(第68回)


説教日:2002年1月27日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている預言者イザヤの「召命体験」にかかわるお話を続けます。先週は、ヨハネの福音書12章37節〜43節に記されていることから、イザヤの宣教活動が、イエス・キリストの宣教活動とどのようにかかわっているか、ということをお話しし始めました。今日も、そのお話を続けたいと思います。
 ヨハネの福音書12章37節〜43節には、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

と記されています。
 37節では、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と言われています。
 先週お話ししましたように「このように多くのしるし」という言葉は、イエス・キリストがなさった「しるし」が多かっただけでなく、イエス・キリストが約束の贖い主であることをはっきりと表わしていたので、それを見る人々は、当然、イエス・キリストを約束の贖い主として信じることはできたはずであるということを伝えています。
 ヨハネは、ユダヤ人は、イエス・キリストがなさったそのような「しるし」を見たにもかかわらず、イエス・キリストを信じることができなかったというのです。


 今日は、このことと関連して、イエス・キリストが行われた「しるし」を見るということがどのようなことであるか、お話ししたいと思います。
 このようなお話をするのには理由があります。私もそのように感じていた時がありますが、特に、イエス・キリストを信じて間もない時には、もし神さまが目の前で奇跡を行なってくだされば、はっきりと信じることができるようになるのに、というような思いが浮かんできます。しかし、実際には、そのようにはならないということが、聖書の中には一貫して示されています。ヨハネが、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と述べているのは、その一つの例です。私たちは、それはユダヤ人のことで、私は違うと言うことはできません。神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人間は、みな同じ罪の闇をもっており、同じ問題をもっています。
 この問題を考えるために、一つの事例を見てみたいと思います。以前お話ししたことがありますが、ヨハネの福音書6章1節〜14節には、イエス・キリストが、少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹を用いて、男だけでおよそ五千人の人々が食べるようにしてくださったことが記されています。イエス・キリストは、その大麦のパン五つと小さい魚二匹を取って感謝をささげてから、人々に分け与えてくださいました。それによって、その場に居合わせたすべての人が、そのパンと魚を欲しいだけ食べました。それでも、十二のかごいっぱいになるほど余りました。
 14節には、

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

と記されています。人々は、イエス・キリストがなさった「しるしを見て」イエス・キリストを信じたのです。
 その日の夜イエス・キリストと弟子たちは、舟でガリラヤ湖の対岸に渡られました。次の日に、人々はイエス・キリストがそこにおられないので、イエス・キリストを探して、舟に乗って対岸までやって来ました。それは、その人々が「しるしを見て」イエス・キリストを信じていたからです。
 ところが、26節、27節に記されていますように、イエス・キリストはその人々に向かって、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

と言われました。
 なんと、イエス・キリストは、人々が「しるしを見て」いないと言われたのです。しかも、それは、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。

という言葉によって導入されていまして、とても大切であることが示されています。人々は、イエス・キリストの御手のうちでパンが増えていったのを見ただけではありません。

パンを食べて満腹したからです。

と言われていますように文字どおり心置きなくそのパンを食べて、すっかり満腹しました。それは、イエス・キリストのなさった御業を第三者として見ているのとは違います。自分たちが具体的にその恩恵にあずかっています。それなのに、イエス・キリストは、

あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

と言われました。
 このことは、イエス・キリストがなさった奇跡的な御業を見たり、それにあずかってその恩恵を受けたことが、そのまま、イエス・キリストがお示しになった「しるし」を見たことであるとは限らないということを意味しています。
 この時の人々の問題が何であったかを示すのは、14節で、

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

と言われているのに続いて、15節で、

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

と言われていることに示されています。
 「世に来られるはずの預言者」というのは、申命記18章15節に記されていますように、モーセが、

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

とイスラエルの民に告げていた預言者のことです。
 新改訳では「ひとりの預言者」と訳されていますが、それは解釈を加えた訳で、原文には「ひとりの」という言葉はありません。この言葉が単数形であるのと、モーセが「私のような」と述べていることから、モーセが一人であるように、その預言者も一人であると考えられているわけです。
 けれども、申命記18章の文脈を見ますと、このモーセの言葉は、イスラエルの民がカナンの地に入った時に、その地の風習にならって「卜者や占い師に聞き従って」はならないという戒めとともに与えられている約束です。それで、これは、基本的には、後の日に来たるべき「ひとりの預言者」のことを述べてるというよりは、イスラエルの民がカナンの地に入った時に、契約の神である主が預言者を与えてくださることを約束してくださったものです。
 モーセが「私のような」と述べているのは、モーセは古い契約の仲保者として預言者の役割をも負っていたことを受けていますし、後に与えられる預言者たちは、モーセの据えた基礎の上に立って預言者としての活動をしています。
 ですから、これは、基本的には、主が預言者を与えてくださる約束の言葉です。それが単数形であるのは、集合名詞として理解することができます。それとともに、聖書を全体として見たときに、そこから、新しい契約の仲保者として来られるメシヤが、預言者たちの主として、最終的な預言をされることを読み取ることも無理なことではありません。それは、創世記3章15節に記されています「女の子孫」と同じように理解されるわけです。実際に、イエス・キリストの時代にそのように理解されていましたので、人々は、

まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。

と言ったのです。また、それは、ただ単に、その当時の人々の発想であっただけでなく、新約聖書によっても受け入れられています。使徒の働き3章22節、23節には、

モーセはこう言いました。「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」

というペテロの説教の中の言葉が記されています。ペテロは、モーセが語っている預言者がイエス・キリストにおいて成就していることを明らかにしています。もしかすると、このことも、先ほどの「ひとりの預言者」という訳に影響を与えているかもしれません。
 いずれにしましても、

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

のです。いわば、イエス・キリストを「第二のモーセ」として信じたわけです。それで、人々がイエス・キリストを、「」としようとしたというのは、ちょうどモーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放したように、「第二のモーセ」も、自分たちを異邦人の支配者から解放してくれるはずだと信じたということを意味しています。
 しかし、15節には、

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

と記されています。イエス・キリストは、人々のそのような要求を退けておられます。
 この時のユダヤ人の問題は、二つの面から考えることができます。
 第一は、神学的な問題です。この時のユダヤ人のように、イエス・キリストを王にしようとすることは、文字通り、イエス・キリストを「第二のモーセ」としようとすることです。それは、その当時の人々の発想からすれば、イエス・キリストを最上級の地位に就けることだと思われるでしょう。しかし、モーセは、古い契約の仲保者として、主の契約の民の「ひな型」である地上のイスラエルにおいて仕えました。ヘブル人への手紙3章5節、6節には、

モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

と言われています。
 モーセをとおして与えられた契約は古い契約で、その上に主の契約の民の「ひな型」である地上のイスラエルが形成されました。そして、その契約の基づいて、モーセをとおして与えられた地上の聖所も、やがて来たるべき「まことの聖所」の「ひな型」でした。その聖所でささげられていた動物のいけにえも、やがて来たるべき「まことのいけにえ」の「ひな型」です。この聖所に関しては、ヘブル人への手紙9章9節、10節で、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

と言われています。
 イエス・キリストは、単なる「第二のモーセ」ではありません。モーセを「ひな型」とすれば、イエス・キリストはその「本体」に当たります。イエス・キリストは、ご自身が、地上の聖所とそこでささげられていたいけにえの「本体」です。ここに記されている言葉を用いますと、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いによって初めて、「礼拝する者の良心」は完全なものとされます。13節、14節に、

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

と記されているとおりです。
 この時のユダヤ人たちのような考え方で、イエス・キリストを自分たちの王にしようとすることは、イエス・キリストを地上的で民族主義的な王とすることです。それは、イエス・キリストを、古い契約の地上的な「ひな型」に引き下ろしてしまうことになります。
 第二の問題は、いまお話ししたことと裏表の関係にありますが、その時のユダヤ人の信仰の姿勢です。
 彼らの抱いているメシヤについてのイメージには、いまお話ししたような問題があるのですが、そのことに気がつかないばかりか、その自分たちの抱いているメシヤについてのイメージにしたがって、イエス・キリストを動かそうとしているということです。
 ご承知のように、この世の信仰は、自分たちの信じる「神」あるいは「神々」が自分たちの願うように動いてくれることを期待します。
 しかし、私たちは、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ることにおいて、そのような姿勢と決別しています。そのような姿勢は、イエス・キリストを信じる信仰にとっては致命的なことです。というのは、私たちの信仰は、人間が自分の力によって考え出した神を信じるものではなく、神さまが啓示してくださったことを信じるものだからです。その意味で、イエス・キリストを信じる信仰の基本的な姿勢は「聞くこと」にあります。
 このこともいろいろな機会にお話ししてきましたが、簡単にまとめておきましょう。
 ローマ人への手紙10章17節では、

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

と言われています。
 ここでは、「信仰は聞くことから始ま」ると言われています。信仰の出発点は「見ること」ではなく「聞くこと」です。信仰の出発点が「聞くこと」にあるだけではなく、信仰の姿勢は終始一貫して「聞くこと」にあります。
 そのことを考えるために、「見ること」と「聞くこと」の間にある、本質的な違いに注目してみましょう。
 「見ること」においては、自分が一方的に働きかけます。相手からの働きかけがなくても「見ること」はできます。「見ること」においては、自分が主体であり、相手は客体です。自分が中心であり、自分の中にある尺度に従って、見ているものを判断します。
 ところが、「聞くこと」においては、この立場が逆転します。相手側からの語りかけがなくては「聞くこと」はできません。何を「聞くこと」ができるかは、まったく相手の意志によることです。自分は、へりくだって、語られることを「聞く」という立場に立たなくてはなりません。
 しかも、そうでありながら、まったく受け身であっては「聞くこと」はできません。自分の理解力を結集して、語られたことを受け止めなくてはなりません。あくまでも、相手が中心であることを認め、へりくだって、その語りかけに耳を傾けるのですが、そのためには、自分の理解力のすべてを結集しなくてはなりません。
 つまり、「聞くこと」においては、相手に対して自分の心をまったく開かなくてはなりません。まず、その相手を受け入れ、尊重しなくてはなりません。「聞くこと」の根底にあるのは、相手に対する愛です。
 これは、「聞くこと」の根本にある姿勢で、本来の「聞く姿勢」です。
 注意しておきたいのは、この「聞く姿勢」は、実際に、何かを聞いている人の中に、いつもあるわけではないということです。実際には、へりくだって相手の下に身を置くことができなかったり、自分の尺度を押し付けて勝手な解釈をしたりして、いい加減な聞き方をしたりするわけです。それは、いわば、「見る姿勢」をもって聞いているということです。また、その逆に、あるものを見ているときに、謙虚になってそのもの自体から学ぼうとすることもあります。それは、いわば、「聞く姿勢」をもって見ているということです。
 信仰の姿勢は、このような本来の意味での「聞くこと」にあり、終始一貫して「聞く姿勢」を取り続けます。
 その意味で、自分を中心にして、自分にとって面白い話や、自分を感動させたり、楽しませるための話を聞くことは、信仰の姿勢ではありません。テモテへの手紙第二・4章3節、4節に記されている、

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

というみことばに示されている姿勢は、聞くことを示してはいますが、信仰の姿勢ではありません。
 以上のことは、「聞くこと」全般に当てはまります。イエス・キリストを信じる信仰には、さらに別の要素があります。先ほどの、ローマ人への手紙10章17節では、

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

と言われていました。この言葉は、信仰の姿勢としての「聞くこと」が、「キリストについてのみことば」を中心としていることを示しています。
 この「キリストについてのみことば」という部分は、新改訳の欄外訳にありますように、「キリストのみことば」とも訳すことができます。「キリストについてのみことば」と取れば、これは、十字架の死と死者の中からの復活を頂点とするイエス・キリストの贖いの御業と、その御業を成し遂げてくださったイエス・キリストが、生きておられる主であられることをあかしする御言葉のことです。
 また、これを「キリストのみことば」と取れば、これは、キリストがあかししてくださる御言葉のことです。ここでは、その両方の意味が重ねられていると考えられます。
 ですから、信仰は、イエス・キリストが語ってくださる福音の御言葉に「聞くこと」から始まります。それは、具体的には、キリストの御霊によって霊感された聖書を、御霊のお導きのもとで読むことによって、イエス・キリストの御言葉に耳を傾けることです。そして、イエス・キリストが語ってくださることは、ご自身がどなたであるかということを、その死とよみがえりを中心とする贖いの御業の意味を明らかにしてくださることによってお語りになるのです。
 このように、イエス・キリストの御前にへりくだって、自分のすべてを結集して、イエス・キリストが語られる御言葉に耳を傾けることが信仰の出発点です。そして、この数週間繰り返してお話ししてきましたように、私たちが、信仰の姿勢として、イエス・キリストが語ってくださる福音の御言葉に「聞くこと」は、私たちの力でできることではありません。ヨハネが引用している、イザヤの、

主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。

という言葉の中に出てくる、「主の御腕」である御霊が私たちの心を開いてくださるとともに、それを照らしてくださることによって初めてできることです。
 イエス・キリストは、当時のユダヤ人に、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

と言われました。また、ヨハネも、同じユダヤ人について、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と述べています。
 彼らは、本当は、「聞く姿勢」をもって、その「しるし」を見るべきでした。しかし、実際には、自分を中心に据えて相手を見るような「見る姿勢」で、イエス・キリストの行われた「しるし」を見ていました。
 そのために、イエス・キリストが自分たちの眼鏡にかなうと思ったときには、イエス・キリストを自分たちの思い通りに動かそうとしたり、イエス・キリストが自分たちの思うようになってくれることを期待しました。

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

というヨハネの証言の中の「むりやりに連れて行こうとしている」という言葉が、そのことを伝えています。
 また、その一方では、イエス・キリストが自分たちの眼鏡にかなわないということになったときには、イエス・キリストを「にせメシヤ」のかどで、十字架につけて殺してしまいました。
 このような姿勢から、「しるし」を求めることが生まれてきます。マタイの福音書16章4節に記されていますように、イエス・キリストは、

悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。

と言われました。
 本質的にはこれと同じ問題が、イザヤの時代のユダ王国の民にもありましたし、今日の私たちの間にもあり得ます。
 これらのことから、初めに取り上げました、「神さまが自分の目の前で奇跡を行なってくだされば、もっとよく信じられるのに。」という思いが、どこから生まれてきているか、お分かりのことと思います。それは、イエス・キリストを信じる信仰の姿勢である「聞く姿勢」から生まれてきたものではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる信仰にとって致命的な「見る姿勢」と、そこから生まれてくる、神さまを自分の思いにしたがって動かそうとする姿勢が生み出したものです。

 


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