(第59回)


説教日:2001年11月11日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章1節〜13節に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事からのお話を続けます。今日は、先週お話ししたかったのですが、時間が足りなくてお話しできなかった一つのことをお話ししたいと思います。
 その前に、イザヤがいつ預言者としての活動を始めたのかということについて、改めてお話ししたいと思います。これまでこのことを、あまりはっきりさせてこなかったので、何となく私自身の心に引っ掛かっていました。
 前にお話ししましたように、最近の聖書学者の見方は、イザヤの活動は6章に記されている「召命体験」から始まったという見方に傾いています。私は、その可能性を認めながらも、イザヤはこの「召命体験」より前に、すでに預言者として活動していたのではないかと考えています。
 そのいちばんの理由は、これまでお話ししてきました。それは、ここに記されている「召命体験」をしているイザヤの中に、すでに、ユダ王国の悲しむべき現実についての理解があったと考えられるということです。
 9節〜13節には、ユダ王国に対する厳しいさばきの宣言が記されています。しかし、イザヤはこのような厳しいさばきの言葉に疑問を挟むことなく受け止めています。それは、イザヤがこの時すでに、ユダ王国の霊的な現実、すなわち、ユダ王国の民が主の御前に高ぶって、主のみこころから逸れてしまっており、ユダ王国に対するさばきは避けられないということを見抜いていたからであると考えられます。
 このことは、少なくとも、イザヤがこの時までに預言者的な眼をもってユダ王国の現実を見ていたいたことを意味しています。
 もう一つのことですが、イザヤの「召命体験」を記している6章1節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されています。この言葉は、イザヤが幻を見たことが、ウジヤ王が死んだことと深く関連していることを示しています。その意味では、ウジヤの死が、イザヤが幻を見たことのきっかけとなったと理解するのが自然です。
 ところが、1章1節では、

アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

と言われていて、イザヤの預言活動がウジヤの時代、すなわち、ウジヤの生前になされていたことを示しています。それで、イザヤが幻を見た時には、すでに預言者として活動をしていたと考えた方がいいと思われます。
 もちろん、6章1節で、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われているイザヤの「召命体験」は、ウジヤの死の前に起こったことである可能性もあります。その場合には、1章1節でイザヤがウジヤ王の時代に預言者としての活動をしたと言っても、それは1年足らずのことであったということになります。それでも、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」というように、他の王たちの時代と同じように並べられるのだろうかという疑問があります。しかも、ウジヤは最後の10年間は、自らの罪に対する主のさばきを受け止めて王位を退いていており、その子のヨタムがユダ王国を治めていました。
 また、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とまとめられているイザヤの「召命体験」が6章に記されていて、それに先立つ章において、イザヤの預言の言葉が記されていることや、歴代誌第二・26章22節に、

ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。

と記されていることも、イザヤがウジヤの生前から預言者として活動していたのではないかという感じを抱かせます。
 これらのことから、イザヤは6章に記されている「召命体験」をする前に、すでに預言者としての活動をしていたのではないかと考えています。
 この場合には、イザヤ書6章に記されている「召命体験」は、イザヤの再召命ということになります。そのように、再召命を受けた例としましては、イエス・キリストの弟子たちが挙げられます。弟子たちは、イエス・キリストの公生涯の初めに、召命を受けてイエス・キリストに従っていました。その弟子たちが、イエス・キリストの十字架の死につまずいてしまいましたが、贖いの御業を成し遂げて死者の中からよみがえられたイエス・キリストから、再召命を受けて、復活の主の御許から遣わされています。
 このイエス・キリストの弟子たちの場合からも分かりますように、すでに召されているものが再召命を受けるようになったのは、その時に、主の贖いの御業の新しい局面が示されるようになったことと呼応しています。それは、イザヤにおいても見られることです。


 さて、これまでお話ししてきたことの復習ですが、イザヤが見た幻をまとめる6章1節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されています。
 ウジヤ王は、主の道に歩むことによって、半世紀にわたる繁栄と安定の時代を築きました。しかし、その晩年には主の御前に高ぶって、主の神殿の聖所に入って香を炊こうとしました。そのようにして、主の聖さを冒したために主のさばきにあいました。このことに象徴される主の御前での高ぶりが、長期にわたる繁栄と安定を享受したユダ王国の民の間にもありました。このウジヤ王が死んだことによって、それまでの時代に区切りがつけられました。
 この後、ユダ王国は、主の御前に背教の道を歩み続けます。いくつかの改革の試みにもかかわらず、その流れの方向は変わることがなく、ついには、バビロンの捕囚という主のさばきを招くようになります。
 「ウジヤ王が死んだ年」は、このような歴史の転換期に当たりますが、イザヤは、この時すでに、預言者としての眼をもって、ユダ王国の霊的な現実、すなわち、ユダ王国の民が主の御前に高ぶって、主のみこころから逸れてしまっており、ユダ王国に対するさばきは避けられないということを見抜いていたと考えられます。
 そのような意味をもった年に、主はイザヤに、ご自身の栄光のご臨在の幻を示してくださいました。そして、イザヤをご自身の栄光のご臨在の御許からお遣わしになって、ユダ王国に対するさばきを宣言されます。
 しかし、それに先立って、主は、イザヤ自身の霊的な現実をお示しになりました。主は、イザヤをご自身の栄光のご臨在の御前に立たせてくださって、ご自身の聖さをお示しになりました。それによって、イザヤは、自分が聖なる主の栄光のご臨在の御前において、汚れたものであって、直ちに滅ぼされなければならないものであることを、言い逃れの余地のない確かさと納得とともに感じ取るようになりました。
 1節後半〜4節には、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 このような聖なる主の栄光のご臨在に触れたイザヤは、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫びました。イザヤは、自分が根本的に汚れたものであって、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことができないばかりか、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを、深い納得とともに、感じ取っているのです。
 この時、イザヤは、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者だ。

と叫んだだけでなく、さらに、

  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫びました。

  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という言葉は、イザヤだけではなく、ユダ王国の民全体が汚れているということを意味しています。それで、この言葉は、ユダ王国の民を糾弾するか、汚れているのは自分だけではないという弁明をする言葉のように見えます。
 しかし、この時、イザヤは聖なる主の栄光のご臨在の御前に立っています。そして、自分が直ちに滅ぼされるべき者であるということを実感するとともに、自分の罪と汚れを自覚しています。そのような状態にあったイザヤが、他の人を責めたり、他の人を「ダシ」にして言い訳をするということは考えられません。
 それで、イザヤが、ユダ王国の民のことを考えて、

  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫んだことは、イザヤが、これの時まで預言者として活動してきた中で、ユダ王国の民のことを心にかけてきていたことの表われであると考えられます。

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という叫びは、ユダ王国の民も自分と同じように、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、とても主への讃美をささげることはできないばかりか、たちまちのうちに滅ぼされてしまうほかはない状態にあるということを、心痛く感じての叫びです。
 そして、6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 聖なる主の栄光のご臨在によって、自らの汚れを心に映し出されて、絶望の叫びを上げたイザヤは、聖なる主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかるようになりました。これは、イザヤにとっては、主が備えてくださっている贖いの現実に触れる経験でした。
 私たちが、主の備えてくださっている贖いをどれほど現実的なものであると感じ取れるかは、私たちが自分の罪をどれほど現実的に捕らえることができるかによっています。そのことからしますと、自分が主の栄光のご臨在の御前に汚れたものであり、直ちに滅びるべきものであることを実感して、絶望の叫びを上げたイザヤにとって、主のご臨在の御許に備えられている贖いは、それだけ確かな現実でした。
 当然、イザヤは、主の備えてくださった贖いにあずかったことも、ユダ王国の民とのつながりの中で受け止めたと考えられます。そして、そこにユダ王国の民の望みがあることを見て取ったのだと考えられます。
 それで、8節に、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されていますように、ユダ王国の民への預言者として遣わされることを願い出たのであると考えられます。
 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときに、誰よりもまず自分自身が滅ぶべき者であったことを示されました。それとともに、自分とユダ王国の民との一体感を深められました。それで、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者として、ユダ王国の罪を糾弾するようになりますが、決して、高い所に立ってユダ王国の民の罪を責めることはできないことを悟ったはずです。
 主の啓示によって、誰よりも先に、自分が滅びなければならないということを示されたイザヤが、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかりました。それで、イザヤは、自分が特別なものであるので贖いにあずかったというようなことは、まったく考えなかったはずです。そして、それゆえに、ユダ王国の民の罪がどんなに深くても、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いに望みを託すことができるということを信じたと思われます。
 このように、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立ったときに、自分が再び遣わされるようになるユダ王国の民との一体感を深める経験をしました。その意味で、イザヤはユダ王国の民との一体性において、ユダ王国の民の側に立っています。
 それとともに、8節に、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されていますように、イザヤは、その預言活動をする時に、自分を遣わしてくださった主との一体性において、主の側に立っています。

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御言葉については、先週お話ししました。

だれを遣わそう。

という御言葉は、預言者をお遣わしになるのは主ご自身であることを示しています。実際、イザヤを初め、すべての預言者は主のみこころにしたがって、主の栄光のご臨在の御前から遣わされています。また、

だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御言葉の「われわれ」は、主のみこころにしたがって、主の救いとさばきの御業の遂行に参与しているセラフィムも含んでいると考えられます。そして、この主の御言葉に応えて志願し、預言者として遣わされるようになったイザヤも主の側に立って、主のために預言活動をするようになることを意味しています。
 どこかでお聞きになったことがあるかと思いますが、一般に、祭司は主の民の側に立ち、主の民を代表して主のご臨在の御前に立って、主の民のために執り成しの祈りをする者であるのに対して、預言者は主を代表し、主の御名によって、主の御言葉を主の民に語る者であると言われています。
 また、預言者についてさらに言いますと、先ほども触れましたが、預言者は、聖なる主の栄光のご臨在の御許からご自身の民のもとに遣わされます。そして、預言者の職務は、「契約のリーブ」といわれることで、契約の神である主の契約に基づいて、主の民に主のみこころを語りつつ、主の民の契約違反を告発することにあります。
 このように、預言者は基本的に、主の側に立っている者として、主から委ねられた預言活動をいたします。そのことは、イザヤの「召命体験」とその後の預言活動においても、はっきりと見て取ることができます。
 しかし、イザヤ書6章に記されているイザヤの「召命体験」におきましては、イザヤは、そのように、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされて、主を代表し、主の御名によって、主の御言葉を語る預言者として立てられているのですが、それに先立って、自分自身が、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、汚れたものであって、直ちに滅ぼされるべきものであるということを示されています。そして、その点では、ユダ王国の民とまったく同じであることを身にしみて感じるように導かれています。そのかぎりにおいては、イザヤは、自分が遣わされるユダ王国の民とまったく一つであることを示されています。
 その上で、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことができるのも、ただただ、主のご臨在の御許に備えられている贖いにより、恵みによることが示されています。その点でも、イザヤはユダ王国の民と一つです。ユダ王国の民に望みがあるとすれば、それは、まさに、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあり、それを備えてくださり、それにあずからせてくださる主の恵みにあります。
 このように見ますと、預言者は聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされて、主を代表し、主の御名によって、主の御言葉を主の民に語る者であるので、主の側に立っているとは言っても、イザヤは、それに先立って、徹底的に主の民と一つとされており、主の民の側に立たされていることが分かります。
 それでは、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた者として、主の側に立っているというようなことは言えないのではないかというような気がしてきます。いったい、イザヤは、主の側に立っているのだろうか、それとも、ユダ王国の民の側に立っているのだろうか、というような疑問が湧いてきます。
 しかし、やはり、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者として、主の側に立っていると言うべきです。そして、まさにこの点に、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」が、聖なる主の栄光のご臨在の啓示であることの意味があります。
 結論的に言いますと、イザヤが、真に、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者として、主と一つであり主の側に立つようになるためには、この幻の中でイザヤが経験しているように、自分が遣わされて預言活動をするようになる主の民と徹底的に一つとなる必要があったのです。なぜなら、この幻をとおして、イザヤにご自身の栄光のご臨在をお示しになり、そのご臨在の御許には贖いが備えられていることをお示しになった聖なる主は、ご自身が、ご自身の契約の民と徹底的に一つとなられる方であるからです。
 すでにお話ししましたように、イザヤが幻を見たことをまとめる意味をもっている、6章1節の、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

という言葉は、「苦難のしもべ」のことを記している52章13節〜53章12節の導入の言葉、52章13節の、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

という言葉と呼応しています。そして、このことは、イザヤにご自身の栄光のご臨在をお示しになり、そのご臨在の御許には贖いが備えられていることをお示しになった聖なる主が、ご自身の民の罪を贖うために苦しみをお受けになり、ご自身のいのちを死に明け渡されるようになる「苦難のしもべ」であることを意味しています。
 このことから、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者として、主と一つであり主の側に立つようになるためには、どうしても、自分が遣わされて、そこで預言活動をするようになるユダ王国の民との一体感を深めていただく必要があったことが分かります。
 イザヤをお遣わしになった栄光の主ご自身が、ご自身の契約の民の罪をその身に負ってくださって、ご自身のいのちを贖いの代価としてくださるほどに、ご自身の民と一つになってくださるというのです。イザヤがこの主と一つとなって、主の側に立つというのであれば、当然、自分が遣わされたユダ王国の民と一つになるはずです。イザヤは、6章に記されている「召命体験」において、ユダ王国の民との一体感を深められることによって、そのような理解への第一歩を踏み出したと考えられます。
 このことは、私たちに当てはめることができます。私たちが真にイエス・キリストと一つであることは、イエス・キリストが一つとなられた兄弟たちと一つであることに現われてきます。そして、このことから、たとえば、マタイの福音書25章31節〜46節に記されている、イエス・キリストの教えを理解することができます。そこには、

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」そのとき、彼らも答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは、人は行ないによって救われるということを教えておられるのではありません。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストは、ご自身の備えてくださった贖いの恵みによって救われている人々と文字通り一つとなっていてくださっているということを示しています。そして、その恵みによって救われてイエス・キリストと一つとされている人々は、当然、イエス・キリストと一つとされている兄弟たちを、具体的な行ないをもって愛するということを示しています。そのことは、その人々が救われてイエス・キリストと一つとされていることの明確な現われであるということです。
 話をイザヤのことに戻しますと、これらのことから、私たちは、イザヤが、旧約の預言の限界の殻を突き破るかのように、栄光の主ご自身が、ご自身の民の罪の贖いのために、ご自身のいのちを注ぎ出されるという「苦難のしもべ」の預言をするに至ることの背後にあるものを見ることができます。
 もちろん、「苦難のしもべ」の預言は主の啓示によってイザヤに示されたことです。しかし、それが示されるためには、イザヤの側に その啓示を受け止めるだけの素地が備えられていなければならなかったはずです。
 イザヤが、その「召命体験」において、誰よりも自分自身が、聖なる主の栄光のご臨在の御前において汚れたものであり、直ちに滅ぼされるべきものであることと、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったことにおいて、ユダ王国の民と一つであることを身にしみて感じ取ったことは、やがて、自分を遣わしてくださった栄光の主ご自身が「苦難のしもべ」として、ご自身の民と徹底的に一つとなってくださる方であるという預言の言葉を受け止めるようになるためにも、必要なことだったのです。

 


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