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説教日:2002年3月24日 |
「種まきのたとえ」の記事にも示されていますが、この点に関して聖書は二つのことを教えています。 一つは、人が造り主である神さまの御前に自らの罪を自覚することができるのも、さらに、その罪の自覚のゆえに、神である主が備えてくださった罪の贖いに頼るようになるのも、神である主の一方的な恵みによるということです。具体的には、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて働かれる御霊のお働きによることです。 コリント人への手紙第二・2章9節〜16節には、 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 そして、人の心に思い浮んだことのないもの。 神を愛する者のために、 神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されています。 確かに、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前において自分の罪を自覚し、自分が絶望的な状態にあることを悟って、イザヤ書6章5節に記されている、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という絶望の声をあげたのは、主の一方的な恵みのお働きによることでした。また、言うまでもないことですが、イザヤが、主のご臨在の御許に備えられていた贖いにあずかって、罪を贖われ不義を取り去られたのも、主の一方的な恵みによることでした。 聖書が教えているもう一つのことは、このような主の一方的で主権的な恵みは、人間の意志の自由を押しつぶすように働くことはなく、むしろ、その意志の自由を生かしてくださる形で働くというこです。 神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになりました。「神のかたち」に造られている人間は、自由な意志を与えられています。それで人間は、自分の意志で自分のあり方を選び取っているものであり、神さまに対して「説明責任」を負っています。 ローマ人への手紙14章10節〜12節には、 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。 「主は言われる。わたしは生きている。 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、 すべての舌は、神をほめたたえる。」 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 と記されており、ペテロの手紙第一・4章5節には、 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。 と記されています。 神さまは、人を「神のかたち」にお造りになったご自身の御業に反するようにはお働きになりません。むしろ、そのことをお生かしになってお働きになります。 イザヤの例で見ますと、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において自分の罪を自覚し、自分が絶望的な状態にあることを悟って絶望の声をあげました。それは、主の一方的な恵みのお働きによることでしたが、確かに、イザヤが自分の罪を自覚し、自らの絶望的な状態を悟ったのです。それはイザヤの意志と無関係になされたことではなく、イザヤが自分で自覚し、自分の意志でなしたことです。主はイザヤの心を照らして導いてくださったのです。 主が、このような一方的な恵みのお働きとは反対の方向に働かれることもあります。それも、人間のうちにある思いを生かしておられるるという点では変わりがありません。 ローマ人への手紙1章20節〜28節には、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 と記されています。 これは、その当時の異邦人の社会に現われた人間の現実を造り主である神さまとの関係で述べたものです。その当時の異邦人の社会の現実を述べたものですが、今、私たちの住んでいるこの日本の社会にもそのまま当てはまるものです。 これだけを読みますと、それは異邦人だけのことのように聞こえてきます。しかし、これに続く2章1節には、ユダヤ人のことが、 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 と記されています。 ですから、これは、ユダヤ人にも当てはまることです。また、民族的な区別を離れて言いますと、私たち、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかっている者も、その贖いの恵みにあずかっていなかったとしたら、このような現実の中にあったはずです。そのことを心に留めて、神さまの御前に身を低くしたいと思います。その上でお話を続けたいと思います。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、1章24節、26節、28節で、神さまが彼らを「引き渡された」と言われていることです。まず、その一つ一つを見てみましょう。 24節では、神さまが「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」たと言われています。 「その心の欲望のままに」と訳されている部分は、解釈が難しいところです。直訳しますと「彼らの心の欲望にあって」あるいは「彼らの心の欲望のゆえに」となります。これは、彼らの基本的なあり方が、自分の「心の欲望」に浸かっている状態にあること、自分の「心の欲望」に支配され、動かされている状態にあることを示していると考えられます。それで、「その心の欲望のままに」と訳されているのでしょう。神さまは、自分の「心の欲望のままに」生きている彼らを「汚れに引き渡され」たということです。ですから、彼らは自分自身の「汚れに引き渡され」たのです。 この場合の「汚れ」が具体的にどのようなことであるかは、はっきりしません。これに続いて、 そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 と言われていることから、性的な汚れを思わせますが、必ずしもそれに限定されるものではありません。「互いにそのからだをはずかしめる」の「互いに」と訳された言葉(エン・アウトイス)は「彼らの間で」ということで、必ずしも「お互いに」ということではありません。また、「はずかしめる」(「侮辱する」、「軽んずる」)という言葉(アティマゾー)が表わしていることも、特定のことに限定することができません。 神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになりました。それは、人間の霊魂だけが「神のかたち」であるということではなく、肉体と霊魂からなる人間が「神のかたち」であるということです。「からだをはずかしめる」ということは、「神のかたち」としての人間の「からだ」を辱めたり、軽んじたりすることです。 これに先立つ23節と、これに続く25節に偶像礼拝のことが述べられていることから、神さまを礼拝するうえでの「汚れ」、礼拝を汚すことであると考えられます。それは、その当時、礼拝の一環ということで、広くなされていた「神殿娼婦」との交わりのことであるとする見方があります。その他、たとえば、礼拝のために自分の身体を傷つけたりすることなども、これに当たると思われます。 そして、26節では、神さまが「彼らを恥ずべき情欲に引き渡され」たと言われています。 この「恥ずべき情欲」が生み出すことが何であるかについては、26節後半と27節に、それが性的な倒錯であることが示されています。 さらに、28節では、神さまが「彼らを良くない思いに引き渡され」たと言われています。 この「良くない思い」の「思い」(ヌース)は理性や知性を表わす言葉で、日本語の「思い」よりは知性的な意味合いが濃いものです。生き方の根本にある「考え方」あるいは「思想」と言ったらいいでしょうか。また、「良くない」と訳された言葉(アドキモス)は、テストした結果「良くない」と判定された状態を表わしています。ここでは、それをテストするのは神さまで、神さまによって「良くない」と判定されたということです。そして、28節〜32節には、この「良くない思い」が生み出すものが、さまざまな道徳的また社会的な悪であることが示されています。 このように見ますと、ここでは、神さまが、人々を「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」たので、人々の間で、礼拝にかかわる問題から始まって、道徳的また社会的な悪に至るまでの、さまざまな悪が生み出されているという現実が述べられていることが分かります。 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、ここに述べられている「汚れ」も「恥ずべき情欲」も「良くない思い」も、彼ら自身のものであるということです。そうしますと、神さまが、彼らを、彼ら自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」たということを、いったい、どのように考えたらいいのでしょうか。 もちろん、それは、神さまが彼らの中に「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」を生み出されたということではありません。彼らの「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」は、彼ら自身のうちにある罪の性質から生まれてきたもので、彼ら自身のものです。 神さまが、彼らを、彼ら自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」たのは、彼らに対するさばきによることです。それによって、もともと彼らのうちにあった罪の本性が、礼拝を初めとして、生き方のあらゆるところに、さまざまな形を取って、しかも、あからさまに表現されるようになりました。そして、その行き着いたところは、32節で、 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 と言われていますように、造り主である神さまを侮る形で否定することです。 そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっている という神さまへの侮りがあるために、そのようなことを行なっても良心が痛まない状になってしまっています。そして、 それを行なう者に心から同意しているのです。 と言われていますように、自分たちの判断を最終的なこととするとともに、互いに支え合って、その道を突き進んでしまいます。 人間はこのような生き方を「自由」であると言います。しかし、それは、罪によって腐敗してしまった自由です。しかも、それは歯止めを失って行き着くところまで行き着いてしまう、いわば、「暴走する自由」です。 神さまが、人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」るということは、神さまのさばきの一つの形ですが、このさばきは、理由なく執行されるのではありません。 24節は、 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され と言われていますように、「それゆえ」という言葉で始まっています。また、26節では、 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。 と言われていて、「こういうわけで」という言葉で始まっています。 どちらも、それに先だって述べられていることが理由となって、神さまのさばきが執行されていることを明らかにしています。そして、これらに先だって述べられてることは、彼らが、天地の造り主である神さまの代わりに、自分たちが作った偶像を拝んでいるということです。 さらに、28節では、 彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され と言われています。ここでも、神さまが「彼らを良くない思いに引き渡され」た理由が述べられています。それは、「彼らが神を知ろうとしたがらない」からだと言われています。「神を知ろうとしたがらない」と訳されている部分は、「知識のうちに神を持つことをよしとしない」というような言い方です。ギリシャ語ではこの「よしとしない」という言葉(ウーク・エドキマサン)と「良くない思い」の「良くない」という言葉(アドキモン)は、音声的にも意味の上でも関連があります。 先ほどお話ししましたように、「良くない思い」の「思い」は、人の生き方の根本にある「考え方」や「思想」のような知性的なものです。それに先だって述べられている「彼らが神を知ろうとしたがらない」ということも知性的なことです。 箴言1章7節には、 主を恐れることは知識の初めである。 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 と記されています。ローマ人への手紙1章28節で、 彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され と言われている人々は、その「考え方」や「思想」が造り主である神さまに対する恐れを欠いたものとなっており、神さまと神さまのみこころを中心としたものではなくなってしまっているのです。そこから、道徳的また社会的に、さまざまな悪が立ち現われてきているのです。 このように、神さまのさばきは、ここに記されている人々自身がよしとして追い求めているものを、そのとおりに実現させてしまうという形で執行されています。それで、人はそれを「自由」であると考えたり、感じたりするわけです。 そのことが、神さまが、人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」るというように述べられています。そうしますと、神さまが、この人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」ない、ということもあるはずです。それはどのようなことでしょうか。 実は、ローマ人への手紙1章24節、26節、28節で、神さまが人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」たと言われていますが、それは、徹底的なものではなく、なお、「手心」が加えられています。そのようなさばきが、徹底した形でなされたのは、歴史の中でただ一度しかありません。それは、ノアの時代における洪水による最終的なさばきに至るまでの歴史においてのことです。人類の歴史の中でただ一度だけ、神さまが人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に、完全に「引き渡され」てしまったために、人類は罪の升目を満たしてしまいました。創世記6章5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。「みな」、「いつも」、「悪いことだけに」という徹底さに注意してください。また、11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 このようにして、人類は罪の升目を満たしてしまったために、洪水によるさばきが執行されました。それは、それまでの人類の歴史を最終的に清算する終末的なさばきでした。そこでは、わずかに、ノアとノアの家族だけが残されただけでした。それは、それほど徹底的に、また全体的に、人間の罪の本性がありのままの姿をむき出しにしていたということを意味しています。 もちろん、これは、古い契約の下におけることで、歴史には最終的なさばの時があるということをあかしする、地上的な「ひな型」としての意味をもったさばきでした。それと同時に、これは、もし、神さまが人類を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に、完全に「引き渡され」てしまわれるなら、人類の罪の本性がありのままの姿をむき出しにして、たちまちのうちに罪の升目を満たしてしまう、そして、終末的なさばきを招いてしまうようになる、ということをあかししています。 しかし、実際には、ノアの時代の後も歴史は連綿と続いてきました。地域的には、たとえば、ソドムとゴモラのように、終末を思わせるようなさばきに服したこともありましたが、全体としての人類の歴史は保たれてきました。それは、創世記9章9節〜11節に記されていることですが、ノアの時代の洪水によるさばきの後に、神さまが、 さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。 と約束してくださったことによっています。 この後、神さまは、この契約のゆえに、人類を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に完全に「引き渡され」てしまったことはありません。人類の一部がそれに近い状態になったことはありましたが、人類全体がそのようになったことはありません。言い換えますと、神さまは、人間の罪の本性を抑止してくださって、その罪の本性が、人間の生き方にそのままの姿をむき出しにしないようにしてくださっているのです。それは、一般恩恵による聖霊のお働きです。 その意味で、ノアの洪水以後、人類は、自分たちの罪の本性が、自分たちのさまざまな活動をとおして、そのありのままの姿をむき出しにすると、どのような恐ろしい世界が出現するようになるかを経験していません。 ローマ人への手紙1章24節、26節、28節で、神さまが人々を自分自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡され」たと言われていることは、このような、一般恩恵による聖霊のお働きが、完全にというわけではありませんが、停止されることです。それによって、人々のうちにある罪の本性が、その生き方の中にそのままの姿をむき出しにして現われてくるようになりました。いわば、人々の心に潜んでいる罪の本性という根が芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結んでしまうのです。 このように、神さまのお働きは、救いとさばきの御業のどちらにおいても、「神のかたち」に造られている人間に与えられている自由な意志や知性やわきまえを押しつぶしたり、無理にねじ曲げたりするようなことはありません。むしろ、それらのものが生かされるように働かれます。 イエス・キリストの時代のユダヤ人が、イエス・キリストを信じなかったことは、イザヤの預言が成就するためのことでした。しかし、そのことは、決して、運命的なことではありません。また、神さまが外側から操作されるということでもありません。むしろ、それは、その時代のユダヤ人たちが、自分たちこそがメシヤを中心として世界の頂点に立って世を治めるようになるという、民族的な誇りをもっていたために、貧しくなって来られたイエス・キリストにつまずいて、イエス・キリストを受け入れようとしなかったことによっています。そして、その民族的な誇りは、イザヤの時代から連綿と受け継がれてきたものでした。 私たちは、神さまを信じるようになる前も、一般恩恵による聖霊のお働きによって支えられてきましたし、今も、一般恩恵による聖霊のお働きによって支えられている世界に生きています。いま私たちは、さらに、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる聖霊のお働きにあずかっています。 その御霊のお働きも、私たちの心を照らして、生かしてくださり、私たちが福音の御言葉を悟るように導いてくださるものです。私たちが御言葉を悟ることに心を向けないない時には、その御霊を悲しませています。しかし、私たちが自らの意志を働かせて、イエス・キリストとイエス・キリストのみこころを知ることを願って、福音の御言葉を理解するためにすべてを傾けるときには、御霊は私たちのうちで働いていてくださっています。私たちはこの御霊のお働きに信頼しつつ、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信頼し、そのみこころに従うことによって、いのちの道を歩むことができます。 |
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