(第64回)


説教日:2000年12月30日
聖書箇所:イザヤ書6章1-13節


 伝道礼拝とクリスマス礼拝があったために、2週開いてしまいましたが、今日も、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事からのお話を続けます。
 今日、注目したいのは、聖なる主の栄光のご臨在の御許から預言者として遣わされたイザヤに託された主の御言葉です。それは、9節、10節に記されています。そこには、

すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。
  『聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。』
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

と記されています。
 このことについてお話しするためにも、聖なる主の栄光のご臨在の御前から預言者として遣わされるようになるのに先立って、イザヤが幻の中で経験したことを、振り返ってみておきましょう。
 1節〜4節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されていますように、イザヤは幻によって、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられました。
 それによって、イザヤは、自分の罪とその汚れの現実を心に映し出されてしまいました。今日お話しすることとのかかわりで心に留めておきたいのは、イザヤは、主の聖さとの対比で自分の罪とその汚れを自覚しているということです。それが罪を自覚することの本質です。これによって、イザヤは、自分が主の聖さを冒す者であることと、それゆえに、直ちに主の御前に滅ぶべきであることを実感し、絶望の叫び声をあげました。続く5節に、

そこで、私は言った。
  「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。」

と記されているとおりです。
 これが、聖なる主の栄光のご臨在の御前におけるイザヤの現実です。この絶望の叫び声をあげた時のイザヤには、ただ絶望しかありませんでした。自分が主のあわれみに値するというような思いが、かすかにでも浮かんでくるような余地も余裕もありませんでした。
 このようなイザヤに、主は、ご自身のご臨在の御前に備えられている贖いを示してくださいました。6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 この時、イザヤは何もしていません。主が、一方的な恵みによって、セラフィムをお遣わしになって、ご自身の贖いをイザヤに当てはめ、汚れを聖めてくださいました。イザヤは、ただその贖いにあずかっているだけです。
 さらに、その贖いがイザヤに当てはめられたということは、それに先立って、罪の贖いのためのいけにえがささげられていたことを意味しています。当然、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられた時には、すでに、その贖いのいけにえは主の御前の祭壇にささげられていて、贖いが成り立っていたということになります。
 このように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられていた贖いにあずかって罪を贖われたイザヤは、主の御前に立ち続けることができるようになっただけでなく、主の贖いの御業の遂行に参与する者とされています。8節に、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されているとおりです。


 大切なことは、この幻はイザヤに示されたことですので、イザヤの個人的な経験です。しかし、この幻の中で示されたこと、すなわち、聖なる主の栄光のご臨在がどのようなものであるかということは、イザヤにとってだけ意味をもっているものではないということです。それは、主の民全体にとっての啓示としての意味をもっています。
 具体的な例を挙げますと、すべての人は、必ず聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられるようになります。イザヤは、そのことを幻のうちに経験しましたが、それが歴史の現実になる時があります。その時、イザヤが幻の中で経験した、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられた時の絶望は、イザヤだけのものではなく、造り主である神さまに罪を犯して、御前に堕落しているすべての者の現実となります。
 世の終わりになされるさばきのことを記している、黙示録20章11節〜13節には、

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

と記されています。
 ここには、その当時の黙示文学の手法で、世の終わりにおける栄光の主イエス・キリストの再臨のことが記されています。主の栄光のご臨在の御前では、

地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

と言われています。主の栄光のご臨在には、今のこの世界は耐えることができないことが示されています。それは、「神のかたち」に造られて、この世界を委ねられた人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったこととともに、この世界に虚無が入り込んできており、人間の罪のツメ跡が至る所に認められるからです。
 もちろん、これは、21章に記されています「新しい天と新しい地」の創造へとつながっていくことで、いたずらに、絶望感を駆り立てるために記されているのではありません。黙示録は、神の子どもたちにとっては希望の書です。
 これに続いて、

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。

と言われていて、すべての人が、栄光の主のご臨在の御前に立つようになることが示されています。そのために、

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。

とも言われています。

 それとともに、イザヤが幻の中で経験した、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いがまったく主の一方的な恵みによってイザヤに当てはめられて、その罪が贖われたことも、イザヤだけのことではありません。主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いは、そのように主の一方的な恵みによるものであり、私たちは、ただ、それにあずかっているだけです。
 ヨハネの福音書5章24節、25節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここに述べられていることは、

今がその時です。

と言われていることから分かりますように、今すでに歴史の中で起こっていることです。それで、私たちもこの恵みにあずかっています。ここでは、

死人が神の子の声を聞く時が来ます。

と言われています。この「死人」(複数)は、霊的に死んでいる状態にある人々のことです。霊的に死んでいる状態とは、神さまに対して死んでいる状態にあるということです。その意味で、「死人」は、自分自身の力では、神さまの御声を聞くことができません。
 その「死人が神の子の声を聞く」というのです。ここで、イエス・キリストは、ご自身のことを「神の子」と呼んでおられます。(この呼び方は、ヨハネの福音書の中ではこの他2個所に出てくるだけです。)ヨハネの福音書の冒頭の1章1節〜3節で、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と紹介されている、永遠の「ことば」なる方、すなわち、

すべてのものは、この方によって造られた。

とあかしされている方が、「死人」にご自身の御声を聞かせてくださるということです。当然、「死人が神の子の声を聞く」のは、「死人」の力によることではありません。「神の子」であられるイエス・キリストが、その御声を聞かせてくださるのです。すると、

そして、聞く者は生きるのです。

と言われていますように、「死人」は「聞く者」となり、生きるようになります。何を聞くのかといえば、それは、福音の御言葉です。このすべてのことは、「神の子」であられるイエス・キリストがなしてくださることです。
 聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたイザヤが、自分の罪とその汚れの現実を示されたときの絶望は、このイエス・キリストの言葉で言いますと、自分が「死人」であるということのありのままの姿を知ったための絶望です。イザヤは聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことによって、霊的な「死人」であるという自分の現実を知らされたのです。それは、幻の形で与えられた啓示でした。
 すでにお話ししましたように、イザヤ書6章6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されていることは、栄光の主の一方的な恵みによって、主が備えてくださった贖いにイザヤがあずかって、主の御前に生かされたということです。実際、このことは、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いによって、私たちの間で成就しています。これまで繰り返しお話ししてきたことから分かりますように、イエス・キリストは、イザヤが幻の中で見た、聖所にご臨在される栄光の主ご自身であり、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いを成就された方でもあられます。イエス・キリストは、主の栄光のご臨在の御前にある祭壇でささげられたいけにえの本体であり、主がご臨在される聖所の本体でもあります。
 私たちは、霊的に死んでいた者ですが、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いにあずかって、イエス・キリストの御声を聞く者に造り変えていただきました。それによって、福音の御言葉を聞いて、イエス・キリストを、父なる神さまがお遣わしになった贖い主として信じることができるようになりました。
 このことは、神学的には、私たちの救いの経験が新しく生まれることから始まっているということに当たります。まず、御霊が、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いを、霊的に死んでいた私たちに当てはめてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださいました。それで、私たちは福音の御言葉を聞いて理解し、イエス・キリストを贖い主として信ずることができるようになりました。
 この点はイザヤも同じです。イザヤも、まず、主が用意してくださっていた贖いにあずからせていただいて、罪を贖っていただき、汚れを聖めていただきました。それから、

  見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。

という福音の御言葉を聞いて、自分が贖われたことを信じました。そして、その信仰によって、主の栄光のご臨在の御前に生きる者となりました。

 このように、イザヤが幻の中で経験したことは、イザヤ個人の経験でありながら、その幻をとおして示されている主の一方的な恵みによって備えられている贖いは、今日の私たちにとっても意味をもっているものです。主は、イザヤを預言者としてお遣わしになるに際して、幻の中でではありましたが、このような、古い契約の枠を越えるような経験をさせてくださいました。繰り返しますが、それは、イザヤ個人だけではなく、イザヤの預言に接するすべての人に対する啓示としての意味をもっています。
 そうであれば、主の栄光のご臨在の御前から預言者として遣わされたイザヤに託されたメッセージは、当然、イザヤの経験をとおして示された贖いの恵みをあかしするものであったはずです。
 ところが、主は、イザヤに、

  行って、この民に言え。
  「聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。」
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。

と言われました。
 これは、さばきのメッセージです。とても、イザヤが幻の中で経験した、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いの恵みをあかしするものとは言えません。もちろん、預言者が、迫ってきている主のさばきのことを伝えて警告することは他にもいくらでも例があります。それで、イザヤにさばきのメッセージが託されたということ自体は、おかしなことではありません。
 それでも、一つの疑問が湧いてきます。もし、イザヤが、ユダ王国に対するさばきを宣言するために召されて、聖なる主の栄光のご臨在の御前から預言者として遣わされたのであれば(実際、そうですが)、イザヤが幻の中で経験したことはいったい何だったのだろうかということです。

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫んだイザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前にあっては、自分を含めて、ユダ王国の民はすべて絶望的な状態にあることを思い知らされました。
 しかしそれだけではなく、聖なる主の栄光のご臨在の御前には、そのような自分たちのために、主の一方的な恵みによって備えられた贖いがあることが示され、実際、イザヤはそれにあずかりました。それは、まったく主の恵みによることでした。そうであれば、その、主の栄光のご臨在の御前に備えられていた贖いは、ユダ王国の民のためにも備えられていたはずです。

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御声に応えて、

ここに、私がおります。私を遣わしてください。

と申し出た時のイザヤのうちにあったのは、聖なる主の栄光のご臨在の御前には、主の一方的な恵みによって備えられた贖いがあることを、ユダ王国の民にあかししたいという、切なる願いであったはずです。
 それなのに、イザヤに託されたメッセージがさばきの宣言であったのはどういうことでしょうか。

 もちろん、ここで主は、ユダ王国の民を福音から締め出すために、イザヤをお遣わしになったのではありません。主が、預言者をとおして、迫ってきているさばきを警告されたのも、それによって人々を悔い改めに導いて、主が備えてくださっており、福音のうちに提供されている贖いにあずからせてくださろうとしてのことです。
 また、イザヤの預言の原点は、イザヤの「召命体験」にあります。そして、イザヤの預言には、常に、この幻において経験したことが通奏低音(バッソ・コンティヌオ)のように鳴り響いています。それで、イザヤがこの幻において経験したことは、ユダ王国への預言に反映しています。
 それでは、どうして、主はイザヤに、

行って、この民に言え。
  「聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。」
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。

と言われたのでしょうか。
 それは、イザヤが、幻の中でではありましたが、古い契約の枠を越えるような経験をとおして啓示され、実際に悟った、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いを伝える福音が、ユダ王国の民にとってはつまずきの種であったからに他なりません。

  聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。

と言われているときの「聞き続けよ。」、「見続けよ。」ということは、そこで、確かにイザヤが経験して悟った福音の御言葉が語られ、生き生きとあかしされるということを示しています。主の一方的な恵みによって、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかって、罪を贖われる体験をしたイザヤという優れ預言者をとおして、ユダ王国には、福音が豊に語られるのです。
 その一方で、「だが悟るな。」、「だが知るな。」と言われていることは、イザヤが主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いを伝える福音を語れば語るほど、ユダ王国の民の心は肥え太って鈍感になり、かたくなになってしまうということを意味しています。
 どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。その理由は、これまでにお話ししてきたことから分かります。イザヤが、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いは、ただ恵みによって与えられたものであり、自分はただそれにあずかっただけであるということを理解できたのは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、自分の罪とその汚れの現実を思い知らされて、まったく絶望してしまったからです。しかし、ユダ王国の民は、自分たちが、イザヤが経験したような絶望的な状態にあることを認めません。
 ユダ王国の民には、自分たちが主の律法にしたがっているという自負がありました。確かに、主の律法の定めにしたがっていけにえをささげ、定められた集会を行なっていましたし、毎日の生活においても、律法の戒めを守っていました。それで、主は、そのようにして主にしたがっている自分たちを認めてくださるはずだと信じていたのです。
 ユダ王国の民に言わせれば、主が自分たちのことを顧みてくださるのは、自分たちが主にしたがっているからです。また、主が恵みによって自分たちの罪を赦してくださるのも、自分たちが、常日頃、主の戒めを守って生活しているからです。普段、主にしたがっているので、罪を犯してしまうときには、恵みとあわれみを示してくださって、その罪を赦してくださるというのです。
 これは、この世の宗教に共通した考え方であり、感じ方です。それは、ただ恵みによって救われると言っている、クリスチャンの間にも忍び込んでくる発想です。
 聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたイザヤには、このような発想が生まれてくる余地はまったくありませんでした。それは、イザヤが、主の聖さの現実によって自分の罪と汚れの現実を映し出されてしまったからです。これに対して、ユダ王国の民は、自分たちの回りの人々との比較や対照で、自分たちの罪や汚れを考えるだけです。それで、聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自分の罪や汚れがどのようなものであるかを悟ることができません。むしろ、不完全ではあるけれど、自分にも主に差し示す義があるという、恐るべき錯覚を生み出します。
 そのような、ユダ王国の民に対して、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前から遣わされた預言者として、自分が経験して悟った主の贖いをあかしするとどうなるでしょうか。そのあかしのために、イザヤは、どうしても、自分を含めたユダ王国の民が、聖なる主の栄光のご臨在の御前に絶望的な状態にあることを明らかにしなければなりません。けれども、そのような霊的な状態を悟ることができないユダ王国の民は、イザヤのあかしに心を閉ざすはずです。それが、

行って、この民に言え。
  「聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。」
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。

という、イザヤに託された預言の言葉となっています。

 このイザヤに託された預言は、イエス・キリストの血による新しい契約の下にある、私たちにも当てはまる警告です。というのは、私たちクリスチャンにも、自分たちの回りの人々との比較や対照で、自分たちの罪や汚れを考える傾向がありますし、自分にもよいところがあるので、主が顧みてくださると感じる傾向があるからです。
 私たちは、イザヤがその「召命体験」において経験した贖いの本体である御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いにあずかっています。私たちがそれにあずかるようになったのは、イザヤの経験が示していますように、ただ主の一方的な恵みによっています。私たちは、そのことを心に銘記して、どのような場合にも、その贖いの恵みに信頼したいと思います。

 


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