(第58回)


説教日:2001年11月4日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日もイザヤ書6章1節〜13節に記されている、イザヤの「召命体験」の記事からのお話を続けます。いつものように、これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関連することをまとめておきましょう。
 1節には、預言者イザヤが見た幻のことが、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とまとめられています。そして、聖なる主の栄光のご臨在のことを記す1節後半〜5節には、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
  「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。」

と記されています。
 この幻の中では、主の栄光のご臨在の御前で仕えているセラフィムが身を低くして、絶えず、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と告白して主を讚えています。
 セラフィムは、主の聖さの内実である無限、永遠、不変の豊かさを源として、そこから溢れ出てくる、常に新鮮な豊かさの栄光に触れています。それは、セラフィムにとっては、主の聖い愛と恵みに包まれて、内側から満たされることを意味しています。これは、セラフィムにとって、最も祝福された豊かな経験です。しかも、主の聖い愛と恵みは無限の豊かさに満ちていますので、有限なセラフィムにとっては、常に新しく新鮮なものとして迫ってきます。それで、それに呼応して生み出されているセラフィムの讃美も、常に新鮮な感動と充足に満ちているものとなっています。
 これに対して、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在に触れた時に、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを、深い納得とともに、感じ取って、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫びました。
 イザヤの内側からは、自分がたちまちのうちに滅ぼされるべき者であることの自覚とともに、

  ああ。私は、もうだめだ。

という絶望の叫びがわき上がってくるだけでした。それは、

  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という叫びによって示されていますように、自分が根本的に汚れたものであって、主を讚えることができないという自覚に裏付けられたものでした。


 先週は、イザヤが、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者だ。

と叫んだだけでなく、さらに、

  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫んだことについてお話ししました。
 一見しますと、この、

  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という言葉は、イザヤがその中で預言者として活動をしているユダ王国の民を糾弾する言葉のように見えます。
 しかし、この時、イザヤは聖なる主の栄光のご臨在の御前において、自分が直ちに滅ぼされるべき者であることを実感しながら、自分の罪と汚れを自覚しています。そのような状態にあったイザヤが、他の人の罪を責めるというようなことは考えられません。また、そのようなイザヤが、自分が「くちびるの汚れた者」であるのは、自分の住んでいる社会が汚れているからだというような、言い訳をするということも考えられません。
 それで、これは、イザヤが、この時まで預言者として活動してきた中で、ユダ王国の民のことを深く心にかけていたことの表われであると考えられます。イザヤは、自分が直ちにさばきを受けて滅びなければならないということを、恐ろしいばかりの現実として実感したその時に、自分がその中に住んで預言者として活動をしてきた、ユダ王国の民のことを思い出したということです。これは、聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自らの滅びを実感して絶望の叫びを叫ぶ時にも、自分がユダ王国の民と一つであることを感じないではいられなかったということで、イザヤが、どれほどユダ王国の民のことを心にかけていたかを示すものです。
 けれども、ここでイザヤは、ユダ王国の民も自分と同じように絶望的な状態にあるということを感じ取って、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫びました。ユダ王国の民も自分と同じように、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、とても主への讃美をささげることはできないばかりか、たちまちのうちに滅ぼされてしまうほかはない状態にあるということを、心が張り裂けるような思いで感じたのだと考えられます。
 そのイザヤが、聖なる主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかるようになりました。6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。これは、イザヤにとっては、予想だにしなかったことでした。
 当然、イザヤは、このこともユダ王国の民とのつながりの中で受け止めたと思われます。イザヤはユダ王国の霊的な現実と、その行く末に対して深い危機感を抱いていました。そして、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立った時に、それが、ほかならぬ自分自身の問題であることを思い知らされました。誰よりもまず自分こそが、主の御前に汚れたものであり、主のさばきによって滅びるべきものであることを実感して、絶望の叫びを叫びました。しかし、その自分が聖なる主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったのです。イザヤは、このことに驚くとともに、そこにユダ王国の民の望みがあることを見て取ったのだと考えられます。
このようにして、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったイザヤは、その罪を聖められて、主の御前に立つことができるようになりました。
 さらに、8節には、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されています。
 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に、すぐにでも滅ぼされるべき自分に対する贖いが備えられていることを知りました。そして、それは、また、すでに背教による滅びへの道を歩み始めているユダ王国の民のためにも備えられている贖いであると信じました。それで、

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御声を聞いた時に、

ここに、私がおります。私を遣わしてください。

と願い出たのであると考えられます。
 しかし、イザヤに託された預言の言葉は厳しいものでした。9節〜13節には、

すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。
  『聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。』
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
  立ち返って、いやされることのないために。」
私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。
  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、
  家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、
  主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで。
  そこにはなお、十分の一が残るが、
  それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が
  切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。」

と記されています。
 それでも、イザヤは主から託されたこの預言の言葉を受け入れています。それは、先週お話ししましたように、少なくとも、二つの理由によっていると思われます。
 一つは、イザヤがユダ王国の民の霊的な現実をよく知っていたということです。ユダ王国の民が、聖なる主の御前に高ぶって、背教の道を歩み続け、主のさばきによる滅びを刈り取ることになることは避けられないことを、預言者としての眼で、しっかりと見据えていたということです。
 もう一つは、ユダ王国の民に対する厳しいさばきの宣言の中に、主の聖なる愛と恵みが示されていることを見て取っているということです。それは、そのさばきの宣言の最後に示されている、

  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。

という言葉に示されている、残りの者に対する主の恵みとあわれみです。
 イザヤは、そこに、残りの者に対する恵みとあわれみが示されているということを受け止めただけではありません。聖なる主の栄光のご臨在に触れて、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と叫んだイザヤは、自分がもはや主のあわれみにも値しない罪人であることを感じていました。その自分が聖なる主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったことから、自分こそがその残りの者であることを悟ったのだと思われます。その上で、その残りの者のために備えられている贖いに、ユダ王国の民の望みを託したのだと思われます。
 イザヤが自分に託された主のさばきの宣言が厳しいものであってもなお、ユダ王国に対する望みを抱くようになっていたことを示す、もう一つのことがあります。

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御声を聞いたイザヤが、

ここに、私がおります。私を遣わしてください。

と願い出ますと、主はそれを受け入れてくださいました。そして、9節、10節に、

すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。
  『聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。』
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
  立ち返って、いやされることのないために。」

と記されていますように、イザヤの預言をとおして人々の心がますますかたくなになっていって、救いの道がますます閉ざされていってしまうということが告げられます。
 イザヤは、そのような意味をもった預言活動をするために、ユダ王国に遣わされました。すでにお話ししましたように、イザヤはそのことを受け入れています。しかし、それだけではありません。11節には、イザヤが、

主よ、いつまでですか。

と問いかけたということが記されています。
 これは、何でもない言葉であるように思われますが、イザヤの信仰告白のような意味をもっていると考えられます。
 一つには、これは、預言者的な眼をもってユダ王国の罪の現実を見据えていたイザヤが、ユダ王国の民に対する主のさばきが下されることは避けられないことを理解していたことを意味しています。それと同時に、これは、イザヤが、主のさばきは際限なくユダ王国の民に下されることはない、ということを信じていたことを意味しています。イザヤは主のさばきが止む時があると信じていたので、

主よ、いつまでですか。

と問いかけたのです。
 それは、ユダ王国の民の罪がそれほど重いものではないから、いずれいつの日にか主のさばきは終わるようになる、ということではありません。イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前で自らの罪の恐ろしい現実を自覚して、絶望の叫びを叫ぶほかはありませんでした。そのような自分が、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったのです。自分の罪の恐ろしい現実を自覚したイザヤは、自分が特別に優れた人間であるから主の恵みとあわれみを受けたのではないことを、十分にわきまえていたはずです。イザヤは、自分がユダ王国の民の上に決して誇ることができないことを身にしみて知っていたはずです。そうであれば、自分が受けた主の恵みとあわれみは、また、ユダ王国の民にも注がれるものであるということを信じるようになったと考えられます。そして、そのようなことから、

主よ、いつまでですか。

と問いかけたのであると考えられます。その意味で、この問いかけは、主の恵みとあわれみに対するイザヤの確信から出た問いかけであったのです。
 実際に、主のお答えは、そのようなイザヤの問いかけの根底にある信仰に答えてくださるものでした。繰り返しになりますが、11節〜13節に記されています、

  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、
  家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、
  主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで。
  そこにはなお、十分の一が残るが、
  それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が
  切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。」

という主の言葉は、ユダ王国の民の上に、まことに厳しいさばきが下されることを示しています。しかし、それは、

  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。

という、残りの者に対して主の恵みとあわれみが注がれることの約束で結ばれています。
 このように、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在に接したことによって、自らの罪の恐るべき現実を悟っただけではありません。それとともに、自分がその中で預言者として活動していたユダ王国の民との深い一体感を自覚しました。このことから、この経験をもとにして、改めて、主のご臨在の御許からユダ王国に預言者として遣わされたイザヤは、ユダ王国の民との一体感をもつ者として、ユダ王国において活動するようになったと考えられます。
 このことと関連して、さらに注目すべきことがあります。
 これまでお話ししてきましたように、イザヤは、預言者としてユダ王国に遣わされたときに、ユダ王国の民との一体感を深めていました。その意味では、イザヤはユダの民の側に立っています。
 ところが、それと同時に、イザヤは、自分を遣わしてくださった主の側にも立っていました。そのことは、8節に、

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されていることから分かります。
 ここで、

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

とおっしゃったのは「」であると言われています。この「」はアドナイで、1節で、イザヤが、

私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と述べている方のことです。
 この

だれを遣わそう。

は一人称の単数形ですから、

わたしはだれを遣わそう。

ということです。しかし、

だれが、われわれのために行くだろう。

と言われているときの「われわれ」は複数形です。
 この「われわれ」という言葉がどのような意味であるかについては、いくつかの見方があります。
 まず確認しておきたいことは、神さまがご自身のことを語るときに「われわれ」というように複数形をお用いになるのは、いわゆる「尊厳の複数」ではありません。神さまについて「尊厳の複数」が用いられるのは、人間や御使いなどの被造物が神さまのことを言うときのことです。
 伝統的には、この「われわれ」は、ご自身のことを語られる神さまのうちに複数の人格があることの表われであると理解されています。三位一体の神さまの三人格というような具体的な数ではないけれども、複数の人格があることがここに表われているというのです。
 私は、この理解は、創世記1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 ・・・・ 」と仰せられた。

と記されているときの「われわれ」に当てはまると考えています。けれども、イザヤ書6章8節の「われわれ」には、もう一つの見方の方が可能性があると考えています。それは、この「われわれのために」の「われわれ」には、主の御前に仕えているセラフィムも含まれているということです。
 そのように考えるのには理由があります。ここでは、「」は「高くあげられた王座に座しておられる主」(アドナイ)で、救いとさばきの御業を遂行しようとしておられます。そして、すでに、イザヤのための救いの御業を遂行するために、セラフィムを遣わしてくださっておられます。つまり、救いの御業の遂行において、セラフィムをかかわらせてくださっておられます。そして、ここで、

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

とおっしゃったのは、やはり、救いとさばきの御業の遂行のためにイザヤを召してくださり、それにかかわらせてくださるためでした。その意味で、

だれが、われわれのために行くだろう。

というときの「われわれ」には、セラフィムもこれにかかわっていることが示されていると考えられます。
 とはいえ、それに先立つ、

わたしはだれを遣わそう。

という言葉に示されていますように、イザヤをお遣わしになるのは、あくまでも「」ご自身であって、それにはセラフィムの意志は含まれてはいません。
 このように、聖なる主の栄光のご臨在の御許から預言者として遣わされたイザヤは、主の側に立つ者として遣わされているのです。
 余談になりますが、創世記1章26節に記されています、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 ・・・・ 」と仰せられた。

という創造の御業の記事では、そこに、御使いの存在が出てきません。また、人を「神のかたち」にお造りになるということは、神さまお一人のみこころによることであって、御使いと相談したということは、聖書の教えではありません。それで、そこでの「われわれ」は、神さまのうちに複数の人格があることの表われであると考えらえます。
 神さまの創造の御業のことを記すヨブ記38章7節では、

  そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、
  神の子たちはみな喜び叫んだ。

と言われています。
 この「神の子たち」は御使いのことです。この「神の子たち」は創造の御業を見て神さまを讚えてはいますが、創造の御業の遂行にかかわっているのではありません。それで、創世記1章26節に記されている「われわれ」という神さまの言葉に、御使いを加えることはできません。これに対して、イザヤ書6章では、セラフィムはイザヤのための贖いの御業の遂行に参与しており、イザヤも救いとさばきの御業の遂行に参与するように召されています。
 いずれにしましても、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかって、罪と汚れを聖められたときに、主の御前に立つことができるようになっただけではなく、そのことをとおして示された主の聖なる愛と恵みをあかしする預言者として聖別されていたのです。
 忘れてはならないのは、それに先立って、イザヤが自身の遣わされるユダ王国の民との一体感を深める経験をしたことです。イザヤは、誰よりも自分自身が滅ぶべき者であったことを自覚し、ユダ王国の民との一体感を深めた後に、預言者として聖別されたのです。
 それで、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者として、ユダ王国の罪を糾弾しますが、自分は別であるというように、超越したところに立ってユダ王国の民の罪を責めるのではありません。そのような自分が主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかっていることを踏まえて、主の聖なる愛と恵みをあかしするようになるために、ユダ王国の罪を明らかにするのです。
 そして、主がイザヤを聖別してくださったことは、イザヤが、これらの経験を踏まえて、自分の意志によって、自らを主の御業の遂行のために献げることに、具体的な形を取って現われてきました。
 このことは、私たちにも当てはまります。ヨハネの福音書20章21節には、

父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします

というイエス・キリストの言葉が記されています。これは、まず、最初の弟子たちに当てはまりますが、派生的に私たちにも当てはまります。このようにして遣わされた私たちは、遣わしてくださったイエス・キリストによって聖別されており、イエス・キリストのものとされています。それと同時に、私たち自身は、遣わされた地に住む人々の上に決して高ぶることができるものではなく、残りの者のために備えられた主の恵みとあわれみにあずかった者であることを身にしみて自覚していなければなりません。
 ペテロも、私たちが、聖なる主の厳しいさばきの中にある残りの者に示された恵みとあわれみによって、かろうじて救われのであることをあかししています。ペテロの手紙第一・4章16節〜18節には、

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

と記されています。このことの前に身を低くして、心からなる感謝と喜びをもって、恵みとまことに満ちた主の栄光を讚えつつ、人々にあかししたいと思います。

 


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