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説教日:2002年1月6日 |
復習になりますが、主は、イザヤをご自身の栄光のご臨在の御許から預言者としてお遣わしになるに当たって、イザヤにご自身のご臨在の栄光をお示しになりました。それに接したイザヤは、自らの罪とその汚れの現実を心に映し出されて、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という絶望の声を上げました。主のご臨在の御前に立たせられて、自分が主の聖さを冒す者として、直ちに聖絶されるべきものであることを感じ取ったのです。 深い罪と汚れの自覚をもって、嘆きとも絶望ともつかない叫び声をあげるほかはなかった、イザヤに、主のご臨在の御前に備えられている贖いが示されました。6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されているとおりです。 ここでイザヤは、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いが、どのようなものであるかを、この幻による経験によって知りました。それは、主がご自身の贖いの御業の本質をイザヤに啓示してくださったということを意味しています。それは、初めから終わりまで、あるいは、何から何まで、主の一方的な恵みによって備えられ、主の一方的な恵みによって、それがイザヤに当てはめられました。これに対して、イザヤは、ただその恵みにあずかっただけでした。 このことを受けて、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に踏みとどまっただけでなく、 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。 という主の御声に応えて、 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 と応答しました。このことは、イザヤが、自分に示された主の贖いの御業の本質を理解した上で、それを信じたことを意味しています。そして、このようにして示された主の贖いの恵みの驚愕するほどのすばらしさに触れるとともに、それによって生かされていることを実感しているのです。 また、このことも、すでにお話ししたことですので、説明は省きますが、イザヤは、 私はくちびるの汚れた者だ。 と叫んだだけでなく、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んで、主の御前に罪あるものであり、汚れたものであるという点で、自分とユダ王国の民が一つであることを深く感じました。 この経験をする前に、イザヤがどのように感じていたかは分かりません。イザヤはすでに、ユダ王国において預言者として活動していたと考えられます。そうではなかったとしても、少なくとも、預言者的な眼で、ユダ王国の霊的な闇とそれに伴う危機の現実を見据えていたと考えられます。そのようなイザヤには、もしかしたら、ユダ王国の民の霊的な闇を見据えている自分の方が、ユダ王国の民よりは、主の近くにいるという思いがあったかもしれません。 イザヤの思いはどうであれ、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、人間の間にある「相対的な義」、つまり、「他の人よりはまだましだ」という思いが生み出す「義の幻想」は、霧散してしまいます。主の無限、永遠、不変の聖さの御前においては、そのような、人との比較対照によって考えられた義はまったく意味をなしません。 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだ時のイザヤからは、自己義認の幻影さえも剥ぎ取られてしまっています。 同時に、そこから、ユダ王国の民との新たな一体感が生まれてきたと考えられます。聖なる主の栄光のご臨在の御前にまったく絶望するほかはなかった自分のために備えられていた贖いの恵みは、また、ユダ王国の民のためにも備えられているはずだという理解を生み出す一体感です。 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 と、大胆にも、自ら進んで申し出たイザヤを動かしていたのは、主が啓示してくださった主の贖いの本質を理解したうえで、この贖いの恵みをどうしてもユダ王国の民にあかししたいという、切なる願いであったはずです。イザヤのうちに、すでに、そのような願いがあったからこそ、主は、それを生かしてくださって、 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。 と問いかけてくださったのであると考えられます。 これらのことから、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前における体験をとおして啓示されて理解した主の贖いのことをあかししたと考えられます。それは、 聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。 という主の言葉をそのまま繰り返すことではありません。先週お話ししましたように、 聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。 という主の言葉の「聞き続けよ。」、「見続けよ。」ということは、ユダ王国の民が、イザヤのあかしを聞き続けるようになったこと、そのあかしによって示されている主の贖いが、彼らの目の前にはっきりと示され続けるようになることを示しています。 そして、「だが悟るな。」、「だが知るな。」ということは、このイザヤのあかしがなされればなされるほど、ユダ王国の民の心は鈍くなり、目と耳は閉ざされていってしまうということを示しています。 なぜそのようなことになってしまうのかということは、先週お話ししましたように、人間が、先ほどの「相対的な義」あるいは「義の幻想」をもっているために、神さまの御前に自分がどのようなものであるかを知ることができないためです。また、そのために、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いが、初めから終わりまで、神さまの一方的な恵みによって与えられるものであることが分からないからでもあります。 実は、これには、もう一つの面があります。話が少し込み入ってしまいますので、先に申しておきますが、それは、このすべてのことに主の「主権的な恵み」あるいは「恵みによる選び」が働いているということです。 そのことを見てみましょう。 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。 という主の言葉は、たとえをもって人々に神の国のことをお教えになったイエス・キリストが引用しておられます。 イエス・キリストが「種まきのたとえ」をもって人々をお教えになった時のことを記している、マタイの福音書13章10節〜17節には、 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。 『あなたがたは確かに聞きはするが、 決して悟らない。 確かに見てはいるが、 決してわからない。 この民の心は鈍くなり、 その耳は遠く、 目はつぶっているからである。 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、 その心で悟って立ち返り、 わたしにいやされることのないためである。』 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストはイザヤ書6章9節、10節に記されている主の言葉を引用しておられます。しかし、その意味合いが少し違っています。 イザヤ書では、イザヤの宣教によって、人々の心が鈍くなり、目や耳が閉ざされていってしまうというようになっています。これまでお話ししてきたことに目をつぶって、このことだけを見ますと、何か、イザヤの宣教に問題があるかのように聞こえます。人々の心が鈍くなり、目や耳が閉ざされていってしまうのは、イザヤが宣教活動をするからである、あるいは、イザヤが宣教活動をしなければ、人々の心が鈍くなることはないし、その目や耳が閉ざされてしまうことはない、というようにも聞こえます。 これに対しまして、イエス・キリストは、イザヤに語られた主の言葉を引用して、 あなたがたは確かに聞きはするが、 決して悟らない。 確かに見てはいるが、 決してわからない。 この民の心は鈍くなり、 その耳は遠く、 目はつぶっているからである。 と言っておられます。つまり、イエス・キリストは、ご自身の教えを聞いても悟らないのは、イエス・キリストの教えを聞いている人々の側に問題があるということを、明確にしておられます。また、この引用に先立って、 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。 とも言っておられます。 この二つのことは、調和しています。すでにお話ししましたように、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いについてあかししますと、ユダ王国の人々の心は鈍くなり、その目と耳は閉ざされていってしまいます。その原因は、ユダ王国の民の側にあります。人々の心が「相対的な義」あるいは「義の幻想」を受け入れていますので、イザヤがあかしする贖いの恵みを受け入れる余地がなくなってしまっているのです。イエス・キリストは、そのような、聞いている人々の側の問題をより鮮明にするように、イザヤに告げられた主の言葉を引用しておられます。 それとともに、そのように、聞いている人々の心が主が備えてくださっている贖いに示されている恵みに対して閉ざされてしまっていることは、イザヤが自分自身の経験した主の一方的な恵みをあかしするることによって、はっきりと現われてきます。その意味で、イザヤが恵みによる贖いをあかしすることによって、人々の心はますます鈍くなり、その目や耳は硬く閉ざされていくようになります。 主は、イザヤをお遣わしになるに当たって、 聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。 と言われて、イザヤが恵みによる贖いをあかしすることによって、人々の心はますます鈍くなり、その目や耳は硬く閉ざされていくようになことの方をお示しになりました。それは、イザヤの宣教が、目に見える結果を生み出さないということを、初めから覚悟させてくださるという意味をもっていたのだと考えられます。 さて、先ほど言いました「もう一つの面」というのは、先ほど引用しましたマタイの福音書13章10節〜17節の初めの方に記されているイエス・キリストの教えに示されています。弟子たちが、イエス・キリストに、 なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。 と尋ねますと、イエス・キリストは、 あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 とお答えになりました。 このイエス・キリストの言葉は、これらすべてのことの奥にあることを明らかにしています。 イザヤのことに戻ってみましょう。聖なる主の栄光のご臨在の御前において、イザヤは、自分もユダ王国の民も同じように罪に満ちており、汚れを宿しているものであることを悟りました。それも、主がその幻の中での経験をとおして、イザヤに示してくださった啓示によっています。そのような、主の啓示の働きかけがなければ、イザヤといえども、聖なる主の栄光のご臨在の御前における自分の罪と汚れの現実を悟ることはできなかったのです。その意味では、イザヤが特に優れていたから、主の贖いの恵みを悟ることができたと言うわけにはいきません。もし、それを悟ることができたのは、イザヤがユダ王国の民より優れていたからだということであれば、先ほどの「相対的な義」は主の御前にある程度通用し、「義の幻想」はまったくの幻想ではなかったということになってしまいます。 ではなぜ、イザヤはそのような啓示にあずかって、聖なる主の栄光のご臨在の御前における自分の罪と汚れを悟ることができたのでしょうか。あるいは、私たちがイエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの恵みを理解し、それを信じることができるようになったのでしょうか。 それは、最後には、主の選びによっているというのが、先ほどの、弟子たちに対するイエス・キリストの教えの趣旨です。イザヤに当てはめて、言い換えますと、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前における自分の罪と汚れを悟ることができたのは、そして、主の御前に備えられている贖いがまったくの恵みによるものであることを悟ることができたのは、イザヤ自身の力によることではなく、主の一方的な恵みによることであったということです。 そのような意味で、私たちは、主の恵みは、「主権的な恵み」であると言います。 これと同じことは、パウロも述べています。ローマ人への手紙11章6節〜8節には、 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。 「神は、彼らに鈍い心と 見えない目と聞こえない耳を与えられた。 今日に至るまで。」 と記されています。 神は、彼らに鈍い心と 見えない目と聞こえない耳を与えられた。 今日に至るまで。 というのは、主がイザヤに語られた言葉の引用です。 ここでパウロは、おそらく、イザヤ書6章10節に記されている主の御言葉とともに、それと同じことを述べている、29章10節の、 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、 あなたがたの目、預言者たちを閉じ、 あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。 という言葉を念頭にいれていると考えられます。 いずれにしましても、パウロは、 神は、彼らに鈍い心と 見えない目と聞こえない耳を与えられた。 という言葉を引用することによって、、イザヤの宣教によって、ユダ王国の民が心を鈍くし、目と耳を閉ざすようになるのは、神さまの超越的なお働きによっているということを明らかにしています。 これは、その前の、7節で、 選ばれた者は獲得しました と言われていること、すなわち、人が、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いの本質を理解して、信じるようになることができるのは、まったく、主の「主権的な恵み」によっているということの裏側にあることです。 しかし、この主の選びにおける「主権的な恵み」は、私たちの自由と責任を無にするものではありません。先ほど引用した個所で、イエス・キリストは、 あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 と言われた後に、 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。 とも言われました。 これは、同じことを述べているマルコの福音書4章24節、25節に、 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」 と記されていることからも分かりますように、御言葉を聞く者の側の責任を述べているものです。 イエス・キリストは、 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。 という言葉を付け加えることによって、主の主権的な恵みによる選びは、私たちの外側で自動的に決まっている「運命」のように働くのではなく、私たちの聞き方に働くものであり、その結果は、私たちの聞き方に現れてくる、ということを明らかにしておられます。 このように、聖書は、一貫して、私たちが自分自身の罪と汚れを悟り、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いの本体である、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じることができるようになったのは、私たち自身の力によることではなく、主の「主権的な恵み」によることであることを示しています。それが、私たち次第でなく、主の「主権的な恵み」によっているので、私たちの救いは確かなものなのです。 最後に、エペソ人への手紙1章3節〜6節に記されている、神さまのの主権的な恵みをあかししている御言葉に耳を傾けましょう。 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 |
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