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説教日:2001年10月21日 |
前回お話しましたように、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 というセラフィムの讃美は、セラフィムが主の聖さに触れていることから生まれてきています。主の聖さに触れることは、主の聖さの根拠である豊かさに触れることです。セラフィムにとって、それは、主の無限の豊かさに包んでいただくことですが、具体的には、セラフィムには罪がありませんから、主の聖い愛と恵みに包まれて、内側から満たされることを意味しています。それで、これは、セラフィムにとって、最も祝福された豊かな経験です。 その意味で、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 という讃美の言葉は、セラフィムの内側の深い充足と感動の現われです。セラフィムとしては、自分たちを包んでくださっている主の聖い愛と恵みの豊かさに対して、ひたすら主を讚えることによって応答するほかはないのです。 (後ほどお話しすることとの関連では、ここで、セラフィムがあずかっている祝福の豊かさをしっかりと心に留めておいていただきたいと思います。) しかも、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 というセラフィムの讃美において告白されている主に聖さの現実は、一定のところで止まっているのではなく、常に新しく押し寄せてくる波のように、セラフィムに迫ってきて、セラフィムを圧倒しています。どうしてそうなるかと言いますと、それは、主の聖さと栄光が無限の豊かさに満ちているからです。この、主の無限の豊かさは、あらゆる点において有限なセラフィムにとっては、常に新しくて新鮮なものとして迫ってきます。それで、それに呼応して生み出されているセラフィムの讃美も、常に新鮮な感動と充足に満ちているものとなっているのです。 このことは、やがて、私たちにとっても現実のこととなります。私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって罪を赦され、永遠のいのちを与えられています。それで、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日には、私たちもイエス・キリストの復活の栄光にあずかってよみがえるようになります。それによって、栄光の主のご臨在の御前において、顔と顔とを合わせるようにして主との交わりを経験するようになります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 その日には、私たちは主の聖さの根拠である無限、永遠、不変の愛と恵みの豊かさに包まれるようになります。それが私たちに与えられている永遠のいのちの内実です。永遠のいのちはただ時間的にいつまでも続くというだけのものではなく、そのような内実をもっているのです。この永遠のいのちにある主との交わりにおいては、主の聖なる愛と恵みが永遠に私たちを包んでくださいます。私たちにとっては、その主の聖なる愛と恵みは、常に新しくて新鮮な現実となって、私たちを内側から満たしてくださいます。しかも、それが永遠に続いても、決して色あせてしまうことはありません。その意味では、私たちの内側からは、主の聖さを讚える讃美が絶えることなくわき上がってくるはずです。 このようなセラフィムの祝福された状態に比べて、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在に触れた時に、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを、動かしがたい納得とともに、感じ取りました。それで、5節に記されていますように、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫びました。 少し前にお話ししましたように、 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 という叫びは、自分は主を讚えることができない者であるという現実を告白するものです。 そこにセラフィムとの決定的な違いが見て取れます。セラフィムのうちからは、深い充足とともに讃美が生み出されるだけですが、イザヤのうちからは、自分が滅ぼされるべき者であることの自覚とともに、 ああ。私は、もうだめだ。 という絶望の叫びがわき上がってくるだけでした。 それは、主の聖さの現実がイザヤを圧倒してしまっているからですが、その主の聖さは、やはり、常に新しく押し寄せてくる波のように、イザヤを新たに圧倒し続けることになります。前回お話ししましたように、もし、主が、直ちに、セラフィムを遣わしてくださって、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 という贖いの恵みを示してくださらなかったとしたら、イザヤの絶望は、どんどん深くなっていって、イザヤ自身が内側から壊れてしまっていたことでしょう。その行き着くところは地獄の苦しみです。 しかし、主は、イザヤを絶望の渦に引き込まれるままに放置しないで、直ちに、セラフィムのひとりをイザヤのもとに遣わしてくださいました。6節、7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 イザヤは、自分が滅ぶべき者であるという現実を、動かしがたい納得のうちに思い知らされます。それで、セラフィムのひとりが「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭」を持って自分の方にやって来た時には、自分が焼き尽くされてしまうことを直感したはずです。 そのイザヤに、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 という贖いの恵みが告げられました。これは、イザヤにとっては、本当に深い驚きであったはずです。 以上が、これまでお話ししてきたことのまとめですが、このこととの関連で考えたいのは、このような主のご臨在の御許に備えられている贖いの恵みにあずかったイザヤの祝福のことです。 これまで、繰り返しをいとわず、主のご臨在の御前で主の聖なる栄光を讚えているセラフィムに与えられている祝福を考えてきました。それによって、セラフィムがあずかっている祝福の豊かさを、改めて、心に留めておいていただきたかったからです。セラフィムは、主の聖さの根拠である無限、永遠、不変の愛と恵みの豊かさに包まれています。そして、それが常に新しくて新鮮なものとしてセラフィムを圧倒しているので、セラフィムはそれに呼応して、絶えることなく、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讃美し続けています。 一方、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在に触れたときに、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを、動かしがたい納得とともに感じ取りました。そして、 ああ。私は、もうだめだ。 と叫びました。しかし、そのイザヤが、主のご臨在の御許に備えられている贖いの恵みにあずかったのです。 それによって、イザヤも、セラフィムと同じような祝福にあずかるようになったことが察せられます。事実、セラフィムは、主の栄光のご臨在の御前に仕えている御使いで、救いとさばきにかかわる主のみこころを、直ちに実行に移すための態勢にありました。一方イザヤを見ますと、8節に、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されていますように、イザヤも、救いとさばきにかかわる主のみこころを果たすために、主のご臨在の御前から遣わされるようになりました。 そうであるとしますと、イザヤはセラフィムと同じ祝福にあずかるようになったと言うべきなのでしょうか。 ここに、私たちが身を低くしつつも、心を開いて受け止めなければならないことがあります。それは、イザヤは、セラフィムがあずかっている豊かな祝福にはるかにまさる祝福にあずかっているということです。 これまでお話ししてきましたセラフィムの祝福の豊かさを考えますと、イザヤがそれにまさる祝福を受けているということは、にわかには信じられないことでしょう。そのことについてお話ししたいと思います。 ご承知のように、セラフィムは、罪を犯したことがありません。それで、常に聖なる主の栄光のご臨在の御許で、主の愛と恵みの豊かさに触れながら主を讚えつつ、主に仕えています。セラフィムは、そのような立場から落ちたことがありません。それは本当に幸いなことです。 これに対して、「神のかたち」に造られている人間は、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。イザヤはその現実を、栄光の主のご臨在の御前で自分の滅びの実感とともに思い知らされました。それは、イザヤにとっては、絶望の叫びを叫ぶほかのない、恐ろしい経験でした。 しかし、そのイザヤは、主のご臨在の御許に備えられている贖いに込められている主の聖なる愛と恵みの現実に触れました。これは、セラフィムにとっては、自分たちの内側を満たすものとして経験することができないものです。 セラフィムは、主のご臨在の御許に備えられている贖いが、自らの罪の恐るべき現実に撃たれて、絶望の叫びをあげるほかはなかったイザヤを包んで、その罪を聖めて主のご臨在の御前に立つことができるようにしてくださったことをしっかりと見届けています。当然、そのことに表わされている主の愛と恵みの深さを理解することもできたはずです。しかし、その愛と恵みはイザヤに注がれており、イザヤを滅びの中から救い出し、内側から聖めて、生かしているものです。セラフィムは、それを、イザヤのように、自分自身の現実としては経験することができないのです。 先週お話ししましたように、やがてイザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いが、どのようにして確立されるものであるかを悟るようになります。 それは、52章13節の、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 という言葉から始まって、53節12節までに記されている、「苦難のしもべ」の預言においてあかしされていることです。すでにお話ししたことですので、結論的に言いますと、6章1節で「高くあげられた王座に座しておられる」とあかしされている「主」ご自身が、ご自身の民の罪と咎のために苦難を経験し、ご自身のいのちを注ぎ出してくださることによって、贖いを成し遂げてくださるということです。 聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自分の罪の現実を思い知らされて、絶望のどん底から叫び声をあげたイザヤにとって、それは、そのような絶望的な状況にある自分を生かしてくださる主の聖なる愛と恵みです。栄光の主が、ほかならぬこの自分のために、死の苦しみを味わってくださり、贖いを成し遂げてくださるということです。しかし、セラフィムにとっては、そのことは、まことに衝撃的なことではありますが、自分のためのことではありません。 聖なる主の栄光のご臨在の御前において、セラフィムとイザヤは対照的な立場にありました。セラフィムは主の聖なる愛と恵みに包まれて、絶えず讃美をささげるほかはない状態にありましたが、イザヤは、自らの罪の恐るべき現実を知って、絶望の叫びを叫ぶほかはありませんでした。 それが、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにおいて、イザヤは、セラフィムが受けている愛と恵みにはるかにまさる愛と恵みを、主から受けることになりました。栄光の主ご自身が、罪に満ちたものである自分のために死の苦しみを味わい、いのちを注ぎ出してくださることに示されている愛と恵みです。 セラフィムとイザヤの間には、なんの競争心もライバル意識もありません。そのことを踏まえたうえであえてこのような言い方をしますと、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにおいては、イザヤとセラフィムの間に、ある種の逆転が起こりました。イザヤは、セラフィムに与えられている愛と恵みにはるかにまさる、主の愛と恵みを経験するようになりました。 このことは、そのまま私たちの現実となっています。ヘブル人への手紙2章14節〜16節に、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。 と記されているとおりです。 ここに、一つの疑問が湧いてきます。それは、主の聖さの根拠である無限、永遠、不変の豊かさがセラフィムを内側から満たしているのであれば、それにまさる祝福によって満たされるということはあり得ないのではないか、という疑問です。あるいは、主のご臨在の御許に備えられている贖いをとおしてイザヤに示された愛と恵みが、聖なる主の無限、永遠、不変の豊かさの現われであるというのであれば、それは、セラフィムがあずかっている豊かさと同じものなのではないかということです。 このことをどのように理解するかは、すでにお分かりのことかもしれませんが、今お話ししたこととの関連で、もう一つの問題を考えるためにも、確認しておきましょう。 確かに、主の聖さの根拠となっている豊かさは無限、永遠、不変の豊かさです。そして、セラフィムはその無限、永遠、不変の豊かさの中から、祝福を受けています。しかし、セラフィムはあらゆる点において有限な存在ですから、主の無限、永遠、不変の豊かさをすべてそのまま受け止めることができるわけではありません。 たとえ神さまの愛であっても、その無限、永遠、不変の愛の栄光は無限、永遠、不変です。どのような被造物も、その無限の栄光に耐えることはできません。神さまの愛をそのまま受け止めることができるのは、三位一体の御父と御子と御霊の間においてだけです。それで、神さまの愛は、その無限、永遠、不変の豊かさの中から、セラフィムが受け止めることができる分だけ与えられます。そのために、セラフィムにとって、主の聖さと栄光に満ちている愛と恵みは、無限、永遠、不変の豊かさを源として、絶えず押し寄せてくる波のように、常に新しく新鮮な現実として自分たちを圧倒しているということになるのです。 同じことは、主のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったイザヤについても、また、私たちについても当てはまります。私たちは、主の無限、永遠、不変の愛と恵みの豊かさを、そのまますべて受け止めることはできません。また、そのすべてを受け止めてしまうというようなことは、永遠にあり得ません。主はご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中から、私たちが受け止めることができる限りの愛と恵みを、惜しむことなく与えてくださいます。それで、主の愛と恵みは、永遠にわたって常に新しく新鮮なものとして、私たちを包んでくださいます。 それでは、セラフィムとイザヤを初めとする私たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、聖なる主の栄光のご臨在の御前における立場の違いにあります。 セラフィムを初めとする御使いたちは、創造の御業によって造られたときの栄光をもち続けます。それは「仕える霊」としての立場です。ヘブル人への手紙1章14節に、 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。 と記されているとおりです。 これに対して、人間は、神さまの永遠の聖定の中で、神さまの子どもとなるように定められています。エペソ人への手紙1章4節、5節に、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されているとおりです。 この「永遠のみこころ」は、神さまが創造の御業において人間を「神のかたち」にお造りになったことによって、実現の第一歩を踏み出しました。そして、人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いをとおして、私たちの間に実現しています。それは、世の終わりのイエス・キリストが再臨される日に、最終的に完成します。先ほど引用しましたところを含みますが、ヨハネの手紙第一・3章1節、2節に、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 セラフィムを初めとする御使いたちは「仕える霊」としての立場にとどまります。これに対して、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかっている私たちは、「神の子ども」としての特権と栄光において、栄光の主である「キリストのありのままの姿を見る」者とされます。 言い換えますと、セラフィムは、常に、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、 彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい と言われている状態にあります。これに対して、神の子どもとされている私たちは、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、主と顔と顔を合わせてまみえるようになるのです。このことのうちに、セラフィムが受けている祝福と、私たち神の子どもが受けている祝福の違いがあります。 繰り返しになりますが、そうであっても、そこには競争心やライバル意識はまったくありません。セラフィムは、恐るべき罪の現実の中で絶望の叫びを叫ぶほかはなかったイザヤと、それと同じ状態にあった私たちを、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いによって、死と滅びの中から救い出し、ご自分の子としてくださったことに示されている神さまの愛と恵みを見届けて、その讃美を一段と深めているはずです。 幻の中でではありましたが、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いにあずかったイザヤは、このことに表わされている神さまの愛と恵みの豊かさにあずかるようになったのです。 最後に、このことから先ほど触れました一つの問題についてお話ししておきましょう。 主の思いがけないあわれみによって贖いに包まれるようになったイザヤは、セラフィムが自分のこととしては経験することのできない、主の愛と恵みにあずかっています。その愛と恵みは聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いのうちにあってイザヤを満たしています。 このことを、現われた形だけで見ますと、もしイザヤに罪がなくて、聖なる主の栄光のご臨在の御前において、 ああ。私は、もうだめだ。 という絶望の叫びを叫ぶことがなかったとしたら、イザヤはこのような主の愛と恵みを経験することができなかったということになります。そうしますと、イザヤは自らのうちに罪を宿していて、聖なる主の栄光のご臨在の御前において滅ぶべき者であったから、このような愛と恵みにあずかったのではないかというような気がしてきます。つまり、このような主の愛と恵みを経験するためには、イザヤは罪を犯して堕落していなければならなかったのではないだろうか、というようなことです。 私たちは、このような「論理」の「わな」に気をつけなければなりません。イザヤを初めとして、私たち神の子どもが受けている主の聖なる愛と恵みは、決して、私たちの罪が神さまに働きかけて、神さまから引き出したものではありません。私たちの罪は、ただ、神さまの聖なる御怒りに相当し、実際に、神さまの御怒りを引き出すだけです。 主の聖なる愛と恵みは、私たちが神さまに罪を犯して御前に堕落してしまったにもかかわらず、神さまが私たちに示してくださったものです。神さまは、ご自身の永遠の聖定において、私たちをご自身の子として御前に立たせてくださるように定めてくださいました。そして、その「永遠のみこころ」を、私たちが罪を犯して堕落してしまった後にも変えることなく、実現してくださいました。そのためには、御子が私たちの贖い主となってくださって、私たちに代わって死の苦しみを味わってくださることをとおして私たちの罪を贖ってくださる必要がありました。それでも、神さまは、私たちをご自身の子として御前に立たせてくださるというみこころを実現してくださったのです。 ですから、イザヤを初めとして私たちが、セラフィムも自分のこととして経験することがない、主の愛と恵みに包まれるようになったのは、私たちが罪を犯したからではありません。その主の愛と恵みは、私たちが罪を犯して堕落してしまったにもかかわらず、神さまが私たちをご自身の子として御前に立たせてくださるという「永遠のみこころ」を、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業をとおして実現してくださったから、私たちに与えられているのです。 |
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