(第66回)


説教日:2002年1月13日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事からのお話を続けます。
 これまで数回にわたって、イザヤに託された宣教がどのようなものであったかということをお話ししてきました。
 聖なる主の栄光のご臨在の御前から預言者として遣わされるイザヤに託されたのは、

  聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。

という言葉によってまとめられる宣教でした。イザヤがユダ王国の民の所に行って、自分が受けた贖いの恵みをあかしすればするほど、人々の心は鈍くなり、その目と耳は閉ざされていってしまうというのです。
 それがどのようなことであるかにつきましては、すでにお話ししたことですので、繰り返すことはいたしません。今日は、これまでお話ししたことを、少し視点を変えてお話ししたいと思います。


 幻の中でのことではありますが、イザヤは、突然のように聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられました。そこは、地上の神殿の表象で言いますと至聖所に当たる所で、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

という、主の栄光のご臨在の御前に仕えているセラフィムの讃美が満ちている所でした。
 セラフィムは、この讃美によって主の聖さをあかししています。主の聖さは、主が、ご自身のお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。主は、あらゆる点において無限、永遠、不変の方であり、あらゆる点において無限の豊かさに充ち満ちておられます。それで主は、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるのです。
 ですから、主の聖さの土台は、主があらゆる点において無限の豊かさに充ち満ちておられることにあります。そして、主の無限の豊かさが、この造られた世界に向かって示されますと、それが主の栄光となります。
 セラフィムは、その主の栄光に触れているので、主の聖さを讚えているのです。主の無限、永遠、不変の豊かさの現われである栄光は、セラフィムにとって常に新しいものであり、セラフィムは常に新しくその栄光に触れて、その栄光を讚えています。それによって、セラフィムの讃美は、主の聖さと栄光のあかしとなっています。セラフィムの讃美によってあかしされている主の聖さと栄光が、イザヤに対する啓示になっているのです。
 セラフィムにとって、主の栄光に触れることは、主の無限、永遠、不変の豊かさから溢れ出てくる愛と恵みに包まれることを意味しています。しかも、その愛と恵みは、常に新しく、そのたびに豊かなものとして受け止められています。
 それに対して、イザヤは、自分が主の聖さを冒す者であることと、それゆえに直ちに御前から聖絶されなければならないものであることを感じ取って、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

という、嘆きと絶望の叫びを上げました。
 しかし、主の栄光のご臨在の御前において嘆きと絶望の声を上げることは、人の本来の姿ではありません。人は「神のかたち」に造られています。人は、本来、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、主の無限、永遠、不変の豊かさに満ちた愛と恵みに包まれて、主との交わりのうちに生きるものとして造られました。けれども、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいましたので、聖なる主の栄光のご臨在の御前から退けられてしまいました。それが、最初の人アダムが、神さまの栄光がご臨在される所であるエデンの園から追放されたことに現われています。
 ところが、これには、もう一つの面があります。罪あるものが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つなら、主の聖さを冒す者として、直ちに聖絶されてしまいます。後ほどお話ししますが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたイザヤは、まさに、このことを身をもって体験させられたのです。それで、神さまは、人が聖絶されることがないようにと、人をご自身の栄光のご臨在の御前から退けられました。それは、人間が聖絶されてしまって、歴史が途絶えてしまうことがないようにしてくださった、神さまのご配慮によることでした。
 しかも、神さまは、ただ、歴史が空しく続くようにされたのではありません。人をご自身の栄光のご臨在の御前から退けられましたが、それに先立って、贖い主の約束を与えてくださいました。それは、創世記3章14節、15節に記されています、

  おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、神さまに逆らって人を罪に誘った「蛇」の背後にいて働いているサタンに対するさばきの宣言の中に示されています。このサタンに対するさばきの宣言の意味については、すでにいろいろな機会にお話ししましたので、それを踏まえてお話を続けますが、いわば、人は、再び神さまの栄光のご臨在の御許に帰ってくるようになるという約束を携えて、神さまの栄光のご臨在の御前を去っていったのです。
 この約束に示されている救いは「女の子孫」である贖い主によって実現します。そのためには、少なくとも、「女の子孫」である贖い主が来てくださる時までは、人間の歴史が存続しなければなりません。それで、人は神さまの栄光のご臨在の御前から退けられたのです。もちろん、人が神さまの栄光のご臨在の御前から退けられたのは、人が神さまに対して罪を犯して堕落してしまったからであるという厳然たる事実があります。その意味では、それは罪を犯した人間に対するさばきです。しかし、それは、先ほどの「女の子孫」である贖い主を与えてくださるという約束と結びつきますと、がぜん、神さまのご配慮としての意味をもってくるのです。
 このことは、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の人類の歴史全体を貫いています。
 創世記3章16節には、罪を犯したエバに対する、

  女にはこう仰せられた。
  「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを
  大いに増す。
  あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
  しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
  彼は、あなたを支配することになる。」

というさばきの宣告が記されています。
 これは、確かに、罪を犯したエバに対するさばきの宣言です。しかし、これも、先ほどの、贖い主の約束との結びつきで見てみますと、これは「女の子孫」である贖い主が生まれてくるための神さまのご配慮でもあることが分かります。エバが罪を犯した結果、もう子どもは生まれないということではありません。むしろ、これは、子どもが生まれてくるということを「保証」してくださものです。エバは、罪を犯しましたから、そのさばきを受けなければなりません。そのためには、彼女から子どもたちが生まれてこなければならないのです。そのことの中に、「女の子孫」である贖い主が生まれてくるという望みが込められていくことになります。事実、創世記4章1節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されています。この「ひとりの男子」と訳されている言葉(イーシュ)は成人男性を表わしています。エバはすでにその子が成人となって、「蛇」の頭を踏み砕くようになることを心に描いていたということでしょう。このことは、エバが、最初の子であるカインのことを「女の子孫」である贖い主ではないかと期待していたことを示しています。
 実際には、カインはエバが期待していた者ではなかったばかりか、兄弟アベルを殺す者でした。子どもが生まれてくるということは、自分たちの罪も継承されることでもあるという意味での産みの苦しみを、身をもって味わうこととなりました。それでも、エバは「女の子孫」である贖い主への期待を持ち続けました。創世記4章25節には、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

と記されています。この「もうひとりの子」の「」は、「女の子孫」の「子孫」と同じ言葉(ゼラァ)です。
 さらに、創世記3章17節〜19節には、

  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。」

という、アダムに対するさばきの宣言が記されています。
 このさばきの重みは、歴史を通して、世界の至る所で感じられてきましたし、今も感じられています。しかし、この場合も、アダムはまったく食べ物に窮して、飢え死にしてしまうということではありません。かえって、

  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。

というさばきの言葉によって、労苦の中にも実りが「保証」されています。

  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

ということは、食べ物がないからそうなるということではありません。それは、むしろ、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落して、いのちの源である神さまとの交わりを絶たれてしまったためのことです。ですから、人がどんなに食べ物を豊かに食べても、それで、

  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

という罪に対するさばきを免れることができるわけではありません。このことからの救いは、ただ、このさばきに先立って約束されている「女の子孫」である贖い主による贖いによってだけ実現するものです。
 人は、

  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

というさばきの下にあります。そのことを、人に思い起こさせるものとして、

  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。

という厳しい現実が伴っています。それで、人は、自分が味わう労苦の中で、「女の子孫」である贖い主による贖いの約束を待ち望むように導かれます。
 創世記5章29節には、ノアの父であるレメクのことが、

彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

と記されています。
 ノアの時代の洪水によるさばきは、歴史を全体として、しかも決定的におさばきになる、神さまの終末的なさばきの「ひな型」です。それは、神さまがお造りになって「神のかたち」に造られている人間に委ねてくださったこの地を、人間がまったく荒廃させてしまったために下されたさばきです。レメクは洪水によるさばきが執行される5年前まで生きていましたから、その荒廃していく様子をまざまざと見せられていました。その中で、自分たちの味わっている労苦のことを、神さまのさばきによることとして受け止めています。それで、その一方では、

この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。

という「女の子孫」である贖い主の約束を待ち望む姿勢を示しています。実際、ノアは、「女の子孫」である贖い主その方ではありませんでしたが、洪水による終末的なさばきの中になおも備えられた救いをあかしする者になりました。
 このように、神さまは、「神のかたち」に造られている人間が、造り主であるご自身に対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後にも、歴史が存続するように取り計らってくださいました。しかし、その歴史そのものが、神さまのさばきの場としての意味をもっています。人の一生を取ってみても、

  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。

ということも人間の罪に対するさばきとしての意味をもっています。そして、その労苦は、

  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

という、まことに厳しい結末に至ってしまいます。
 歴史の全体も、同じように、人間の罪が生み出すさまざまな問題によって、痛みと叫びに満ちています。そして、それは、終末的なさばきへと向かって進んでいます。
 この終末的なさばきは、洪水によってではなく、栄光の主の再臨によってなされるさばきです。そのような終末的なさばきのことが記されている個所の一つである黙示録6章12節〜17節には、

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

と記されています。
 ここに記されている人々の嘆きと絶望の深さを見ますと、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫んだイザヤの嘆きと絶望を思い起こします。確かに、イザヤは幻の中でではありましたが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つという、終末的な経験をしています。そして、罪ある者が一人の例外もなく叫ぶであろう嘆きと絶望の声を上げたのです。
 そのような中で、イザヤは、歴史を存続させてくださっている神さまの真の目的に触れる経験をしています。それは、「女の子孫」である贖い主による贖いにあずかることです。
イザヤ書6節6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されているように、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかって、主の栄光のご臨在の御前に恐れなく立つものとされました。それは、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまの豊かさにあずかる経験でもあります。
 ただし、この時イザヤは、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。

という形で主の栄光のご臨在に触れることしかできませんでした。栄光の主の御顔を仰ぐということはできていません。さらに、主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いのいけにえを見ることもできていません。それが、古い契約の下にあることの限界です。とはいえ、すでにお話ししましたように、イザヤは、後になって、主の栄光のご臨在の御許に備えられていた贖いは、「女の子孫」である贖い主、すなわち自分が見た栄光の主ご自身の死の苦しみによるという、古い契約の壁を打ち破るような預言をしています。
 「女の子孫」である贖い主による贖いの約束がなかったなら、歴史はさばきの場でしかなくなります。その場合には、すべてのものが不毛であり、一般恩恵による支えもなくなります。一般恩恵は、特殊恩恵すなわち贖いの恵みを支えるために与えられています。そのような、不毛なものがただ流れていくということは、自然現象の一つのようなものであって、もはや、「歴史」とは言えなくなります。なぜなら、歴史の本質は意味あるものや価値あるものが造り出されて、時間的に継承され、積み上げられていくことにあるからです。
 突き詰めて言いますと、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の歴史は、「女の子孫」である贖い主による贖いの約束の実現のために存続しているという一面があります。その意味で、「女の子孫」である贖い主は、歴史の鍵を握っておられる方でもあります。
 いずれにしましても、福音は、初めから、本来、神さまのさばきの場となり、まったくの不毛の状態の中で、嘆きと絶望しかないはずの所に語られてきたものです。
 このことに照らして見ますと、イザヤに委ねられた宣教が、

  聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。

という言葉によってまとめられる宣教であったということには、人類の罪による堕落の後の歴史には、それがさばきの場であるという一面があることが、より広い背景となっていることが分かります。イザヤに託された宣教は、確かに福音の宣教ですが、福音の宣教は、人を救いとさばきへと切り分けるのもです。イザヤに託された宣教は、ユダ王国の民へのさばきをよりはっきりとさせるものでした。
 しかし、歴史を存続させてくださった主のみこころは、その厳しくて不毛なものに見えることの中に、贖いの恵みを実現してくださることです。イザヤ書6章11節〜13節には、

私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。
  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、
  家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、
  主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで。
  そこにはなお、十分の一が残るが、
  それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が
  切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。」

と記されています。
 ここには、イザヤの宣教によって心が鈍くなり目と耳が閉ざされてしまうユダ王国の民に対するさばきの厳しさが語られています。かろうじて「十分の一」が残ったのに、それでも終わらず、

  それもまた、焼き払われる。

と言われています。しかし、それとともに、その厳しさのまっただ中に、

  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。

という、福音の御言葉が聞こえてきて、贖いの恵みによって残される民があることが示されています。
 私たちは、歴史が神さまのさばきの場であるという一面をもっていることを、ひしひしと感じている時代に生きています。このような時にこそ、主の贖いの恵みの福音を、しっかりと聴かなければなりません。何か底の浅いものを見るように、少し噛って、もう分かってしまったと思い込んでしまってはならないのです。福音があかししている「女の子孫」である贖い主は、この歴史の存続の理由であられるとともに、この歴史を支えてくださる方です。そして、ご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いをとおして、歴史を本来の姿に回復してくださる主でもあります。
 また、それは、個人的なことにも当てはまります。自分の罪の闇に気がついて、絶望的な思いになってしまっている時にこそ、主の贖いの恵みの福音を、しっかりと聴かなければなりません。主の贖いの恵みをあかしする福音は、まったく絶望的な状況の中でこそ語られ、そのような状態にある人に対するまことの慰めの言葉として語られてきたものです。

 


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