、財産を使い果たしてしまったという経済的な行き詰まりは、大きな問題でしたが、それ以上に、レビ記の儀式律法によって「汚れた者」とされていることからくる苦しみが、彼女の上に重くのしかかってきていました。 このことを念頭において、30節〜33節に、 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 と記されていることを、改めて、考えてみましょう。 まず、先週お話ししたことの要点をまとめます。 27節では、 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 と言われています。この「着物」は単数形で「上着」を表わしています。彼女はイエス・キリストの後ろから、しかも意識的に「上着」だけにさわったのです。 イエス・キリストが群衆の方を振り向いて、 だれがわたしの着物にさわったのですか。 と言われたことは、この女性が意図的にご自身の上着だけにさわったことをご存知であられたことを示しています。 それだけではなく、この、 だれがわたしの着物にさわったのですか。 と言うときの「着物」(複数形)は、実際に彼女がさわった「上着」(単数形)ではなく。彼女が、 お着物にさわることでもできれば、きっと直る。 と考えていたときの「お着物」(複数形)を指しています。 彼女は、群衆の中に紛れ込んでイエス・キリスト近づいていった時にずっと、心の中で、 せめてお着物にでもさわれば、きっと救われる。 と言い続けていました。イエス・キリストは、それとまったく同じ言葉(複数形の「着物」)をもって、 だれがわたしの着物にさわったのですか。 と言われたのです。 これによって、イエス・キリストは、この女性が群衆の中に紛れ込んで、後ろからそっとイエス・キリストに近づいて行く間に、「せめてお着物にでもさわれば」と心の中で言い続けていたことをご存知であられたということを、彼女に伝えておられます。これは、イエス・キリストが人の心の中にあることもすべてご存知の方であるということを、彼女に啓示するものです。これによって、彼女は、永遠の神の御子としてのイエス・キリストのリアリティー(現実)に触れました。人々に囲まれてもみくちゃになっているこの方は、栄光の主であられるということに撃たれたのです。 それで、33節には、 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 と記されています。恐れおののいて、イエス・キリストの御前に出でて、ひれ伏したのは、彼女が栄光の主の御前にあることを自覚したからです。彼女は、イエス・キリストの見える姿の奥に隠されている栄光の主の御姿に触れたために、恐れおののいて、その御前にひれ伏したのです。 そればかりではありません。この時まで、この女性の心に重くのしかかっていて、彼女の思いを支配していたのは、自分が、レビ記15章25節〜27節に記されている規定によって「汚れた者」であるということでした。ですから、彼女は、自分が「汚れた者」でありながら、栄光の主であられるイエス・キリストに触れて、主の聖さを冒してしまったということに気がついて、その衝撃の中でイエス・キリストの御前に出でて、恐れおののいてひれ伏したと考えられます。 これは、すでにお話ししました、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」において、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられ、自らのうちにある罪と汚れを映し出されて、6節に記されているように、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と絶望の叫び声をあげたことに比べられます。 先ほど引用しましたレビ記15章31節には、 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。 と記されていました。 このレビ記の規定によりますと、栄光の主がご臨在される「幕屋」 マルコの福音書5章33節に、 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 と記されているように、この女性は、自分がどのようなことをしたかをすべて告白しました。 恐れおののいて御前にひれ伏しているこの女性に向かって、イエス・キリストは、 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。 と言われました。「汚れた者」でありながら、栄光の主であられる方にさわって、その聖さを汚してしまったということの衝撃に圧倒されているこの女性にとって、これは思いもよらない恵みの言葉でした。 これは、先ほど引用しました、ヨハネの手紙第一・1章9節に記されている、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 ということに当たることが彼女に実現したということです。 これは、また、イザヤ書6章6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 と記されていることに示されている恵みが、この女性に与えられたということでもあります。イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において自分の罪による汚れを自覚して、自分が直ちに聖絶されるべきことを実感しました。そのイザヤに、罪の贖いの恵みが示されました。イザヤが幻の中で経験した恵みを、この女性は現実のこととして経験しました。 レビ記に記されている儀式律法の規定によりますと、この時には、この女性自身が汚れていました。そして、汚れたものに触れる者は、誰でも汚れるとされていました。それによれば、彼女がイエス・キリストに触れた時に、イエス・キリストも汚れたものとなったはずです。しかし、実際には、彼女の方がイエス・キリストによって聖められました。ただ彼女の病気がいやされたので、結果的に聖められ、いわば、普通の状態になったということではありません。栄光の主であられるイエス・キリストから、「娘よ。」と呼んでいただいて、神の家族の交わりの中に入れていただくという形で、聖めていただいたのです。 もちろん、これは、イエス・キリストが十字架にかかり、血を流して死んでくださることによって、ご自身の民の罪を完全に贖い、ご自身の民を聖めてくださることを先取りしているものです。 レビ記の規定は、最終的には、15章31節に、 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。 と記されていますように、イスラエルの民が汚れから離れて、契約の神である主がご臨在される幕屋 このように、レビ記の儀式律法は、ある人々が汚れた状態にあると規定していますが、その人々を聖めることはできません。また、汚れた状態にある人々を主がご臨在される幕屋や神殿から遠ざけることによって、幕屋や神殿の聖さを守るだけで、汚れた状態にある人々を聖めて、主のご臨在の御前に近づけることはできません。それが、動物のいけにえの血によって確立されている古い契約の限界でした。 しかし、栄光の主であられるイエス・キリストは、ご自身が流された血をもって、新しい契約を確立してくださいました。それは、私たち罪によって汚れていた者たちを、聖なるご自身のご臨在から遠ざけるものではなく、かえってご自身の血によって私たちを聖めてくださって、ご自身と一つとなるように結び合わせてくださるものです。父なる神さまの「息子」、「娘」として、ご自身の家族に迎え入れてくださるものです。 このイエス・キリストの血によって、私たちは、大胆に、栄光の主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝することができます。ヘブル人への手紙10章19節〜22節に、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と記されているとおりです。 人類はアダムにあって、造り主である神さまに対して罪を犯して、その御前に堕落してしまいました。それで、すべての人は、自分のうちに罪の性質を宿して生まれてきます。また、実際に、思いと言葉と行ないにおいて罪を犯します。そして、この罪の汚れのために、聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づくことはできません。 しかし、生まれながらの人は、自分が神さまの御前に「汚れた者」であるということに気がつくことはありません。罪のある人間同士がお互いを比べ合っているときには、自分の罪と汚れに気がつくことはありません。特に、自分の目には、自分の汚れが見えません。 この女性は、「不幸にも」血の流出があって、レビ記の儀式律法の規定によって「汚れた者」とされていました。彼女からしますと、「どうして、この私が。」と問わざるをえなかったはずです。そのような中で、すでにお話ししましたように、「思い当たること」を見つけ出して、自分自身を納得させていたと思われます。彼女は、そのことによって、ただ儀式的に汚れているだけでなく、自分のうちに汚れがあることを自覚するようになっていたわけです。 そのような中で、イエス・キリストは、彼女の「苦しみのもと」 この女性に示された栄光の主の恵みは、また、私たちの間で実現しています。ですから、自分自身のうちにある罪を自覚して、とても神さまの御前に近づくことができないと感じておられるる方は、このことを心に留めてください。栄光の主であられるイエス・キリストの恵みによって、この女性が最初にしたように後ろからこっそりとではなく、イエス・キリストから「娘よ。」と呼んでいただいた後の彼女ように、真っ直ぐに栄光の主の御顔を仰いで、ご臨在の御前に近づくことができます。そして、私たちも、「息子」、「娘」と呼んでいただいて、神の子どもとして迎え入れていただくことができますし、実際に、迎え入れていただいています。 |
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