(第60回)


説教日:2001年11月18日
聖書箇所:イザヤ6章1節〜13節


 今日も、イザ6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」からのお話を続けます。今日は、これまでお話ししてきたことを、別の観点から見てお話ししたいと思います。
 1節〜7節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
  「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 今日お話しすることに深くかかわることですが、ここに記されていることのすべてが、イザヤに対する主の啓示です。この幻の中では、イザヤが応答する形で幻に参与していますが、それもまた啓示としての意味をもっています。この啓示をとおして、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前における自分の現実を知るようになります。


 聖なる主の栄光のご臨在の御前において仕えているセラフィムは、その奉仕の中心である礼拝において、絶えることなく、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と告白して、主を讚えています。
 それは、セラフィムにとっては、主の聖さの内実である無限、永遠、不変の豊かさから溢れ出てくる愛と恵みによって満たされていることを意味しています。
 これに対して、イザヤは、同じく、聖なる主の栄光のご臨在に接したことによって、自分の罪による汚れの絶望的な深さを実感させられます。そのイザヤの口から出てくるのは、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という絶望の叫びでした。
 これは、主の聖さの内実である無限、永遠、不変の豊かさから溢れ出てくる愛と恵みに満たされて、主の聖さを実感し、主を讚えることとはまったく違います。主の聖さの内実である無限、永遠、不変の豊かさから溢れ出てくる愛と恵みに満たされることと、主の聖さを実感して、主を讚えることは、造られたものにとって、いのちを意味しています。セラフィムはそのいのちの祝福のうちにいます。しかし、イザヤにとっては、主の聖さとその輝きである栄光は、あまりにも恐ろしい現実でした。それは、自分を絶望のうちに滅ぼし尽くす、燃える御怒りとして迫ってきました。
 そのようにして、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、自分が直ちに滅びなければならないものであることを実感して、絶望の叫びを上げるほかのなかったイザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかるようになりました。6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されているとおりです。

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

というイザヤの叫びは、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかるようになるということを予想することはできなかったことを示しています。イザヤにとっては、自分が贖いにあずかったことは、セラフィムによって語られた、

  見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。

という福音の言葉を聞いて初めて理解できたことです。
 イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかるようになることを予想することができなかったのは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に贖いが備えられていることを知らなかったからではありません。
 ユダ王国の中心であるエルサレムの神殿には、主の聖所があって、そこに聖なる主の栄光のご臨在があることが示されていました。そして、その御前に近づいて主に仕える祭司たちのために、聖所の入口の前にある祭壇において、動物のいけにえがささげられて、その血による贖いがなされていることを、イザヤは知っていました。
 また、イザヤは、ご自身の聖所にご臨在される主が、恵み深い方であることも知っていました。
 イザヤは預言者としての研ぎ澄まされた眼によって、主の神殿において盛んな活動が展開されているユダ王国の霊的な現実を見抜いていました。1章10節〜14節には、

  聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。
  耳を傾けよ。ゴモラの民。
  私たちの神のみおしえに。
  「あなたがたの多くのいけにえは、
  わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。
  「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、
  肥えた家畜の脂肪に飽きた。
  雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
  あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
  だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
  あなたがたに求めたのか。
  もう、むなしいささげ物を携えて来るな。
  香の煙   それもわたしの忌みきらうもの。
  新月の祭りと安息日   会合の召集、
  不義と、きよめの集会、
  これにわたしは耐えられない。
  あなたがたの新月の祭りや例祭を、
  わたしの心は憎む。
  それはわたしの重荷となり、
  わたしは負うのに疲れ果てた。」

という預言の言葉が記されています。イザヤが、ユダ王国の霊的な現実の貧しさを、しっかりと見抜いていることが見て取れます。その一方で、それに先立つ9節には、

  もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を
  私たちに残されなかったら、
  私たちもソドムのようになり、
  ゴモラと同じようになっていた。

と記されています。そのユダ王国が、主のあわれみによって残されていることをも受け止めています。言い換えますと、イザヤは、主がこの上なくあわれみ深い方であることを、重々よく知っていたのです。
 それでも、イザヤは、その幻において、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときに、自分が罪に汚れたものであって、直ちに滅ぼされるべきものであることを実感して、絶望の叫びを上げることしかできませんでした。それでは、エルサレムの神殿において、いけにえがささげられていることをとおして示されている罪の贖いは、イザヤにとって、いったい何だったのかという疑問が生まれてきます。あるいは、どうしてイザヤは、そのようにして示されている罪の贖いを思い出して、自分に当てはめることができなかったのだろうというような疑問が生まれてきます。
 これについては、いくつかのことが考えられます。
 第一には、エルサレム神殿において行なわれている動物のいけにえの儀式は、その手順がきちんと定められていて、それに則ってことが進んでいきます。その全体が、主の恵みによって、聖なる主の栄光のご臨在の御許に贖いが備えられていることと、その贖いにあずかることによって、主の契約の民は、罪を聖められて、主の栄光のご臨在の御前に近づくことができるということをあかししています。
 それに対しまして、この幻におけるイザヤの場合には、そのような手順にしたがって聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づいたのではありません。突然のように、聖なる主の栄光のご臨在の方が、イザヤをとらえてしまったのです。それを、エルサレム神殿の聖所におけることにたとえますと、大祭司が、主によって定められた、年に一度の大贖罪の日にだけ入ることが許されている、聖所の奥の至聖所に、突然、入れられてしまったようなことです。
 しかも、大祭司は、前もって用意したいけにえの血を携えて入ります。しかしイザヤは、そのような備えをもっていません。そのうえ、イザヤは祭司ではありませんでした。ウジヤ王は、祭司ではないのに、主の御前において香を焚こうとして聖所に入ったときに、主のさばきを受けました。
 このように、イザヤは、自分が祭司でもないのに、しかも、主によって定められた動物の血による贖いの手順を踏むこともなく、突然、主の神殿の至聖所の中に入れられてしまったような状態になったのです。そうであれば、いくら、イザヤが、主の神殿において行なわれていたいけにえの制度において、主のご臨在の御前には贖いが備えられており、祭司たちはそれにあずかってから聖所に入って主に仕えることができるということを知っていても、それを、自分に当てはめることはできなかったはずです。
 第二に、エルサレムの神殿において、祭司たちの働きのために定められたさまざまな規定は、地上的なひな型でしかありませんでした。今日の言葉で言いますと、視聴覚教材でした。ヘブル人への手紙9章9節、10節において、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

と言われているとおりです。
 もちろん、先ほどのウジヤ王や、大祭司アロンの子であるナダブとアビフの事例のように、地上のひな型である主の聖所に入ったとしても、それが主の定められた規定に従うものでなければ、さばきを受けることになりました。
 まして、イザヤが接した聖なる主の栄光のご臨在は、そのような地上のひな型ではありませんでした。啓示としての意味をもっている幻の中においてでしたし、その「すそ」が神殿に満ちているのを見ただけでしたが、それでも、イザヤは、生きておられる主のご臨在の御前に立たせられたのです。聖なる主の栄光のご臨在のリアリティー、生きた現実に触れる経験をしたのです。
 その幻は、主の啓示でしたから、イザヤの意志でコントロールすることはできませんでした。そして、罪があるままのイザヤが、その汚れを自らの内に秘めていながら、その罪と汚れを十分には自覚できていなかった状態で、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられてしまったのです。そして、そのようなものは、主の聖なる御怒りによるさばきによって、直ちに滅びるべきであるということを、自分自身のこととして示されることになりました。そうであれば、イザヤは、自分でも自覚できていなかった自分自身のうちなる罪の汚れを、自分の心のうちに映し出されて、絶望するほかはなかったはずです。そのイザヤには、主のご臨在の御許に自分のために贖いが備えられているということを考える余裕はありませんでした。
 このように、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたときに、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という絶望の声をあげることしかできなかったのは、エルサレムの神殿の聖所と、そこで仕えている祭司たちの働きをとおして示されている贖いの恵みを信じていなかったからではありません。
 これらのことを踏まえて、改めて、このイザヤが幻の中で経験していることが、主のイザヤに対する啓示であるということの意味を考えてみたいと思います。
 主の啓示には一貫性があります。主の啓示を全体として見たときには、まったき調和があります。しかし、まさに、その点で、一つの疑問が湧いてきます。
 主は、エルサレム神殿の聖所に関する規定において、主の栄光のご臨在の御前に近づくための手順を示してくださいました。その大原則は、聖なる主のご臨在の御前に近づくためには、まず、主が備えてくださったいけにえの血による罪の贖いをして、その上で、主のご臨在の御前に近づかなければならないということです。
 主は、このことをご自身の恵みをあかしするために示してくださっています。これは決して曲げることができない大原則です。ヘブル人への手紙9章22節に、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されているとおりです。
 ところが、同じ主の啓示であるはずのイザヤが見た幻の中では、イザヤはそのような贖いのためのいけにえをほふる手順も踏まないで、突然のように、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられてしまいました。
 先ほども言いましたように、これは、イザヤに対する主の啓示ですから、イザヤがコントロールしているのではありません。イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に近づくためには、主が備えてくださる贖いが必要であることを忘れていたということではありません。
 そうしますと、人間的な言い方をしますと、これは、主の側の「手違い」だったのでしょうか。うっかり、イザヤを、贖いの手順を踏ませる前に、ご自身の栄光のご臨在の御前に立たせてしまわれたということでしょうか。そして、イザヤが、たまらず、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだのを見て、「申し訳ない」という思いとともに、セラフィムを遣わしてくださって、

  見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。

と宣言してくださったということでしょうか。
 もちろん、そのようなことではありません。さらに言いますと、イザヤの見た幻の中では、贖いの順序が逆転しているということでもありません。
 6章6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されていることにおいては、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いは、このことに先立って備えられていたと考えられます。
 これを私たちに当てはめて言いますと、私たちのための罪の贖いは、今から2千年前に、イエス・キリストの十字架の死によって、すでに備えられていました。私たちはそのことを、主の恵みによって贖いにあずかり、救われたことによって知るようになりました。イザヤの場合も、イザヤのための贖いは、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときには、すでに備えられていたと考えられます。それは、いくつかのことから考えられます。
 その幻の中では、祭壇の上の炭火は、すでに燃えていました。それは、これから贖いのいけにえがほふられるというよりは、すでにほふられていることを暗示しています。
 もっとも、この祭壇は、聖所の入口にあった、いけにえをほふって焼く祭壇に当たるものではなく、至聖所の前にある香を焚く祭壇に当たるものである可能性もあります。それがどの祭壇であるかは、セラフィムが祭壇から取ったものが「燃えさかる炭」であるのか、それとも「熱い石」であるのかによっています。それが「燃えさかる炭」であれば、いけにえを焼く祭壇であり、「熱い石」であれば、香を焚く祭壇ですが、それがどちらかを決定することはできません。ちなみに、旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳は、これを「炭」と訳して、それがいけにえを焼く祭壇であるという方向を示しています。
 かりに、この祭壇がいけにえを焼く祭壇ではなく、香を焚く祭壇であっても、イザヤのための贖いは、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときには、すでに備えられていたと考えられます。
 というのは、短い間ではあっても、イザヤは聖なる主の栄光のご臨在の生きた現実に触れているからです。まだ贖いが備えられていないのに、ほんのわずかな時間であっても、罪あるものが、そのままの状態で、聖なる主の栄光のご臨在の生きた現実に触れることができるということは、主の聖さを否定することになります。ここでイザヤに示された聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、罪のないセラフィムさえも、その翼で顔と両足を覆っています。罪と汚れを宿すイザヤは、そのような主の聖なる栄光のご臨在の御前に、一瞬たりとも立つことができなかったはずです。
 ですから、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったことも、そして、自らの罪とその汚れを自覚して、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫んだことも、イザヤのための贖いが、すでに備えられていたことを意味しています。そして、セラフィムが燃えさかる炭火をイザヤの唇に触れたことは、その贖いをイザヤに当てはめてくださって、イザヤが受け止めることができるようにくださったことであって、そこで初めて贖いがなされたのではないということを意味しています。言い換えますと、セラフィムが燃えさかる炭火をイザヤの唇に触れたことは、聖所の前の祭壇において、いけにぇの動物をささげて焼くことには当たらないということです。そして、聖所の前の祭壇において、いけにぇの動物をささげて焼くことに当たることは、すでになされていたということです。
 再び私たちに当てはめてみますと、私たちのための贖いは、2千年前にすでに成し遂げられています。それが私たちに当てはめられたのは、私たちが福音の御言葉を聞いて、贖い主であるイエス・キリストと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じたときです。セラフィムが燃えさかる炭火をイザヤの唇に触れたことは、イエス・キリストが成し遂げていてくださった贖いが私たちに当てはめられたことに当たると考えられます。
 もし、セラフィムが燃えさかる炭火をイザヤの唇に触れたことによって、初めて、聖所の前の祭壇において、いけにぇの動物をささげて焼くことに当たる贖いがなされたというのであれば、当のイザヤが焼き尽くされて、聖絶されてしまっていたはずです。
 これに対して、もしすでにイザヤのための贖いが備えられていたのであれば、どうして、イザヤは、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだのかという問いかけがあるかもしれません。
 結論的に言いますと、それは、まだイザヤに贖いが示されていなかったからです。
 このこととの関連で、さらに注目すべきことがあります。それは、ここでイザヤが自らの滅びを実感するほどの深い罪の自覚をもてたのも、主のご臨在の御許に備えられている贖いに基づく恵みによっているということです。どういうことかと申しますと、イザヤは自分の罪を自覚したうえで、自分が滅びるべきものであることに深い納得を示しています。さらに、その絶望の叫びの中でさえ、

  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と言って、主が「万軍の主」であられることを告白しています。その意味では、イザヤの罪の自覚は、いわば、聖められた自覚なのです。
 このような罪の自覚は、主が備えてくださっている贖いに基づく恵みによらなければ、誰にもできません。
 もし、これが、サタンや悪霊などのように、罪の贖いにあずかっていなくて、滅ぶべきものであったとしたら、どうなるでしょうか。弁解の余地のない罪をしぶしぶ認めるとしても、決して、主を主として告白することはありません。かえって、主に向かって歯ぎしりをしながら、主に対する憎しみを募らせていたはずです。
 ですから、イザヤは、すでに主が成し遂げてくださっていた贖いの恵みに包まれていたので、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立っても直ちに聖絶されることなく、かえって、自らの罪とその汚れを深く自覚することができたのです。
 それで、イザヤが見た幻の中に示されている贖いは、決して、エルサレムの神殿とそこでなされていたいけにえの制度をとおして示されている贖いと矛盾したものではないと考えられます。啓示の順序としては、イザヤに自分の霊的な現実を示してくださることから始まっていますが、それは、イザヤが、聖なる主のご臨在の御許に備えられている贖いの豊かさと確かさを、しっかりと受け止めることができるようにとの、主のご配慮によることでした。主は、それに先立ってご自身が備えてくださっておられた贖いに基づいて、イザヤに対して、これらのことをなしてくださったのだと考えられます。

 


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