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説教日:2001年12月9日 |
主がともにいてくださることは、主の契約に基づくことであり、主の契約の祝福の中心です。そのことをあかしするために、主は、地上的な「ひな型」、「視聴覚教材」として、イスラエルの民を、ご自身の契約の民としてお選びになりました。それによって、主がイスラエルの民との間に結んでくださった契約は、古い契約と呼ばれます。このようにして、古い契約のもとでは、聖所はイスラエルの民に与えられましたし、聖なる主の栄光のご臨在は、イスラエルの民の間にありました。主の聖所と主のご臨在はイスラエルの民の間に限られていました。その意味では、主の栄光のご臨在がともにあるということは特別なことでした。 しかし、聖なる主の栄光のご臨在の御前にあって生きることは、人間にとっては本来の在り方です。それは特別な人々にだけ許された特権ではなく、すべての人の本来の在り方なのです。天地創造の初めに、神さまは人をご自身のかたちにお造りになって、ご自身との交わりのうちに生きるものとしてくださいました。人は、初めから、「神のかたち」の栄光を帯びているものとして造られており、聖なる主の栄光のご臨在の御前にあって、主との交わりに生きるものとして造られています。そのように、造り主である神さまとの交わりに生きることが「神のかたち」に造られている人間のいのちの本質です。 最初に造られたときの人間は、エデンの園という神である主のご臨在のある場所に住むことが許されていました。そして、なんの妨げもなく、そこにご臨在される主のとの交わりのうちに生きていました。エデンの園は、主のご臨在のある所として聖別されており、聖所に当たる所でした。その意味で、主のご臨在のある聖所に住まうことは、「神のかたち」に造られている人間の本来のあり方であるのです。当然のことですが、それは今日においても変わっていません。 詩篇27篇4節には、 私は一つのことを主に願った。 私はそれを求めている。 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。 主の麗しさを仰ぎ見、 その宮で、思いにふける、そのために。 と記されています。また、84篇4節では、 なんと幸いなことでしょう。 あなたの家に住む人たちは。 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 と記されています。 その一方で、「神のかたち」に造られている人間にとって、聖なる主の栄光のご臨在の御前から退けられることは、さばきと死を意味しています。 最初の人であるアダムとエバが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、その罪に対するさばきが宣告されるとともに、二人は、神である主の栄光のご臨在の御前から追放されてしまいました。エデンの園からの追放は、この世の目には楽園からの追放と見えますが、本当は、主の栄光のご臨在の御前からの追放です。それは、神である主のさばきによって、造り主である神さまとのいのちの交わりを失うことであり、「神のかたち」に造られている人間にとっては死と滅びを意味しています。 詩篇73篇27節、28節には、 それゆえ、見よ。 あなたから遠く離れている者は滅びます。 あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。 しかし私にとっては、 神の近くにいることが、しあわせなのです。 私は、神なる主を私の避け所とし、 あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。 と記されています。 また、終わりの日のさばきのことを記しているマタイの福音書25章34節には、救いにあずかっている人々に対するイエス・キリストの言葉が、 さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 と記されています。初めに語られた「さあ」と訳された言葉(デューテ)は、「来なさい」という意味の言葉です。これは、単に「さあ」という以上の意味があると考えられます。というのは、この言葉は、41節に記されています、 のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 という、イエス・キリストのさばきの言葉に用いられている、「わたしから離れて行け」という言葉と対比されていると考えられるからです。ギリシャ語原文では、この「わたしから離れて行け」という言葉も、34節の「来なさい」と同じように最初に出てきます。 救いといのちの本質は、聖なる主の栄光のご臨在の御前にあることにあり、さばきと死の本質は、聖なる主の栄光のご臨在の御前から退けられることにあります。 地上の幕屋や神殿にあった聖所は、造り主である神さまのご臨在の御前において、神さまとの交わりのうちに生きることが、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿であることを踏まえて与えられました。 けれども、幕屋や神殿の聖所はケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。そのケルビムは、そこに聖なる主の栄光のご臨在があることを表示すると同時に、主のご臨在の聖さを守っていました。罪のある者が聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づいて、その聖さを冒すようなことがあれば、直ちにそのような者を聖絶してしまいます。 このことは、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の、神さまと人間の関係を示しています。以前お話ししたことがありますが、幕屋や神殿の聖所がケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていたことは、創世記3章24節に、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と記されていることが、その時以来ずっと続いていることを表わしている、地上の「ひな型」、「視聴覚教材」です。 神さまは、エデンの園を破壊されませんでしたし、「いのちの木への道」も残してくださいました。エデンの園や「いのちの木への道」を破壊しないで、 いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた のです。 「いのちの木」から取って食べることは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、主とのいのちの交わりにあずかることを表わす聖礼典のようなものであると考えられます。 神である主が、そのような意味をもった「いのちの木への道」を残してくださったことから、主が、「神のかたち」に造られている人間がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、人間が住んでいるこの世界にご臨在してくださることが分かります。そして、人間がご自身のご臨在の御前に近づいて、ご自身とのいのちの交わりの中に生きるようになることを願っておられることも分かります。 しかし、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間が、神である主のご臨在の御前に近づくなら、主の聖さを冒すことになります。それによって、人間は、さばきを受けて、御前に聖絶されてしまうことになります。主はそのことをあかしするために、そして、主の聖さを冒すものに対するさばきを執行するために、「いのちの木への道」の入口にケルビムを置かれました。 神である主はエデンの園と「いのちの木への道」を残してくださいましたが、人間は、その道を通って主のご臨在の御前に近づくことができませんでした。 神である主は、このような措置をお取りになる前に、このことにかかわる問題の解決を示してくださっています。それは「最初の福音」と呼ばれる、創世記3章14節、15節に、 神である主は蛇に仰せられた。 「おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 おまえは、一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならない。 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。」 と記されている、贖い主と主の民の救いの約束です。 これがどうして贖い主と主の民の救いを約束する「最初の福音」であるかということにつきましては、これまで、いろいろな機会にお話ししてきました。 これは、人を罪に誘った「蛇」の背後にあるサタンに対するさばきの宣言の言葉です。主はサタンに対するさばきを執行されるのですが、そのさばきが「女の子孫」と呼ばれている主の民をとおして執行されるということを示してくださっています。それは、まず、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 という言葉に示されているように、罪によってサタンと結びついてしまった「女の子孫」を、サタンに敵対して立つ者としてくださることから始まります。これによって、「女の子孫」は、サタンに敵対して、主の側に立つようになります。それは、「女の子孫」の救いを意味しています。ですから、「女の子孫」と呼ばれている主の民の救いは、霊的な戦いの中で実現するのです。 この「女の子孫」は単数ですが、集合名詞として、主の契約の民を表わしています。それともに、「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後にあるサタンは一つの人格で、「おまえの子孫」のかしらです。そのこととの対比で考えますと、「女の子孫」にもかしらがあると考えられます。それが、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われているときの、「おまえ」と対比されている「彼」です。この「女の子孫」のかしらが、贖い主であるということになります。 この贖い主と主の契約の民の救いの約束があるので、神さまがエデンの園を破壊されないで、「いのちの木への道」を残してくださったことが、人間にとって意味のあることになりました。神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったために、そのご臨在の御前から追放されて、神さまとの交わりにあるいのちを失ってしまった人間にも、再び「いのちの木への道」を通って聖なる主の栄光のご臨在の御前に帰ることができるという希望が生まれたのです。 古い契約のもとにあった幕屋や神殿の聖所は、これらのことをすべて受け継ぎながら、そのことをあかしする地上の「ひな型」であり「視聴覚教材」でした。 古い契約のもとにあった幕屋や神殿の聖所が、人類の堕落の直後に贖い主と主の契約の民の救いの約束が与えられたことと、それに呼応して、エデンの園と「いのちの木への道」が残されたことにつながっていることを見据えておくことは、とても大切なことです。 贖い主と主の契約の民の救いの約束は、神である主に罪を犯して御前に堕落してしまった人間には、まったく予期しない形で与えられました。それは、神である主の一方的な恵みによって与えられたものです。また、エデンの園と「いのちの木への道」が残されたことも、神である主の一方的な恵みによって備えられたことです。 そればかりではありません。そもそも、天地創造の初めに、人が「神のかたち」に造られたことも、神さまの一方的な恵みによることです。そして、造り主である神さまとのいのちの交わりの中に生きるようにと、エデンの園に置かれたことも、そのエデンの園に神である主がご臨在してくださったことも、神さまの一方的な恵みによることです。そして、このいのちの交わりを回復してくださるために、贖い主と主の契約の民の救いの約束を与えてくださったことも、神さまの一方的な恵みによることです。本当に、何から何まで、神さまの一方的な恵みによって備えられたことです。 古い契約のもとにあったイスラエルの民は、このことをしっかりと心に焼き付けて、このことを背景として、自分たちの間に与えられた幕屋や神殿の聖所を理解すべきであったのです。それは、神である主がご自身の契約の民をご自身のご臨在の御前に立たせてくださるために備えてくださっているすべてのものが、主の一方的な恵みによって備えられていることをあかししています。 そうであれば、祭司たちが幕屋や神殿の聖所で仕えるために、毎日、朝と夕方に一頭ずつささげた「若い雄羊」や、イスラエルの民が時に応じてささげたいけにえは、すべて、主が一方的な恵みによって備えてくださっている贖いをあかしするものであることが理解できたはずです。また、それらのいけにえをささげることは、主が一方的な恵みによって備えてくださっている贖いを信じることから出ていることも理解できたはずです。さらに、それらのいけにえがいけにえとしての意味をもつようになるのも、そして、それゆえに、いけにえとして主に受け入れていただけるのも、主の恵みによることが理解できたはずです。 けれども、すでにお話しましたように、イスラエルの民は、そのように見ることを忘れてしまいました。預言者イザヤの時代には、エルサレムの神殿においては、多くの動物のいけにえがささげられました。集会などの行事も盛んに行われました。しかし、それは、主にとっては堪え難いものに変質してしまっておりました。イザヤ書1章13節、14節に、 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。 香の煙 新月の祭りと安息日 不義と、きよめの集会、 これにわたしは耐えられない。 あなたがたの新月の祭りや例祭を、 わたしの心は憎む。 それはわたしの重荷となり、 わたしは負うのに疲れ果てた。 と記されているとおりです。 半世紀にわたるウジヤ王の治世の繁栄と安定を享受したユダ王国の民は、自分たちが主の一方的な恵みにより頼むだけの者であることを認めて主の御前にへりくだることはありませんでした。むしろ、自分たちが、主が必要としているいけにえを備え、自分たちが主のために集会を催し、自分たちが主のために奉仕をしているというような発想の中で、多くのいけにえがささげられ、盛んな集会が行なわれました。そのような発想は、神と人間の区別を曖昧にするこの世の宗教的な発想であって、主の聖さを冒すものです。そのような発想は、先ほどお話しました、「最初の福音」からは、決して生まれてきません。 これに対しまして、イザヤはどうだったでしょうか。イザヤは、幻の中でのことではありましたが、いけにえの動物をささげる間もなく、突然のように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせらました。主の栄光のご臨在の様子を記している1節〜4節には、 そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 聖なる主の栄光のご臨在に接したイザヤは、自分の罪とその汚れを心に映し出されてしまいます。そして、自分の滅びを直感して、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫びました。イザヤが直感したのは、先ほどお話したことに照らして言いますと、聖絶によって、主の御前から完全に遠ざけられてしまうという滅びであるはずです。 しかし、そのイザヤは、6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されていますように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いによって、罪を贖われたことを告げられます。それは、イザヤにとっては、まったく、主の恵みによることでした。これによって、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ち続けることができるようになりました。これは、「最初の福音」があかししている神である主の一方的な恵みによる贖いにつながるものです。 そればかりではありません。8節には、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されています。 イザヤは、 だれが、われわれのために行くだろう。 という主の御声に応えて、 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 と応答しました。自分が主の側に立たせられていることと、主のために遣わされようとしていることを、はっきりと自覚しています。これを、先ほどお話しました「女の子孫」と呼ばれている主の契約の民の救いとの関連で考えますと、イザヤはまさに、主の救いとさばきの御業に参与するものとして、主の側に立つものとされています。 言い換えますと、イザヤは、人類の堕落の直後に与えられた「最初の福音」において約束されていた「女の子孫」の贖いを経験しているのです。そうであるとしますと、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられるようになるのに先立って、主のご臨在の御前の祭壇において備えられていた贖いは、「女の子孫」のかしらである方によって成し遂げられたものであるはずです。すでにお話ししましたように、やがて、イザヤは、その「女の子孫」のかしらである方は、自分が幻の中で見た栄光の主ご自身であることを預言的にあかしするようになります。 さらには、「女の子孫」である主の民の救いは霊的な戦いの中で実現するということが、イザヤに託された預言活動の厳しい現実に反映しています。9節、10節には、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 と記されています。敵である霊的な存在の巧妙な働きのために、イスラエルの民の心は惑わされ、この世の宗教の発想の中に閉じ込められてしまい、イザヤが伝える預言の言葉は、受け入れられません。 これらのことから、イザヤが幻の中で経験していることは、地上的な「ひな型」、「視聴覚教材」としての地上の幕屋や神殿の聖所の背後にある、「最初の福音」において示された神である主の一方的な恵みにつながるものがあることが分かります。ということは、イザヤが、突然のように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたということは、あの、「いのちの木への道」を通って、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つ経験をしたということを意味しています。 繰り返しになりますが、イザヤはこのことを幻の中で経験しました。しかし、それは私たちにとっては、「女の子孫」のかしらとして来られた御子イエス・キリストのお働きによって現実のこととなっています。 ヨハネの福音書14章6節には、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 というイエス・キリストの言葉が記されています。私たちは、「道であり、真理であり、いのち」である方を通って、聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づき、父なる神さまを礼拝しています。 |
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