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説教日:2002年2月17日 |
新改訳では、先ほどの、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 という言葉の中の、「しるし」には星印がついていまして、欄外の注に、「あるいは『証拠としての奇蹟』」と記されています。つまり、この場合の「しるし」は「証拠としての奇蹟」と訳すこともできると説明されています。 「証拠としての奇蹟」というのは、「しるし」[セーメイア(セーメイオン)の複数形)]を意訳したものです。その意味では、「しるし」の説明でもあります。この「証拠としての奇蹟」という説明は、いわば、最終的な結論を述べたものです。大切なのは、むしろ、このような結論の背景にあることです。それを理解しておきませんと、実際的な問題に対して的確な判断ができないと思われます。 聖書の中では「しるし」という言葉(ヘブル語・オース、ギリシャ語・セーメイオン)はいろいろな意味で用いられています。それは、基本的には、私たちが「しるし」という言葉を聞いて抱くイメージとほぼ同じであると考えていいと思います。その中で、特に、「しるし」(複数形)が「不思議」(複数形)という言葉との組み合わせで用いられる時には、その「しるしと不思議」をとおして神である主の権威、あるいは、神である主から委ねられた権威が表現されていることが示されます。その例をいくつか見てみましょう。 まず、旧約聖書の用例ですが、それは、基本的に、出エジプトの贖いの御業とのかかわりで用いられています。 出エジプト記7章3節〜5節には、 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。 と記されています。 ここでは、主がご自身の契約の民を奴隷としているエジプトに対するさばきを執行されることが、「しるしと不思議」を行なうことと言われています。そして、そのことをとおして、主は、エジプトに対して、ご自身が「主」(ヤハウェ)であられることをあかしされると言われています。 その「主」(ヤハウェ)という御名は、3章14節に記されているとおり、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」ということを表示しています。これは、「主」が歴史の主であり、真実に、ご自身の契約を歴史の中で実現してくださる方であられることを表わしています。この世界の歴史の流れの中で、人も物事も移り変わっていきます。しかし、「主」(ヤハウェ)は、そのような歴史の流れを超えた方であり、「きのうもきょうも、いつまでも」(ヘブル人への手紙13章8節)変わることはありません。それは、ご自身の存在が変わらないということだけでなく、主の契約の真実さが決して揺るぐことがないということをも意味しています。「主」(ヤハウェ)は、人間の目から見て、事情がまったく変わってしまったように見えても、その契約を守ってくださる方です。 いずれにしましても、ご自身の契約の民であるイスラエルを奴隷として搾取していたエジプトに対しては、そのことに対するさばきの執行をとおして、「主」が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という方であることがあかしされるということになります。 これと同じことは、出エジプト記にいくつか出てきますが、出エジプト記以外にも記されています。バビロンの捕囚から帰還したイスラエルの民が、律法の学者エズラの指導のもとに仮庵の祭りを守ったときになした礼拝の中での告白を記すネヘミヤ記9章10節には、 あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。これは、彼らが私たちの先祖に対して、かってなことをしていたのをあなたが知られたからです。こうして、今日あるとおり、あなたは名をあげられました。 と記されています。また、詩篇135篇8節、9節には、 主はエジプトの初子を 人から獣に至るまで打たれた。 エジプトよ。おまえのまっただ中に、 主はしるしと奇蹟を送られた。 パロとそのすべてのしもべらに。 と記されています。この「しるしと奇蹟」の「奇蹟」と訳された言葉(モーフェースの複数形)は、その他の個所で「不思議」と訳されたのと同じ言葉です。 これとともに、申命記4章34節、35節には、 あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。 と記されています。 ここでは、「しるしと不思議」が、ご自身の契約の民であるイスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきとしてなされただけでなく、ご自身の契約の民であるイスラエルの民に、「主」が歴史の主であり、真実に、ご自身の契約を歴史の中で実現してくださる方であられることをあかししてくださったものであることが示されています。それは、イスラエルの民が、歴史の新しい状況の中でも、「主」を信じ、「主」の御手に信頼するようになるためでした。この世の歴史がどんなに変わっても、「主」ご自身とその契約は決して変わることはありません。それで、カナンの地に入るイスラエルの民に対する戒めを記している、申命記7章18節、19節には、 彼ら[カナンの地の民]を恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。 と記されています。 これらの用例は、主がなさった「しるしと不思議」のことを述べる典型的な用例です。 これとともに注目すべきことは、にせ預言者たちも「しるしと不思議」を行なうということが警告されているということです。申命記13章1節〜4節には、 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。 と記されています。 この、にせ預言者のなす「しるしと不思議」に対する警告については、改めて説明するまでもありません。にせ預言者のなす「しるしと不思議」にも、主がなさった「しるしと不思議」にも、共通する点があります。それは、「しるしと不思議」は、それ自体が目的ではなく、そのことをとおして、何らかのメッセージが伝えられるということです。そして、その伝えられるメッセージは、「しるしと不思議」とは別に語られるものですが、「しるしと不思議」によって補強されています。 エジプトに対するさばきの執行においても、主はモーセをパロのもとに遣わして、そこでさばきとしての「しるしと不思議」を行なわれる「主」のみこころが示されました。 出エジプトの贖いの御業においては、主が「しるしと不思議」をなさることをとおして、ご自身が「主」(ヤハウェ)であられることが示されると言われていました。その場合においても、「主」(ヤハウェ)という御名の意味が、あらかじめ、モーセに示されており、モーセをとおして、エジプトの地にいたイスラエルの民にも示されていました。 この、「主」が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」ということの上に立って、出エジプトの贖いの御業がなされました。さらに、イスラエルの民に「主」の契約が与えられ、イスラエルの国家が建設されるようになりました。その国家は、契約に基づいて、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という「主」がご臨在される国家であり、それゆえに、祭司の国であったのです。 これらのことの根底に「主」の契約がありますが、その契約の根底には、「主」が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という方であることがあります。そして、「主」は、この契約に基づいて、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という方として、イスラエルの民の間にご臨在されて、救いとさばきの御業をなさいました。それが、「主」がなさった「しるしと不思議」です。その意味で、「主」がなさった「しるしと不思議」は、主の契約の確かさをあかしするものです。そして、主の契約の確かさは、「主」が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という方であることに裏打ちされています。 このこととの関連で、もう一つ注目すべきことは、主がなさった「しるしと不思議」は、主がお遣わしになったモーセをとおしてなされたということです。詩篇105篇26節、27節で、 主は、そのしもべモーセと、 主が選んだアロンを遣わされた。 彼らは人々の間で、主の数々のしるしを行ない、 ハムの地で、もろもろの奇蹟を行なった。 と言われているとおりです。この場合も「もろもろの奇蹟」は「しるしと不思議」の「不思議」と同じ言葉です。また、「ハムの地」はエジプトのことです。 このことから分かりますように、「主」がなさった「しるしと不思議」は、「主」の契約の仲保者であるモーセの権威をあかしするものでした。この後のイスラエルの民の歴史は、モーセを仲保者とする「主」の契約の上に築かれていきますが、それは、言い換えますと、モーセの権威の上に築かれたということでもあります。 そして、このことの上に立って、さらに主が「しるしと不思議」をなしてくださったのは、預言者たちの時代でした。ただし、そのことを記す記事に「しるしと不思議」という言葉が用いられているわけではありません。また、すべての預言者の働きに伴って「しるしと不思議」がなされたというわけでもありません。 預言者は、主からの啓示を受け止めた人々で、主の栄光のご臨在の御許から遣わされました。預言者の活動は、モーセが据えた土台の上に立って、イスラエルの民の契約違反を告発しつつ、本来のあり方を指し示していきました。その預言者の語った言葉を確証するために、主は「しるしと不思議」をなしてくださいました。そのことは、エリヤの生涯とその働きに典型的に示されています。 預言者たちの働きは、モーセが据えた土台の上に立ってなされました。それで、主が預言者の時代になしてくださった「しるしと不思議」は、出エジプトの贖いの御業においてなされた「しるしと不思議」と同じ意味をもっています。 このように、「主」がなさった「しるしと不思議」は、出エジプトの贖いの御業との関連で理解されるべきものです。そして、出エジプトの贖いの御業は、やがて来たるべき最終的な贖いの御業の地上的な「ひな型」、「視聴覚教材」でした。それで、エジプトの贖いの御業の中でなされた「しるしと不思議」の意味は、そのまま、最終的な贖いの御業であり、出エジプトの最終的な成就である、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる、罪の贖いの御業に受け継がれています。 ペンテコステの日におけるペテロの説教を記している、使徒の働き2章22節を見てみましょう。そこには、 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。 と記されています。 ここで、「不思議なわざ」と訳された言葉[テラタ(テラスの複数形)]は、「しるしと不思議」の「不思議」に当たる言葉です。そして、「あかしの奇蹟」と訳された言葉{セーメイア(セーメイオンの複数形)]は、ヨハネの福音書12章37節で、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言われている中の「しるし」と訳されている言葉です。それで、ここでイエス・キリストの御業のことをあかししているペテロは、イエス・キリストが「しるしと不思議」を行なわれたと述べています。これは、言うまでもなく、イエス・キリストの御業が、出エジプトの贖いの御業の最終的な成就であることからきています。 これらのことから分かりますように、ヨハネの福音書12章37節で、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言われているときの「しるし」は、イエス・キリストが出エジプトの贖いの御業を最終的に成就される方であることを示す「しるし」です。 さらに、この「しるしと不思議」は、イエス・キリストによって立てられた使徒たちによってなされたことが新約聖書において、繰り返しあかしされています。ペンテコステの日になされたペテロの説教の結果のことを記す、使徒の働き2章41節〜43節には、 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。 と記されています。 ここでも、「不思議なわざとあかしの奇蹟」は「不思議としるし」です。そして、使徒たちをとおして「不思議としるし」がなされたことは、 彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ と言われていることとつながっています。 また、迫害を受けた弟子たちの祈りを記す、使徒の働き4章29節、30節には、 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。 と記されています。この「しるしと不思議なわざ」も「しるしと不思議」です。ここで、注意したいのは、「しるしと不思議」を行なうことは、それに先だって述べられている「みことばを大胆に語らせてください」ということとつながっているということです。 他にいくつかありますが、これで十分だと思います。使徒たちによって「しるしと不思議」が行なわれたことは、旧約聖書において、モーセによって「しるしと不思議」が行なわれたことに相当します。先ほどお話ししましたように、古い契約のもとでのイスラエルの民の歴史は、モーセをとおして与えられた契約とその律法の上に築かれています。イエス・キリストの血によって確立された新しい契約のもとでは、新しいイスラエルであり、キリストのからだである教会は、使徒たちを土台として、その上に立てられています。エペソ人への手紙2章20節〜22節に、 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と記されているとおりです。 ここでの「預言者」は、使徒の後に出てきますから、古い契約のもとでの預言者ではなく、新約聖書の時代にまだ啓示が完成していなかった時に主の啓示を受け止めた、新しい契約の預言者です。 このことから、キリストのからだである教会の基礎が「使徒と預言者」であるということは、現実的には、使徒たちが教えた教えのことであることが分かります。それで、使徒たちによってなされた「しるしと不思議」は使徒たちの教えを確証するためになされたわけです。 また、新しい契約のもとにある教会に対しても、にせ預言者に対する警告がなされています。マタイの福音書24章24節には、 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 と記されています。 この「しるしや不思議なこと」も「しるしと不思議」で、「できれば選民をも惑わそうとして」なされます。「大きなしるしと不思議」は、にせ預言者たちのメッセージを補強するためになされます。それによって、キリストのからだである教会の土台である使徒たちの教えを損なうことによって、いのちの道を隠してしまうのです。 このように、聖書においては、主がなさった「しるしと不思議」は、出エジプトの贖いの御業と、その最終的な成就である、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業がなされた時代に集中していることが分かります。それは、契約の神である主が、ご自身の契約の御言葉を与えてくださったことと深くつながっています。新しい契約は、イエス・キリストの血によって確立されましたが、その契約を保証する文書は、使徒たちに啓示された教えであり、それが新約聖書に記されています。 ひとたびこの土台、すなわち、「使徒と預言者」をとおして与えられた啓示の書である新約聖書という土台が据えられて、その上にキリストのからだである教会が建てられた後は、主の御手による「しるしと不思議」はなされません。繰り返しになりますが、それは、今日では奇跡的なことが起こらないということではありません。主のなさった「しるしと不思議」は、契約の主の贖いの御業をあかしするとともに、主の民の歴史の土台を据える、主の啓示を確証するものです。「しるしと不思議」はそのような意味をもつものですので、今日においては、主が「しるしと不思議」を行なわれることがないということです。 それで、今日、さまざまな奇跡的なこと、不思議なことが起こっているということで、それを聖書が言う「しるしと不思議」であると主張するのは、全体的に見ることによって明らかになる聖書の教えに反することです。 |
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