(第72回)


説教日:2002年2月24日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜1


 今日も、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事にかかわるお話をいたします。今お話ししているのは、この「召命体験」をとおしてイザヤに託された宣教活動が、イエス・キリストの宣教活動とどのようにつながっているかということです。そのことを新約聖書のいくつかの記事をとおして考えてきましたが、その最後として、ヨハネの福音書12章37節〜43節に記されていることとに注目してきました。
 これまで、37節で、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と言われていることに注目してきました。そして、このことから、「しるし」を見るということがどのようなことであるかについてお話しし、先週は、聖書に記されている「しるし」あるいは「しるしと不思議」がどのような意味をもっているかということをお話ししました。そして、「しるしと不思議」は、聖書の中では、出エジプトの時代に主がなされた贖いの御業と、その最終的な成就である、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを頂点とする贖いの御業の中で、主がなさった御業を指しているということをお話ししました。その意味で、今日では、どのように不思議なこと、奇跡的なことが起こっても、それを「しるしと不思議」と呼ぶことはできないということもお話ししました。
 今日は、そのことを補足するお話をしたいと思います。


 繰り返しになりますが、私は、今日、不思議なことや奇跡的なことが起こらないと考えてはいません。私自身も不思議なことを経験したことがあります。
 それは、私が、現在の東京基督教大学の前身である、東京クリスチャン・カレッジに入学した1964年のことです。毎日、授業の合間に「チャペル」という時間があって、教師も生徒もチャペルに集まって礼拝の時をもっていましたが、ある日のチャペルに、テモテ・ザオという台湾出身で、国際的に知られた伝道者の方が、ゲスト・スピーカとしておいでになりました。その時に、テモテ・ザオ先生がお話しされたのがイザヤの「召命体験」でした。もちろん、先生は英語でお話しされたのですが、そのお話の初めに、イザヤが見た神殿においては、セラフィムが、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と讃美していたと言われた後で、

その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と言うと同時に両手を高く挙げられました。
 その時に、私の回りに上から風が吹いてきたようになりまして、私は、言葉では言い表わせませんが、透き通った不思議な世界に引き入れられたような状態になりました。
 突然のことに驚きましたが、やがて元の状態に戻りました。礼拝は何事もなかったかのように続いていました。それは、いわば、幻のようなものであったわけです。私は、そのようなことが起こるということを聞いたことはありませんでした。まして、そのようなことを求めたり、期待したことはありませんでした。また、その時まで、テモテ・ザオ先生のことも知りませんでしたので、特別な期待をもって礼拝に臨んだわけでもありません。その礼拝は静かなもので、熱狂的な雰囲気はありませんでした。おそらく、それは私だけに起こったことでしょうから、集団ヒステリーというようなものでもありません。そのようなわけで、それは、私にとって、まったく不意に起こったことでした。
 このような経験から、私は、たとえば、コロサイ人への手紙2章18節、19節に、

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。

と記されている「幻を見た」という人の経験が決して錯覚なのではなく、その人にとってはリアルなものであるということを認めます。また、今日、「しるしと不思議」を経験したと言う方々が、それによって、神さまに近づけられたように感じるとか、神さまを身近に感じるようになったと言われる時の気持ちもよく分かります。私も、そのように感じていた時がありました。
 私は、今でも、どうして、あの時、私にそのようなことが起こったのか十分に理解することはできません。しかし、今、確かなこととして言えるのは、あの経験そのものは、私が主のものであることを保証するものではないということです。かえって、私は、先ほど引用しました御言葉にある、

彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。

というような状態になる危険があったのではないかという気がしています。
 言うまでもなく、私が自分は主のものであると信じることができる根拠は、イエス・キリストが、十字架にかかって死んでくださって死者の中からよみがえってくださったことと、それによって成し遂げられた罪の贖いに、私をあずからせてくださったことだけです。
 マタイの福音書7章21節〜23節には、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この個所については、すでに、いろいろな機会にお話ししましたので、簡単にお話しします。
 ここでは、世の終わりに、イエス・キリストが再臨されてすべての者をおさばきになるときの光景が述べられています。そして、イエス・キリストに向かって、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と言っている人々は、その時まで、自分がイエス・キリストの民であると信じていた人々です。この人々は、自分がイエス・キリストの民であると信じているからこそ、イエス・キリストの御名によって働いていたのです。ここではそれぞれの働きに「あなたの名によって」という言葉がついていて、強調されています。
 また、この人々がイエス・キリストの御名によって、預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟をたくさん行なったことを、イエス・キリストに訴えていることは、この人々の働きが確かな結果を生み出したことを意味しています。やってみたけれども、なんの結果もなかったというのであれば、このような訴えをするはずもありません。
 ちなみに、ここで「奇蹟」と訳されている言葉[デュナメイス(デュナミス)の複数形]は、先週取り上げました、イエス・キリストのお働きのことを述べる使徒の働き2章22節では「力あるわざ」と訳されていて、イエス・キリストがなさった「しるしと不思議」と並べて用いられています。その人々がなしたのは「力あるわざ」でした。
 ですから、その人々は、教会に出席して神さまを礼拝していたでしょう。そして、イエス・キリストの御名によって、預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟をたくさん行ないました。この人々は、奇蹟を否定したり、悪霊の存在を否定したりすることはありませんでした。さらには、口で「主よ、主よ。」と言っているだけで、行ないが伴っていないということもありません。この人々は、主の御名によって大きな働きをした人々です。どう見ても、立派で有能なクリスチャンでしたし、その人たち自身もそう思っていました。
 この人々の根本問題は、この人々が御言葉にあかしされている福音を信じていなかったことにあります。この人々は、自分がなした働きを頼みとして、それを根拠として天の御国に入ろうとしています。たとえ、それがイエス・キリストの御名によってなされた働きであっても、そして、それが驚くべき結果をもたらしたとしても、その働きを根拠として、自分がイエス・キリストの民であると主張することはできません。その働きによって、天の御国に入れてもらうことはできません。エペソ人への手紙2章8節、9節に、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されているとおりです。
 これを別の角度から見ますと、この人々は、福音の御言葉によって示されているイエス・キリストを信じていなかったのです。この人々はイエス・キリストのことを「」と呼んでいますから、自分としては、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストに従っていた人々です。しかし、その人々は、イエス・キリストを知りませんでした。なぜなら、イエス・キリストが、その人々に向かって、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言っておられるからです。つまり、その人々は、「自分が考えるイエス・キリスト」を信じ、「自分が考えるイエス・キリスト」に「自分が考えるように」従っていただけです。それは、形としてはイエス・キリストに従っているように見えますが、実質的には、その人々の方が「主」になっています。それで、その人々は、最後まで、

私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

という、自己主張をしているわけです。自分の成し遂げたことを誇りとし、それを頼みとして、天の御国に入ろうとしています。それは、福音の御言葉が示している救いの道とは違う道を通って天の御国に入ろうとすることですから、イエス・キリストが言われる「不法をなす」ことであって、「天におられるわたしの父のみこころ」を行なうことではありません。また、そのような動機でなされた、さまざまな「力ある働き」も、「天におられるわたしの父のみこころ」を行なうことではありません。ここで、「不法をなす者ども」ということは現在形で表わされています。かつて「不法を」なしたというのではなく、その人々の基本的なあり方が「不法をなす者」であるということです。
 イエス・キリストが「天におられるわたしの父のみこころ」と言っておられるのは、単数形で、ひとまとまりになっているみこころです。イエス・キリストが「天におられるわたしの父のみこころ」と言っておられるのは、単数形で、ひとまとまりになっているみこころです。これがひとまとまりのみこころであるのは、その全体を貫いている基本的なみこころがあるからです。それは、ヨハネの福音書6章38節、39節に記されています、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

というイエス・キリストの御言葉に示されています。
 父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストと、御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、永遠のいのちを得ること、そして、そのいのちに生きることが、父なる神さまのみこころの全体を貫いている、もっとも基本的なみこころです。
 イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言っておられる人々は、初めから、イエス・キリストの民ではありませんでした。というのは、先ほど引用しました、ヨハネの福音書6章39節に記されていますように、イエス・キリストが、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

とあかししておられるからです。さらに、ヨハネの福音書17章12節には、

わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。

というイエス・キリストの祈りが記されています。
 イエス・キリストは、ご自身の民を「ひとりも失うことなく」、御名のうちに保ち続けてくださいます。それが、父なる神さまのみこころであり、イエス・キリストの約束です。そのことを、私たちは「聖徒の堅忍」と呼んで告白しています。それで、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言っておられる人々は、一度も、イエス・キリストの民となったことはありませんでした。イエス・キリストとの間に「主」と「しもべ」の関係が成り立っていなかったのです。それは、この人々が、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった、贖いにあずかっていなかったことを意味しています。
 ところが、その人々が、イエス・キリストに向かって、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と言っています。このことから、イエス・キリストの民ではない人々でも、イエス・キリストの御名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡をたくさん行なうことがあるということが分かります。しかも、イエス・キリストが、

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。

と言っておられるように、それは例外的なことではなく、むしろ、そのような人々が多いと言われています。原文では、「大ぜいの者」という言葉がいちばん初めに出てきて強調されています。
 ですから、不思議なことや奇跡的なことが起こっても、そして、それがクリスチャンとして自他共に認める人々の手によって、しかも主の御名によってなされたとしても、それで、必ずしも、そのことをなした人々がイエス・キリストの民であるわけではありません。また、必ずしも、その人々が、主のみこころにしたがってそのようなわざをしたわけでもありません。さらに、先週お話ししましたように、そのような不思議なことや奇跡的なことを、聖書に記されている「しるしと不思議」であると言うことはできません。
 十字架にかかって死んでくださった後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、弟子たちに、ご自身を現わされたことを記している、ルカの福音書24章36節〜49節には、

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼ら十一使徒とその仲間の真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

と記されています。
 イエス・キリストは、弟子たちに、ご自身が復活のからだをもってよみがえられたことをお示しくださいました。
 これによって、弟子たちが幻を見ているのではないことが示されました。これによってさらに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業が、魂の救いだけではなく、肉体と霊魂から成り立っている人間の本来の姿を回復し、完成してくださるものであることが示されています。言い換えますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業は、創造の御業によって「神のかたち」に造られた人間の本来の姿を回復し、完成してくださるものであることが示されているのです。
 これは、より広く、贖いの御業によって、創造の御業によって造り出された、物質的な側面のあるこの世界全体が回復され、完成することを示すものでもあります。
 今日お話ししていることに関連して、大切なことは、イエス・キリストは、ただ、よみがえられたご自身の御姿を弟子たちに示してくださっただけではないということです。44節〜47節に、

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

と記されていますように、イエス・キリストは、弟子たちに、ご自身の苦難と死とよみがえりについて聖書に記されていることを悟らせてくださいました。ただ、ご自身の御姿をお示しになるだけでは十分ではなかったのです。
 このことは、これに先立って、13節〜35節に記されている、エマオという村に行く途中の「ふたりの弟子」に、イエス・キリストがご自身を現わしてくださったことにおいても見られます。その時も、イエス・キリストは、「ふたりの弟子」が聖書を悟るように導いておられます。
 先週お話ししました「しるしと不思議」の意味からしますと、出エジプトの最終的な成就である、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことと、特に、死者の中からよみがえってくださったことことは、「しるしと不思議」の頂点です。、弟子たちは、この「しるしと不思議」の頂点である、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの目撃者であるだけではありません。イエス・キリストが、弟子たちを、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を、聖書に記されている御言葉にしたがって理解するように導いてくださいました。
 先ほど、世の終わりに、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言われる人々は、「自分が考えるイエス・キリスト」を信じ、「自分が考えるイエス・キリスト」に「自分が考えるように」従っていただけだと言いました。そのことを避けるためには、主が御霊によって私たちの心を開いてくださって、聖書を悟らせてくださらなければなりません。それによって、私たちは、御言葉にしたがってイエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じるようになることができます。
 しばしば、イエス・キリストが十字架につけられてしまったために、恐れと不安でいっぱいであった弟子たちが、よみがえられたイエス・キリストにお会いして、大胆に福音を宣べ伝える者に変えられたと言われます。
 これは、間違ってはいませんが、十分な説明ではありません。弟子たちは、イエス・キリストが聖書を悟らせてくださったので、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの事実と意味を、聖書の御言葉にしたがって理解し、イエス・キリストを信じるようになりました。それによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、新しいいのちに生きるようになったのです。
 そのことが、使徒たちを中心とする新しい契約のもとにある教会の現実になったのは、ペンテコステの日に注がれた御霊のお働きによっています。イエス・キリストは、使徒たちを初めとする弟子たちが、「しるしと不思議」の頂点であるイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を理解するように、御霊を注いでくださって、弟子たちに聖書を悟らせてくださいました。その、使徒たちの理解が、実際的な状況の中での必要に応じて、御霊の霊感のもとに書き記された新約聖書に結実しています。
 私たちも、私たちの心を照らしてくださる御霊のお働き(御霊の内的照明)に信頼しながら、聖書に記されている御言葉に耳を傾けなければなりません。そして、御言葉にしたがってイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を理解し、御言葉にしたがってイエス・キリストを信じなければなりません。それによって初めて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって、新しいいのちに生かされるようになります。

 


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