![]() |
説教日:2001年10月28日 |
1節後半〜4節には、 そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 ここに記されている、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 というセラフィムの讃美では、主が「聖なる」方であることが3回繰り返されて強調されています。 これは、主が聖なる方であることが、セラフィムたちによって讃美されているという事実を知らせるというよりは、そのような主の聖さがイザヤに啓示されている、ということを意味しています。イザヤは、このような形で啓示されている主の聖さに触れて、栄光の主のご臨在の御前における自分の姿を知るようになります。 主の聖さは、主がこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味していますが、それには根拠があります。それは、主が存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということです。これに対して、主がお造りになったこの世界のすべてのものは、あらゆる点において限界があります。それで、主は、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方です。 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 というセラフィムの讃美は、セラフィムが主の聖さに触れていることから生まれてきています。主の聖さに触れることは、主の聖さの根拠である豊かさの現実に触れることです。それは、罪のないセラフィムにとっては、主の無限の豊かさに包んでいただくことです。セラフィムは、主の聖い愛と恵みに包まれて、内側から満たされています。そして、そのことによって生み出されている、深い感動と充足をもって、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と告白して、主を讚えているのです。 また、セラフィムの讃美において告白されている主に聖さの現実は、常に新しくセラフィムに迫ってきて、セラフィムを圧倒しています。それは、主の聖さと栄光が無限の豊かさに満ちていることから出ています。主の聖さと栄光の豊かさが、あらゆる点において有限なセラフィムに、そのまま示されるとしたら、セラフィムはそれに耐えることができません。それは、私たちが燃えさかる太陽の中に存在できないのと同じです。主はご自身の無限の豊かさを、セラフィムに合わせて示してくださっています。それで、主の聖さと栄光の豊かさは、常に新しく新鮮なものとして、セラフィムに迫ってくるのです。そのために、それに呼応して生み出されるセラフィムの讃美も、常に新しい感動と充足に満ちているものとなっていると考えられます。 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 という讃美における、「聖なる」という言葉が3回繰り返されていることは、そのような現実を映し出しています。 このようなセラフィムの祝福された状態に比べて、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在に触れた時に、自分が汚れたものであり、それゆえに直ちに滅ぼされるべきものであることを、動かしがたい納得とともに感じ取りました。それで、5節に記されていますように、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫びました。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 という叫びは、自分は主を讚えることができない者であるという現実を告白するものです。イザヤの内には、自分の立っている神殿の敷居の基を揺るがすほどのセラフィムの讃美に声を合わせることができないばかりか、自分は直ちに滅ぼされるべき者であるという恐ろしい実感があるだけでした。イザヤの内側から生まれてくるのは、 ああ。私は、もうだめだ。 という絶望の叫びだけでした。 しかし、6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されていますように、主は、セラフィムのひとりをイザヤのもとに遣わしてくださり、主のご臨在の御許に備えられている贖いを示してくださいました。 先週は、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったイザヤが受けた祝福は、聖なる主の栄光のご臨在の御前で主を讚えているセラフィムに与えられている祝福に、はるかにまさる祝福であるということをお話ししました。 セラフィムは、常に主の聖さの根拠である無限、永遠、不変の愛と恵みの豊かさに包まれています。そして、それが常に新しくて新鮮なものとしてセラフィムを圧倒しているので、セラフィムはそれに呼応して、絶えることなく、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讃美し続けています。 これに対してイザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って、自分が主の御前に堕落しているものであることを、自分が直ちに滅ぼされるべきものであるという実感とともに思い知らされました。それは、イザヤにとっては、絶望の叫びを叫ぶほかのない、恐ろしい経験でした。 しかし、イザヤは、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかりました。そして、その贖いに込められている主の聖なる愛と恵みの現実に触れました。 セラフィムは、これらすべてのことを、いわば、外から見ています。主のご臨在の御許に備えられている贖いが、自らの罪の恐るべき現実に撃たれて、絶望の叫びをあげるほかはなかったイザヤを包んで、その罪を聖めて主のご臨在の御前に立つことができるようにしてくださったことを見届けています。当然、そのことに表わされている主の愛と恵みの深さに驚きつつ、主への讃美を深めていったと考えられます。 しかし、そのことをとおして示された主の愛と恵みはイザヤに注がれており、イザヤを滅びの中から救い出し、イザヤを内側から聖めて、生かしているものです。セラフィムは、それを外から見ているだけであって、イザヤのように、自分自身の現実として経験することはできないのです。 これらのことを念頭において、ここで改めて注目したいのは、イザヤが、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだということです。 これは、聖なる主の栄光のご臨在に触れて自分の滅びを実感したイザヤのうちから生まれてきた絶望の叫びです。この時イザヤが実感しているのは、自分が直ちに滅ぼされるということです。それなのに、イザヤは、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者だ。 と叫んだだけでなく、さらに、 [私は]くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んでいます。 これは何でもないことのように見えますが、イザヤが置かれている状況を考えますと、実に重い意味をもっているのではないかという気がしてきます。自分がたちまちのうちに滅ぼされてしまうということを、絶望的な恐怖の中で実感している者が、たとえ一瞬のひらめきではあっても、自分がその中に住んでいる民のことを考えるというようなことがありえるでしょうか。深みにはまって溺れかかっている人が、一瞬でも、「日本はこの先どうなってしまうのだろう」というようなことを考えるでしょうか。でも、イザヤは、そのような状況の中で、ユダ王国の民のことを考えています。しかも、それは、たまたまひらめいたので、わけが分からないままに叫んだというようなことではありません。 では、どうしてイザヤは、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者だ。 と叫んだだけでなく、さらに、 [私は]くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだのでしょうか。 一見しますと、この、 [私は]くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 という言葉は、ユダ王国の民を糾弾する言葉のように見えます。しかし、少し前にお話ししましたように、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在によって、自分の罪と汚れの現実を映し出されてしまって、自分が何らかの意味でのあわれみに値するということさえ感じる余裕さえもなかったと思われます。そのような状態にあったイザヤが、他の人を責めているというようなことは考えられません。 また、これは、自分が「くちびるの汚れた者」であることは自分だけの問題ではなく、自分の住んでいる社会の問題であると言って、自分だけが悪いのではなく、自分の住んでいる社会も悪いのだというような、言い訳をしようとしているのではありません。聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、そのような「小細工」は通用しないばかりか、イザヤにはそのようなことをする余裕もないはずです。 これらのことを考えますと、イザヤが、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者だ。 と叫んだだけでなく、さらに、 [私は]くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだことが、決して、自然なことではないことが分かります。 私たちは、イザヤが、 [私は]くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだ時に、イザヤの中にあった思いを、ある程度、想像することができます。 先にニューヨークやワシントンで起こりました、いわゆる「同時多発テロ事件」のときに、もう自分が助からないことを悟った人々が、家族など自分の愛する人々のことを考えて、それができた人々は、最後まで連絡を取っていたということが報道されました。それができなかった人々も、思いは同じであったはずです。 イザヤも同じだったのではないでしょうか。自分自身が直ちにさばきを受けて、滅びなければならないということを、恐ろしいばかりの現実として実感したその時に、自分がその中に住んでいる、ユダ王国の民のことを思い出したということです。聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自らの滅びを実感して絶望の叫びを叫ぶ時にも、自分がユダ王国の民と一つであることを感じないではいられなかったということでしょう。このことは、イザヤが、どれほどユダ王国の民のことを心にかけていたかを物語るものです。 イザヤ自身が、どれほどそのことに気がついていたかどうかは分かりません。主は、イザヤをご自身の栄光のご臨在の御前に立たせてイザヤの罪と汚れの現実を映し出されました。それによって、自らの滅びを実感したイザヤの口をついて出てきたのは、自分の滅びを嘆く言葉だけでなく、自分とともにあるユダ王国の民を思う思いの表われでした。このこともイザヤに対する啓示としての意味をもっているということからしますと、これによって、イザヤは、自分の中にユダ王国の民に対する深い思いが潜んでいることに、改めて気づかされたということかもしれません。 とはいえ、ここでイザヤが感じているユダ王国の民との一体感は、ともに絶望的な状態にあるということにおける一体感でした。絶望的な思いとともに、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫んだイザヤは、ユダ王国の民も自分と同じように、聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、とても主への讃美をささげることはできないばかりか、たちまちのうちに滅ぼされてしまうほかはない状態にあるということを、痛切に感じたのだと考えられます。 それにしましても、ユダ王国の民に対するイザヤのこのような思いに示されている一体感は、どこから生まれてきたのでしょうか。それは、イザヤがこの時に至るまで、預言者として活動してきていて、あるいは、そうでなくとも、預言者的な眼で物事を見ていて、ユダ王国の民の霊的な現実に心を痛めていたからであると考えられます。 すでにお話ししましたように、1節で、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と記されていることは、ウジヤ王の死によって象徴的に示されている一つの時代の終わりとともに、イザヤの中に危機意識が募っていたことを思わせます。それは、ユダ王国の民の霊的な現実に対する預言者的な洞察に裏打ちされたものであるとともに、そのような民の現実と行く末に対する、イザヤの深い思いが伴うものであったのです。 このことを心に留めて、これまでお話ししてきました、イザヤが聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったことを考えてみましょう。 6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されていることは、イザヤにとっては、予想だにしなかったことで、驚きに満ちたことでした。その贖いがイザヤのうちに生み出した深い驚きと喜びは、どれほどのものであったことでしょうか。 しかし、このことも、イザヤは、ユダ王国の民とのつながりの中で受け止めていたと思われます。イザヤはユダ王国の霊的な現実と、その行く末に対して深い危機感を抱いていました。そして、それが、ほかならぬ自分自身の問題であることを、聖なる主の栄光のご臨在の御前で身にしみて知らされ、絶望の叫びを上げました。これまでお話ししてきましたように、その叫びは、ユダ王国の民と自分が一つであるという思いがこもった叫びであり、その一体感を深める叫びでもありました。そのような叫びを叫んだイザヤであれば、自分が受けた贖いと、それに込められている主の聖なる愛と恵みを自分だけのこととしないで、ユダ王国の民とのつながりにおいて受け止めたと考えられます。 8節には、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されています。 ここに、私がおります。私を遣わしてください。 というイザヤの志願の言葉からは、心からの喜び感じ取ることができます。この言葉は、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いに込められていて、今や、イザヤにはっきりと示された主の聖なる愛と恵みに満たされて発せられたものです。それは、また、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いを知ったことにより、すでに背教による滅びへの道を歩み始めているユダ王国の民にも、なお望みがあるという思いを抱いての言葉であったと思われます。 しかし、それにしては、イザヤに託された預言の言葉は厳しいものでした。9節〜13節には、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。 「町々は荒れ果てて、住む者がなく、 家々も人がいなくなり、 土地も滅んで荒れ果て、 主が人を遠くに移し、 国の中に捨てられた所がふえるまで。 そこにはなお、十分の一が残るが、 それもまた、焼き払われる。 テレビンの木や樫の木が 切り倒されるときのように。 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。」 と記されています。 もしこれまでお話ししてきたことが正しいのであれば、イザヤが、ユダ王国の民に対するこのような厳しいさばきの宣言に納得するわけがない、というような意見が出てくるかもしれません。しかし、イザヤは主から託されたこの預言の言葉を受け入れています。それは、少なくとも、二つの理由によっていると思われます。 一つは、イザヤがユダ王国の民の霊的な現実をよく知っていたということです。ユダ王国の民が、聖なる主の御前に高ぶって、背教の道を歩み続け、主のさばきによる滅びを刈り取ることになることは避けられないことを、預言者としての眼で見据えていたということです。自分が聖なる主の栄光のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかったということで舞い上がってしまって、現実を見失ってしまうようなことはなかったのです。 もう一つは、そのユダ王国の民に対する厳しいさばきの宣言の中に、なおも、主の聖なる愛と恵みが示されていることを見て取っているということです。それは、そのさばきの宣言の最後に示されている、 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。 という言葉に示されている、残りの者に対する主の恵みとあわれみです。イザヤは、自分が聖なる主のご臨在の御前に備えられている贖いにあずかったのは、まさに、この残りの者に対して示されている恵みとあわれみによっているということを悟ったのであると考えられます。 イザヤは、底知れない絶望の中から、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と叫びました。その時、自分がもはや主のあわれみにも値しないことを感じていました。そのイザヤに示された贖いは、まさに、かろうじて残される残りの者に示される主の恵みとあわれみによるものでした。イザヤは、そのことをしっかりと受け止めたのだと思われます。そして、そのように示された主の恵みとあわれみに、自分を含めたユダ王国の民の望みを託していくようになったのだと考えられます。 |
![]() |
||