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説教日:2001年11月25日 |
今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている、預言者イザヤの「召命体験」の記事からお話しします。 聖なる主の栄光のご臨在を記す1節〜4節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 聖なる主の栄光のご臨在は、イザヤが預言者として活動していたユダ王国の中心であるエルサレムにある、主の神殿の聖所においても示されていました。主の聖所は、出エジプト記25章8節、9節の、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 という主の御言葉に従って造られたものです。 続く10節以下に記されているように、まず、主の栄光のご臨在がご自身の契約に基づくものであることを示すものとして、聖所の奥の至聖所に契約の箱を置き、その中に契約文書である十戒を記した石の板を納めました。そして、契約の箱の上蓋である「贖いのふた」をかぶせました。「贖いのふた」の両端には、翼を広げたケルビムが、「贖いのふた」と一体となるように作られていました。22節には、 わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。 と記されています。 この約束にしたがって、主は、至聖所に置かれた契約の箱の上のケルビムの間にご臨在してくださいました。 ヘブル人への手紙9章6節、7節には、 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 と記されています。 主の栄光のご臨在の御前で仕えるように聖別された祭司たちは、「前の幕屋」と呼ばれている聖所において、主に仕えていました。それも、聖所の入口にある祭壇で動物のいけにえをささげて、罪の贖いをしてからのことでした。出エジプト記29章38節〜43節に、 祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。 と記されているとおりです。 そして、「第二の幕屋」と呼ばれている至聖所には、「大祭司だけが年に一度だけはいります」。しかも、「そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません」。それは、年に一度の大贖罪の日のために用意された、特別ないけにえの血です。レビ記16章11節〜16節に、 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の「贖いのふた」をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかけなければならない。アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを「贖いのふた」の上と「贖いのふた」の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。 と記されているとおりです。 このように、聖所といけにえの制度をとおして、主は、ご自身がご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在しておられることを示してくださっています。さらに、イスラエルの民の罪のために、聖所にご臨在される主とイスラエルの民の間が仕切られているということが示されています。そして、聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づいて主を礼拝し、主に仕えるためには、民の罪の贖いがなされていなければならないことが啓示されています。 主は、エルサレムの神殿の聖所といけにえの制度をとおして、聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づく道筋を啓示してくださっています。ところが、同じ主の啓示であるイザヤの見た幻においては、イザヤはなんの準備もなく、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられています。これは、いわば、「大祭司だけが年に一度だけはいります」と言われている至聖所に、祭司でもないイザヤが入れられてしまったということです。しかも、罪の贖いのために規定されている手続きも経ないままです。 先週は、いくつかの理由によって、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立った時には、すでに、イザヤのための罪の贖いはなされていたと考えられる、ということをお話ししました。 イザヤは、すでに主が成し遂げてくださっていた贖いに包まれていたので、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立っても直ちに聖絶されることはありませんでした。けれども、イザヤのための罪の贖いがすでになされていることは、イザヤにはまだ知らされてはいませんでした。それで、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときに、自分の罪とその汚れを心の中に映し出されてしまい、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という絶望の叫びを叫びました。 これに続いて、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されているように、主はイザヤのためにセラフィムをお遣わしになって、イザヤの罪が贖われたことを伝えてくださいました。先週お話ししましたように、これは、聖なる主の栄光のご臨在の御前にすでに用意されていた贖いが、イザヤに適用されたということです。 これらのことから、さらに、いくつかのことを考えてみたいと思います。 まず注目したいのは、主がイザヤに示してくださった啓示の順序です。主はまず、聖なる主の栄光のご臨在の御前におけるイザヤの現実を示してくださいました。そして、その後で、ご自身のご臨在の御許に備えてくださっている贖いをイザヤに当てはめる形で示してくださいました。 罪の本質は、それが、栄光の主の無限、永遠、不変の聖さを汚すものであることにあります。イザヤは、自分の罪とその汚れが主の無限、永遠、不変の聖さを汚しているので、自分は直ちに聖絶されて滅びなければならない者であるという現実を示されました。そして、自分の罪と汚れがあまりにも深かったために、絶望するほかありませんでした。 そこから生み出された、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という叫びは、私たちの成人洗礼式や信仰告白式においてなされる誓約の中で、 あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神のあわれみによらなければ、望みのないことを認めますか。 という問いかけに、「はい」と答えることに当たります。イザヤにとって、これは型どおりのことではなく、自分の罪と汚れの絶望的な深さに圧倒されてしまっています。 そのように、自分の罪と汚れの絶望的な深さに圧倒されてしまったからこそ、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられていた贖いを、自分のためのものとして、しかも、現実的なものとして受け止めることができたのだと考えられます。それで、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に踏みとどまって、 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。 という主の御声に応えて、 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 と言って志願したのであると考えられます。 聖なる主の栄光のご臨在の御前におけるイザヤの、この大胆さは、主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いの確かさに基づいていますが、イザヤがその確かさを確信していなくては生まれてきません。イザヤがその確かさを確信するようになるためには、自分の罪と汚れの絶望的な深さを自覚しなければなりませんでした。そして、その自覚は、主が啓示してくださっている主の聖さに触れるところから生まれてきます。 イザヤの、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 という絶望の叫びと、セラフィムの、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 という讃美は、まったくかけ離れたものです。一方は、聖なる主の栄光のご臨在の御前における滅びを実感しての絶望の叫びであり、他方は、いのちにある充足から生み出された讃美です。しかし、そこには共通性もあります。それは、どちらも、主の聖なる栄光に触れたことによって、自分たちのうちから生み出されたものであるということです。 このように、イザヤが主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いの確かさを確信するようになるためには、自分の罪と汚れの絶望的な深さを自覚しなければなりませんでした。このことは、私たちにも当てはまります。 私たちの罪とその汚れは、主の無限、永遠、不変の聖さを汚すものです。それで、それに対するさばきは永遠の滅びです。またそうであるからこそ、私たちを永遠の滅びから救ってくださるためには、永遠の神の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが必要であるのです。 私たちは、自分自身のうちにある罪と汚れが主の無限、永遠、不変の聖さを汚しており、自分が主の御前において絶望的な状態にあることを自覚していなければ、主が備えてくださっている贖いを現実のこととして受け取ることはできません。そのことを自覚していなければ、私たちは、イエス・キリストの十字架の「傍観者」になってしまいます。イエス・キリストの十字架は、他ならぬ私のためであり、私がイエス・キリストを十字架につけたということは分からなくなります。そのようなときには、イエス・キリストの十字架は、私たちにとって、一種の「保険」のようなものになってしまいます。自分はイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いがなければ絶望的な状態にあるというようには思えないけれど、どの道イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださったというのだから、それを信じておけば大丈夫だろうというような「保険」です。 このような考え方を生み出すものは、主の御前の高ぶりです。主の御前の高ぶりは、現われる形はさまざまですが、ユダ王国の民の間にも見られたものです。ここでは、その根底にあったことをお話ししたいと思います。 エルサレムにある神殿の聖所においては、祭司たちが、聖所に入って主に仕えるに当たって、聖所の入口にある祭壇において、毎日、朝と夕に、動物のいけにえをささげました。これは、主によって定められた制度として確立していた手順にしたがってのことでした。 このいけにえの制度は、人が、祭司として、主のご臨在の御前に立って主に仕えるようになるためには、まず、自分の罪が贖われていなければならないということを示すのに適していました。私たちすべては、御子イエス・キリストの血によって確立されている新しい契約のもとにある祭司です。しかし、このいけにえの制度には問題もありました。もちろん、それはいけにえの制度そのものの問題ではなく、それを運用するイスラエルの民の側の問題です。 主の祭壇においてささげられるいけにえの動物を用意するのは、イスラエルの民でした。また、実際に、そのために定められた手順を踏んで、いけにえの動物を焼いたり、さまざまな処理をするのは祭司たちでした。それで、そこには、誤った考え方が生まれてくる余地がありました。そして、実際に、誤った考え方がイスラエルの民の間に生まれてきていました。それは、主の御前にささげられるいけにえは、自分たちが用意したものであり、それをささげているのは自分たちであるという考え方です。これは、みな自分たちがしていることであるという考え方です。 詩篇50篇7節〜13節には、 聞け。わが民よ。わたしは語ろう。 イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。 わたしは神、あなたの神である。 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。 あなたの全焼のいけにえは、 いつも、わたしの前にある。 わたしは、あなたの家から、 若い雄牛を取り上げはしない。 あなたの囲いから、雄やぎをも。 森のすべての獣は、わたしのもの、 千の丘の家畜らも。 わたしは、山の鳥も残らず知っている。 野に群がるものもわたしのものだ。 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。 世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。 わたしが雄牛の肉を食べ、 雄やぎの血を飲むだろうか。 と記されています。 このようなことでイスラエルの民が戒められているのは、イスラエルの民の間に、自分たちが主のためにいけにえをささげているのだという考え方があったからに他なりません。それは、逆に言いますと、主は自分たちのささげるささげものを必要としているということです。そこから、さらに、自分たちは、主が必要としているいけにえをささげているのだから、主は喜んでおられるはずだ、というような考え方が生まれてきます。これは、いけにえをささげることによって、自分の義を立てていると考えることです。それによって、主を自分たちと同じようなものであると感じ、主の御前に高ぶるようになってしまいます。 これに対しまして、イザヤの場合には、そのような考えが入る余地はまったくありません。イザヤは、定められた手順に従っていけにえをささげてから、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったのではありません。聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときには、すでに主がイザヤのための贖いを用意してくださっていました。イザヤは、それを、セラフィムが語ってくれた福音の言葉によって知らされ、その贖いを受け入れただけです。そこに、イザヤの功績が入る余地はまったくありません。イザヤは自分の義を自分で立てるというようなことを微塵も考えることはできなかったのです。 そのことから、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いが、主の一方的な恵みによるものであることをこの上なくはっきりと知りました。 しかし、ユダ王国の民はどうだったのでしょうか。イザヤ書1章11節〜14節には、ユダ王国の民の現実についてのイザヤの預言が、 「あなたがたの多くのいけにえは、 わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。 「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、 肥えた家畜の脂肪に飽きた。 雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、 だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と あなたがたに求めたのか。 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。 香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。 新月の祭りと安息日――会合の召集、 不義と、きよめの集会、 これにわたしは耐えられない。 あなたがたの新月の祭りや例祭を、 わたしの心は憎む。 それはわたしの重荷となり、 わたしは負うのに疲れ果てた。 と記されています。 このイザヤの預言の言葉からは、主の御前に盛んな行事を展開しているユダ王国の民の高ぶりが感じ取れます。半世紀にわたるウジヤ王の治世の安定と繁栄の中では、盛んな集会と行事が行われ、主へのささげものも豊にささげられたであろうことが容易に想像できます。しかし、それは、自分たちが行なうことやささげるものによって、主を満足させようとするためのもの、自分たちの義を立てようとするためのものだったのです。 私たちも、奉仕によって、自分の義を立てようとしてしまうことはないでしょうか。主への奉仕は、主と兄弟姉妹たちへの愛を、具体的な状況において表わすために与えられた機会です。それをとおして、主が私たちをイエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えていってくださるための、恵みの機会です。 イザヤは、幻の中で示された、自分の罪と汚れの絶望的な深さと、それを贖ってくださる贖いは、主が一方的な恵みによって備えてくださったものであるということを、深い驚きとともに知りました。そのような恵みを経験したので、 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。 という主の御声を聞いたときに、 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 と言って志願したわけです。 このようにして、聖なる主の栄光のご臨在の御前から遣わされたイザヤが第一にあかしすることは、当然、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 という絶望の叫びによって示されていることです。そのあかしは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において悟った、自分とユダ王国の民の罪と汚れの絶望的な現実を映し出します。それは、主の御前に高ぶっているユダ王国の民の誇りを打ち砕くようなことであるはずです。 このイザヤのあかしに耳を傾け、自分たちの罪と汚れの現実を認めて、主の御前に心が砕かれた者たちには、イザヤが経験した主の一方的な恵みによって備えられている贖いをあかしする福音の御言葉が響いてくるようになります。 けれども、その誇りを捨てないユダ王国の民は、イザヤの語ることに耳を傾けることはありません。主の御前に盛んな集会とささげものをしているユダ王国の民が、自分たちは絶望的な状況にあるということを悟ることはできなかったのです。それは、主がイザヤの経験をとおして示してくださった贖いを拒否することを意味しています。 このことから、イザヤの宣教の困難さが予想されます。それは、イザヤ書6章9節、10節に、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 と記されている言葉に反映しています。 イザヤと同じように、自分の罪と汚れの絶望的な深さを悟って、心から悔い改めた詩人は、詩篇51篇16節、17節にありますように、 たとい私がささげても、 まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。 砕かれた、悔いた心。 神よ。あなたは、それをさげすまれません。 と告白しています。 自分の罪を悔い改めて心が砕かれた詩人は、主がいけにえの動物を必要としておられるのではないことを告白しています。いけにえは、罪と汚れに満ちているために主の御前に絶望的な状態にある者のために、主が贖いを備えてくださっていることをあかしするものです。主の御前に心が砕かれた者たちは、そのいけにえをとおしてあかしされている主の贖いを信じて、いけにえをささげます。それは、主の恵みに対する信仰と感謝の告白です。 先週もお話ししましたが、聖なる主の御前における自分の罪と汚れの絶望的な深さを自覚することは、罪を宿している者の力でできることではなく、主の恵みによることです。 私たちも、聖なる主の御前における自分の罪と汚れの絶望的な深さを自覚して、心が砕かれることをとおして、いけにえがあかししている、贖いの恵みを知るようになります。もちろん、古い契約のもとでささげられた動物のいけにえがあかししている贖いは、御子イエス・キリストの十字架の死において、最終的に完成しています。 |
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