(第62回)


説教日:2001年12月2日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事からお話しします。
 ここに記されている、イザヤが見た幻は、その全体が、主がイザヤに示してくださった啓示です。1節〜4節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
と記されている、聖なる主の栄光のご臨在が啓示であるだけではありません。続く、5節に、

そこで、私は言った。
  「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。」

と記されています、聖なる主のご臨在の御前に立たされたイザヤが、どのように応答したかということも、すべて、主のイザヤに対する啓示です。もちろん、そのイザヤの応答はイザヤから出たもので、イザヤ自身のものですが、御霊のお導きのもとでなされた応答です。
 先々週と先週は、イザヤが見た幻が、主がイザヤに示してくださった啓示であるということを踏まえて、この幻をとおして啓示されていることを、もう一つの形で主の栄光のご臨在を啓示している、エルサレムにある神殿の聖所と、そこでささげられるいけにえの制度と比較してお話ししました。まず、そのことを簡単に復習しておきましょう。
 エルサレムの神殿においては、そこで仕えるために聖別されている祭司が、毎日、聖所に入って礼拝します。その際に、出エジプト記29章38節、39節に、

祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。

と記されていますように、朝と夕に「一歳の若い雄羊」を一頭ずつ、全焼のいけにえとしてささげました。それは、おそらく、一日の務めが始まる前と、その日が終わる日没の時のことであると考えられます。41節では、

それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。

と言われています。そして、42節、43節には、

これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。

と記されていて、この全焼のいけにえがささげられることとの関係で主のご臨在のことが語られています。この全焼のいけにえがささげられるのは、そこに聖なる主の栄光のご臨在があるからですし、聖なる主の栄光のご臨在は、その全焼のいけにえがささげられる所にあるということです。
 また、聖所の奥にある至聖所には、年に一度の大贖罪の日に、大祭司が入ることが許されているだけでした。その際にも、レビ記16章11節に記されていますように、大祭司は、まず、「自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いを」しなければなりませんでした。大祭司は、雄牛の血を携えて至聖所に入り、14節に記されていますように、

雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかけ

ました。そして、その上で、15節、16節に、

民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを「贖いのふた」の上と「贖いのふた」の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。

と記されていますように、民のための贖いをしました。
 このように、主の聖所に入って主を礼拝するためには、主によって指定されているいけにえをささげて罪の贖いをしてからでなければなりません。しかし、イザヤが見た幻においては、イザヤは、突然のように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられてしまいました。イザヤとしては、なんの準備もないままに、聖なる主の栄光のご臨在のある至聖所の中に入れられてしまったということになります。この「異常さ」をどのように考えたらいいのでしょうか。
 先々週お話ししましたように、イザヤの見た幻においては、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立った時には、すでに、イザヤのための罪の贖いはなされていたと考えられます。エルサレムの神殿の聖所において主に仕えていた祭司たちが、自分たちの務めを始めるに当たってささげたいけにえに当たるものは、すでに、イザヤのためにささげられていたのです。イザヤ書6章6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されていることは、すでに主のご臨在の御前の祭壇において成し遂げられている贖いを、イザヤに当てはめてくださったものであると考えられます。


 イザヤが見た幻の中で起こっていることには、もう一つ「異常なこと」があります。
 すでにお話ししましたように、イザヤは、なんの準備をする間もなく、突然、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられてしまいました。それは、主の神殿のいちばん奥の至聖所に入れられたということを意味しています。このことでの問題は、エルサレムにある神殿の聖所とそこでなされているいけにえの制度をとおして示された啓示によりますと、主の聖所に入って仕えるべき者は、そのために聖別された祭司でした。しかも、聖所の奥の至聖所に入るのは大祭司だけでした。それなのに、イザヤの見た幻では、大祭司ではないどころか、祭司でもないイザヤが、聖なる主の栄光のご臨在のある至聖所に入れられたということです。
 この問題の深さを考えるために、エルサレムにある神殿の聖所において仕えるようになるために聖別された祭司の任職式のことを見てみましょう。祭司たちが主の聖所に入って、主に仕えるようになるためには、徹底的な聖別による任職の儀式をもって任職されなければなりませんでした。
 祭司の任職にかかわる規定は出エジプト記29章に記されています。そして、それが実行に移されたことは、レビ記8章に記されています。この二つの個所に詳しい記述があることは、それだけ、祭司の任職が大切なことであることを意味しています。祭司を聖別して任職することは、聖所にご臨在される主の聖なることを表わすことでした。
 出エジプト記29章に記されているのは最初の大祭司であるアロンとその子らである祭司の任職の規定ですが、後の祭司の任職もこれにしたがってなされたと考えられます。最初の任職式は、まだ大祭司がいませんでしたから、王、祭司、預言者としての職務を合わせもっている古い契約の仲保者であるモーセによって執行されました。
 任職式は、何段階かに分かれている手順を踏んでなされました。それを、出エジプト記29章に記されている規定にしたがって、簡単にまとめてみましょう。
 まず、「若い雄牛一頭」と「傷のない雄羊二頭」、そして、「種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい」を用意します。
 そして、大祭司アロンとその子らである祭司たちを、会見の天幕の入口の所で、水で洗います。これが最初の聖めの儀式です。次いで、そのようにして聖められたアロンに大祭司の装束を着せ、その頭に油を注ぎます。さらに、祭司たちにも祭司の装束を着せます。この場合、アロンだけが代表的に油を注がれたと考えられます。
 続いて、初めに用意した「若い雄牛」を取り、アロンとその子らはその頭に手を置いて、会見の天幕の入口でほふります。そして、これを罪のためのいけにえとして、ほぼ、罪のためのいけにえをささげるために定められた手順に従って主にささげます。これによって、アロンとその子らのための罪の贖いと聖めがなされます。
 続いて、前もって用意した「傷のない雄羊二頭」のうちの一頭を取り、アロンとその子らはその頭に手を置いて、会見の天幕の入口でほふります。そして、これを全焼のいけにえとして、全焼のいけにえをささげるために定められた手順に従って主にささげます。これによって、アロンとその子らの贖いと、まったき献身が象徴的に示されます。
 これら二つのいけにえがささげられた後に、「傷のない雄羊二頭」のうちのもう一頭の方を取ります。これが「任職の雄羊」と呼ばれます。その意味では、この前の二つのいけにえは、任職のための準備のような意味をもっています。
 やはり、アロンとその子らは、その「任職の雄羊」の頭に手を置いてほふります。そして、これは、和解のいけにえとしてささげられます。
 その際に、通常の和解のいけにえをささげることとは違って、その「任職の雄羊」の血をアロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶと右の手の親指と右の足の親指に塗ります。このことが実行されたことを記すレビ記8章23節には、この血が、アロンの右の手の親指と右の足の親指にも塗られたことが記されています。
 この場合、より重要であると考えられている右側の耳と手と足の親指が用いられています。それは、「より重要な部分が全体を代表する」という原則にしたがって、耳と手と足を代表しています。そして主の御言葉に耳を傾けることによって、その手のわざが聖められ、聖く歩むようになることが示されていると考えられています。これが耳の聖別から始まっていることに注目すべきです。まずは、御言葉に聞いて、それに従うことが聖くあることの本質です。
 さらに、その血と注ぎの油を、アロンとその子らと、その装束に振りかけてそれを聖めます。
 このことによって、アロンとその子らは祭司職に就く者として聖別されます。それで、このことも、祭司の任職の時にだけなされるものです。
 これらの後に、ほぼ、和解のいけにえの手順に従って、そのいけにえを料理して食べます。この時に、「アロンとその子らがイスラエル人から受け取る永遠の分け前」が定められました。32節、33節には、

アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。

と記されています。
 これは、主が、祭司の務めに就く者として聖別されたアロンとその子らを受け入れてくださり、ご自身との親しい交わりの中に入れてくださって、常にその中で生きるように養ってくださることを示しています。
 これらのことが行なわれた後で、さらに七日間任職式を行います。35節、36節には、

あなたが、わたしの命じたすべてのことをそのとおりに、アロンとその子らに行なったなら、七日間、任職式を行なわなければならない。毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。

と記されています。
 これは、祭司の任職が、徹底的な聖めによる聖別によってなされるということを示しています。
 このように、主の聖所に入って主の御前で仕えるようになるために召された祭司は、徹底的な聖別によって、祭司に任職されています。中でも、大祭司は、より一層の聖別を経て任職されて、その務めに就いていました。
 このことを考慮しますと、ウジヤ王の罪がどれほどの重みを持っていたかが分かるような気がします。
 すでにお話ししましたように、半世紀にわたるユダ王国の繁栄と安定の時代を築いたウジヤ王は、その晩年に主の御前に高ぶって、祭司でもないのに、自らが主の御前に香を焚こうとして、主の聖所にはいりました。そのようにして、主の聖さを冒したために、主は、ウジヤを汚れた病とされているツァーラアス病をもって打たれました。歴代誌第二・26章18節には、ウジヤをいさめた祭司たちの、

ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。

という言葉が記されています。
 この祭司たちの言葉は、祭司の領域を侵されたというような「なわばり意識」から出たものではありません。祭司の任職の際の徹底的な聖別の重みを受け止めていたからこその言葉であると考えられます。
 これらのことに照らして見ますと、大祭司ではないばかりか、祭司でもないイザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったことによって、主の聖さが冒されてしまったと言うほかはありません。また、そのことを誰よりも深く感じたのは、他でもない、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫んだ、イザヤ自身でした。
 そうしますと、この点でも、この幻がイザヤの勝手な想像から出たのではなく、主からの啓示であるということの意味が問われることになります。先ほどお話ししました出エジプト記29章に記されている祭司の任職の規定をお示しになった主が、祭司でもないイザヤを、ご自身の栄光がご臨在される聖所の中にお入れになったということは、ご自身の定められた規定を破ることではないのかということです。あるいは、それでは、あの祭司の任職のための規定は、いったい何だったのか、というような疑問が湧いてきます。
 これに対して、私たちは、出エジプト記29章に記されている祭司の任職の規定の厳しさをしっかり心に留めておく必要があると思います。聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って、主に仕える祭司は、主の聖さを表わしあかしする者として、徹底的な聖別によって任職される必要があるのです。その点は、どのような場合にも、決して曲げられることがあってはなりません。
 そうしますと、イザヤの場合をどのように考えたらいいのでしょうか。
 これにつきましては、皆さんも、これまでお話ししてきたことから、お察しのことと思います。
 イザヤは、祭司の任職が徹底的な聖別によってなされることを知っていました。また、ウジヤ王の業績を初めから終わりまで記したのもイザヤでしたから、ウジヤが主のみこころに従って繁栄と安定の時代を築いたことも、そのような王であっても、主の戒めを踏み越えて、主の聖所に入ってはならなかったこともよく知っていたはずです。
 しかし、そのイザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられて、自分が滅びなければならないことを実感して、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と絶望の叫びを叫んだときに、その罪が贖われたことを告げられました。
 主の啓示と御業に矛盾がないことからしますと、考えられることはただ一つです。
 主がイザヤをご自身の栄光のご臨在の御前に立たせられたときに、すでに、イザヤのための贖いを備えていてくださっていました。それは、ご自身の栄光のご臨在の御前にあった祭壇においてささげられたいけにえによって成し遂げられていた贖いでした。その贖いをもたらしたいけにえは、エルサレムの神殿の聖所で仕える祭司の任職に際して用意された「若い雄牛一頭」と「傷のない雄羊二頭」を足したいけにえにまさり、さらに、その後に、七日間にわたってささげられた七頭の「雄牛」をも加えたいけにえにもまさるいけにえだったということです。
 すでにお話ししましたように、イザヤはこの後、このいけにえの本体を預言的にあかしするようになります。それは、52章13節〜53章12節に記されている「主のしもべ」であり、この方の苦難と死をとおして実現する贖いです。そして、そこに預言的にあかしされている、ご自身の民のためにご自身のいのちを注ぎ出して、贖いを成し遂げてくださる方こそ、6章1節で、イザヤが、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とあかししている栄光の主ご自身でした。言うまでもなく、その栄光の主であり、苦難のしもべであられる方は、十字架にかかって死んでくださって、私たちのための贖いを成し遂げてくださった、主イエス・キリストです。
 このように見ますと、イザヤが幻の中で示された聖なる主の栄光のご臨在のある聖所は、エルサレムの神殿の聖所ではなく、その「本体」だったということが見えてきます。それは、やがて来たるべき栄光の主ご自身がお受けになるであろう苦難と死をとおして成し遂げられる贖いによって、罪を贖われた者たちが入るようになる「まことの聖所」であったのです。
 ヘブル人への手紙8章1節〜5節には、

私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。

と記されています。
 地上のエルサレムにある神殿の聖所に入るのは、動物の血によってくりかえし聖められることをとおして任職された大祭司と祭司たちでなければなりません。すべては、地上のひな型、模型のための規定によってきちんと定められていました。それで、ここでは、血肉のつながりではアロンの子ではなかったイエス・キリストも、地上の神殿の聖所で仕える祭司とはなられなかったと言われています。当然、また、実際に、イエス・キリストは、地上の神殿の聖所にはお入りになりませんでした。それと同じように、祭司ではなかったイザヤは、地上の神殿の聖所に入ってはならなかったのです。ですから、イザヤは、あの幻において、地上の神殿の聖所に導き入れられたのではありません。
 ここでは、イエス・キリストは「人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方」であると言われています。イザヤは、この「真実の幕屋である聖所」に導き入れられたのです。
 ただし、イザヤは、幻の中でそれを経験しただけでした。そして、その聖所に入るためにささげられる栄光の主ご自身の苦難と死によるいけにえのことは、預言的に語っているだけです。私たちは、そのすべてが御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いによって成就していることを知っています。そして、信仰によって、それにあずかっています。ヘブル人への手紙9章24節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と記されています。そして、10章19節〜22節では、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と勧められています。
 黙示録5章9節、10節には、天の礼拝における「ほふられたと見える小羊」への讃美が記されています。そこでは、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と告白されています。ここに告白されているように、私たちは、御子イエス・キリストの血によって贖われた祭司です。そして、私たちの大祭司は、天にあるまことの聖所に入られた栄光のキリストです。
 このことを考える際に、私たちは、地上の聖所で仕えた祭司たちの任職の厳しさを思い起こすべきです。それは、徹底的な聖別をとおしてなされました。
 それと比較して、私たちが御子イエス・キリストの血による罪の贖いと聖めによって、祭司とされているということは、どのように考えられるでしょうか。地上の聖所で仕えた祭司の任職のためには「若い雄牛一頭」と「傷のない雄羊二頭」、そして、七頭の「雄牛」がいけにえとしてささげられました。私たちが新しい契約のもとで祭司となるためには、そのようなものをささげることはありませんでした。しかし、それは、決して、祭司として任職されるための規定がゆるくなったということではありません。
 私たちは、それ以上のいけにえの血によって、徹底的に罪と汚れを聖められて、新しい契約のもとでの祭司とされています。動物の血を際限なく流したとしても、御子イエス・キリストの血による罪の贖いに相当する贖いを実現することはできません。ですから、御子イエス・キリストの血による贖いにあずかっている私たちは、地上の聖所で仕える祭司のためになされた、あの徹底的と見える聖別にはるかにまさる聖別、より徹底していて完全な聖めにあずかって祭司とされているのです。

 


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