(第70回)


説教日:2002年2月10日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 これまで、イザヤ書6章1節〜13節に記されている、預言者イザヤの「召命体験」にかかわるお話として、ヨハネの福音書12章37節〜43節の記事から、イザヤの宣教活動が、イエス・キリストの宣教活動とどのようにかかわっているかをお話ししてきました。今日も、そのお話を続けたいと思います。
 ヨハネの福音書12章37節〜43節には、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

と記されています。
 これまで注目してきたのは37節ですが、そこでは、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と言われています。
 これは、イエス・キリストの時代のユダヤ人の不信仰を表わしています。先週は、イエス・キリストの時代のユダヤ人の不信仰は、彼らの父祖である荒野のイスラエルの不信仰と、本質的に同じものであるということをお話ししました。

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

というヨハネの言葉は、民数記14章22節に記されている、荒野のイスラエルの第一世代のことを、

エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たち

と言われた主の御言葉を思い起こさせます。
 さらに、申命記29章2節〜4節には、荒野のイスラエルの第二世代について、

あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。

と述べているモーセの言葉が記されています。荒野のイスラエルの第一世代の不信仰は、そのまま第二世代へと受け継がれていきました。そして、その不信仰は、連綿と、イエス・キリストの時代のユダヤ人へと受け継がれていたのです。
 しかし、このことをとおして、私たちは、荒野のイスラエルやイエス・キリストの時代のユダヤ人たちを告発する側に回ってはなりません。この荒野のイスラエルとイエス・キリストの時代のユダヤ人において見られる問題は、アブラハムの血肉の子孫として生まれ、出エジプトの贖いの御業にあずかって、主の契約の民とされ、契約の主の律法を授けられ、その基盤の上に、主がご臨在される祭司の国としての意味をもつ国家が形成され、その歴史を築いてきたイスラエルの民においてさえも、そのような不信仰が、連綿と受け継がれてきたということをあかししているのです。
 イスラエルの民でさえもそうであったのであれば、アブラハムとの血肉のつながりがなく、出エジプトの贖いの御業も知らなかった異邦人においては、その霊的な暗やみは、それ以上に深いものがあったと言わなければなりません。
 ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係なく、すべての者が、造り主である神さまに対して罪を犯し、その御前に堕落してしまっています。造り主である神さまに対する罪によって、人間の本性が腐敗してしまいました。それで、人間の誕生という最も基本的な血肉のつながりをとおして、罪と罪がもたらす腐敗と暗やみが子孫へと受け継がれていくようになりました。不信仰は、その造り主である神さまに対する罪がもたらした霊的な暗やみが生み出しているものです。それで、その霊的な暗やみが生み出す不信仰も、血肉のつながりをとおして受け継がれていくことになるのです。その点では、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。


 この人間の本性の腐敗や霊的な暗やみということは、少し分かりにくいかもしれません。人間の本性が腐敗してしまったのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯してしまったからです。罪は、造り主である神さまに対するものです。ですから、罪も、罪がもたらす腐敗も、神さまとの関係において理解しなければなりません。
 その腐敗を考えるときには、腐敗していない状態を考えると分かりやすいと思います。神さまは人間を「神のかたち」にお造りになりました。「神のかたち」とは人間の中にあるものではなく、人間そのものが「神のかたち」です。「神のかたち」の本質は、自由な意志をもっていて人格的なものであることにあります。そして、その人格の特性が、愛と義と真実など、聖なる神さまの人格的な特性にあずかっていますので、「神のかたち」も聖いわけです。その聖さは、「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまのご臨在の御前にあって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるための土台です。「神のかたち」に造られている人間の本来の姿においては、その自由な意志が、神さまと隣人への愛に導かれて働いていました。
 その「神さまとの関係において」ということが「霊的」ということの中心にあります。神さまのご臨在は御霊によるご臨在です。それで、神さまとの愛の交わりは御霊のお働きによって実現します。この「御霊によること」が「霊的なこと」なのです。神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛の交わりに生きることは、霊的ないのちです。それを時間的にみれば、神さまとの交わりは終わることがありませんので、永遠のいのちになります。
 罪によって人間の本性が腐敗してしまったことは、この神さまとの関係が損なわれてしまったことにあります。そのために、人間の人格的な特性が、神さまの人格的な特性を映し出すことがなくなってしまいました。その愛さえも自己中心的なものに変質してしまっています。人間は「神のかたち」に造られており、人間が「神のかたち」ですので、人間が人間であるかぎり、「神のかたち」です。その「神のかたち」が腐敗してしまっているのです。
 この本性の腐敗によって、人間は造り主である神さまを神とすることはなくなってしまいました。「神のかたち」としての人間の自由な意志が、造り主である神さまへの愛において働くことがなくなってしまったのです。そして、神さまも、罪によって堕落してしまっている人間を、ご自身のご臨在の御前から退けておられます。それは、前にお話ししたとおり、人類の罪に対するさばきによることですが、人類の歴史を保持してくださるための備えでもあります。罪によって堕落してしまった人間がそのままご臨在の御前に立てば、その場で聖絶されてしまい、歴史が終わってしまいます。それで、神さまは罪を犯した人間をご臨在の御前から退けられたという一面もあります。いずれにしましても、人間の本性の腐敗は、造り主である神さまとの交わりを損なってしまっています。そこから霊的な暗やみが生まれています。
 神さまは、目で見ることはできません。それは、神さまが物質的な存在ではないからです。物質的なものは、この造られた世界のものです。この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、物質的な存在ではありません。けれども、神さまは生きておられる人格的な神さまです。そして、神さまは人格的な方ですので、「神のかたち」に造られている人間は、神さまとの交わりをもつことができます。
 人間同士の場合にも、お互いを人格的なものとして知るためには、人格的な交わりの中で初めて知ることができます。人間同士の場合には、その人の姿を見ることができますので、「優しそうな人だ。」とか「頑固そうな人だ。」というような、見た目の判断をすることができます。しかし、その人を人格として知るためには、その人との交わりの中で知るほかはありません。その交わりが人格的なものであることは、それが愛の交わりであることにあります。
 人間同士の場合でもこうですから、目で見ることのできない神さまを知ることは、神さまとの愛にある交わりの中で初めてできることです。その意味で、神さまを知ることと、神さまを愛することは同じことです。
 造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまっている人間は、神さまとの愛の交わりをもつことができません。人間の方が神さまを愛していないだけではなく、神さまも罪によって腐敗している人間を、ご自身の聖なるご臨在の御前がら退けておられます。それで、人間は、神さまを知ることができません。このような状態にあることが霊的な暗やみです。これをいのちという点からみれば、「神のかたち」に造られている人間のいのちは、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるいのちですから、神さまとの愛の交わりを失ってしまっている人間は、本来のいのちを失ってしまっています。
 人間は造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したものとして生まれてきます。罪のさばきをその身に負っているために、ご臨在の御前から退けられているものとして生まれてきます。そして、実質的に、その人間としての本性が腐敗しているものとして生まれてきます。それで、人間の本性の腐敗は、血肉のつながりである生まれや、生まれた後の教育や律法の行ないなどの修業によって取り除くことができるものではありません。人を「神のかたち」にお造りになった神さまの創造の御業に匹敵するお働きによって、新しく造り変えていただくほかはありません。
 そのためには、まず、人が犯した罪が清算されなければなりません。それで、イエス・キリストは、私たちの罪を清算してくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。それは、私たちが地上の生涯において犯す罪をすべて贖ってくださるだけでなく、最初の人アダムにあって罪を犯して堕落してしまっていることをも贖ってくださるものです。そして、イエス・キリストは、私たちを新しく造り変えてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。
 ですから、ユダヤ人も異邦人も、ただ、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかることによってだけ、罪を清算していただき、腐敗を聖めていただき、再び神さまとのいのちの交わりに生きることができるように、新しく造り変えていただけるのです。コリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されているとおりです。また、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる洗礼のことを述べている、ローマ人への手紙6章4節、5節では、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と言われており、8節〜11節では、

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

と言われています。
 人は、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、腐敗を聖めていただき、イエス・キリストのよみがえりにあずかって新しく生きるようにならなければ、神さまとのいのちの交わりに生きることはできません。ですから、それが神さまのなさった奇跡的な御業であっても、それを見たことによって、あるいは、それにあずかって、渇きや空腹がいやされたり、病気が治ったりしたことによって、その人の罪が清算されることはありませんし、腐敗が聖められることもありません。その人は、新しく生まれてはいませんし、神さまのご臨在の御前に立って神さまとの愛の交わりに生きることはできません。
 ヨハネの福音書3章1節、2節には、

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

と記されています。
 ニコデモは、イエス・キリストがなさった「しるし」を見て、イエス・キリストが「神のもとから来られた教師」であると信じましたので、イエス・キリストのもとに来て、そのような告白をしたのです。
 ニコデモは、パリサイ人であったと言われていますから、神さまの戒めを守って、神さまの御前に立つのにふさわしい人になることを求めていたと考えられます。そのような道筋にしたがって精進して、サンヘドリンの議員であると思われますが、ユダヤ人の指導者となりました。それでも、何かが欠けていることを感じていたのでしょうか、イエス・キリストのもとに来て、その教えを乞うています。ニコデモとしては、ユダヤ人の指導者にまでなったその道をさらに前に進みたいと思ったのでしょう。
 続く3節に記されていますように、そのような告白をしたニコデモに向かって、イエス・キリストは、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

と言われました。
 この時はまだ実現しておりませんでしたが、やがてイエス・キリストが成し遂げられる十字架の死にあずかって罪を清算していただき、死者の中からのよみがえりにあずかって新しいいのちに生きるようにならなければ、神の御国に入ることはできないということです。ニコデモは、イエス・キリストが「神のもとから来られた教師」であると信じましたので、その教えを求めてイエス・キリストのもとに来ました。その教えにしたがって自分の道を完成させようとしたわけです。しかし、それは、自分の力によって自分を変えようとすることであって、罪を清算することではありませんし、罪によって生み出された本性の腐敗を聖めることでもありません。自分では、どんなに優れた者になったと感じても、それによっては、ニコデモは神さまの御前に立つことはできませんし、神さまとの愛の交わりに生きるようになることはできません。言い換えますと、自分の努力や行ないによっては、神さまの御国に入ることはできないのです。
 イエス・キリストがなさった「しるし」を見てイエス・キリストのことを「神のもとから来られた教師」であると信じたニコデモも、本当の意味で、イエス・キリストがなさった「しるし」を見てはいませんでした。パリサイ人であったニコデモは、神さまの戒めを守り行なうことによって、神の御国に入ることができると考えていたために、そのような観点から、イエス・キリストのことを「神のもとから来られた教師」であると信じたのだと考えられます。ニコデモにとって、イエス・キリストは贖い主ではなく、単なる「神のもとから来られた教師」でしかありませんでした。
 それでも、ニコデモは、イエス・キリストがなさった「しるし」を見てイエス・キリストのことを「神のもとから来られた教師」であると信じましたので、イエス・キリストは、いわば、教師の立場にお立ちになって、ニコデモにご自身の御業の中心をお教えになりました。残念ながら、この時は、ニコデモはイエス・キリストが教えてくださったことを理解することができませんでした。
 しかし、謙虚にイエス・キリストの教えに耳を傾けることから、新しい道が開けてくる可能性があります。
 実際、イエス・キリストが十字架につけられて殺された日のことを記している、ヨハネの福音書19章39節には、

前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。

と記されています。
 ここで、ニコデモは、「前に、夜イエスのところに来た」と言われています。実は、ニコデモのことは、7章50節にも記されています。そこには、祭司長パリサイ人たちが、イエス・キリストを人々を惑わす者であるとして非難したときに、ニコデモが水を差すようなことを言ったことが記されています。そこでは、ニコデモのことは、

彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。

と言われているだけであって、前には「」にイエス・キリストのところに来たということは言われていません。
 ところが、このイエス・キリストが十字架につけられて殺された後のことを記す記事では、ニコデモが「前に、夜イエスのところに来た」ことが、わざわざ述べられています。それは、ニコデモが、「前に、夜イエスのところに来た」ことを、この時のことと対比させようとしているからです。このことから、前には「」にイエス・キリストのところに来たことが、人目をはばかってのことであったと考えられます。しかし、この時は、イエス・キリストが十字架につけられて殺されてしまった時です。弟子たちさえも、イエス・キリストにつまずいてどこかに行ってしまっていました。そのような、「」よりはるかに厳しい状況の中で、ニコデモは、

没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た

のです。ニコデモは「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ3十キログラムばかり」持って来ました。これは、王族を葬るときに用いるほどの量です。ニコデモは、明らかに、このことをとおして、自分がイエス・キリストの弟子であることを告白しようとしています。
 また、このことを記しているヨハネは、このことのうちに、ニコデモの思いを越えたことがあかしされていることを見て取ったと考えられます。ニコデモとしては、この時においてこそ、自分がイエス・キリストの弟子であることを告白しようとしたのだと考えられます。そのことが用いられて、イエス・キリストは「王」として葬られるべき方であるということをあかしするここになったのです。
 いずれにしましても、ニコデモは、前には人目をはばかってイエス・キリストのもとに来ました。しかし、この時は、その行ないによって、堂々と、イエス・キリストの弟子であることを告白しています。このようなニコデモの変化は、いったいどこから来たのでしょうか。
 もちろん、それはニコデモの力によって生み出された変化ではありません。それは、十字架につけられて殺されたイエス・キリストが、ニコデモを導いてくださったということを意味しています。目に見える形では、イエス・キリストは何もできないままに、あざけりを受け、十字架につけられて殺されてしまいました。しかし、イエス・キリストは、ご自身を十字架につける者たちをもお用いになって、ご自身に委ねられた贖いの御業を成し遂げておられます。それは、ご自身の死をもってご自身の民の罪を贖い、死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民を新しく生かしてくださるための御業です。
 ご自身が死の苦しみを味わい、肉体的に死に服しておられた時にも、イエス・キリストの御業はなされていました。そのことが、ニコデモのうちに、十字架につけられて殺されたイエス・キリストが自分の主であることを告白する信仰を生み出してくださったことにあかしされています。
 「前に、夜イエスのところに来た」時に、ニコデモは、イエス・キリストがなさった「しるし」を見たと言いました。しかし、それは、自分の眼鏡で見ていただけで、本当の意味では、イエス・キリストがなさった「しるし」を見てはいませんでした。しかし、この時には、ニコデモは、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたことのうちに、イエス・キリストがなさった「しるし」を見るようになりました。それは、真の意味で、イエス・キリストがなさった「しるし」を見ることです。
 繰り返しになりますが、それは、ニコデモの力によってできたことではありません。十字架につけられて殺されてしまったイエス・キリストが、御霊によって、ニコデモの心を開いてくださり、ニコデモを内側から造り変えてくださったのです。イザヤ書53章1節で、イザヤが、
  私たちの聞いたことを、だれが信じたか。

  主の御腕は、だれに現われたのか。

と述べてあかししている「主の御腕」は、十字架につけられて殺されたイエス・キリストの「御腕」です。その「御腕」は、イエス・キリストが十字架につけられて死の苦しみを味わっておられる時に、確かに働いていました。

 


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