(第78回)


説教日:2002年4月21日
聖書箇所:マルコの福音書5章25節〜34節


 マルコの福音書5章25節〜34節には、イエス・キリストが、12年もの間長血をわずらっている女性をいやしてくださったことが記されています。このことについては、1981年10月にお話ししたことがありますが、これまでお話ししてきましたことにも通ずるところがありますので、改めて、そのような観点からお話ししたいと思います。また、このことにはいくつかのことがかかわっていますが、今日は、イエス・キリストが、この女性に、恵みに満ちた栄光を示してくださったことと、それによって彼女の信仰がどのように変わっていったかということついてお話ししたいと思います。


 25節には、

ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

と記されています。
 「長血をわずらっている」ということは、何らかの理由によって身体からの出血があったということです。その原因は正確には分かりませんが、一般には、子宮の何らかの病気による出血であろうと考えられているようです。
 この女性は、衛生上の問題を感じていただけでなく、長い間の出血によって身体が弱っていたと考えられます。また、その当時の女性にとっては、今日感じられているよりは、はるかに深刻な問題と感じられていた、子どもができないという問題を抱えていたかもしれません。
 さらに、詳しいことは来週お話ししますが、レビ記15章25節〜27節に記されている規定によりますと、この長血をわずらっている女性は、血の流出のある間、汚れているだけでなく、彼女に触れる者も汚れるとされていました。さらに、彼女の寝床や、彼女の座るものすべてが汚れたものとなり、それらの汚れたものに触る者は、誰でも汚れるとされていました。ですから、彼女は、「汚れた者」として、礼拝における神さまとの交わりから遠ざけられていましたし、人との交わりにも不自由を感じていました。彼女にとっては、自分が「汚れた者」であるということがいちばん深刻な問題だったと考えられます。
 それで、彼女は、何とかしようとして、必死の治療を試みたようです。マルコの福音書5章26節には、

この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

と記されています。
 彼女は、何とか病気を治そうとして、多くの医者にかかりましたが、病気は悪化するだけでした。おまけに、財産を使い果たしてしまいました。
 このように、この女性は、血の流出からくる身体的な衰弱、財産を使い果たしてしまったという経済的な行き詰まり、そして、「汚れた者」とされたための神さまと人との交わりの喪失というように、人生のあらゆる面において、まことに苦しい立場に立たされていました。もはや、自分で打つことのできる手は何もないという状態に陥っていました。
 そのような状態にあったこの女性に、一筋の光が射してきました。27節、28節では、

彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

と言われています。
 彼女は、イエス・キリストのことを耳にしました。そして、聞いたことをもとにして、

お着物にさわることでもできれば、きっと直る。

という結論を出しました。それで、彼女は、3章10節に、

多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来た

と記されているようなことを聞いたのだと考えられます。同じことを記す、ルカの福音書6章19節には、

群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。

と記されています。この時までに、多くの人々が、イエス・キリストにさわって病気をいやされていたのです。
 これは、彼女にとって、単なる不思議な話ではなく、自分の切羽詰まった状態に光をもたらしてくれる話でした。これまでに、自分でできることはすべてやってきたがだめであったということからしますと、これは、この女性にとっての最後の望みでもありました。当然、彼女は、真剣に人々の話を聞いたはずです。そして、そのように多くの人々がイエス・キリストにさわっただけでいやされているのであれば、

お着物にさわることでもできれば、きっと直る。

と信じるようになったと考えられます。
 しばしば、このことがこの女性の信仰のすばらしいところであると考えられています。他の人々はイエス・キリストにさわればいやされると考えてイエス・キリストにさわったのに、彼女はイエス・キリストの着物にさわるだけでよいと考えていたのだから、もっとよくイエス・キリストを信じていたということです。しかし、これは一種の信仰ではありますが、イエス・キリストを信じる信仰ではありません。神学的な言葉を用いますと、この段階での彼女の信仰は「奇跡信仰」であって、「救いをもたらす信仰」ではありません。今日は、このことをお話ししたいのです。
 27節では、

彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

と言われています。
 この女性は、群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエス・キリストの着物にさわりました。今日お話しすることにとって大切なことですが、この場合の「着物」(ヒマティオン)は単数形で「上着」を意味しています。新改訳でも星印がついていて、欄外で「あるいは『上着』」と注釈されています。彼女はすべてのことを、こっそりと、人に知られないようにしたのです。特に、後ろからイエス・キリストの上着のにさわったのは、イエス・キリストにも知られないようにさわったということを意味しています。
 彼女がこのようなことをしたのは、彼女がレビ記に記されている律法の規定によって「汚れた者」とされていたからであると考えられます。彼女としては、直接イエス・キリストに触れることを避けたのだと思われます。このことにつきましては、さらに来週お話しします。
 彼女が、イエス・キリストにも知られないように、イエス・キリストの上着だけにさわったということは、イエス・キリストのことを述べる30節で、

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

と言われていることにも表われています。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて

ということは、イエス・キリストの力が、イエス・キリストのご意志とは関係なく、勝手に出ていってしまったというようなことです。もちろん、イエス・キリストの力がイエス・キリストのご意志と関係なく働くというようなことはありえません。確かに、この女性がいやされたのは、イエス・キリストのみこころによることでした。しかし、マルコは、ちょうど、電源にプラグを差し込めば自動的に電気が流れるのと同じように、彼女がイエス・キリストにさわったときに、イエス・キリストは、ご自分の力が出ていったようにお感じになったと記しています。
 それは、まさに、この女性とイエス・キリストの関係を表わしています。群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエス・キリストの着物にさわった時の彼女は、自分の病気を治してくれるであろうイエス・キリストの力しか眼中になかったわけです。イエス・キリストご自身と、イエス・キリストのみこころに対する関心はなかったのです。
 この点で、先ほど言いましたように、この段階でのこの女性の信仰は一種の信仰(奇跡信仰)ではあるけれども、真にイエス・キリストを信じる信仰(救いをもたらす信仰)ではないと言わなければなりません。
 30節後半には、イエス・キリストは、

群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

と記されています。そして、続く31節には、

そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

と記されています。
 これは、いわば、満員電車の中で、誰かが自分の「着物に」さわったと言うようなものです。弟子たちとしては、イエス・キリストがいったい何を言いだすのかと、非難したくなるほどのことでした。
 しかし、この女性にとってはそうではありませんでした。彼女は、群衆の中に紛れ込み、後ろからそっと手を伸ばして、意図的に、イエス・キリストの上着だけにさわりました。彼女にしてみれば、自分のしたことは誰にも分るはずのないことでした。けれども、イエス・キリストは、その自分のしたことを知っておられたのです。
 30節には、

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

と記されています。これを読みますと、イエス・キリストは、ご自身のうちから力が出ていったので、誰かがご自分にさわったことにお気づきになったのであって、それが誰であるかまでは分からなかったというような気がします。
 しかし、イエス・キリストは、それが誰であるかもご存知であったと考えられます。そのことは、イエス・キリストが永遠の神の御子であられることから考えられますが、それとともに、イエス・キリストの、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

という言葉にも表わされています。
 イエス・キリストは、この女性が意図的にご自身の上着だけにさわったことをご存知であられたのです。そうであれば、当然、彼女が群衆の中に紛れ込んで、後ろからそっとイエス・キリストに近づいていって、イエス・キリストの上着にさわったことをすべて知っておられたはずです。
 それだけではありません。この、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

と言うときの「着物」(ヒマティア)は複数形で、上着とその下に着るチュニックを指す言葉です。先ほど言いましたように、27節で、実際に彼女がさわったと言われているのは「着物」の単数形で表わされている「上着」です。
 これに対して、イエス・キリストが言われた、複数形の「着物」は、28節で、この女性が、

お着物にさわることでもできれば、きっと直る。

と考えていたというときの「お着物」と同じ言葉です。
 28節は、

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

と訳されています。
 この訳にはいくつか問題があります。
 まず、ここで「直る」と訳された言葉(ソーゾー・「救う」の受動態)は、新改訳では星印がついていて、欄外注で「直訳『救われる』」と注釈されていますように、「救われる」ことを表わしています。すでにお話ししました彼女の苦しみの複雑さを考えますと、彼女は、単なる病気のいやし以上のことを考えていたはずです。
 また、この「お着物にさわることでもできれば」という訳では、さわることが強調されています。しかし、これは「せめてお着物にでもさわれば」と訳すべきで、「着物」の方が強調されています。
 さらに、「考えていた」と訳されている言葉は、新改訳では星印がついていて、欄外注で「直訳『言っていた』」と注釈されています。これは、また、時制の上では過去の継続を表わしています。それで、一般的には「考えていた」と理解されています。しかし、ここでは、これをもう少し文字通りに近く理解したほうがよいと思います。どういうことかと言いますと、この女性は、群衆の中に紛れ込んでイエス・キリストの方に進んで行く間ずっと、心の中で、

せめてお着物にでもさわれば、きっと救われる。

と言い続けていたということです。その時、この女性が強く意識していたのは、複数形の「着物」です。彼女の頭は、「せめてお着物にでも」、「せめてお着物にでも」ということでいっぱいでした。そして、イエス・キリストは、それとまったく同じ言葉(複数形の「着物」)をもって、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

と言われたのです。
 これは、彼女が群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエス・キリストに近づいて行く間に、「せめてお着物にでもさわれば」と心の中で言い続けていたことを、イエス・キリストはご存知であられたということを意味しています。イエス・キリストは、彼女が隠れてしたことを知っておられただけでなく、彼女が考えていたことまでもご存知であられたのです。
 これが、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

というように、問いかけの形を取っているのは、彼女の方からの告白を促すものです。その意味で、これは、創世記3章9節に記されていますように、最初の人が神である主に対して罪を犯した直後に、神である主が、

あなたは、どこにいるのか。

と問いかけられたことと同じことです。実際には、イエス・キリストはすべてのことを知っておられました。
 そのことは、この女性だけに分かったことです。その意味で、イエス・キリストの、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

という言葉は、単なる問いかけではなく、「わたしは、あなたがわたしに隠れてしたことも、ずっと考えていたことも知っています。」という、彼女に対するメッセージであり、イエス・キリストが人の心の中にあることもすべてご存知の方であるということを、彼女に啓示するものです。
 それで、この女性は、この時は、弟子たちも含めて、誰も知ることができなかった、永遠の神の御子としてのイエス・キリストの現実に触れたのです。33節には、

女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

と記されています。彼女は、天地の造り主である唯一の神さまのみを礼拝するユダヤ人です。その彼女が、恐れおののいて、イエス・キリストの御前に進み出て、ひれ伏しました。言うまでもなく、これは、人が栄光の主の御前にあることを自覚したときの姿です。罪ある者が聖なる主の栄光を見たときの恐れとおののきです。彼女は、イエス・キリストの見える姿の奥に隠されている栄光の主の御姿に触れたために、恐れおののいて、その御前にひれ伏したのです。
 この女性は、それまで、イエス・キリストがどのような方であるかということには関心がありませんでした。自分の病がいやされ、汚れが聖められさえすればよかったのです。それで、自分をいやしてくれるであろうイエス・キリストの力に関心を寄せていました。
 彼女は、それまでの12年間に、いろいろな医者にかかってきました。もし、そこによい医者かよい薬があって病気が治っていたとしたら、イエス・キリストに関心をもつこともなかったことでしょう。それまでの彼女にとっては、病気さえ治ればよかったのであり、その手段は、イエス・キリストでなくてもよかったのです。その意味で、彼女はイエス・キリストの力に関心があっただけです。
 それで、彼女は、群衆の中に紛れ込んで、後ろからそっとイエス・キリストに近づいていって、その上着に触れました。そして、病気が治ったときも、そのままそっと帰っていこうとしました。同じことを記しているルカの福音書8章47節では、

女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、

と言われています。「隠しきれないと知って」ということは、彼女がそっと立ち去ろうとしたことを示しています。
 とはいえ、それはこの女性だけのことではありません。先に引用しました、ルカの福音書6章19節に、

群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。

と記されていることからしますと、イエス・キリストにさわっていやされた多くの人々は、大喜びしたでしょうが、そのまま帰って行ったと思われます。しかし、この時、イエス・キリストに触れたこの女性は、そのまま立ち去ることができず、イエス・キリストから、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

と問いかけられました。その結果、非常な恐れとおののきに撃たれてしまいました。それで、恐れおののきつつ、イエス・キリストの御前に進み出て、ひれ伏すほかはありませんでした。
 もちろん、これは、イエス・キリストの恵みによることでした。イエス・キリストがこの女性に、ご自身が栄光の主であられることを示してくださったのです。彼女は、そのイエス・キリストの現実に撃たれて圧倒され、恐れおののいて、その御前にひれ伏しました。
 33節には、

女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

と記されていました。「自分の身に起こった事を知り」と言いますと、病気が治ったことのように思われますが、病気が治ったことは、すでに、29節で、

すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

と言われているときに分かっていました。
 この「自分の身に起こった事を知り」は、文字通りには、「自分に起こった事を知り」で、「自分の身に」の「身に」は原文にありません。彼女に起こったこととは、彼女が群衆に紛れ込んで、後ろからイエス・キリストに近づいて行ってその上着にさわったときに、自分の病気がいやされたということだけではありません。イエス・キリストの、

だれがわたしの着物にさわったのですか。

という言葉をとおして、イエス・キリストが栄光の主であられることを啓示してくださったことと、その結果、彼女もイエス・キリストが栄光の主であられることを知るようになったことも、彼女に起こったことです。そして、この時は、自分の病気が治ったことは、自分が栄光の主の御前に立たせられているという事実の前にかすんでしまっています。
 ですから、この女性は自分の病気が治ったことを知って恐れおののいたのではなく、イエス・キリストがご自身を示してくださったので、イエス・キリストが栄光の主であられることを知って恐れおののいていたのです。それは、自分の罪の自覚を伴うものであったと考えられます。
 彼女の言葉で言いますと、「私は、汚れた者でありながら、病気が治りたいという一心で、栄光の主であられるイエス・キリストに触れて、主の聖さを冒してしまいました。そればかりではなく、こっそりとイエス・キリストに触れて、その御力を盗んでしまいました。栄光の主であられる方を利用した自分は、厳しいさばきによる死に値します。」ということです。彼女の恐れとおののきには、そのような思いが渦巻いていたはずです。
 確かに、この女性はその場で滅ぼされても仕方がないことをしました。私たちは、ことの結末を知っていますから何気なく読んでしまいますが、彼女の立場に立って考えるとどうなるでしょうか。自分は直ちに滅ぼされるべき者であるという、恐れとおののきでいっぱいだったのです。
 そのような思いで恐れおののきつつ、震えながら、御前にひれ伏している女性に、イエス・キリストは、34節にありますように、

娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。

と語ってくださいました。自分が「汚れた者」であることを自覚しており、その自分がさわったイエス・キリストが栄光の主であられるという現実に撃たれて、その御前に恐れとおののきをもってひれ伏しているこの女性にとって、これ以上に思いがけない言葉があったでしょうか。
 この時、イエス・キリストはおよそ30歳でした。12年もの間長血を患ってきた、この女性は、少なくとも、イエス・キリストと同年代、おそらく、イエス・キリストより年を取っていたと思われます。その女性に「娘よ。」と言われたのは、イエス・キリストが彼女をご自身の家族に迎え入れてくださっていることを宣言するものです。

あなたの信仰があなたを直したのです。

というイエス・キリストの言葉の「直した」と訳された言葉は、文字通りには「救った」です。ですから、イエス・キリストは、

あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言ってくださったのです。これは、何よりも、イエス・キリストが自分のことを「娘よ。」と呼んでくださったことにともなう祝福です。
 この女性は、人の目には隠されている、イエス・キリストは栄光の主であるという現実に触れたときに、その御前で恐れおののきひれ伏して、自分のしたことを告白しました。これは、彼女が、本当に、イエス・キリストが栄光の主であられることを知るようになったことの表われです。
 イエス・キリストが、

あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言われるときの彼女の「信仰」は、そのような、イエス・キリストを栄光の主として知り、自分は罪に汚れた者で、ただ、その御前に恐れおののきつつ、ひれ伏すほかはないことを自覚する信仰です。それは、イエス・キリストが彼女にご自身を示してくださったために、彼女の中に生み出された、イエス・キリストを栄光の主として恐れつつあがめる信仰です。その信仰が彼女を救ったのです。なぜなら、彼女が信じた栄光の主イエス・キリストは、ご自身が十字架にかかって、ご自身の民の罪を贖ってくださる、恵みとまことに満ちておられる主であられるからです。
 イエス・キリストは、さらに、

安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。

と言われました。
 この女性が、こっそりとイエス・キリストに触れて、病気が治ったからということで、こっそりと帰っていたとしたら、イエス・キリストの力を利用して終わっただけです。そして、その後には、いつまた病気が再発するかもしれないというような不安が残ったことでしょう。しかし、今や、イエス・キリストがその栄光の主としての御言葉をもって、

安心して帰りなさい。

といって送り出してくださいました。そして、

病気にかからず、すこやかでいなさい。

という、栄光の主の確かな御言葉の保証を与えてくださいました。すべては、「娘よ。」と呼んでくださったことにともなう祝福です。それは、彼女が知った、栄光の主であられる方の一方的な恵みによって与えられたものです。
 イエス・キリストが、

あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言ってくださっている、彼女の「信仰」は、栄光の主であられるイエス・キリストに結びつき、イエス・キリストの御言葉をしっかりと握りしめたはずです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第77回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第79回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church