(第55回)


説教日:2001年10月7日
聖書箇所:ザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤの「召命体験」の記事からのお話を続けます。今日は、先週と先々週お話ししたことを、また、別の角度から見るという形でお話ししたいと思います。まず、これまでお話ししてきたことをまとめておきましょう。
 このイザヤの体験は幻の形でイザヤに示されたものです。これをとおして、主はご自身をイザヤに示してくださいました。この主の自己啓示は、主の栄光のご臨在の御許から預言者として遣わされるようになるイザヤにとって、決定的な意味をもつようになります。
 この体験を全体的にまとめる1節において、イザヤは、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と述べています。ここでは、「」は、すべてのものをご自身のものとして所有し、御手のうちに治めておられる「アドナイ」としてご自身を示しておられます。
 1節の後半から4節には、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 セラフィムは、主の栄光のご臨在の御前に仕えている御使いで、救いとさばきにかかわる主のみこころを、直ちに実行に移すための態勢にあります。
 彼らは、身を低くして、絶えず、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と告白して主を讚えています。主を讚えることは、主に仕えることの出発点であるとともに、目的でもあります。
 この讃美においてセラフィムは、主が「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)であられることを告白しています。「万軍の主」という呼び名は、契約の神である主、ヤハウェが、御使いや天体、また、強力な軍事力を背景として地を支配している王国などを、すべて治めておられる方であることを示しています。ですから、セラフィムは、主が自分たちの主であられることを告白しているわけです。
 この讃美では、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

と言われていて、主が「聖なる」方であることが3回繰り返されて強調されています。これによって、主が自分たちと「絶対的に」区別される方であり、自分たちは、その御前で身を低くして、その栄光を讚えるほかはないものであることを、身をもって告白しているのです。
 また、セラフィムは、

  その栄光は全地に満つ。

と言って、主の無限、永遠、不変の存在と属性の輝きである栄光が全地を満たしていることを告白しています。
 このように、主は、ご自身の栄光のご臨在をとおして表わされている聖さを、イザヤに示してくださいました。


 主の栄光のご臨在の御前で仕えているセラフィムは、主の聖さを讚えています。主を讚えることは、主に仕えることの出発点であり目的でもあります。セラフィムは、主の聖さとその現われである栄光の現実に撃たれて、身を低くして主を讚える他はない状態にあります。
 しかし、それはセラフィムにとって、不本意だけれど仕方がないというようなことではありません。むしろ、主の聖さの啓示は、存在とすべての属性において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる主の豊かさの現実に触れることです。それは、主の豊かさを外側から眺めることではなく、主の豊かさに包んでいただくことです。具体的には、主の聖い愛と恵みに包まれて、内側から満たされることです。それで、これは、セラフィムにとっては、最も祝福された豊かな経験であるのです。その意味で、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

という讃美の言葉は、セラフィムの内側の深い充足と感動の現われでもあります。
 しかも、この讃美は、形としては、同じ言葉を繰り返すことですが、その言葉に込められているものは、その都度、深められていっていると考えられます。すでにお話ししたことですが、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

というセラフィムの讃美において告白されている主に聖さの現実は、一定のところで止まっているのではなく、常に新しく押し寄せてくる波のように、セラフィムに迫ってきて、セラフィムを圧倒しています。それで、それに呼応しているセラフィムの讃美も、常に新鮮な感動と充足に満ちているものとなっていると考えられます。
 とはいえ、それは、聖なる感動と充足であって、彼らが我を忘れて恍惚状態になってしまって、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

と叫び続けているわけではありません。

互いに呼びかわして言っていた。

と言われていることから、忘我の状態とは違う、相互理解によるわきまえがあったことを感じ取ることができます。
 ところが、イザヤは、このような主の栄光のご臨在に触れた時に、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを、言い逃れの余地がないほどの確かさとともに、感じ取りました。それで、5節に記されていますように、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫びました。
 このイザヤの叫びを、主の聖さとその現われである栄光を讚えるセラフィムの讃美と比べてみてください。そこには、なんという違いがあることでしょうか。
 先ほど、主の聖さの現実は、常に新しく押し寄せてくる波のように、セラフィムに迫ってきて、セラフィムを圧倒しており、それに呼応して、セラフィムの讃美も、常に新鮮な感動と充足に満ちているものとなっていると考えられると言いました。そのこととの対比で、このイザヤの叫びを見ると、どうなるでしょうか。
 もし、主が、直ちに、セラフィムを遣わしてくださらなかったとしたら、そして、

  見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。

という贖いの恵みを示してくださらなかったとしたら、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだイザヤの絶望は、どんどん深くなっていって止まるところがなくなり、イザヤ自身が内側から壊れてしまっていたことでしょう。その絶望の果てに「地獄」の苦しみを感じ取ることは、決して、想像のし過ぎではないでしょう。
 私たちの罪ののろいをその身に負われて、十字架におつきになったイエス・キリストが、十字架の上で味わわれた死の苦しみの中から叫ばれた、

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

マタイの福音書27章46節
という叫びに表わされた絶望の深さは、私たちのどのような想像をも無限に越えたものです。その叫びは、預言者イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の現実に撃たれるようにして、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだ、絶望の叫びが極限まで極まったものであった、と言うことができるでしょう。
 聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自らの罪とその汚れの現実を思い知らされて、自分が直ちに滅ぶべき者であることを、言い逃れのできない確かさと納得のうちに感じ取ったイザヤには、主に助けを求めることはおろか、あわれみを求める余裕もありませんでした。それが、主が啓示してくださったイザヤの現実でした。
 もちろん、それは、自らのうちに罪を宿し、汚れに染まっている人間が、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つときの現実でもあります。実際には、主は、今は、ご自身の栄光を隠しておられます。そして、一般恩恵によってすべてのものを支えてくださっています。そのために、私たちにはある種の「余裕」があります。その余裕は、私たちが、何となく、自分は主のあわれみに値するというような感じ方をしているということに現われてきています。
 しかし、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つことになった、イザヤは、そのような感じ方をすることはできませんでした。自分があわれみを受けるかも知れないというような感じが生まれるすきもなく、自分が滅びなければならないことを、深い納得とともに実感しただけでした。それが、自らのうちに罪を宿し、汚れに染まっている人間が、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立つときの現実なのです。
 確かに、イザヤは主のあわれみにあずかっています。しかし、それは、イザヤの中に主のあわれみに値するものがあったからではありません。もちろん、イザヤはあわれな状態にありました。また、造り主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、死の力に縛られて滅びの道を歩んでいる人間は、あわれな状態にあります。しかも、そのあわれな状態に気付くことができないというあわれさの中にあります。けれども、造り主に対して罪を犯して、御前に堕落している人間の中には、主のあわれみに値するものはありません。その人間の中に神さまのあわれみに値するものがあるというような考え方は、人間の罪が神さまの聖さと無限の栄光を冒すものであり、それゆえに、忌むべきものであり、恐るべきものであることを知らないことから生まれてきます。
 主は、まったく、ご自身のご意志で、イザヤをあわれんでくださったのです。これは微妙なことですが、とても大切なことです。このような主のあわれみを、「恵みによるあわれみ」と呼ぶことにしましょう。イザヤは、この体験をとおして、そのあわれみを味わうようになりました。私たちも、この意味での主の「恵みによるあわれみ」にあずかっています。それは、私たちの中には主のあわれみに値するものは何もないのに、主がご自身のご意志で、私たちをあわれんでくださったというあわれみです。そして、まず主が、恵みによって私たちをあわれんでくださったので、私たちは、主のあわれみを祈り求めることができるのです。
 主は、イザヤにご自身の恵みとあわれみを示してくださるために、ご自身の聖さとその現われである栄光をイザヤにお示しになりました。そのことをとおして、イザヤの「幻想」をまったくはぎ取ってしまわれました。何となく、自分にも頼みとするところがあるのではないか、自分の中に主のあわれみを受けるのに値するところがあるのではないかという幻想を、まったくはぎ取ってしまわれたのです。それによって、イザヤは自分の絶望的な現実を思い知らされます。
 イザヤがこのような絶望的な自分の現実をありのままに悟るようになったことは、主の恵みによることでした。イザヤは、主の恵みによって、聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自らの罪とその汚れの現実を思い知らされて、自分が直ちに滅ぶべき者であることを、言い逃れのできない確かさと納得のうちに感じ取るようになりました。そのイザヤは、とても、主のあわれみを感じ取ることはできませんでした。ただ、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫ぶほかない状態で、絶望感を深くするだけでした。そのことは、イザヤが主の恵みとあわれみを悟るためにどうしても必要なことでした。
 同時に、主は、イザヤをそのような状態に放置されることはありませんでした。そのあわれみによって、直ちに、セラフィムのひとりをイザヤのもとに遣わしてくださいました。6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前で、それまで何となく頼みとしていたものをすべてはぎ取られて、自分が滅ぶべき者であるという現実を、言い逃れのできないほどの確かさと納得のうちに思い知らされます。そして、セラフィムのひとりが「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭」を持って自分の方にやって来た時には、自分が焼き尽くされてしまうことを感じました。
 そのイザヤに、

  見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。

という贖いの恵みが告げられました。
 このセラフィムの言葉を聞いた時に、イザヤを貫いたであろう驚きと衝撃を、どのように言い表わしたらいいでしょうか。
 これが、1節において、イザヤが、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言っている幻をとおして、主が、ご自身の聖さと栄光をイザヤに啓示してくださったことの核心にあることです。
 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御前で、自分の罪とその汚れの絶望的な現実を思い知らされました。それはイザヤに主の聖さとその現われである栄光が啓示された結果、イザヤのうちに起こったことです。
 それと同時に、イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許には、自分の思いをはるかに越えた贖いの恵みが備えられていることを、自分の存在を貫き通すほどの驚きと衝撃とともに悟りました。これも、イザヤに主の聖さとその現われである栄光が啓示された結果、イザヤのうちに起こったことです。イザヤは、主の聖さとその現われである栄光は、主のご臨在の御前に備えられている贖いの恵みのうちにこそ、最も豊かに現われるということを悟ったのです。
 しかし、このイザヤの見た幻の記事では、全体をまとめる意味をもっている1節で、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われた後で、主ご自身のことは、

そのすそは神殿に満ち、

と言われているだけです。その後は、

セラフィムがその上に立っていた。

というように、セラフィムの讃美のことに移ってしまっています。イザヤには、栄光の主の御姿は示されていません。ただその「すそ」の広がりが示されただけです。
 しかし、それでも、イザヤは、この幻によって示された聖なる主の栄光のご臨在をとおして、主の聖さとその現われである栄光の本質を悟るようになりました。主の聖さとその現われである栄光は、主のご臨在の御前に備えられている贖いの恵みにおいて最も豊かに現わされているということを、深い驚きと衝撃とともに悟るようになりました。
 この「召命体験」から始まって、イザヤは、贖いの恵みのうちに最も豊かに現わされる聖なる主の栄光を、よりはっきりと見るようになっていきます。それが、52章13節で、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

という言葉とともに紹介されている「苦難のしもべ」において具体的な御姿をもって立ち現われてきます。
 すでにお話ししましたように、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と預言的にあかしされている方は、6章1節で、イザヤが、

私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とあかししている「」です。
 しかし、それに続いて、イザヤは、すべての者を貫く衝撃的な驚きがあるということを、預言的にあかししています。52章14節、15節には、

  多くの者があなたを見て驚いたように、
  ――その顔だちは、
  そこなわれて人のようではなく、
  その姿も人の子らとは違っていた。――
  そのように、彼は多くの国々を驚かす。
  王たちは彼の前で口をつぐむ。
  彼らは、まだ告げられなかったことを見、
  まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

と記されています。
 そして、「苦難のしもべ」の姿を記す53章は、1節の、

  私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
  主の御腕は、だれに現われたのか。

という言葉で始まっています。これは、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と預言的にあかしされている栄光の主の御姿を、人々が信じることができないということを、やはり、預言的にあかしするものです。
 それは、52章14節で、

  その顔だちは、
  そこなわれて人のようではなく、
  その姿も人の子らとは違っていた。

とあかしされており、53章2節、3節で、

  彼は主の前に若枝のように芽生え、
  砂漠の地から出る根のように育った。
  彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
  輝きもなく、
  私たちが慕うような見ばえもない。
  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。

とあかしされているように、その現われた御姿のあまりの貧しさによることです。
 しかし、これは、イザヤがその「召命体験」において悟った、主の聖さとその現われである栄光は、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いの恵みにおいてこそ、最も豊かに現わされるということをあかしする、主ご自身の御姿であるのです。
 イザヤは、聖なる主の栄光のご臨在の御許に備えられていた贖いは、栄光の主ご自身が、ご自分の民のために苦難をお受けになるということによって成り立っているということを、預言的にあかしするようになります。それとともに、先ほどお話ししましたように、このことは、すべての人々にとって、衝撃的な驚きであり、この栄光の主は、不信仰をもって迎えられるということも、預言的にあかししています。
 このことについて、ある疑問がわいてきます。それは、そのような、すべての人を驚かせ、皆が不信仰をもって迎えるようになること、すなわち、激しい苦難のうちに捨てられる方こそが栄光の主であるということを、どうしてイザヤは悟ることができたのかということです。
 もちろん、それは、預言者たちをお導きになった御霊のお導きによることですが、その御霊のお導きは、6章に記されている「召命体験」から始まっていました。
 もしイザヤが、聖なる主の栄光のご臨在に触れて、自分自身の罪とその汚れの絶望的な現実を思い知らされることがなかったとしたら、主のご臨在の御許に備えられている贖いの恵みの現実を、自分の存在を貫くような衝撃と驚きをもって、悟ることはできなかったことでしょう。そうであれば、「苦難のしもべ」において、聖なる主の栄光の御姿が具体的な形を取って現われているということも悟ることはできなかったことでしょう。
 また、聖なる主の栄光のご臨在に触れて、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだイザヤのもとに、主が、直ちに、セラフィムを遣わして、罪の贖いの恵みを示してくださらなかったとしたら、イザヤの絶望はどんどん深くなっていって、イザヤ自身が内側から壊れてしまっていたことでしょう。しかし、主は直ちにセラフィムのひとりを遣わしてくださって、贖いの恵みを示してくださいました。
 その贖いの恵みは、イザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立って、主の聖さと栄光の現実に撃たれるようにして、

  ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだ、絶望の叫びを極限の深さにまで至らないようにしてくださったものです。やがてイザヤは、その贖いは、栄光の主ご自身が、ご自分の民のために苦難をお受けになることによって実現すると、預言的にあかしするようになります。そして、イザヤが預言的にあかししている栄光の主である御子イエス・キリストは、イザヤが叫んだ絶望の叫びを極限の深さにおいて味わってくださいました。また、私たちが叫ばなければならないはずの絶望の叫びを、私たちに代わって、極限の深さにおいて味わってくださいました。

 


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