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説教日:2002年4月7日 |
38節には、 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。 と記されています。 これは、イザヤ書53章1節に記されている、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 というイザヤの預言の言葉の引用です。この、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 ということと、 主の御腕は、だれに現われたのか。 ということは、並行法によって表わされていて、実質的に同じことを述べていると考えられます。 最初の、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 という言葉は、ここで「私たちの聞いたこと」と言われていることが、人間には信じられないことであるということを示しています。その「私たちの聞いたこと」とは、言うまでもなく、52章13節〜53章12節に記されている主のしもべの苦難の死と栄光のことです。そこに記されていることは長いので、抜粋して引用してみましょう。 ・・・・・・ 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 ・・・・・・ しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、 生ける者の地から絶たれたことを。 ・・・・・・ それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 ここには、52章13節で、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 とあかしされている栄光の主が、ご自身の民の罪と咎を贖うために苦難を受けて死ぬということと、そのようにして贖いを成し遂げることによって栄光をお受けになるということが預言的にあかしされています。 イザヤは、このことが、とても人間には信じることができないということも預言しています。 ヨハネの福音書12章38節では、ユダヤ人がイエス・キリストを信じなかったのは、このことによっていると言われています。まさに、イザヤが、 私たちも彼を尊ばなかった。 と預言し、さらに、 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、 生ける者の地から絶たれたことを。 と預言したことが実現したのです。 また、次の、 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉は、その「私たちの聞いたこと」は「主の御腕」のお働きにあずかることがなければ、誰も信じることができないということを示しています。言い換えますと、「主の御腕」のお働きにあずかった人は、栄光の主が苦難を受けて死ぬことと、それがご自身の民の罪と咎を贖うためのことであることを信じることができるようになるということです。この「主の御腕」は、人の心を開いて主の御言葉を信じるようにお働きになります。それで、この場合の「主の御腕」は、主の御霊のことです。 このように、イザヤは、約束の贖い主の苦難と栄光を預言しています。その際に、そこに預言されていることを信じることができるのは、「主の御腕」としてお働きになる、御霊のお働きによることも預言的に語られています。 主の御言葉は、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、ご自身の民の罪を贖ってくださるために、人の性質をお取りになるほどに貧しくなってきてくださり、十字架にかかって死んでくださったということをあかししています。私たちがその御言葉のあかしを信じて、御言葉があかししているイエス・キリストを信じることができるのは、そして、実際に、できたのは、「主の御腕」としてお働きになる御霊のお働きによることです。 ヨハネの福音書12章39節、40節には、 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」 と記されています。 ここでは、イザヤ書6章10節に記されている御言葉が引用されています。イザヤ書6章9節、10節には、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 と記されています。 ここから分かりますように、 主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。 というのは、イザヤに委ねられた宣教活動の意味を明らかにするものです。そして、イザヤのあかしを聞く人々の心がますますかたくなになっていってしまうということが明らかにされています。 新約聖書が旧約聖書を引用するときには、必ずしも今日の引用のように、一字一句をそのまま写すように引用するわけではありません。引用された個所の趣旨を生かしながら、引用する個所の文脈に合わせて引用しています。このヨハネの福音書12章39節、40節では、イザヤのあかしを聞く人々の心がますますかたくなになっていってしまうことが神である主ご自身のお働きであることを、より明確に示す形で引用されています。もちろん、これは、すでにお話ししましたように、主の御前に高ぶって、心をかたくなにしているユダ王国の民に対するさばきの一つの形です。 どういうことかと言いますと、イザヤが住んでいたユダ王国は、半世紀に渡るウジヤ王の治世の下での繁栄を享受してきました。その繁栄はウジヤが主のみこころを求めたことをとおして与えられた祝福でした。しかし、やがて、この長期にわたる繁栄のゆえに、ウジヤを初めとして、ユダ王国の民の心は高ぶってしまいました。 その繁栄のもとで、多くのいけにえがささげられ、主の御名による集会や行事が盛んに行なわれてていました。それでユダ王国の民は、自分たちと自分たちのしていることが、主に受け入れられていると信じていました。しかし、いけにえは、主の民が自らの罪と汚れを自覚するとともに、主が備えてくださる贖いの恵みに信頼するようになるために、主が定めてくださったものです。また、さまざまな集会も、主が示してくださった恵みを、さまざまな機会に覚えるように定められたものです。すべて、主がご自身の民の益のために備えてくださったものです。その本来の趣旨を理解してそれにあずかるなら、その人は、主の御前に身を低くしてその恵みに信頼するようになります。 しかし、ユダ王国の民は、多くのいけにえをささげていることや盛んな集会をしていることを、主の御前に誇りとしていました。それが主の要求、あるいは必要を満たしているので、自分たちは主に受け入れられていると考えていたのです。いわば、自分たちのささげる多くのいけにえや盛んな集会を、主に押し付けていたわけです。1章14節には、 あなたがたの新月の祭りや例祭を、 わたしの心は憎む。 それはわたしの重荷となり、 わたしは負うのに疲れ果てた。 と記されています。 このように、多くのいけにえや盛んな集会は、ユダ王国の民の自己主張の機会となってしまっています。自分のなしたことや、なしていることの「よさ」を神さまに向かってアピールし、神さまからの報いを要求するという形で現われてきた自己主張であり高ぶりです。私たちも、このような高ぶりと自己主張に陥りやすいものです。 イザヤが伝えた福音の御言葉は、そのような高ぶりの中にあるユダ王国の民の心には届きません。そればかりか、イザヤの伝えた福音の御言葉を聞くことによって、かえって、その心は堅く閉ざされてしまうようになるのです。それが、主のさばきの一つの形です。 それでは、イザヤが述べ伝えた福音の御言葉はどのようなものだったのでしょうか。このことについても、まとめておきましょう。 イザヤ書6章1節〜4節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 このように、幻のうちに、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たされたイザヤは、主の聖さによって、自らの罪と汚れを映し出されてしまいました。それで、5節に、 そこで私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 と記されていますように、自分が主の御前に直ちに聖絶されるべきものであることを感じて絶望の声を上げました。 この時、イザヤはすでに預言者として活動していたと思われます。そうでなかったとしても、少なくとも、預言者的な眼をもって、ユダ王国の繁栄の陰に隠れている、民の罪の現実を見て取っていました。イザヤは、いわば、ユダ王国の「良心」とも言うべき存在だったのです。しかし、そのイザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときには、罪と罪の生み出した汚れが、ほかならぬ自分自身のうちにあるという現実に向き合うことになりました。しかも、自分は直ちに聖絶されるべきものであるという恐ろしい実感とともにその現実を受け止めたのです。 確かに、イザヤは、罪と汚れを宿した者でありながら、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って、主の聖さを冒してしまいました。そのようにして、聖なる主の栄光のご臨在の御前に聖絶されて滅びるほかはないということを実感したイザヤは、さらに驚くべき体験をしました。6節、7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 自らのうちに罪と汚れを宿した者でありながら、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って、主の聖さを冒してしまったために、聖絶されなければならないはずのイザヤが、罪の贖いにあずかって、その罪が贖われたという宣言を聞いたのです。それは、イザヤがまったく予測できなかったことで、主の一方的な恵みによることでした。 イザヤは、自分自身を含めて、ユダ王国の民が聖なる主の栄光のご臨在の御前にあって歩む主の契約の民であることができるのは、そのような主の一方的な恵みにあずかるほかはないことを知りました。もちろん、それはイザヤ自身が実感とともに知ったことですが、主の啓示とそれを悟らせてくださる御霊のお働きによることでした。 人は、この時のイザヤのように、自分が罪を宿していて主の聖さを冒すものでしかないために、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては直ちに聖絶されるべきものであることを現実的に悟ったときに初めて、自分が聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことができるのは、ただ、主の一方的な恵みによるということを知ることができます。それこそが、主がご自身の契約の民のために備えてくださった贖いの恵みです。そして、主が確かにその贖いの恵みを備えてくださっているということが、この時イザヤが悟った福音でした。 そのことを悟ったイザヤは、8節に、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されていますように、その福音の御言葉をユダ王国の民に宣べ伝えることを願い出て、聖なる主の栄光のご臨在の御前から遣わされました。 しかし、そのイザヤに告げられたのは、すでに引用しました9節、10節に、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 と記されていますように、ユダ王国の民は、イザヤの伝える福音の御言葉を理解しないし、受け入れないということです。その福音の御言葉にあかしされていることは、自分が罪を宿していて主の聖さを冒すものでしかないために、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては直ちに聖絶されるべきものであることを現実的に悟った人にしか理解できないし、受け入れることができないことです。 半世紀にわたる繁栄を享受して、主の御前に高ぶっていたユダ王国の民には、イザヤの経験したような、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、まったく絶望的な状態にあることを悟ることはできないことでした。そのために、ユダ王国の民は、主が備えてくださっている、まったき贖いの恵みを知ることもできませんし、それに頼るということもできませんでした。それで、イザヤが宣べ伝える福音の御言葉を受け入れることはできなかったのです。 さて、イザヤの口に、聖なる主の栄光のご臨在の御前の祭壇から取った「燃えさかる炭」が当てられたときに、イザヤの罪が贖われました。もちろん、「燃えさかる炭」そのものに罪をきよめる力があるわけではありません。その「燃えさかる炭」は、その上にささげられたはずのいけにえを焼き尽くしたものです。いわば、そのいけにえはイザヤの代わりに聖絶されていたのです。その「燃えさかる炭」がイザヤの口に当てられたのは、そのいけにえの聖絶がイザヤに当てはめられたということを意味しています。 ここでは、イザヤがあずかった罪の贖いのために、聖なる主の栄光のご臨在の御前にある祭壇に、いけにえがささげられていたことまでは分かります。しかし、そのいけにえの本体が何であるかは分かりません。 とはいえ、そのいけにえが地上のエルサレム神殿でささげられていた動物のいけにえとは違うことは確かです。なぜなら、動物のいけにえがささげられているエルサレム神殿において、主のご臨在される聖所に入ることができたのは祭司だけであり、ウジヤ王の例のように、祭司以外の者が入るなら、主の聖さを冒したものとしてさばきを受けなければなりませんでした。そればかりではなく、イザヤは、聖所のさらに奥の至聖所に当たる、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったのです。それがエルサレム神殿であれば、イザヤは、直ちに聖絶されていたはずです。 しかし、イザヤの口に、聖なる主の栄光のご臨在の御前の祭壇から取った「燃えさかる炭」が当てられたときに、イザヤの罪は贖われました。しかも、罪が赦されたイザヤは、直ちにそこを去るように命じられたのではありません。聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ち続けることができるようになりました。そればかりでなく、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されていますように、イザヤは主の側に立つものとされています。それは、イザヤが、その罪と咎をまったく贖われて赦されたばかりか、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ち続けることができるように聖なるものとされ、その御前から遣わされる者になったことを意味しています。 聖なる主の栄光のご臨在の御前の祭壇でささげられたいけにえは、そのようなまったき贖いの恵みをもたらしました。それは、エルサレム神殿でささげられていた動物のいけにえでは、決してなしえないことです。 やがてイザヤは、その聖なる主の栄光のご臨在の御前の祭壇でささげられたいけにえの「本体」が何であったかを、預言的にあかしするようになりました。先ほど引用しました52章13節には、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されています。この「彼は高められ、上げられ」の「高められ、上げられ」という言葉は、6章1節で、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言われているときの、「高くあげられた王座」の「高くあげられた」と同じ言葉です。このことから、52章13節で、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と言われている方は、6章1節でイザヤが見たという「高くあげられた王座に座しておられる主」のことであるということが分かります。 そして、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉から始まる53節1節〜12節には、その栄光の主が、ご自身の民の罪の咎のために砕かれて死ぬことによって、ご自身の民の罪の贖いをしてくださることが預言的に語られているのです。 このことから、聖なる主の栄光のご臨在の御前において自らの罪と汚れの現実に絶望の叫びをあげたイザヤの口に「燃えさかる炭」を当てたセラフィムが、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 と宣言したことの根拠が分かります。聖なる主の栄光のご臨在の御前にある祭壇においてささげられたいけにえは、そこにご臨在される栄光の主ご自身だったのです。 これまでお話ししていたこととのかかわりで言いますと、イザヤを初めとして、私たち主の民の罪が贖われるために栄光の主ご自身が、祭壇にささげられるいけにえとならなければならなかったのは、それによってしか、人間の罪が贖われる道がないからです。イザヤがこの経験をとおして現実的に悟ったように、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間は、その無限、永遠、不変の聖さと、その現われである栄光を汚しています。そのような人間の罪の重さを、聖なる神さまの義の尺度で測りますと、無限の重さになってしまいます。そのような無限に重い罪を贖うことは、いかなる被造物にもできません。ただ、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子イエス・キリストが、人の性質を取って来てくださって、私たちの代表となってくださり、その罪に対するさばきをすべて受けてくださって初めて、贖われるようになったのです。 これが、福音の御言葉が明らかにしている私たちの罪の現実です。それは、聖なる主の栄光のご臨在の御前における私たちの罪の現実であって、罪によって曇っている人間の目に映る現実とは全く違います。聖なる主の栄光のご臨在の御前における私たちの罪の現実を知ることは大切なことです。なぜなら、私たちは、やがて、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つようになるからです。 この聖なる主の栄光のご臨在の御前における罪の現実の前には、ユダ王国の民が誇った、多くのいけにえや盛んな集会も通用しません。聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って自らの罪と汚れの現実を悟ったイザヤは、64章6節に記されていますが、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と告白しています。 イザヤの時代のユダ王国の民も、イエス・キリストの時代のユダヤ人も、「不潔な着物」のような自分たちの義を主に押し付けようとしていました。それは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に、自分たちの「よさ」を誇り、高ぶることです。そのために、福音の御言葉を聞いても理解することができませんでした。そればかりか、福音の御言葉を聞くことによって、その心がますますかたくなになってしまったのです。 これはまた、今日の私たちの危険でもあります。私たちは、これらのことを心に留めて、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つべき主の契約の民として、身を低くしたいと思います。そして、この日あずかります聖餐式においてあかしされている、栄光の主であられるイエス・キリストの苦難と死によって成し遂げられた、まったき贖いを、信仰によって、また、感謝をもって受け取りたいと思います。 |
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