(第73回)


説教日:2002年3月3日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事にかかわるお話をいたします。
これまで、この「召命体験」をとおしてイザヤに託された宣教活動が、イエス・キリストの宣教活動とどのようにつながっているかを、新約聖書のいくつかの記事をとおして見てきました。そして、その最後として、ヨハネの福音書12章37節〜43節に記されていることとに注目してきました。
 これまで、37節で、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と言われていることに注目して、「しるし」を見ることや、「しるし」あるいは「しるしと不思議」がどのような意味をもっているかをお話ししました。今日は、そのお話を踏まえて、さらにお話を進めたいと思います。



イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

ということは、その当時のユダヤ人がイエス・キリストのことを信じなかったということを問題にするものです。これは、いわば、結論的なことを言うものです。ヨハネの福音書は21章まであるのに、その真ん中過ぎくらいの12章で、そのような結論的なことが記されるのは早すぎないかという疑問が出てきます。
 しかし、実は、この時は、すでに、イエス・キリストの地上の生涯の最後の週でした。12章1節に、

イエスは過越の祭りの6日前にベタニヤに来られた。

と記されていますが、この年の「過越の祭」の日に、イエス・キリストは十字架につけられて殺されます。それで、イエス・キリストが公生涯においてなさった「しるし」は、この段階でほぼなされてしまっています。
 もちろん、イエス・キリストがなさった「しるし」の頂点であり、出エジプトの贖いの御業の最終的な成就である、十字架の死と死者の中からのよみがえりは残されています。とはいえ、それによって、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

という結論が変わることはありません。なぜなら、コリント人への手紙第一・1章22節〜24節に、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されていますように、イエス・キリストの十字架の死は、「しるし」を求めるユダヤ人にとって、つまずきでしかなかったからです。
 これは、イエス・キリストの十字架の死が「しるし」ではないという意味ではありません。これまでお話ししてきましたように、ユダヤ人の求める「しるし」が、神さまが与えてくださる「しるし」と違っていたということです。
 いずれにしましても、ヨハネの福音書の記事の流れでは、これに続く13章からは、イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜の、過越の食事の席でのことが記されています。これが、17章に記されている「大祭司の祈り」まで続きます。そして、18章ではイエス・キリストの逮捕とピラトの前での尋問、19章ではイエス・キリストが十字架につけられて殺されたことが記されています。
 このような、ヨハネの福音書の記事の流れから見ますと、12章37節で、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

という結論的なことが言われていても、早すぎるということはありません。
 さらに、ヨハネの福音書においては、このような結論的なことが、すでに、その冒頭の1章11節に記されていて、

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

と言われています。ですから、ヨハネは必要に応じて、早い段階であっても、結論的なことを述べているわけです。
 それにしましても、この、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

という言葉は、ただ単にユダヤ人の不信仰を述べているだけではありません。先ほどの、

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

という一般的な結論とは違って、イエス・キリストが多くの「しるし」をなさって、ご自身が約束の贖い主であることを明確に示されたのに、ユダヤ人はイエス・キリストを信じなかったということを問題としています。
 すでにお話ししましたように、「このように多くの」と訳された言葉は、量的に多いこととともに質的に高いことを表わす言葉です。これによって、イエス・キリストがなさった「しるし」の数が多かっただけではなく、その質が高いものであったことが示されていると考えられます。つまり、イエス・キリストがなさった「しるし」は、明確にイエス・キリストが約束の贖い主であることを表わしていたので、それを見た人々は、当然、イエス・キリストを約束の贖い主として信じることができたはずであることが示されています。
 このように、ここでは、イエス・キリストがなさった「しるし」に焦点が当てられています。そして、ここでイエス・キリストがなさった「しるし」が取り上げられていることには、理由があると考えられます。それは、これに先立って記されている記事の流れから理解することが出来ます。
 これに先だって、11章1節〜44節には、イエス・キリストがラザロをよみがえらせてくださったことが記されています。そして、続く45節〜53節には、

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

と記されています。
 祭司長とパリサイ人たちは、最高議会であるサンヘドリンにおいて、

われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。

と言いました。彼らは、イエス・キリストが「多くのしるしを行なっている」ことを認めています。ただし、この「多くの」という言葉は、単に、それが多いことを表わしていて、12章37節の「このように多くの」という言葉のようにその質が高いことまでは表わしてはいません。それは、パリサイ人たちが、イエス・キリストがなさった「しるし」を受け入れようとしなかったことからすれば当然のことです。
 この、

われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。

という言葉は、イエス・キリストがラザロをよみがえらせてくださったことを受けて語られています。イエス・キリストがラザロをよみがえらせてくださったことは、一つの「しるし」です。それなのに、

あの人が多くのしるしを行なっているというのに。

と言われているのは、ラザロのよみがえりが、その時までにイエス・キリストがなさった「多くのしるし」を代表するような重さをもって衝撃を与えたことを示しています。そして、このことが引き金となって、「イエスを殺すための計画」が立てられるようになりました。
 祭司長とパリサイ人たちが招集した議会、すなわち、サンヘドリンに集まった人々を動かしていたのは、48節に記されていますように、

もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。

という心配でした。
 それは、その当時、メシヤを名乗る者が群衆を扇動してローマ帝国に対する反乱を企てることがあったことを背景としています。イエス・キリストが人々をそそのかして、ローマに対する反乱を企てはしないかという恐れです。また、イエス・キリストがそのような企てをしなくても、群衆が熱狂的になって、勝手に反乱に走りはしないかという恐れでもあります。ここで「われわれの土地も国民も」の「土地」と訳された言葉(ホ・トポス)は「場所」を表わしています。そして、「われわれの場所」は、より特定の場所で、エルサレム神殿を指していると考えられています。
 この心配は、形としては、主の神殿と国家を守ろうとするものですが、それ以上に、権力の座にある自分たちの立場を守ろうとする思いがその根底にあります。49節には、

あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。

という大祭司カヤパの言葉が記されています。ここでは「あなたがたにとって得策だ」という本音が漏らされています。表向きには、主の神殿と国家を守るのですが、その背後には、自分たちの立場を守る思いが隠れています。マタイの福音書27章18節に、

ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

と記されているように、彼らの本音は、ピラトにも見抜かれていました。
 このように、この時、大祭司とサンヘドリンの議員たちを根底から動かしていたのは、自分たちが手にしている立場を守ることです。自分たちを中心とする体制を守ることが、ひいては、主の神殿を守ることであり、ユダヤ社会を守ることであると考えているわけです。
 このことが、彼らの目を曇らせて、「しるし」を見ることができないようにしています。彼らの自己義認に基づく自己中心性が、彼らの目を曇らせてしまっているのです。
 彼らは、自分たちを中心とする体制を守ることを根本的な動機として、イエス・キリストを殺そうという計画を立てました。ということは、彼らは、イエス・キリストのことを、人力や軍事力などの血肉の力を結集してローマと対立し、自分たちを中心とするユダヤ社会の体制を脅かす、政治的な活動をする者であると見なしていたわけです。そして、そのような観点から、イエス・キリストがなさった「多くのしるし」を見ていたのです。
 大祭司とパリサイ人たちが、自分たちを中心とする体制を守るためにイエス・キリストを殺そうとしたことは、象徴的なことです。
 大祭司カヤパは、エルサレム神殿で仕える祭司を統率する人物でした。エルサレム神殿は地上の神殿であって、まことの聖所のある主の神殿を指し示す地上的な「ひな型」、「視聴覚教材」です。これに対して、イエス・キリストは、エルサレム神殿を「ひな型」とする、天にあるまことの神殿の聖所で大祭司としての務めを果たしておられます。ヘブル人への手紙9章24節に、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と記されているとおりです。
 地上の神殿においてささげられていた動物のいけにえの「本体」は、十字架の上でご自身のいのちの血を流されたイエス・キリストです。また、動物のいけにえによってあかしされていた罪の贖いは、イエス・キリストの血による罪の贖いによって成就しています。ヘブル人への手紙10章11節〜14節に、

また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されているとおりです。
 大祭司カヤパは、自分がそこで仕えている、地上の「ひな型」であるエルサレム神殿を守ろうとして、まことの大祭司であられるイエス・キリストを殺そうとしています。カヤパにとって、地上の神殿を守ることは、自分の立場を守ることです。しかし、それは、「ひな型」あるいは「模型」を必死で守ろうとして、「本物」を損なってしまうことです。いわば、古い革袋に固執して、新しいぶどう酒を台無しにしてしまうことです。
 地上の神殿も、そこで大祭司として仕えるカヤパも、「本物」の神殿と「本物」の大祭司をあかしする地上的な「ひな型」です。それで、ヨハネの福音書11章49節、50節に記されている、カヤパの口をついて出てきた、

あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。

という言葉が、奇しくも、イエス・キリストの死の意味をあかしすることになりました。これに続く51節、52節で、ヨハネは、

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

と述べています。
 これらのことを背景として、状況はさらに緊迫したものとなっていきます。先ほどは一部しか引用しませんでしたが、12章1節には、

イエスは過越の祭りの6日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。

と記されており、9節〜11節には、

大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

と記されています。さらに、17節〜19節には、

イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

と記されています。
 18節では、

イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。

と訳されていますが、「これらのしるし」は原文では単数形ですから「このしるし」です。そして、これは、イエス・キリストがラザロをよみがえらせたことを指しています。
 ですから、ここでは、イエス・キリストがラザロをよみがえらせたことが「しるし」として述べられています。そして、過越の祭のためにエルサレムに集まってきた人々は、その「しるし」を見た人々のあかしを聞いてイエス・キリストに会いに来ました。
 そのことを見たパリサイ人たちは、危機感を募らせて、

どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。

と言っています。ここには、パリサイ人たちが見下している一般の人々の群衆が、イエス・キリストのなされた「しるし」を、ある程度ですが、見ているのに、パリサイ人たちには、それがまったく見えていないという皮肉があります。
 ただし、この群衆も、イエス・キリストがお受けになる苦難と十字架の死につまずいてしまいます。37節で、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と言われているときの「彼ら」には、メシヤであるイエス・キリストが苦難をお受けになることが理解できないためにつまずいてしまっている群衆も含まれています。
 この、

どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。

という言葉の後、パリサイ人たちの間で、どのような話し合いがなされたかは記されていません。一つには、それは、ヨハネの福音書の記事の流れの中ではっきりしていて、改めて記すまでもないことだからです。しかし、それ以上に、ここから一転して、ヨハネは、このことの新しい面に焦点を合わせていきます。これまでは、祭司長とパリサイ人たちがイエス・キリストを殺そうとしていることを記してきました。ここからは、イエス・キリストが、ご自身の意志で十字架への道を歩まれていることが前面に出てきます。
 これに続く20節〜22節には、

さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

と記されています。
 これは、ギリシャ人たちさえも、イエス・キリストのなされた「しるし」を見て、イエス・キリストの御許にやって来たことを記すものです。パリサイ人たちは、

世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。

と言いました。この「世は」という言葉(ホ・コスモス)は、「皆が」というような思いの表われでしょう。彼らの念頭にはユダヤ人があったのでしょうが、実際には、パリサイ人たちの思いを越えて、ユダヤ人だけでなくギリシャ人も、イエス・キリストの御許にやって来ました。このことのうちに、ユダヤ人を初めとしてギリシャ人もという、神さまの救いのご計画の広がりが反映しています。
 このことを受けて、23節〜26節には、

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」

と記されています。
 ここに記されているイエス・キリストの御言葉の中心は、「人の子が栄光を受けるその時」です。その「人の子が栄光を受けるその時」は、イエス・キリストが「一粒の麦」として、豊かな実を結ぶために死なれる時であると言われています。これによって、ユダヤ人ばかりでなく、異邦人である私たちの罪の贖いのために死んでくださることが、イエス・キリストの栄光であるということが明らかにされています。そして、イエス・キリストに従う者の栄光も、それと同じ本質をもっている「一粒の麦」としての栄光であることが示されています。
 これまでお話したことから分かりますように、11章と12章では、イエス・キリストのなされた「しるし」に一つの光が当てられています。言うまでもなく、イエス・キリストのなされた「しるし」は、イエス・キリストの栄光を現わすものですが、ここに至って、その栄光は、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださることにあるということが明らかにされています。それこそが、1章14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われているときの、「恵みとまことに満ちておられた」方の栄光です。
 ですから、私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださることにある、イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光を仰ぎ見るようにならなければ、どんなに多くの華々しい奇跡を見ても、それによって天に上ったように感じても、イエス・キリストのなされた「しるし」を見たとは言えません。
 このことを踏まえて見ますと、ユダヤ人の不信仰の理由を記している、37節〜41節に、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と記されている中で、最後に、

イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と言われていることの意味が察せられます。
 すでに、イザヤの「召命体験」をお話ししたときにお話ししましたが、イザヤは、万軍の主であられるそのお方が、ご自身の民の罪の贖いのために死んでくださることにある恵みとまことに満ちた栄光をかいま見ました。言うまでもなく、「しるし」を求めるユダヤ人は、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださることにあるイエス・キリストの栄光を見ることができなかったのです。

 


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