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説教日:2002年1月20日 |
繰り返しになりますが、37節では、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 と言われています。 この「このように多くの」と訳されたのは一つの言葉(トスアウタ)で、量的に多いこととともに質的に高いことを表わす言葉(トスウートス)の(中性)複数形です。複数形はとても多いことを表わすということで「このように多くの」と訳されています。このような言葉がここに使われているということで、イエス・キリストがなさった「しるし」、つまり、「しるし」としての意味をもっている奇跡的な御業の数が多かっただけではなく、その質が高いものであったことが示されていると考えられます。つまり、イエス・キリストがなさった「しるし」は、明確にイエス・キリストが約束の贖い主であることを表わしていたので、それを見た人々は、当然、イエス・キリストを約束の贖い主として信じることはできたはずであるということが伝えられています。 その上で、ヨハネは、それでも、ユダヤ人がイエス・キリストを信じることができなかった理由を述べるために、イザヤ書に記されている二つの御言葉を引用しています。これによって、ヨハネは、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。 のは、彼らの中に、イザヤの時代のユダ王国の人々がもっていたのと同じ問題があったからであることを明らかにしています。 その問題がどのような問題であるのかということは、これまでの預言者イザヤの「召命体験」についてのお話の中で繰り返しお話ししてきました。結論的に言いますと、聖なる主がご自身ののご臨在の御許に備えてくださった贖いがどのようなものであるかを悟るためには、聖なる主のご臨在の御前における自分自身の姿を知る必要があるということです。イザヤは、まさに、そのことを知るようになるために、幻の中で、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられました。そして、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、自分が主の聖さを冒す者として、直ちに聖絶されるべきものであることを実感して、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という嘆きと絶望の声を上げました。 天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた人間は、本来、聖なる主の栄光のご臨在の御前にあって、主とのいのちの交わりに生きるものとして造られています。そのいのちの交わりが、人間の罪による堕落によって失われてしまい、人間は、自分の罪のさばきを受けなければならないものになってしまいました。それで、主が私たちのために贖いを備えてくださったのは、私たちの罪を赦して、私たちを罪のさばきによる死と滅びから救い出してくださるだけでなく、私たちの罪を聖めて、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせてくださるためです。 主が備えてくださった贖いを受け取る前に、私たち自身の現実を知る必要があります。私たちも、主が成し遂げてくださった贖いにあずかることがないままで、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つようなことがあれば、イザヤと同じように、自分が主の聖さを冒す者として、直ちに聖絶されるべきものであることを実感して、 ああ。私は、もうだめだ。 という嘆きと絶望の声を上げるほかのないものです。 そのように、自分のうちには、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことができるようになるための聖さや義が微塵もないことを悟ったときに初めて、主がご自身のご臨在の御許に備えてくださっている贖いがどのようなものであるか分かるようになります。主がご自身のご臨在の御許に備えてくださっている贖いの本体は、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げてくださった贖いです。その贖いは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に差し出すことができる聖さと義はなにもない者に、まったくの恵みによって与えられるものであることが分かるようになります。 イザヤも、聖なる主の栄光のご臨在の御前における自分自身の現実は、この幻における経験をとおして知るようになりました。イザヤも、それを神さまから示していただいて初めて悟ることができたのです。そのことは、私たちすべてに当てはまることです。私たちが神さまの御前に自分の罪と汚れの現実を悟るようになったのは、人より頭がいいとか理解力があるというような私たち自身の生来の力によることではありません。それは、神さまのお働きによることです。具体的には、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、私たちに対して、また、私たちのうちに働いてくださる御霊のお働きによることです。 そして、神さまの御前における自分の罪と汚れを悟るだけでなく、そのような私たちのために、神さまが、御子イエス・キリストをとおして贖いを成し遂げてくださったことを信じることができるようになったのも、御霊のお働きによることです。コリント人への手紙第一・2章9節、10節で、 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 そして、人の心に思い浮んだことのないもの。 神を愛する者のために、 神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 と言われているとおりです。 実は、このように、私たちに対して、また、私たちのうちに働きかけてくださる御霊のお働きこそが、ヨハネが引用している、イザヤ書53章1節で、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 と言われているときの「主の御腕」です。つまり、このイザヤ書53章1節では、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 ということと、 主の御腕は、だれに現われたのか。 ということは、同じことを別の面から述べているのです。 もちろん、「主の御腕」はいろいろなお働きをします。ここでは、私たちの心を開いてくださり、私たちの罪と汚れの現実を悟るとともに、神さまが備えてくださった贖い主を信じることができるようにしてくださるお働きをする「主の御腕」を指しているということです。 すでにお話ししましたように、イザヤに託された宣教活動は、ヨハネが次に引用しています、イザヤ書6章10節で、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。 と言われているものでした。 イザヤの時代に、それまでの半世紀にわたるウジヤ王の治世の下で繁栄したユダ王国の民は、多くのいけにえをささげ、盛んな行事と集会を行なうことによって、主に受け入れられていると感じていました。自分たちは、主の要求に応えているから、主に受け入れられていると感じていました。 しかし、いけにえの制度はそのようなことのために与えられたのではありません。それは、罪と汚れのために、神さまの御前に立つことができない者たちのために、神さまの方で、贖いを備えてくださることの約束を具体的な形をとおして示してくださったものです。また、それによって、自らのうちに罪と汚れを宿している者は、主が備えてくださる贖いがなければ、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことができないことを示してくださっています。さらに、その贖いは、いけにえとなるもののいのちの血を流すことによって、成し遂げられるものであることも示してくださっています。そして、そのように示されている贖いが、御子イエス・キリストの十字架の死によって成就しているのです。 そのように、本当は、神さまの方が備えてくださり、まったくの恵みによって与えてくださる贖いを信じて受け取るべきなのに、ユダ王国の民は、自分たちが神さまにいけにえをささげて、神さまの要求を満たしているかのような錯覚をもっていました。その点は、イエス・キリストの時代のユダヤ人も同じでした。さまざまな規定を守ることによって、神さまの要求を満たしていると感じていました。また、それは、私たちの中にも忍び込んでくる感じ方でもあります。 イザヤに託された宣教は、そのようなユダ王国の民に対して、イザヤが経験した、まったくの恵みによって聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられていて、ただ恵みによって与えられる贖いをあかしすることでした。それは、ユダ王国の人々の発想と真っ向から衝突するものです。イザヤが宣べ伝える福音を受け入れるためには、イザヤと同じように、自分たちが、聖なる主の栄光のご臨在の御前にまったく絶望的な状態にあることを悟らなければなりません。それは、自分の頼みとしてきたものをまったく否定して、ただただ主の恵みを仰ぐことを意味しています。ユダ王国の人々は、その誇りを捨てることはできませんでしたし、それを捨てる必要があることも分かりませんでした。それで、人々は、イザヤが宣べ伝える福音を退けるようになります。そのことが、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。 という、ユダ王国の民に対する主のさばきになっているのです。 このようなさばきから救われるためには、イザヤが宣べ伝えた福音を聴いて、そこにあかしされている贖いを信じるほかはありません。そして、そのためには、イザヤがそうであったように、主の恵みによって、自分が聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、ただ、その聖さを冒すだけのものであり、直ちに聖絶されるべきものであることを悟るように導いていただかなければなりません。そして、そのように導いてくださるのが、53章1節に述べられている「主の御腕」なのです。 イザヤ書53章1節の、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 という言葉は、そこから新しいことが語られるような感じのする言葉ですので、聖書の章や節を区切った人は、そこから新しい章(53章)が始まるように区切ってしまいました。しかし、そこで語られている「苦難のしもべ」のことは、52章13節から始まっています。 その導入である52節13節には、 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されています。すでにお話ししましたように、ここで使われている「高められ、上げられ」という言葉は、6章1節で、イザヤが、自分の見た栄光の主のことを、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と述べているときの「高くあげられた」と訳された言葉と同じ言葉です。ですから、52章13節〜53章12節におきましては、6章1節で、イザヤが、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 とあかししている栄光の主ご自身が、私たちの罪の咎を負ってくださり、私たちの身代わりとなって苦しみを受け、そのいのちを注ぎ出してくださるということが、預言的にあかしされています。 聖なる主の栄光のご臨在の御前において、ただ、その聖さを冒すだけのものでしかないとして、直ちに聖絶されるべきものが、なおも、そのご臨在の御許に備えられているいけにえによる贖いによって、罪を贖われ汚れを聖められて、御前に立ち続けることができるようになり、主との交わりにあずかるようになりました。そのこと自体が驚くべき恵みでしたが、その奥にあるのは、さらに驚くべきことだったのです。イザヤにとって、その時、自分を聖絶してしまわれるはずの主が、ご自身をいけにえとして、そのいのちを注ぎ出してくださるということです。 53章4節〜6節には、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 とあかしされており、10節、11節では、 しかし、彼を砕いて、痛めることは 主のみこころであった。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を彼がになう。 とあかしされています。 このように、イザヤは、この「苦難のしもべ」として、私たちの罪の贖いのために砕かれる方は、自分があの「召命体験」において見た栄光の主ご自身であることをあかししています。これは、自分の罪を贖うためには、栄光の主ご自身が贖いのためのいけにえとなってくださらなければならないということです。それを信じることは、自分の罪と汚れはそれほどのものであるということを認めて初めてできることです。このようなことは、罪ある人間には、とても、信じることができません。それでも、このようなことを信じることができるのは、神さまの御霊のお働きによることです。 それで、イザヤは、栄光の主の苦難と死のことを預言する段になって、改めて立ち止まって、 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 と述べているのです。 私たちは、永遠の神の御子であられる方が、私たちを罪と死の力から贖いだしてくださるために、人の性質を取ってきてくださり、それによって十字架におかかりになって、私たちの贖いとなってくださったことを信じています。それは、これまでお話ししてきましたとおり、「主の御腕」のお働きによることです。このことを、しっかりと心に留めたうえで、一つのことを考えたいと思います。 コリント人への手紙第一・1章22節〜24節には、 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 と記されています。 確かに、「十字架につけられたキリスト」は、栄光の主がどのような方であるかを知っているユダヤ人にとってはつまずきです。栄光の主とは、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方です。その方が十字架につけられて殺されるわけがないのです。律法の規定によれば十字架刑のように、木にかけられたものは「のろわれたもの」でした。 また、栄光の主のことを知らないギリシャ人にとっては、十字架につけられて殺されてしまったものを救い主として信じることは、愚かなこととしか思えません。 私たちは、イエス・キリストを信じていますので、十字架につけられたイエス・キリストを贖い主として信じることを愚かなこととは思っていません。その点で、ここに述べられている「ギリシャ人」、すなわち、栄光の主を知らない人々とは違うと言えるでしょう。 しかし、「それならば」と問いかけなければなりません。私たちは、栄光の主を本当に知っているのでしょうか。ユダヤ人が十字架につけられたイエス・キリストにつまずいたのは、主の栄光が無限、永遠、不変の栄光であるということを知っているからです。幼い時から、栄光の主がそのような方であることを徹底的にたたき込まれてきています。その人々にとっては、栄光の主が十字架につけられて殺されるというようなことは、天地がひっくり返ってもあり得ないことです。だから、十字架につけられたイエス・キリストが、栄光の主であるわけがないということになります。 イザヤもパウロも、また、その他の使徒たちも、ユダヤ人でした。それで、彼らにとっては、栄光の主ご自身が自分たちのための贖いのいけにえとなられるというようなことは、天地がひっくり返ってもあり得ないことでした。彼らには、そのような堅い壁がありました。それなのに、「主の御腕」のお働きによって、その壁が打ち破られました。それは、彼らにとっては、まさに、天地がひっくり返ってもあり得ないはずのことが起こったという、気の遠くなるような衝撃であったはずです。イザヤもパウロも、その他の使徒たちも、その衝撃の中から、ご自身の民のために贖いとなられた方は、栄光の主であるとの告白の声を上げました。 これに対して、私たちはどうでしょうか。私たちにそのような衝撃はあったでしょうか。私たちは、謙虚に、自分たちが、「ギリシャ人」、すなわち、栄光の主を知らない人々の仲間であることを認めなければなりません。 「ギリシャ人」が考える神々は、私たち日本人が考える神々と同じように、人間とあまり変わりません。それで、殺されたり死んだりすることもありうるわけです。そして、そのように簡単に殺されてしまったものを救い主として信じることは、まったく愚かなことと見えるわけです。ですから、それと同じような発想をもっている私たちも、永遠の神の御子がその人としての性質において十字架にかかって死の苦しみを味わわれたということを聞いても、また、自分でそう言っても、何となく、「そのようなこともあるのだなあ」と思ってしまいます。そこに、イザヤやパウロや、その他の使徒たちが感じたであろう衝撃がないのです。 しかし、私たちも、そのことに、気を失うほどの衝撃を受けるときが来ることでしょう。それは、私たち自身が、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つようになる時です。その時に、私たちを支えてくださっているのは、まさに、無限、永遠、不変の栄光の主が、ご自身の人の性質において味わってくださった苦難と死による贖いであることをまざまざと知るようになることでしょう。もちろん、私たちは、「召命体験」の時のイザヤのように、絶望の声を上げる必要はありません。かえって、その大きな驚きとともに、主の愛と恵みに対する感謝と讃美をささげるようになります。テサロニケ人への手紙第二・1章10節には、 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の と記されています。 おわび 「聖なるものであること(65)」の中で引用しました、ローマ人への手紙11章6節〜8節は、イザヤ書6章10節とともに、同じことを述べている29章10節を念頭において引用されていると思われます。それで、その個所に関する記述を修正しました。 |
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