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説教日:2002年4月14日 |
37節では、ユダヤ人のことが、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言われています。そして続く38節〜40節では、イザヤ書から二つの御言葉を引用して、それが預言者イザヤが預言したことの成就であるということが示されています。 最初に引用されているのは、イザヤ書53章1節の、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉です。これは、52章13節〜53章12節に記されている「主のしもべ」の苦難と死と栄光を預言的に記している言葉の中に出てきます。 先週も触れましたが、新約聖書が旧約聖書を引用するときには、必ずしも、今日の引用のように一字一句をそのまま引用するのではありません。旧約聖書に記されている言葉の趣旨を生かしつつ、それを引用している新約聖書の文脈にそうように引用することがあります。 また、通常、旧約聖書の一節が引用されているときでも、その前後の文脈において述べられていることも視野の中に入っています。より広い文脈が視野の中に入っている中で、代表的な言葉が引用されていることが多いのです。 それで、ヨハネの福音書12章38節では、イザヤ書53章1節の、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉が引用されていますが、この言葉を中心として、52章13節〜53章12節に記されている、「主のしもべ」の苦難と死と栄光を預言的にあかししている言葉の全体に視野を広げて理解する必要があります。 この場合、イザヤが「私たちの聞いたこと」と言っていることは、イザヤが預言的にあかししている「主のしもべ」の苦難と死と栄光のことです。イザヤは、特に、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉から始まる「主のしもべ」の苦難と死は、人間には信じられないことであるということと、人間は、ただ、「主の御腕」として働かれる御霊のお働きにあずかることによって、それを信じることができるということを、やはり、預言的にあかししています。 このことから、ヨハネが、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言うときの、イエス・キリストがなさった「しるし」は、「主のしもべ」としてのイエス・キリストの苦難と死とのかかわりで理解しなくてはならないことが分かります。 イエス・キリストがなさった「しるし」とは、イエス・キリストがなさった奇跡的な御業です。イエス・キリストが多くの人々の病をすべていやし、悪霊を追い出してくださったことが「しるし」としての意味をもっていたということです。それを、イエス・キリストの苦難と死とのかかわりで理解するということは、どのようなことなのでしょうか。 そのことを考えるために、これに先立つ20節〜33節に記されていることを見てみましょう。そこには、 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と記されています。 23節、24節に記されている、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが栄光をお受けになるのは、ご自身が「一粒の麦」として死なれることによってであることを示しています。 また、27節、28節には、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。 というイエス・キリストの言葉に、父なる神さまが、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 とお答えになったと記されています。 これらのことにおいては、イエス・キリストの栄光は、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださることをとおして現わされるということが示されています。 父なる神さまが、 わたしは栄光をすでに現わした と言われたのは、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが人の性質を取って来てくださったこと(受肉)から始まって、この時に至るまでの地上の生涯をとおして「御名の栄光」を現わしてくださったということです。ヨハネの福音書の流れの中では、特に、イエス・キリストがなさった「しるし」をとおして、「御名の栄光」が現わされたということを意味しています。イエス・キリストがなさった最初の「しるし」のことを記す2章11節には、 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。 と記されています。 そして、父なる神さまが、 わたしは ・・・・ もう一度栄光を現わそう。 と言われたのは、イエス・キリストの十字架の苦しみと死をとおして「御名の栄光」を現わされるということです。 父なる神さまは、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 と言われましたが、ここで言われている、二つの栄光は本質的に同じ栄光です。この時までに、特にイエス・キリストがなさった「しるし」をとおして現わされた栄光と、イエス・キリストの十字架の苦しみと死をとおして現わされる栄光は本質的に同じ栄光であるということです。 このことから、イエス・キリストがなさった「しるし」が、イエス・キリストの苦難と死に深くかかわっていることが分かります。 マタイの福音書8章16節、17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。 この個所は、マタイの福音書において最初に記されている、イエス・キリストがなさった一連の御業の記事を締めくくるものです。そして、ここでは、イエス・キリストが悪霊を追い出し、病気の人々をみなおいやしになったことは、イザヤ書53章4節に、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 と預言的にあかしされていることの成就であると言われています。この、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 という言葉も、「主のしもべ」の苦難と栄光を預言的にあかしする中で語られたものです。 マタイは、この言葉を引用することによって、イエス・キリストがただ力に任せて、人々の病をいやされたり、悪霊を追い出されたのではないことを示しています。イエス・キリストは、御許にやって来た人々の痛みや苦しみを、ご自身のこととして味わわれることをとおして、人々をその痛みと苦しみから解放してくださったのです。 そればかりではなく、人がこの世で病におかされたり、悪霊に支配されたりすることは、また、それ以外のさまざまな苦しみに遭うことは、すべての人がアダムにあって罪を犯したものとして罪責を負っていて、神さまのさばきの下にあるからです。病を負った人や災いや苦しみに遭った人が特に罪が深いという意味ではなく、アダムにあって、すべての人が罪ののろいの下にあるという意味です。イエス・キリストは、このような形で執行されている罪へのさばきをもご自身の身に負ってくださって、人々を罪ののろいの下から解放してくださったのです。 これがイエス・キリストがなさった「しるし」の中心にあることです。そして、イザヤ書53章に記されている預言的なあかしにおいては、贖い主がご自身の民の病や痛みをになってくださることは、ご自身の民の罪と咎を負って死んでくださることにつながっています。 イエス・キリストがご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださったことは、そして、死者の中からよみがえってくださったことは、イエス・キリストがなさったすべての「しるし」の頂点です。いわば、イエス・キリストがなさった「しるし」はすべて、イエス・キリストの十字架の死に流れ込んでいきます。そして、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにつながって、「しるし」としての意味を表わします。 このように、イエス・キリストが、ご自身の民の病や痛みを負ってくださることによってなしてくださった「しるし」は、私たちの罪を贖うために十字架の苦しみと死を味わってくださったことと深くつながっています。 このことは、先ほど取り上げたヨハネの福音書12章28節に記されている、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 という父なる神さまの言葉に示されていることと同じことです。すなわち、イエス・キリストの地上の生涯のこの時までに、特にイエス・キリストがなさった「しるし」をとおして現わされた栄光と、イエス・キリストの十字架の苦しみと死をとおして現わされる栄光は、本質的に同じ栄光であるということです。 ですから、ヨハネが、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 とあかししていることは、ユダヤ人がイエス・キリストの十字架の死につまずいてしまったということと、本質的に同じことです。ユダヤ人は、イエス・キリストの十字架の苦しみと死にこそ、ご自身の民の罪を贖う恵みに満ちた「御名の栄光」が現われていることを理解することができませんでした。それと同じように、イエス・キリストが人々の病や痛みをご自身のこととして味わって苦しまれたことに、恵みに満ちた「しるし」としての栄光が現われているということを理解することができませんでした。そのために、イエス・キリストを信じることができなかったのです。 これは、その当時のユダヤ人だけの問題ではありません。私たち今日のクリスチャンにも、同じような発想をもって、父なる神さまと御子イエス・キリストの栄光を考えてしまう危険があります。 イエス・キリストは、多くの人々の病をいやし悪霊を追い出してくださいました。もしこのことが、メシヤとしての力の現われであって、そこにメシヤの栄光が現われているというのであれば、とても分かりやすいのです。そのような理解から、イエス・キリストは圧倒的な力をもって、どのような病もたちどころにいやし、神さまに敵対している悪霊をすべて追い出されたのだから、当然、地上にあって神に敵対する者たちを、その圧倒的な力によって打ち砕いてくださるはずであるというような期待が生まれてきます。そして、そのような圧倒的な力をもって神に敵対する者たちをねじ伏せてしまうメシヤと自分を一体化させて、そのことを誇りとし、頼みとするということになります。 しかし、そういうことであったとしたら、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言われているユダヤ人たちも、イエス・キリストを信じていたはずです。 ユダヤ人たちがつまずいたのは、そのように、メシヤとしての圧倒的な力を働かせて栄光を現わしておられるはずの、イエス・キリストが、苦難をお受けになり、こともあろうに、十字架につけられて殺されてしまったからです。 もし私たちが、イエス・キリストがなさった「しるし」に、敵対する者たちをを力尽くでねじ伏せる力を見て、そこにメシヤの栄光が現われているというように受け止めているとしたら、私たちも、このユダヤ人たちと同じです。 今日、クリスチャンたちが、父なる神さまとイエス・キリストに向かって、自分たちに敵する者たちを屈服させるような力を現わしてくださるように願ったり、そのような力を与えてくださるように願うというようなことはないでしょうか。それは、必ずしも「剣」の力とは限りません。経済的な力であったり、数の力であったり、言葉の力であったり、さらには、何か奇跡的なことをなす力であったりします。それらの力をもって、何らかの意味で、人を屈服させるようなことが追い求められるのであれば、イエス・キリストの十字架をとおして現わされた父なる神さまの栄光は、歪められたり損なわれたりしてしまいます。 イエス・キリストの栄光は、ご自身の民の罪を贖うために、ご自身の民の罪に対する刑罰をすべてお引き受けになって、十字架にかかって死んでくださったことに、この上なく豊かに現わされています。イエス・キリストは、私たち、罪を犯して神さまに敵対していた者たちを、力尽くでねじ伏せて打ち砕かれたのではなく、私たちの罪を贖ってくださり、罪を聖めてくださることによって、私たちを縛りつけていた罪と死と悪魔の力を無力なものとされました。そして、私たちをご自身の民として勝ち取ってくださったのです。このことのうちに、父なる神さまの栄光が現わされています。 もちろん、私たちには御霊の賜物が与えられています。それは一種の力です。イエス・キリストは私たちの罪を贖い、私たちを罪から聖めてくださったうえで、それらの賜物を与えてくださいました。それは、私たちが、それによって人を屈服させるためではなく、よりよく仕えるためのことです。 先ほど引用しました、ヨハネの福音書12章23節、24節には、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 というイエス・キリストの言葉が記されていました。これに続いて、イエス・キリストは、 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。 とも教えられました。 私たちは、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださったことによって父なる神さまの栄光を現わされたイエス・キリストと一つとされています。それで、この、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストに倣って、イエス・キリストに仕えることにおいて、イエス・キリストとともにいるように招かれているのです。 すでにお話ししましたように、イザヤは「召命体験」において、そのような主の恵みに満ちた栄光を知りました。 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったとき、自分の罪の現実を心に映し出されてしまいました。そして、イザヤ書6章5節に記されていますように、自分が聖なる主の栄光のご臨在の御前において直ちに聖絶されるべきものであることを実感して、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という絶望の叫び声をあげました。 しかし、続く6節、7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 イザヤからすれば、自分は罪と汚れを宿す者であり、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、その聖さを犯す者として、直ちに聖絶されるほかはない者でした。その自分が、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 という罪の贖いの宣言を聞いたのです。 これが、イザヤに啓示された主の栄光です。それは、イザヤの思いをはるかに越えた恵みに満ちた栄光でした。 セラフィムの一人が主の御前の祭壇から取った「燃えさかる炭」をイザヤの口に当てて、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 と宣言することができたのは、それによって、確かに、イザヤの罪が贖われ、不義が取り除かれたからです。 しかし、その「燃えさかる炭」そのものにイザヤの罪を贖う力があったわけではありません。むしろ、主のご臨在の御前の祭壇においてささげられ、その「燃えさかる炭」によって焼かれた「いけにえ」があって、そのいけにえによって、イザヤの罪が贖われたのです。 すでにお話ししましたように、その祭壇でささげられたいけにえとは、イザヤが見た栄光の主ご自身でした。 52章13節には、「主のしもべ」のことが、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されています。この「彼は高められ、上げられ」の「高められ、上げられ」という言葉は、6章1節で、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言われているときの、「高くあげられた王座」の「高くあげられた」と同じ言葉です。 このことから、52章13節で、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と言われている方は、6章1節でイザヤが見たという「高くあげられた王座に座しておられる主」のことであるということが分かります。そして、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉から始まる53節1節〜12節には、その栄光の主が、ご自身の民の罪の咎のために砕かれて死ぬことによって、ご自身の民の罪の贖いをすることが預言的に語られているのです。 このように、聖なる主の栄光のご臨在の御前にある祭壇においてささげられたいけにえは、そこにご臨在される栄光の主ご自身でした。 しかし、それでは、おかしいのではないか、という疑問が出てきます。その栄光の主は、「高くあげられた王座に座しておられる主」として、そこにご臨在しておられます。それなのに、その栄光の主のご臨在の御前にある祭壇で、栄光の主ご自身がいけにえとしてほふられたというのは、いったいどういうことなのでしょうか。 その疑問に対する答えは、52章13節〜53節12節に記されている栄光の主の苦難の死と栄光の預言に示されています。その預言は、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 という言葉で始まっており、最後は、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 という言葉で結ばれています。その間に、この栄光の主の苦難と死が預言的にあかしされています。 ですから、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と言われているのは、この「主のしもべ」がご自身の民の罪を贖い、不義を取り去るために、苦難を受けて死んだ後に、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 と言われているように、栄光を受けて高められることを意味しています。 ですから、6章1節で、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言われているときの「高くあげられた王座に座しておられる主」は、すでに、ご自身の民の罪を贖い、不義を取り去るために、苦難を受けて死んだ後に、栄光をお受けになって、高くあげられた主だったのです。 そして、この方は、栄光をお受けになった後も、 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 とあかしされています。その栄光は、力尽くで人をねじ伏せるものではなく、罪ある者たちのためになお執り成してくださる大祭司としてのお働きにおいて、豊かに現わされています。まさに、イザヤは、この主の恵みにあずかって、罪が贖われたという宣言を聞いたのです。 先ほど引用しました、ヨハネの福音書12章32節には、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。この言葉について、ヨハネは、 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と注釈しています。 イエス・キリストが「わたしが地上から上げられるなら」と言われたのは、イエス・キリストが栄光をお受けになることを意味しています。その意味では、これは、イザヤが、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と預言的にあかししていることに当たります。 ヨハネは、それはイエス・キリストが十字架につけられて殺されることであると注釈しています。もしこの注釈がなかったら、「わたしが地上から上げられるなら」ということは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されることとだけ理解されていたことでしょう。ヨハネは、この注釈によって、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことと、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架におつきになったことを、しっかりと結びつけて理解すべきことを示しています。 イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 と言われたように、私たちは、ご自身の民の罪を贖うために十字架におつきになって、父なる神さまの栄光を現されたイエス・キリストの御許に引き寄せられ、イエス・キリストの民とされています。 このことも、イザヤが、「主のしもべ」が栄光をお受けになることを、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 と預言的にあかししていることを背景としています。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 と言われている「主のしもべ」の栄光化は、 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 と言われている「主のしもべ」の苦難と死と切り離しがたく結びついています。 私たちは、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、不義を取り去っていただいただけではありません。栄光を受けて死者の中からのよみがえってくださったイエス・キリストの民としていただいています。イザヤが、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 と預言的にあかししていたとおりです。 また、ヨハネの福音書12章38節〜40節では、イザヤ書の二つの個所が引用されていますが、続く41章には、 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。 と記されています。 もうお分かりですね。イザヤは、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、三日の後に、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストの栄光を見たのです。そのイエス・キリストは、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。そして、今、私たちの大祭司として、私たちのために執り成していてくださいます。 |
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